【Ⅰ】3

 暴力には屈せず、勉強し続けて奨学金で大学へ行き医者か弁護士になりました、と言えたら良かったんだけど、殴られながら勉強なんて出来ない。出来るわけがない。出来ると言える奴は、殴られていない。だから、事情を中途半端に知ったプライマリースクールの若い女教師が「環境に負けずに頑張らなきゃ」と言い放った時には、心の中で「レイプされてから出直して来い」と唾を吐いた。それだけでは足りず「こういう女はレイプされても喜んでケツを振るかも知れないけどね」とも付け足した。


善人面した奴ほど心の中は汚い。どうせ僕を見下してバカにしているんだ。他人の不幸に同情できる心の優しい自分に酔って気持ち良くなる為に、可哀想な僕を利用しているんだよ。


 そんな状態だったけれど、ローティーンのうちは僕の成績は悪くなかった。プライマリースクール程度の内容なら、授業中に教科書を読むだけで、ほぼ満点が取れたんだ。大人になった今、誰かにこれを話すと、判で押したように「見栄張っちゃって」という顔をされる。まあ、セカンダリースクールではそんなやり方は通用しなくなり、家で勉強出来ない僕は落ちこぼれていったので、そんな僕が「子供の頃は頭が良かったんです」なんて言っても、信じないのは当然だ。僕の話をまともに聞いてくれる人はいなかった。


 いや、一人だけいた――


 ツイッターで知り合った日本人のトモって奴だ。


 トモは日本語で友達という意味らしい。


 誠実なアミンの友達トモ。名前に意味があるのは良い。


 貧乏人の僕がインターネットを使えるようになったのは、例の「レイプされろ」と心の中で罵った若い女教師のお陰だ。僕が十三歳になった年の春、彼女が使い古しのパソコンを譲ってくれて、インターネットの使用手続きまで代行してくれたのだ。淫売扱いして悪かったと今では思う。でも当時の僕はまだ子供で、プライマリースクールで担任だっただけの女が、なぜそこまでしてくれるのか理解できなかったし、感謝も出来なかった。ありがとう、と言えたかどうか覚えていない。あの女教師の名前も忘れてしまった。


 まあ、僕が恩知らずなのは仕方ない。そう育てられたのだから。


 最初のうちは使い方が分からなくて、ニュースサイトだけを見ていた。少しずつ見るサイトが増えていき、ツイッターを知り、アカウントを取得した。なんとなく思い付くままに適当なツイートしてみたが、僕はうまく人と繋がれなかった。フォロワ―はいても、中身の無いスパムばかりだった。


 僕はツイッターの向こうには誰もいないのだと思うようになった。拾った本で読んだボトルメールのつもりで、「遭難しています。誰か助けて」と毎晩書き込んだ。


 HELP! PIGLET(ME)


 IT’S ME PIGLET, HELP HELP.


 どうしてトモがそれを見付けたのか分からない。


「偶然だよ。ちょうど、くまのプーさんを読んでたんだ」


 トモは、ちょっと変わった奴だった。トモのツイートは変な形の文字で綴られていて少しも読めなかったけど、トモはいつも僕に英語でリプライをくれた。DMでも色々な話をした。変な奴だった。僕の話はなんでも信じる。分かるよ、と言う。一度ならず「君はもっと幸せになるべきだ」と言ってきた。


 トモは僕の七歳上だということだった。DMでセルフィを見せて貰ったら、黒髪黒目で痩せていて、歯並びは綺麗だったけど飛び切りのハンサムではなくて、まあ、なんというか、眼鏡をかけた中国人シノワにしか見えなかった。それをそのまま本人に伝えたら「僕は日本人だ」と怒られた。トモは、日本人であることに誇りとこだわりがあるらしい。


 正直、その気持ちはよく分からなかった。


 僕は「自分はイギリス人だ」というアイデンティティをまだ確立させていなかった。子供だったし、その辺りの意識はぼんやりしていた。自分が何者であるか強く意識する為には外圧が必要なんだと思う。外から攻撃されて、それに反発することで自意識の殻キャラクターは形成される。僕も色々あって侮辱されて反発することで自分を確立した。


 ……いや、どうだろう。分からない……


 僕は結局、自分はイギリス人だと確信出来たことはないような気がする。かと言って、アラブであるという意識も結局は持てなかったと思う。警官に身分証を見せろと言われ、通りすがりの金髪野郎にタオルヘッド(アラブ野郎)と揶揄され、何もしていないのにテロリスト扱いされ、嫌がらせで収監されそうになり、そんな風に攻撃されて、僕は反発し続けた。ただそれだけのような気がする。僕は僕でいたかっただけなのだ。


 まあ、とにかく、トモだけは友達だった。


 僕の日常は相変わらずで、リバー・リーの緑の遊歩道を何時間も歩き続け、ハウスミルの鐘楼を眺め、古い煉瓦の建物の隙間をこそこそと歩き回り、捨てられている本を拾っては川岸で釣りをするオジさんから離れた場所に座って読み、毎晩トモにDMを送り、学校では黙り込み、家ではママのろくでなしの彼氏に殴られ、ミルク色の霧に包まれるように茫洋と過ごしていた。


 傑作だったのは、ママのろくでなしの彼氏が変態ホモ野郎だったってことだ。


 あれは僕が十四歳になった年の夏、七月の初め頃だった。


 ママが仕事でいない夜、泥酔したダリルが勝手にフラットの鍵を開けて入って来た。また難癖を付けられたり殴られたりするのが嫌だったから、僕は無言でフラットを出て行こうとした。ダリルはジンの瓶を持っていた。いつも通りの酒臭い息を吐いて、裾の擦り切れたデニムパンツを履いていた。シャツはH&Mの安いカットソーで、趣味の悪いコロンの香りが汗臭い体臭と混ざって吐き気がしそうだった。だらしなく伸ばした寝癖だらけの髪は脂っぽく、無精髭が疲れた顔をより一層老けさせている。血走った眼はどろりと濁っていて、酩酊しているのは酒だけが理由ではないと察しが付いた。アップにはなってはいなかったから、スマック(ヘロイン)かジョイント(大麻)か違法の精神安定剤だと思う。


 ダリルは黄色い歯をむき出しにして、あは、と笑った。


 まるで、たった今、僕という人間の存在に気付いたみたいに。


 初めまして、と言われても僕は驚かなかったと思う。そういう間の抜けた目をダリルはしていた。実際、僕が自分好みの年齢に達したと、その時やっと気付いたんだと思う。ダリルはミドルティーンの男の子が大好きなジョン・ウェイン・ゲイシーだったわけだ。


 人間は不思議だ。ああいう場面では、例えセックスの経験が無くても、なぜか直感的に自分の身が危険だと理解できる。ヤバイ、と耳の奥で何かが叫ぶんだ。神の啓示、あるいは本能かも知れない。自分を守ってくれる貴重で尊い感覚だ。それに耳を塞ぐ奴はいいようにされるし、レイプされても仕方ない。バカだから犯られるんだ。


 僕はバカじゃなかった。でも、利口でもなかった。


 ダリルは僕の腕を掴んで壁に押し付け、汚い顔を近付けてきた。臭い。アルコールと豚の糞が混ざったみたいな悪臭だ。顔を背けると、にやけた顔を傾けて僕が顔を背けた方に顔を寄せて来る。また顔を背けても、同じように汚い顔を僕の鼻先に近付けて来る。へらへらしながら、何が楽しいのか、「逃げるなよぅ」と何度も間延びした声で言う。


 僕はもう分かっていた。ダリルの呼吸は性的な興奮で荒くなり、デニムパンツの股間は不自然に膨らんでいたからだ。奴は勃起している。もう分かっている。


 急にダリルは押し黙り、数秒後、またへらへらと笑い出した。


「アミン、大きくなったな。もう立派な大人だ。だから大人同士の話をしよう」


 耳元で響いたその声はねっとりと厭らしかった。


 分かるだろう、分かってくれるよなぁ、と言いながら、ダリルは僕の手を自分の股間に当てようとした。汚いペニスをしごかせようってことか――


 僕は必死でダリルの手を振り解いてフラットの外に飛び出した。


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