【Ⅰ】2

 イギリス生まれのイギリス人――アングロサクソンも例外でなく――の識字率が低下していると何かで読んだことがある。社会は確実に歪んでいるんだ。


 字が読めるということは神の祝福だ。文明ってやつだ。だって、字さえ読めればあらゆることを知ることが出来る。調べる努力さえすればなんでも分かる。


 だから、僕は本が好きだ。


 特別なお気に入りは、子供の頃に読んだミルンの「Winnie-the-Pooh」、セカンダリースクールの卒業間際に読んだコエーリョの「O Alquimista」、それから仕事を始めたばかりの頃に親友の真似をして読んだル・カレの「OUR GAME」の三冊――


 本は贅沢品で、子供の頃はほとんど買ってもらえなかった。だけど、少し歩けば手に入れられた。どうしてかって? ロンドンでは古本が箱に入れられて、よく誰かの家の前に置いてあるんだ。最初はその意味がよく分からなかった。ママのナディヤも完全なイギリス人じゃないから分かっていなかった。初めてその光景を見たのは、何歳の時だっただろう……ハッキリとは覚えていない。けど、ママと手を繋いでいたから、五歳か、六歳か、七歳にはなっていなかったと思う。ママと少し遠くまで食事に出掛けたら、古い家の前にポンと箱が置かれていたんだ。


 それはありふれた段ボール箱で、二十冊くらいの絵本と児童文学のペーパーバックが入っていた。箱のふたは開けられていて、内側には子供っぽいたどたどしい文字で「It's trash to me, if you need it, please take freely.」と書いてあった。


「僕にはゴミになったけど、必要な人にあげる」


 幼い僕は、その文面にビックリした。本がゴミだなんて、そんなことがあるのかな。僕は喉から手が出るほどその捨てられていた本が欲しかった。年に一冊か二冊しかママは本を買ってくれなかったから。


 本当に、この箱に入れられた本がゴミなら、こんな良いゴミはない。


「ママ、これ持って行ってもいい?」


 甘えた声で訊ねると、ママは――文章があまり読めないので――少し困惑して、それから誤魔化すように、念入りに手入れしカールした髪をマニキュアでコーティングした爪で摘まんだ。


「そんなゴミが欲しいの? 変な子ね」


 そう言った時のママは、赤い口紅が塗られた唇が引き攣るように歪んでいて、バカにしているような、呆れているような、不快を堪えているような、妙に暗い表情だった。


 今にしてみると、あれはママの嫉妬だったのだと分かる。簡単な単語しか理解できないママには読めない本だったけど、僕は読めるようになったんだから。


 自分に出来ない事を息子が習得すると劣等感を刺激されて惨めになるからか、ママは僕が勉強するのを嫌がった。時々やって来るママのろくでなしの彼氏も、僕が勉強していると露骨に嫌な顔をした。何人か我が家に入り浸る男はいたけど、僕が九歳になった頃にママが付き合い始めたダリル・ラヴロックは最低の暴力野郎だった。嫌な顔をして僕を無視するだけじゃ気が済まない奴だったんだ。


 うちは1LDKの狭いフラットで、僕は自分の部屋なんて持っていなかったし、寝室はベッドと荷物でいっぱいだったから、キッチンのあるリビングダイニングで勉強するしかなかった。


 ある日、ダイニングテーブルの上に教科書とワークブックを広げていたら、ママのろくでなしの彼氏ダリルが、唐突に、「おまえは自分だけ良ければそれでいいのか」と意味の分からない言い掛かりをつけてきた。


 ステラビールを何倍も飲んだような赤い顔をしていて、息はアルコールと豚の糞が混ざったような臭いだった――まあ、豚の糞の臭いなんて嗅いだこと無いけど。


 ダリルは汚い唾を飛ばして、僕の顔の前で埒も無い厭味を気が狂ったように喚き立てた。


「テストで良い点を取りたいのか。なんて図々しい自慢野郎だ。何の役にも立たない勉強なんかして、それで俺達より偉くなったつもりか。自分勝手で狡いガキだよ。犬のションベンより臭え、汚い野郎だ。俺達を見下してやがるんだろう」


 無視していたら、ろくでなしのダリルは僕の頭を力任せに拳で殴った。まだ幼くて体重も軽かった僕は殴られた勢いで椅子ごと壁際まで吹っ飛んで床に叩き付けられた。


 ガツンと後頭部に衝撃が走る。


 いつも痛みは後からやって来た。


 殴られた瞬間は、一瞬ライトのスイッチが切れたようになり、真っ暗闇で、だけど部屋の景色がチカチカとフラッシュした。体がどこかに打ちつけられて、バウンドして、目の前に床があって、息が出来なくて、痛いというより熱くて、でも、やっぱり痛くて、恐くて、意味が分からなくて、いろんなモノがぐるぐる回って、グチャグチャで、殴られたと気付くのは、毎回、やっと息が出来るようになってからだった。


 泣きたくないのに涙が出て止まらなかった。


 頭がいつまでもズキズキして、触ったらぶよぶよした瘤が出来ていたこともある。数えきれないほどある。痣はいつもどこかしらにあったし、殴られて口の中を切ったり、蹴られたり、突き飛ばされて、角のある物にぶつかったり壁に擦ったりして、しょっちゅう怪我をしていたから、僕は自分の血を見ることに慣れていた。


 けど、慣れていたって痛いものは痛い。


 どうして殴られるのか理解できなかったし、僕のパパでもない何の関係もない奴にどうして殴られなきゃいけないのかと悔しかったし、こんな惨めで酷い目に遭わされなきゃいけない自分の運命が悲しかった。


 どうしてテレビに出て来る楽しそうな家と僕の家は違うんだろう?


 ダリルが喚き始めると、隣の家から「うるさい」と怒号が響いて来た。だけど、誰も助けてはくれなかった。警察を呼んでくれてもよかっただろうに。


 本当に理不尽だった。狂ったダリルから、勉強するのが神をも畏れぬ罪悪であるかのように罵られて、殴られて、蹴られて、吹っ飛ばされて、痛くて、苦しくて、悔しくて、悲しくて、混乱して、僕が泣いてもママは笑っていた。


 パパがいたら助けてくれただろうか?


 公営住宅カウンシルフラットに住んでいるのは、シングルマザーばかりだ。そうでなければ補助金が出ないからだ。わざと結婚せずに子供を産んで、無料のカウンシルフラットを手に入れ、子供手当と貧困者用の生活手当を受給する。イギリス国籍さえ持っていれば、イギリスでは飢え死にすることはない。働かなくても社会に寄生して生きていける。この制度の適用者が増えすぎて国家を食い尽くしそうになっているらしいけど、それでも現状は変わらない。


 僕のママも僕のパパとは結婚せずに僕を産んだ。僕が二歳になる前に、パパとママは別れたらしい。三歳だったか、四歳だったか、僕がママの携帯電話を勝手に弄って、それまで何度か見せて貰った事のあるパパの写真を見ながら「パパに会いたい」と言った時、ママは怒ってパパの写真を全部消した。連絡先も、何もかも、パパに繋がるデータを全部消してしまったのだ。携帯電話の中にしか存在しなかった僕のパパ。ついに、どこにも存在しなくなった。何度か見たはずの写真の顔も、もう覚えていない。


 パパが助けてくれないから、僕は何度も何度も何度も、ママのろくでなしの彼氏に殴られた。理由は勉強だけじゃなかった。目が合ったのに笑わないとか、食事を美味しそうに食べないとか、風呂が遅い、トイレに行く回数が多い、生意気にテレビを見ている、etc.些細なことが何でも暴力の理由になった。特に目の敵にされたのが勉強だっただけだ。


 僕が勉強することを奴らは異常に忌み嫌った。嘲笑い、侮辱し、無意味だからやめてしまえと呪いを吐き、暴力で阻害し、恐れた。


 そうだよ。奴らは勉強する僕を恐れていたんだと思う。幸せになろうとする努力を邪魔してくる奴らは、みんな、自分以外が幸せになることを恐れている。


 貧しいカウンシルフラットのクズに生まれても、勉強さえ出来れば、奨学金を貰って良い大学へ入って学位を取って立派な仕事に就くことも出来る。そうやって抜け出していった誰かがいることを、僕達は噂で知っている。


 ママのろくでなしの彼氏も、なぜか教科書を捨てることだけはしなかった。たぶん、恐ろしくて触る事が出来なかったんじゃないかな。奴には読めない言葉が書かれている本は悪魔の書のように思えたんだろうと思う。いや、どうかな。本当のところは分からない。


 僕はいつも殴られていて、びくびくと怯えて過ごすようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る