act.34 宵闇

 大会が終わった、

 高校生活最後の弓道が終わった。

 結果は去年よりも悪かった。

 調子は良かった。

 けど。

 他の高校が去年よりも上手くなっていた。

 俺は。

 あまり成長していなかった。


 打ち上げに参加した。

 高校近くの焼肉店。

 肉の匂いがジャージに纏わり付いた。

 自分で自分の匂いを確かめて。

 少し顔をしかめた。

 さっきまでの涙が嘘のように。

 みんな笑って賑やかだった。

 けど。

 俺は一人隔絶された空間で。

 誰の注意も届かない隅の席で。

 壁に貼られた花火大会のポスターを眺めた。


 花火大会があるから。

 そんな理由で打ち上げは早々に終わった。

 午後六時半。

 俺は自宅に着いた。

 部屋に荷物を置いて風呂に入った。

 湯上がり。

 玄関扉が叩かれた。

 俺は少しばかり躊躇して。

 心のどこかで期待して。

 扉をガラガラと開いた。

「お疲れ」

 波瀬だった。

 おれは開きかけた口を閉じて。

 また、開いた。

「ありがと」

「風呂入ってた?」

 波瀬は俺の頭を見た。

 タオルで拭いただけの髪。

 まだ随分と湿っていた。

「上がったところ」

「そっか」

 波瀬は左手首の腕時計を見た。

「花火大会、行かない?」

 去年。

 打ち上げから抜け出して。

 俺は紋太を誘いに行った。

 あの時。

 俺は浮かれていた。

 今になってそう思う。

「ちょっと待って」

 俺は踵を返して家の中に戻った。

「着替えてくる」


「菅道は?」

 花火大会の会場へ向かう最中。

 俺は歩きながら波瀬に訊ねた。

「もう別れたって」

「そう」

「そんなに気になる?」

「何が?」

「菅道のこと」

 きっと。

 紋太なら勘違いしていた。

 藍原に対する俺の気持ちを。

 勘違いしていたように。

「少し」

「気にしてる?」

「少し」

「聖人のせいじゃないよ」

「だけど」

「本当は」

「何?」

「菅道からメール来てた」

「何て?」

「花火大会行こう、って」

「積極的」

「意外?」

「そうでもない」

 俺に直接波瀬との仲を聞きに来た。

 あの時、俺は菅道のことを理解した。

 俺とは真逆だと。

 そして。

 羨ましいと思った。

 波瀬は俺の様子を横目に見て。

 口を引き結んで。

 おもむろに携帯電話の画面を覗き込んだ。


 家から数分ちょっとの河川敷。

「もうそろそろかな」

 そう言う波瀬が腕時計を示した。

 七時前。

 確かに。

 人の群れがピークを迎えていた。

「何か食べる?」

「いい」

「そう」

 波瀬はかき氷の屋台を見つけ。

「買ってくる」

 俺を残して買いに行った。

 待っている間、俺は周りを見渡した。

 雲ひとつない夜空を見上げた。

 ポケットの中に手を突っ込んだ。

 何も入っていなかった。

 この手の中には。

 何も入っていなかった。

「福井じゃん」

 声をかけられ、俺は正面を見た。

「よっ」

 木ノ下だった。

 トロピカルジュースを片手にして。

 クラスメイトの女子二人と一緒だった。

「お疲れ」

 俺は軽く会釈した。

 クラスメイトの女子二人が笑顔で返してきた。

 それで終わりだと思った。

 けど。

「さっきさ」

 木ノ下だけは立ち止まって。

 俺の背後を指で差した。

「向こうに牛島いたよ?」

「紋太?」

 鼓動が早鐘を打った。

 木ノ下はいつだって俺を焦らせる。

 だから。

 俺は木ノ下の笑い顔が怖かった。

「そ、牛島紋太」

 木ノ下特有のニヤリとした笑み。

 そして。

 悪意のない口撃。

「あたしのロミオ」

 クラスメイトの女子二人がけらけらと笑った。

 俺は。

 無表情を意識したけど。

 けど。

 たぶん。

 ムッとした顔をした。

 木ノ下だけはそれに気付いたみたいで。

 楽しそうに笑いながらストローを咥えた。

「じゃね」

 手をひらひら振って。

 木ノ下はクラスメイトらと共に去っていった。

「木ノ下さん?」

 波瀬が戻ってきた。

 かき氷。

 ブルーハワイ。

 波瀬によく似合っていた。

「そう」

「何て?」

「別に」

 波瀬は俺を凝視した。

 嘘をついてもバレないのに。

 どうして俺は。

「聖人」

「何?」

 嘘を吐けないんだろうか。

「何か言われた?」

「別に」

 うまくごまかせないんだろうか。

「もしかして」

 隠し通せないんだろうか。

「牛島のこと?」

 俺は。

 図星を言い当てられて。

 咄嗟に言い訳できなくて。

 波瀬の目をじっと見つめた。

 俺はどんな顔をしていただろうか。

 きっと。

 無様なくらい。

 情けないくらい。

 泣きそうな顔なんだろう。

「来てるの?」

「らしい」

「そう」

 かき氷が溶けていった。

 周りの喧騒が遠く聞こえた。

 俺は。

 いつまで。

 波瀬を縛り付ければ気が済むんだろう。

「あ」

 波瀬が空を見上げた。

 釣られて俺も顔を上げて。

 パン、と。

 花火が打ち上がる音を聞いた。

 大輪の花。

 みんなの注目を集める光。

 みんなを沈黙させる轟音。

 みんなの心を満たす輝き。

 その時ばかりは全て忘れて。

 俺は花火に見入った。

「聖人」

 俺は波瀬の顔を見た。

 手には携帯電話を握っていた。

 少し寂しそうな顔をしていた。

「ごめん」

 俺が理解できずに眉根を寄せると。

 波瀬は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「菅道が来てるらしい」

「そう」

「会いたい、って」

「そう」

「ごめん」

「何で?」

「え?」

「何で謝るの?」

「だって」

「俺は」

 心から。

「そうしたほうがいいと思う」

 手が届く場所に相手がいるのなら。

 手を伸ばしたほうがいい。

 そう、思った。


 一人になって。

 先に帰っていいよ、と波瀬に言われて。

 けど。

 せっかく来たから。

 俺は人気のない場所で花火を見上げた。

 昨年。

 紋太と一緒に過ごした場所。

 あまり見晴らしが良くなかった。

 だからこそ、誰もいなかった。

 周りは木に囲まれて。

 蚊がたくさんいて。

 俺は首筋を掻きながら。

 草むらに座っていた。

 誰にも干渉されない世界。

 誰にも非難されない世界。

 誰にも迷惑かけない世界。

 きっと。

 俺はそんな世界に憧れていた。

 けど。

 そんなものはないと思い知らされた。

 安易な死さえも許されなかった。

 俺の逃げ道はとっくに塞がれていた。

 高校を卒業して。

 知人のいない場所に行けば。

 少しは変わることができるだろうか。

 死なんて選ばないだろうか。

 全部。

 忘れられるだろうか。

 今年のはじめ。

 自分の内側を暴露された時。

 俺は死にたくなった。

 今でも。

 思い出すと死にたくなる。

 今も。

 こうして一人でいると。

 不安になって。

 怖くなって。

 涙が出てくる。

 俺は膝を抱えて。

 膝に顔を埋めて。

 震えを堪えた。

 無理だ、と思った。

 逃げられる場所なんてない、と思った。

 知人のいない場所なんてない、と思った。

 俺が目指す先は。

 目に見えた地獄だった。

「聖人」

 ハッとした。

 その声を聞き間違えることはなかった。

 顔を上げて。

 後ろを振り返って。

 目が合った。

「紋太」

 牛島紋太。

 俺の幼馴染。

 ロミオ。

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