マトリョーシカの最奥

第5話 名探偵・綾城彩花

     4


 夏の寝苦しさと状況の変化に落ち着かず、結局三時間ほどしか睡眠を取れなかった。


 翌日、僕は妹の芽衣めいに手を合わせ、身支度を整えてから『綾城彩花探偵事務所』に出勤した。


『綾城彩花探偵事務所』は那覇市に居を構えている綾城さんの自宅兼探偵事務所だ。周辺にビルの乱立する窮屈な眺めだが、綾城さんはそれを気に入っているそう。僕の住まいも那覇市内なので、マンションからは徒歩十五分ほどで辿り着く。


 事務所のほとんどは応接スペースになっている。ドアを開けると窓際に所長のデスクがどんと待ち構えていて、ついで手前のソファーふたつとそれに挟まれたガラスのテーブルが視界に入る。綾城さんは自分のデスクで小説を読んでいた。薄く色の入った眼鏡とボブカット、夏用の黄色いタートルネックといった出で立ち。


「おはようございます」


「おはよう、七原くん。コーヒーでも飲むかい?」


 僕は慌ててコーヒーを淹れた。

 いちいちそういうふうに訊ねるということは綾城さんがコーヒーを飲みたがっているということだし、そういった雑事は助手である僕の仕事だ。


「すまないね」と言ってコーヒーを口にする綾城さんは、すらっとした足を組むそのしぐさも含め、とても様になっていた。


 僕は《綾城彩花》シリーズの読者だ。言ってしまえば、探偵・綾城彩花のファンである。強い憧憬の的でありながら、フィクションという決して手の届かない存在でもあるところの彼女。そんな綾城さんが目の前に存在しているという事実がなんとも奇妙であり、同時に心躍るものがあった。


 昨日は殺人事件のドタバタでそんな気持ちは露ほども抱かなかったが、今更ながら、深い感慨が胸に広がっていく。


 と、綾城さんが僕の視線に気づき、本から顔を上げた。


「そうまじまじ見つめられると照れる」


 か、かわいい!

 顔色の変化などは特になかったが、その一言は僕の男心をくすぐった。


 だいたい綾城さん、顔の造りが滅法良いのだ。もちろん原作の描写でも優れた容姿だとされていたし、実写ドラマでは当時売り出し中の美人女優が演じていたのだが、実際の綾城さんの外見はドラマのそれを超えて華があった。それでいてドラマ以上に綾城さんらしい綾城さんなのである。なんだかトリックアートでも見ているみたいに頭のおかしくなりそうな顔貌かおかたちだった。


 ちなみに七原はそこそこ。


「すいません、なにを読んでるのか気になって……」

 僕は誤魔化した。そういえば昨日から誤魔化してばかりだ。きっとこれからも誤魔化し続ける人生を送っていくのだろう。


「これかい? 『カササギ殺人事件』だよ」


「ああ、アンソニー・ホロヴィッツですか」


 この世界にもいたか!

 僕はにわかに興奮する。


「『メインテーマは殺人』も良かったですけどね、やっぱり『カササギ殺人事件』が衝撃でした……。なんといっても構成を活かしきった――」


「ふうん? 詳しいね。だがネタバレはよしてくれよ。まだ上巻なんだから」


「あ、すみません」


 反省。推理小説はことにネタが命なのだから。

 気勢が削がれると、先ほどの饒舌が恥ずかしくなってくる。


 ひとり落ち込んでいると、綾城さんが笑った。


「今日の君はなんだかおかしいね。寝不足にはカフェインがひとまず有効だ。君も一杯どうだい?」


「あー……いいですよ」


 せっかくのお誘いだが、コーヒーは苦手だ。


 だけどそれより、さりげなく綾城さんが僕の寝不足を見抜いていたことに感嘆の念を禁じ得なかった。

 彼女は単に容姿が良くておまけにかわいいというだけでなく、やはり名探偵なのだ。鋭い観察眼で小さなことも見逃さない。尊敬に値する、この世界の主人公。

 これまでに数々の名推理を披露してきた綾城さん。そのすべてを僕はこれから特等席で観賞することができるのだ。


《七原五月》として転生し、その罪を被らなきゃいけなくなったことは災難だけれど、やっぱり《綾城彩花》シリーズの大ファンとしてはこのできごとは素敵な奇跡に違いない。


 不条理な目に遭わされる分、役得を期待しておこう。クールで頭脳明晰でひたすらに格好良い名探偵・綾城彩花の活躍が楽しみだ。



 ◇◆◇◆



「犯人は白間しろま鋭利えいりだよ」


 綾城さんは神様のごとき断定でこの密室殺人事件の犯人を指名した。


『緑家晩餐会の顛末』は《綾城彩花》シリーズ第三弾『綾城彩花は謎を遊戯ゆげする』のトリを飾る短編である。短編集のタイトルは、各エピソードにおいて綾城さんがなにかしらのゲームに興じることで犯人を指名するという趣向にちなんでいる。かるたの演出は僕のオリジナルではなく、原作にあった流れだった。


 では、時系列あるいは刊行順から言って、次の事件はシリーズ第四弾となる長編作品、『マトリョーシカの最奥』で描かれたあの密室殺人になる。そして現在、僕たちはその事件に巻き込まれている真っ最中。


『マトリョーシカの最奥』は、僕もとい《七原》の友人の伝手でとある館を訪問し、事件に巻き込まれるという筋の話である。つまり《巻き込まれ型》のエピソードだ。


 その気になれば事件自体を起こさないように仕向けることも可能であり、だからこそ犯人が凶行に及ぶのを知っていながらみすみす見逃さなくてはならないことに歯がゆい思いがあった。


 ところが諸々の悔しさやらやりきれなさは、たったいま浮上した問題により吹き飛んでしまった。


 それは名探偵の沽券こけんに関わることだし、もっと言えばこの世界の成り立ちそのものに関わる重要なことでもある。

 なにより僕自身にとってそれはあまりにも悲しすぎる――転生したら犯罪者だったことよりも失望に値する一大不祥事である。

 つまり――。


 綾城さん、犯人間違えてますよ?

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