第8話 偽善のゆくえ

 そんなことがありつつ、一通り館を見て回った。その中で顔合わせできたのは広間で遊んでいた比嘉小次郎と、厨房にいた白間鋭利と、龍二と相部屋の大城龍一くらいだ。


 小次郎くんはまだ小学生。正直こんな森の館に同年代の知人もなく連れてこられたら退屈だろうに。彼は広間にある階段の手すりを滑り台のようにしてひとり遊んでいた。僕が「お母さんに叱られるよ」と脅すも、「うるせーよブス!」と聞く耳を持たなかった。


 白間さんはこの時間から調理をしていた。龍二のために、手間のかかった料理を用意するのだろう。原作小説ではやたら絶品ぶりを描写されていたので、楽しみだ。料理人ゆえ髪が短くおてんばな雰囲気を醸し出しているが、話してみるとなかなか人好きのする性格だった。


 龍一さんとは高校時代に顔を合わせたことがある。授業参観で話をしたくらいだが。彼は「久しぶりだな! 元気だったか?」と相変わらずの大声で僕の肩を叩いた。痛い。


 僕とのあいだでしばらく久闊きゅうかつじょし、それから綾城さんに向かった。龍一さんは、綾城さんの自己紹介を受け「龍二も隅に置けないなあ!」とのコメントを残した。


 部屋に戻る前に、せめて主人には挨拶をしたほうが良いのではないかと綾城さんが提案したが、龍二が断った。彼が言うには、龍太郎の部屋を訪ねるなら館を追い出されるくらいは覚悟しなくてはならないとのこと。龍太郎は自室で仕事をおこなうが、執筆を中断されるのを何よりも嫌うため、誰も部屋にいる龍太郎を呼ぶことはしない(あ、ここ伏線ね)。龍太郎の方から自発的に部屋を出るのを待つのみだという。それでも十八時には必ず晩餐の席につくので、不便はない。ちなみに僕はその辺の事情を知っていたので言い出さなかったが、本来綾城さんの提案は《七原》がするはずのものだった。


 というわけで他にすることもなく僕らは部屋で待機し、晩餐を待つ。




 十八時、食堂にはこの館の滞在者が白間さんを除いて全員揃っていた。駒塚さんは主人の傍らに立ち、彼の指示がない限りその場を動かない。


 僕らは席につく前に簡単な挨拶をした。一部からはあまり歓迎されなかったが――特に美津子さん――それは本来的には部外者である以上仕方がなかった。あくまでも主賓が人の良い龍二だから僕たちは滞在を許されているのである。


 俗世的なことにはてんで縁のなさそうな大城龍太郎だが、孫の誕生日くらいは祝ってやるらしい。逆に言えば、そんな日でもない限りこの森に引きこもった偏屈な老人を訪ねる機会がないので、親族らは積極的にこのもよおしを開くのだそう。


 そういった居心地の悪さもることながら、同じ食卓を囲う被害者と殺人者の姿が、僕を神経質にした。よって楽しみにしていた白間さんの料理は、申し訳ないが味がしなかった。


 この中に殺人を計画している者がいる――。


 本来知りえるはずのない未来のできごとを知っている僕は、このめでたい席の中でもひとり不安との闘いを強いられる。


 ……いや、僕の他にもこの孤独を味わっている人物がひとりいるのか。今回の事件の犯人である大城次郎。ある意味で僕と次郎さんは同じ苦悶を共有していると言えた。彼もまた、これから自らのしでかすことの大きさに戦々恐々としているのだろうか。あるいは――。


 とはいえ、基本的に人々は浮かれていた。例えば綾城さんは、僕にあり大城次郎にあるであろう緊張をよそに、非常にリラックスした様子で、顔に笑みを浮かべながら尊敬する大城龍太郎に質問を飛ばしていた。


「大城先生の小説はいわゆる純文学とされていますが、ところどころミステリの影響が垣間見えるのは気のせいでしょうか」


 髪は総白髪だが、文化的巨人にありがちな偉そうな髭などは一切伸ばしていなく、それでいて眼光の異様なまでの鋭さが未来の古典作家としての風格を放つ大城龍太郎は、誤魔化しなどせず答える。


「そもそも純文学などというものは存在しない。故に私の書く小説も純文学ではない。虫唾が走るので、その言葉は二度と使うな。ミステリの影響については、少なからずあるだろう。ミステリに限らず、若いころは様々な本を乱読したものだ」


「……失礼しました」


 綾城さんは笑みを崩すことなく言って、さらなる質問を飛ばした。


 そのやりとりを眺めていると、「お宅のお連れさん、お父さんに向かって馴れ馴れしいわね。厄介なファンがどうしてこの場にいるのかしら」と美津子さんが皮肉を言ってきた。そのあとで夫の小太郎さんが飛んできて、自分の席に戻った美津子さんの顔色を窺いながら「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。原作を読まずとも夫婦の力関係というものが分かる一幕だ。


 晩餐開始から三十分以上が経過し、用意された食事があらかた片付いたところで、食堂の照明が落とされた。神経質になっていた僕は身構えたが、事件とは関係ない(推理小説では部屋の照明が落とされると事件が起こる)。陽気な歌声が聞こえてきたかと思えば、小さな灯りと共にバースデーケーキがやって来た。歌声の主は白間さん。例の人好きのする笑顔でケーキを運んできた。白間さんお手製のケーキは七原が地の文で評して曰く『甘露かんろの如く』だそうで、正常時に食べることができたなら落ちたほっぺが床を貫通しただろう。


 白間さんの歌に一同が続いて――龍太郎は歌わなかったが手拍子はしていた――龍二を祝った。


 歌が終わり、「おめでとう」との言葉が飛び交う。龍二が照れながら礼を言って、蝋燭の火を吹き消した。辺りにパラフィンワックスの燃焼する独特の匂いが立ち込める。この匂いで誕生日って感じがした。


 照明を点けると、白間さんがケーキを切り分けた。シュガープレートの載ったケーキを龍二に回し、あとは特に区別なくそれぞれ均一のケーキを配膳した。これも残念ながら堪能できなかったが、情報として『美味しい』ということはわかった。


 誕生日に歌にケーキとあって、場は和気藹々としたものだった。


 その中で、僕はこれから殺人犯となる大城次郎と、事件の被害者となる大城龍太郎・駒塚にとろの三名にばかり視線が行ってしまう。他の人も僕には興味ないようなのでお互い無関心でいいが、龍二の目までは誤魔化せない。


 龍二は「上の空みたいだけど、大丈夫か?」と僕を気遣ってくれた。気遣ってくれるというのは、はた目にも様子がおかしいということだ。


 気を付けなければいけない。特に探偵と犯人には。




 晩餐が終わり、部屋に戻って六時間後。日付が変わって少しばかりが経った。


 いま寝て起きたらもう事件は起こっているだろう。


 どのミステリでも館に潜む下手人げしゅにんは人々の寝静まる冷ややかな夜に殺人童貞を捨てる。そしていちど童貞を卒業した程度で「もう俺は《こっち側》だ」とでも言わんばかりに浮かれた犯行を繰り返し、己の大胆さを誇示するのだ。『マトリョーシカの最奥』における大城次郎も、その例には漏れない。


 長らく運転していたし、慣れぬ館に一泊するとあって疲労はそれなりに蓄積されているはずだが、事件のことを思うとまったく眠れない。


 それもそうか。


 人が死ぬと知って気楽に安眠などできるわけがないのだ。しかし、決して助けようと考えてはいけない。それには危険が伴うし、未来を予知しているが如きの不自然な行動を取ってしまえば、名探偵の目は誤魔化せない。


 第一、僕は人殺しなのだ。助ける命とそうでない命を僕が決め、運命を操ろうだなんて傲慢だとは思わないか? それは偽善と言うんじゃないだろうか。


 今日は徹夜を覚悟しよう。

 僕はそう結論づけて、目を閉じる。別に寝ようってわけじゃない。偶然にも眠ることが出来ればいい、なんてダメもとで目を瞑ってみただけだ。


 だが、それがいけなかった。


 目を閉じると、《助けられない命》だった少女の顔が浮かんだ。

 七原芽衣。

《七原》の殺された妹。


『――どうして助けてくれないの?』


「……っ!」


 僕は飛び起きる。呼吸が乱れ、心臓がかつてない程うるさい。


 そうだ。これが仮に芽衣のことだったら。もし芽衣の身に命の危機が迫っていると知っていたなら、傲慢だろうがなんだろうが、僕は四の五の言わずに芽衣のことを助けようと動いたはずだ。もちろんそんなのは仮定であって、現実には芽衣の身に迫る危機に気づくことができず、助けられなかった。だが今回の場合、僕はチャンスを与えられているのだ。だというのに、また同じ後悔を繰り返すのか? いや、そうなると知っていながら見て見ぬふりをするのは、芽衣のとき以上に悪質だ。


 僕はもう、二度とあんな苦い思いをしたくない。


 ――ああ、僕は馬鹿だ。


 大城龍太郎を助けたって、駒塚にとろを助けたって、僕にはなんの得もない。殺人を企てる犯罪者と対峙するには、非力なこの身体ではあまりに危険すぎるし、不審な行動には名探偵の追及の手が伸びる。


 だが、どんなに理屈をかためても、やはり人としての感情には背けなかった。それに、僕は人の命が失われる悲しさを知っている。

 結局、僕は先日打ち立てた基本方針を捻じ曲げることにした。覚悟を決めて、部屋を出る。


 僕が殺人犯であるとか、名探偵の目だとかはもうどうでもいい。僕は僕の夢見のために誰かを助けることを肯定する。


 なってやろうじゃないの、偽善者に。


 ◇◆◇◆


 そうと決まれば早速被害者(予定)のもとへ。


 駒塚さんの部屋に向かう途中で次郎さんに遭遇したときは心臓が止まるかと思ったが、その場は数時間前の非礼を詫びてすれ違う程度に終わる。やっぱり駒塚さんを殺すために機を伺っているんだろうか?


 それから僕は駒塚さんを呼び出し、適当な理由をつけて会話の相手になってもらった。駒塚さんはその表情に困惑を湛えながらも、僕に付き合ってくれた。話を引き出そうと躍起やっきになっていると、彼女が読書好きだということが分かり、図書室へと赴くことになった。大城龍太郎の使用人をしているのは、憧れの作家先生の仕事ぶりを間近で見られる役得にあずかることができるからなのかもしれない。


 試しにそう訊ねてみると、肯定の言葉を貰った。


「このことは先生には……」


「もちろんですよ。この場だけの秘密です」


 駒塚さんはほっとしたようだった。


 僕は大城龍太郎の著作を読んだことがなかったので、ここぞとばかりに作家としての龍太郎について質問する。


 ……こうしていれば、大城次郎の魔手が駒塚さんのか細い首筋に伸びることはないだろう。が、龍太郎のほうはどうしたもんか。


 そうだった。駒塚さんを見ているあいだは、龍太郎のほうがおろそかになってしまうではないか。考えなしに飛び出しやがって、馬鹿じゃないのかお前は。


 悩んでいると、図書室に綾城さんが現れた。


「やっぱり駒塚さんと一緒だったか」


 綾城さんは得心の表情。そして僕の相手で神経を摩耗している駒塚さんに気づき、「あまり強引に押しかけたって相手は引くだけだよ。自分の好意を押し付ける前に、相手の気持ちをおもんぱかるべきだ。さ、君は帰った」と僕を図書室から追い出した。どうやら僕が無理を通して駒塚さんを口説こうとしているように映ったらしい。昼の冷やかしは単に僕をからかっただけであろうが、いまや本気にしているのかもしれない。ちょっとショックだ。


 しかし、と僕は考える。


 綾城さんは自身を柵に僕と駒塚さんとのあいだをへだてようとしている。ならば駒塚さんのことは綾城さんが見てくれるだろう。


 それならそれで好都合だ。綾城さんは体術にも優れているので、用心棒にはむしろ弱っちい細腕の僕なんかよりぴったりだ。


 僕は僕で大城龍太郎のもとへ行くことにする。――だけど、自室にこもる龍太郎を呼びつけたら最悪この館を追い出されるという。それでは元も子もない。


 しかたなく、僕は龍太郎の部屋の付近でうろちょろしながら大城次郎を牽制することにした。こうしていれば、大城次郎もおいそれと龍太郎に手を出せまい。




 しばらくそうし、十五分ほど経過したころ。


 ――いつまでこうしていればいいんだろう。


 そんなことを考え、僕は立ち止まった。

 夜が明けるまで? だが、夜が明けるったってあと何時間までが夜なんだ? というか、何時間もここでうろちょろして、もし龍太郎を守ることができなかったら、そのときはどう考えても僕が犯人にされるぞ。


 自分で始めておきながらいささか面倒になって来た。衝動的な行動は長丁場に向かない。


 そういえば駒塚さんのほうはどうなっているのだろうか。まだ綾城さんと一緒にいるのかな? 確信は持てないし、あとで見に行った方がいいかもしれない。でもそのときに龍太郎を見るのは……ああ、もどかしい!


 と、意識がここではないところに向いたのがよくなかった。


 視線が足元に向かい、意識がぼんやりとしたことで、僕は相手に隙を与えてしまう。


 瞬間、後頭部に強烈な何かが走った。というのはあとから振り返ったときのイメージであって、その瞬間は何も分からないままただ途絶するのみだった。


 つまるところ僕は犯人――大城次郎に襲われたのだ。被害者予定の周辺をうろうろし、犯罪計画の邪魔をしたあげく、間抜けな隙を見せたせいで。


 そう、殺人犯から被害者を守り抜くというのはこういうことでもある。


 暴力手段の最上級、これから法を犯さんとする者の妨害をして、どうして僕は襲われないとたかをくくることができるだろうか?


 相手はもう四の五の言っていられない状況にいて、腹は決まっているのだ。チャンスはいましかない。だから、当然邪魔者は排除される。


 意識を失う直前、僕の気がかりだったのは、大城龍太郎と駒塚にとろの無事だった。

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