第6話 入れ子の館
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少し時間を遡ろう。
七月十日の十五時ごろ。目の前を《ヤンバルクイナ とびだし注意!》という道路標識が通り過ぎる。僕は人気のない森の道路で車の運転役を
《僕》自身は車を運転したことはなかったが、《七原》は自動車免許証を所持しており、ならば運転の作法は身体が憶えているだろうとの判断でこうしてハンドルを握っている次第である。
しかし《七原》が親戚から譲り受けたこの車は年季が入っており、だいぶガタが来ていた。つい先日車検に出して帰ってきたばかりなのだが、軽であるにも
とまあそんなボロ車なので、走ればガタガタ揺れて乗り心地は最悪だし、斜面でアクセルを踏み込めばかなり心臓に悪い音を立てるといった具合だった。ボロ車への不安と緊張から、過剰に慎重な運転となる。《僕》は性格上運転に向いていないようだった。
助手が無能で割を食うのは綾城さんである。
いくつかのミスにも目を瞑ってくれた綾城さんだが、それでも事故に発展しかけたときにはさすがに小言を頂いた。
さて、今回僕らが向かう先は、箱のような外観をした立方体の館――通称、《入れ子の館》である。それが『マトリョーシカの最奥』の舞台。
その名の通り、館は入れ子構造となっている。
例えば玄関の二重扉。扉の向こうの扉は更なるネストを生み出す。これも、一見そうとは分かりにくいが館の入れ子構造を象徴するものである。
さらに、客人に宛がわれる客室も、それぞれ部屋の中にもうひとつの部屋を有しているという徹底ぶり。
そんな一風変わった館の、入れ子の最奥で起こる密室殺人事件。
こいつがまたとんでもない密室なのだ。扉は内側からしか鍵がかけられず、外側のノブには鍵穴すらない。他に出入口になるような窓や通気口は存在しない。完璧な密室の中で発見される自殺に見せかけた他殺体。
それがこの事件の謎なのである。
僕はその答えを知っているが――これから無知を装いながら驚いたり悲しんだりしていかなければならない。
ボロは出ないだろうか?
案内の車を追いながら、僕は憂鬱な気持ちでいた。
嘆息を飲み込んでバックミラーを覗くと、後部座席の綾城さんと目が合った。
「なんだか元気がないようだね、七原くん」
「そう見えますか? まあ、少し緊張しているのかもしれませんね」
「相手はあの
僕らが訪ねる《入れ子の館》――その主人が大城龍太郎だ。
彼は日本を代表する小説家で、著作の累計発行部数は日本国内に限定しても四千万部を超えている。海外での訴求力も高く、現役の日本人作家としてはもっとも名の通った立場でいる。
――というのが《綾城彩花》シリーズにおける大城龍太郎の設定。もちろん《僕》の生きる現実には存在しない作家である。
たしか、綾城さんは大城龍太郎のファンであったか。自宅に本棚のない七原がわざわざ友人に《入れ子の館》訪問の同席を頼み込んだのは、その辺りに理由があった。
《七原五月》としての記憶にある限り、これまでメディアで報道されてきた彼の印象は職人と言って多くの人々がイメージする人物像そのまんまである。つまり厳格で偏屈。とても気難しい性格をした頑固爺。
原作を読む限りにおいても、実際そのような人間として描写されていた。
推理小説の被害者にするには格好の人物である。ネタバレすると彼がこの事件の被害者だ。
森の中で車を走らせること約四十分。道が
僕は駐車場に車を停めた。が、勢い余る急停止で身体が前方に投げられ、それをシートベルトに
「……もう二度と君の運転する車には乗らない」
綾城さんはそう呟いて車を降りた。少なくともあと一度は僕の運転する車に乗る
「お疲れさまでした。荷物を預かりましょう」
綾城さんに続くと、案内役の車を運転していたこの館の使用人・
僕は「あ、すいません」とか根暗の名人芸をぶちかましてトランクから二人分のボストンバッグを下ろし、綾城さんの荷物だけ駒塚さんに預ける。
駒塚さん、なあ……。
無言で頷いて館の入口に向かう駒塚さんの背中を追いかけながら、僕は複雑な気持ちでいる。そんな僕の視線に綾城さんが目ざとく気づき、茶化してきた。
「おや、七原くん。駒塚さんがそんなに気になるのかい?」
「え、そんなこと……」
「もしかして、いわゆる惚の字というやつなのかな」
「ちょっと、そういう冷やかしやめてくださいよ」
「そうかな? わたしにはだいぶ熱っぽく見えたけどね。君の、駒塚さんに注ぐ、視線が」
からかうように言う綾城さん。
正直、愉快ではない。僕にそんなつもりはないのだ。なぜならあなたが好きだから。
僕が駒塚さんを熱心に見つめるその理由。それは、彼女もまた、この事件における被害者だからである。
ひとまず用意された客室に荷物を置き、他の滞在者に挨拶をしようという流れになった。
館に入り、玄関の二重扉を抜けると、友人の大城
かと思えば、
綾城さんが前に出て、右手を差し出した。
「本日はご招待いただきありがとうございます。七原くんから聞き及んでいるでしょうが、綾城彩花です」
「あっ、どうも。大城龍二っす。
ふたりは握手を交わした。
「あなたの話は七原くんからよく伺いますよ」
あまり話した憶えはないが。
「それと、誕生日おめでとうございます」
そう、今日はこの友人の誕生日を祝うという名目で《入れ子の館》に集ったのだった。
「あ、ありがとうございます」
龍二は頬を紅潮させて綾城さんの手を上下に振った。傍から見ても手に力がみなぎっているのがわかる。そろそろ綾城さんが困惑しかねないので、僕はバッグで龍二を小突いた。
「おーい、そろそろ部屋を案内してくれよ」
「おっとそうだな。駒塚さん、俺がふたりを部屋に案内するんで」
そう言って龍二は駒塚さんからボストンバッグを受け取った。
僕ひとりなら案内を駒塚さんに任せていただろうに、調子のいいやつめ。
ったく……。
龍二の案内で僕らは用意された客室へと向かった。
大城龍二は七原の高校時代の友人だ。
どこで「ウマが合った」のかはわからないし、そもそもその表現を用いることが正しいのかも怪しいところだが、あまり友人のいない七原にしてみればなにかとつるむことの多い知人と言えた。まあ優先順位の問題で友人と表現できるといった程度の存在である。
そんなぼんやりとした関係ではあるが、龍二のほうはなんの
《綾城彩花》シリーズにおけるふたりの描写を読んだ《僕》にはそのことがわかる。《七原》は知らないだろうが、実際のところ彼は気持ちのいい人物である。《僕》は龍二に好感を持っていた。
「――まあ案内って言っても、俺もここに来るのは初めてなんすけどね」
部屋に向かう途中、龍二がそんな伏線を漏らした。
「そうなんですか」
「はい。この館はまだ建ってから半年も経ってなくて……人が集まるのは今日が初めてなんすよ」
「道理で綺麗なわけだ」
と、話しているうちに客室へ到着する。
「ここが綾城さんたちの部屋っす」
龍二が「綾城さんに向けて」言った。《気持ちのいい人物》という評は訂正しようかしら。
案内された部屋は、一見して「そこそこ」という評価のそれだった。《緑家》ほどの広さも豪華さもないが、一泊するには充分以上。ただし、《入れ子の館》の特徴はそこにない。
部屋の向こう、ベッドの脇にひとつ扉がある。
それを開くと――。
「面白いね、まるで鏡だ」
扉の向こう側は、もうひとつの客室となっていた。
家具の配置が鏡合わせになっており、視覚的にかなりトリッキーである。
唯一の違いはと言えば、《奥の部屋》には廊下に面したドアがないという点か。要するに、二部屋合わせて「一部屋」と数えるのだ。
「ふふっ、《
「たしかに名が体を表しすぎですね」
「あの、鏡姉妹って?」
話のわからない龍二が訊ねたので、僕が答える。
「ああ、鏡姉妹っていうのは――」
鏡姉妹とは、《綾城彩花》シリーズ第二弾の短編集に収められている『鏡姉妹のトリック』に登場する双子である。
殺人事件の容疑者中、唯一アリバイのない人物が犯人だと疑われるが、綾城さんの華麗な推理によってその人物に犯行は不可能だと判明する。では真犯人は?――という筋の話だ。
ちなみにトリックは、双子の片割れが鏡で自分の姿を映してもう片方のアリバイを成立させ、自由なほうが殺人の実行犯として動いていたというもの。タイトルが思いっきりネタバレになっているうえ、扱われているトリックがあまりにも小粒なので評判はよろしくない。ほとんど語られない短編だ。
「へえ! じゃあ、その事件を綾城さんが解決したんすね。まるで推理小説の名探偵だ」
「うん、まあそうだね……」
本当に推理小説の名探偵なんだとは口が裂けても言えないな……。
部屋割りについては、本来なら別々に部屋を取るところだが、この通り《入れ子の館》は特殊な構造の建物なので、僕と綾城さんは同じ部屋で寝泊まりすることになった。
ただし同じ部屋と言っても、もちろん綾城さんが《奥の部屋》で、僕が《手前の部屋》だ。「奥の部屋は、内側からしか鍵がかけられないようですね。さあ綾城さん、どうぞ」と龍二を
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