act.32 夕立
八月。
夏休みに入ると課外授業が始まった。
高校三年生。
去年よりも授業が多かった。
エアコンのない教室で。
みんな暑さにうだっていた。
紋太は。
相変わらずTシャツ一枚の姿だった。
俺は半袖のワイシャツを着ていた。
必要もないのにネクタイを締めた。
いつもどおり。
悪目立ちすることを恐れた。
午前中で課外授業は終わった。
午後からは部活があった。
今週末。
弓道の大会が控えていた。
だから。
弓道場は静かだったけど。
空気が張り詰めていた。
俺はいつもどおり一人で練習した。
今年度は。
昨年度よりも一人でいる時間が増えた。
どこか。
壁があるようだった。
汗を拭こうとして。
眼鏡を外した。
ぼける視界。
タオルで視界が塞がれて。
ふと。
紋太の顔が浮かび上がった。
昨年の大会。
二階席から応援された。
眼鏡を外した顔が好きだと言った。
どうして。
いつまでも俺を揺さぶり続けるのか。
眼鏡をかけると。
不思議と紋太の顔は霧散した。
けど。
この気持ちは。
いつまでも消えなかった。
今日もまた課外授業だった。
外は生憎の曇天模様で。
俺がこうして意識して見る時は。
決まってこんな空だな、と。
思ったり。
思わなかったり。
どうでも良かった。
部活が終わった。
少しだけ時間があった。
だから。
図書館へ行った。
机が並んだ部屋には。
多くの学生が座っていた。
俺は空き席を見つけて。
自習に励んだ。
すると。
隣に誰かが座ってきた。
「聖人」
波瀬だった。
久しぶりに喋った。
「隣いい?」
「うん」
波瀬は隣に座った。
鞄から教材を取り出した。
「久しぶり」
「久しぶり」
「最近どう?」
「どう、って?」
「部活とか成績とか」
「今までどおり」
「そう」
波瀬はペンを回して。
少し考え込んだ。
「今週末、大会だっけ?」
「うん」
「大変だな」
「波瀬も」
「ん?」
「大会あったんでしょ?」
「ああ」
波瀬は声を潜めて笑った。
「個人は二回戦敗退」
「そう」
「団体は三回戦敗退」
「お疲れ」
「聖人も頑張って」
「うん」
会話は終わった。
俺たちはそれぞれ自習に励んだ。
帰り道。
俺は波瀬と一緒になった。
俺は自転車。
波瀬は徒歩。
途中までは同じ道だった。
だから。
俺は自転車を押して。
波瀬に合わせた。
辺りは真っ暗だった。
昼間は蒸し暑かったけど。
けど。
夜風は気持ち良かった。
「進路」
波瀬は俺を横目に見た。
「決めた?」
「決めた」
「どこ?」
「近くの国立」
「機械工学だっけ?」
「そう」
「私立は?」
「受けない」
「どうして?」
「行きたいところないし」
それに。
「いや」
大学に行く理由が見つからなかった。
本当は。
とっくに死んでいるはずだった。
いや。
違う。
本当の理由は。
国立なら。
親にあまり迷惑かけずに済むと思ったからで。
嘘。
本当は。
近くの国立なら。
地方国立なら。
また。
一緒になれると思った。
去年からずっと。
動機は不純だった。
「何でもない」
そんなことは言えなくて。
俺は沈黙を守った。
けど。
「そう」
波瀬は全て見透かしたように頷いて。
「俺は」
自分の進路について話し始めた。
俺は。
その後も「そう」としか言えなかった。
「そう言えば」
俺には引っかかることがあった。
「菅道は?」
菅道美桜。
波瀬の彼女。
最近。
一緒にいるところを見ていなかった。
「別れた」
「え?」
俺は呆気にとられた。
付き合い始めて半年ほどだろうか。
あまりにも早い幕引きだった。
「何で?」
「別に」
「別に?」
それは。
俺の口癖だった。
ごまかすために使っていた。
「いや」
波瀬は言いづらそうに目を伏せて。
やがて。
「あいつさ」
波瀬は俺の横顔を直視した。
俺は。
思わず。
波瀬の顔を見た。
街灯に照らされた波瀬は。
難しい顔をしていた。
「聖人の噂、広めてたんだよ」
「噂?」
「えっと」
「ああ」
記憶は風化するものだ。
けど。
あの時の気持ちは風化していなかった。
「俺がホモだってこと?」
自分で口にすると。
意外と気が楽だった。
きっと。
相手が波瀬だからだろう。
半年前。
公園で波瀬に見つかって。
隣にいてもらって。
本心は語らなかったけど。
今なら。
そんなふうに思えた。
波瀬は気まずそうに黙っていた。
だから。
今度は俺が。
「そんなことで」
波瀬に寄り添った。
「別れたの?」
「そんなこと、って」
全部。
俺のせいかもしれないのに。
こうして波瀬のために何かできると。
どこか。
嬉しい気持ちがあった。
「あいつ」
波瀬は複雑そうな顔をした。
「聖人に妬いてた」
「俺に?」
「いつも一緒にいるから、って」
「そう」
「だから」
「別れたの?」
「そう」
「やめてよ」
「え?」
「そういうの」
立ち止まって波瀬を見た。
波瀬は数歩先で振り返った。
街灯の外にいて表情がわからなかった。
「俺のことなんて」
俺は少しだけ声を大きくして。
強調するように言った。
「どうでもいいじゃん」
俺を理由にして行動してもらいたくなかった。
俺に縛られてもらいたくなかった。
波瀬は。
俺にさえ出会わなければ。
もっと良い高校生活を送れただろうから。
「ふざけるなよ」
波瀬は酷く苛々した様子で。
俺のすぐ傍まで戻ってきた。
「聖人がいなかったら」
暗くて距離感が掴めていないのか。
波瀬の顔はかなり近くにあった。
「そもそも付き合ってないし」
目と鼻の先。
こんなことをしていれば。
確かに菅道は妬いてしまう。
「本当に好きだったら」
たとえ。
男相手だとしても。
「たぶん、別れてないし」
むしろ。
男だからこそ。
「聖人のほうが大事だし」
俺は。
噂の人物だから。
「そう」
「聖人は?」
「何?」
「俺のこと、ウザい?」
「何それ」
「俺のこと、嫌いだったでしょ?」
やはり。
波瀬にはお見通しだった。
最初から。
波瀬は俺のことを見抜いていたのか。
「少し」
「今は?」
俺は少し迷って。
期待する波瀬の目を見て。
嘘を言う気にもなれず。
嘘の代わりに「別に」と言う気にもなれず。
俺は。
「好きだよ」
「友達として?」
「そう」
本音を口にした。
噂を肯定した。
波瀬を信頼した。
気付くと頬が濡れていた。
空を見上げた。
曇天。
雨は降っていないようだった。
「俺も同じ」
波瀬を見た。
微笑みを浮かべていた。
精悍な顔付きが。
穏やかに見えた。
「ごめん」
そう言ったのはどちらだったか。
わからないまま。
雨が降ってきた。
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