【Ⅰ】4
慣れた道を、一度も後ろを振り向かずに全力疾走した。酔ってドラッグをキメてるダリルが追い掛けて来られないのは分かっていた。けど、僕は必死で走り続けた。足を止めたら、スピードを落としたら、何かに捕まってしまう気がして。
頼りない街燈と
リバー・リーの遊歩道へ下りる階段を転ぶように駆け下りて、雑草の繁みの間にあるコンクリートタイルの小路の途中で、やっと僕は足を止めた。膝に手を突いて前屈みでぜいぜいと荒い息をつく。夏とはいえ夜は肌寒い。噴き出していた汗が急速に冷えて行く。
僕は声を出さずに泣いた。
汗が噴き出すような酷暑の昼間だったなら、もしかしたら、もっと辛くなかったかもしれない。僕は豚野郎だけじゃなくママにも腹を立てていた。
どうしてパパと別れてクズ野郎とばっかり付き合うんだ。どいつもこいつもろくに仕事もしないアル中のジャンキーばかりじゃないか。ママがアルバイトで稼いだ金は、あいつらが豚のションベンみたいな酒か、犬の糞のようなドラッグを買って使ってしまう。ママはなんの為に働いているんだよ。僕の為には何もしてくれないで、僕をゴミ溜めにほったらかしにして、クズ野郎達に貢ぐ為に稼いでるのか。アルバイトの給料だけじゃ足りなくて、ママが時々売春していることも僕は知ってる。知ってるんだ。どうして僕をクズみたいに捨てておいて、クズ野郎ばかり大切にするんだよ。特にダリルは最悪だ。最低最悪の変態ホモ野郎だ。ママはバカだ。ママなんか死ねばいい。死ねばいいんだ。
吐き気が湧いた、その時――
ふわりと白い蛾が飛んで、僕の視界を横切った。
白い光の尾を引いて流れる、燃え尽きかけた燐光のようだった。
顔を上げて辺りを眺めると、リバー・リーの川岸には、夜だというのに人がいた。ぽつんぽつんと離れて立ってはいたけど、誰もいないわけじゃなかった。
人がいる。人がいる。人がいる。人がいる。人がいる――
良かった。人がいれば、大丈夫だ。
この辺の感覚は、僕は本当に曖昧だ。「なんとなく、分からないけど」と直感か願望で片付けて根拠が無い。それは後になるまで、ずっと変わらなかった。
僕は、やっと体を弛緩させた。
改めて、さっき起こったことを思い返す。冷静になって考えてみると後悔ばかりが襲ってきた。もっとうまく立ち回れたんじゃないか、と。
情けないことに声も出せなかった。
悔しかった。ショックだったし、納得も出来なかった。「意味が分からない」と何度も吐き捨てながら、本当は意味を理解していた。その夜も僕はリバー・リーの岸辺を何時間も歩いた。歩いて、歩いて、歩きながら考えた。
インターネットはいつも僕の味方だ。何でも教えてくれるし、どうすればいいのか分かりやすい正解を示してくれる。女性と付き合いながら異常な性癖を隠して暮らしている変態もいるってことは、連続殺人鬼を特集したウェブサイトに書いてあった。
ダリルは間違いなく最低の変態豚野郎だ。
警察に行こうか? でも証拠が無い。あいつ、
あいつ、また襲ってくるだろうか?
襲ってきたら、その時の会話を録音すれば……
そうだよ。録音できる機器デバイスがあれば良い。
でも、どうやって手に入れる?
スマートフォンがあれば録音できるけど、僕は持っていない。プライバシーの塊を誰かに借りられるわけがないし、そもそも貸してと頼める友達がいない。買うにしたって金が無い。くそっ、せっかく豚野郎をハメてやれるチャンスなのに。
世の中は金が無いとダメだ。クッキーを売ってコツコツ貯めるか? バカバカしい。稼ぐそばからダリルに取り上げられるのがオチだ。手早く必要な金を稼ぐ方法なんて、別のホモ野郎を相手に売春するくらいしか思い付かなかった。
無理だ――と絶望した。
ホモに掘られるくらいなら、今の暮らしを我慢して続ける方がマシだ。
何も出来ることはない。とにかくあいつを避けて、あいつと顔を合わせないように、二人きりにならないように、ただ逃げ続けるしかない。惨めったらしく……
僕は言いようのない無力感に呑まれた。
夜明けまで、あちこちを転々としながら座ったり歩いたりして時間を潰した。声を掛けて来る奴もいたけど、無視して逃げた。ママがいかがわしいアルバイトから帰って来る時間を待ってフラットに戻ると、ダリルは玄関で酔い潰れていた。僕が逃げた時に見たままの恰好で、ジンの瓶を抱いて床に転がっていた。昨夜、僕になにをしたか……いや、何をしようとしたか、綺麗サッパリ忘れているみたいで、ママに揺り起こされると、インスタントコーヒーを飲んでマーマレードを塗ったトーストを不機嫌そうに齧り始めた。
テレビは相変わらずフットボールの試合を映していたし、顔にチームカラーを塗りたくって奇声を上げるフーリガンが悪魔に憑りつかれたように騒いでいた。カーペットは埃っぽく、冷凍食品とお菓子のパッケージと空き瓶がそこら中に散乱していて、煙草の煙で変色してしまったカーテンは汚らしいセピア色だし、壁紙も触ればベタベタする。ソファの合成皮革は破れて詰め物のスポンジが見えていて、ママは疲れ切っていて結い髪がほつれている。夜明けのママは酷く老けて見えて、まるで老婆のようだ。
ああ、ゴミ溜めはゴミ溜めのままだ。
僕は何も変えられず、何も出来ず、何も得られず、何もかもに絶望したまま、この棺桶のような家の中で死んで行くしかないんだ。ちょっと自分に酔ってそんなことを考え、それから、不意に泣けてきた。
嘘じゃなかったからだ。
僕は生きていない。死んだように
豚野郎をぶっ殺すことも出来ずに、押し黙って、逃げて逃げて逃げて、それでも逃げきれずに不運に掴まって、きっとクリスマスの七面鳥みたいに羽を毟られて、丸裸にされて、犯されて、首を斬られて惨めに死ぬんだ。
神様なんていない――
僕は自分の不幸に浸って、自分を憐れんで、静かに泣いた。
もうダメだと諦めて、考えることをやめようと思った。どうなってもいい。どうせ、なるようにしかならないし、僕の場合は、ママのようになる以外に道が無い。移民だから、貧しいから、パパがいないから、ママに愛されていないから、誰からも愛されない。
もうダメだ、ダメだ――そう、ツイッターで吐き出した。
だけど、もしかしたら神様はいるのかも知れない。地球の裏側に居るトモがいつものように僕の声を拾い、そして、信じられないことに、助けてくれたのだ。
「何かあったの(What's wrong with you)?」
簡単なリプライがすぐに飛んで来た。最初は見栄を張って「何もない(Nothing)」と素っ気なく返したけど、やっぱり聞いて欲しくなった。精一杯の努力で笑い話に仕立てて、豚野郎に犯られそうになったよ、とDMしたらトモは怒った。
「そいつクズ野郎だな。殺してやりたい」
トモの言葉を目にした途端、ドクン、と心臓が跳ね上がった。
見下されてバカにされるかと思っていた。そうでなければ、軽いジョークで流されるかと。男の僕が、男に犯られそうになったなんて、みっともないだろ。軽蔑されて二度と相手にしてくれないかも知れないと思っていた。僕はトモを失うかもしれないことを恐れていたのだと、その時、やっと気が付いた。
僕はトモが好きだった。変な意味じゃない。友達として、世界の誰よりもトモが好きだったのだ。十四歳の僕と、二十一歳のトモ。イギリスと、日本。九千六百キロメートルの距離を越えて、僕達は確実に繋がっていた。
ツイッターのDMで、僕達はリアルタイムで話し合った。
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