act.31 晩夏

 五月。

 何事もなく過ぎた。

 六月。

 意味もなく過ぎた。

 七月。

 またこの季節が巡ってきた。

 席替えの時期。

 聖人と席が並んだ。

 あの時を思い出して。

 おれは。

 窓際の席から。

 空を眺めた。

 晴天だった。

 横目を向けて。

 廊下側の席を見た。

 聖人は。

 壁際の席に座っていた。


「牛島」

 木ノ下だった。

 近くの机に座って。

 おれのことを見下ろした。

 見下していた。

「残念」

「何が?」

「席」

 おれは照りつく日差しに目を細めた。

 おもむろに手でひさしをつくった。

「そんなに暑くねえし」

「そうじゃなくて」

「何?」

「福井の近くになれなくて」

 木ノ下は愉快そうに笑った。

 おれは思わず睨みつけた。

 木ノ下は。

 それでも楽しそうに笑った。

「未練たらたら?」

「何のこと?」

「福井」

「は?」

「浮気者」

「意味わかんねえし」

「真波が可哀想」

 木ノ下は。

 とても嬉しそうで。

 酷く意地の悪い顔をしていて。

 おれは。

 どうしようもなく。

 苛立って。

 怒りが込み上げて。

 憎しみが湧き起こった。

「何なの、お前」

 木ノ下は笑っていた。

 こんなにも敵意を向けているのに。

 だから。

 おれは。

「何が楽しいの?」

 横目で聖人がいないことを確認して。

「何がしてえの?」

 声色を低くして。

「お前がやったんだろ?」

 木ノ下に追及した。

 今年のはじめ。

 みんなのロッカーに入れられた紙。

 福井聖人はホモ。

 あんな。

 卑怯なやり方。

 犯人を殺したいくらいだった。

「お前があんなことやったんだろ?」

 おれの殺意は伝わらなかった。

 木ノ下の目は弓形に曲がっていた。

「何の話?」

「ごまかすんじゃねえよ」

 おれの目は三角になった。

「聖人のこと」

 考えれば考えるほど。

 目の前の女を。

 殴りたくなった。

 机の上で拳を握った。

「お前がバラしたんだろ?」

 すぐにでも殴りかかることができるように。

 少し腰を浮かせた。

「あたしじゃないし」

「嘘つくなよ」

「嘘じゃないって」

「じゃあ誰がするんだよ」

 木ノ下は面倒そうに顔をしかめた。

 鬱陶しそうだった。

 それは。

 木ノ下の無実を表していた。

 だから。

 おれは腰を下ろして。

 ごめん、って言いかけて。

 けど。

「真波でしょ?」

 その言葉が。

 おれの目を丸くさせた。

 動揺で瞳が揺れた。

 焦点が定まらなかった。

「あの時」

 修学旅行の時のことを。

 ホテルで木ノ下と話した時のことを。

 走馬灯のように思い出した。

「真波も聞いてたし」

 浜辺には。

 木ノ下と真波がいたのか。

「牛島と福井の話」

 おれと聖人が話しているのを。

 眺めていたのか。

 真波は。

 全て知っていたのか。

 真波しか。

 バラすことができないのか。

 木ノ下は。

 やっぱり笑った。

 おれの反応が可笑しいのか。

 木ノ下の反応がおかしいのか。

 おれは。

「そう」

 反論することもできなかった。

 木ノ下の顔を見ることすらできなかった。

 じっと机の上を見つめて。

 木ノ下が去ったことにも気が付かなくて。

 遠く蝉の声を聞いた。


 家に帰って。

 布団の上で横になった。

 まだ明るい窓の外。

 おれはぼんやりと天井を眺めた。

 木ノ下に悪意はなかった。

 言いたいことを言っているだけだった。

 それが問題だった。

 嘘じゃないとわかってしまった。

 犯人がわかってしまった。

 真波。

 おれは携帯電話を操作して。

 真波に電話をかけた。

「もしもし?」

 真波はいつもどおりだった。

「もしもし」

 今はそれが怖かった。

 牙を剥いてしまう自分が。

 怖かった。

「お疲れ」

「お疲れ。何?」

「あのさ」

「ん?」

「聖人のこと」

 息を呑む声が聞こえた。

 おれは。

 不思議と落ち着いていた。

 きっと。

 確信しているんだろう。

 木ノ下のことを。

 真波以上に信用しているんだろう。

「バラしたの、真波?」

「え?」

 沈黙が流れた。

 電話が壊れたかと思った。

 けど。

 違った。

「わたしじゃないよ?」

「ほんとに?」

「うん。何で?」

「木ノ下に聞いた」

「え?」

 二人の関係なんてどうでも良かった。

 むしろ。

 壊れてしまえばいいと思った。

「嘘だよ」

 きっと。

 真波もそれをいとわない。

「朱里がそんなこと言ったの?」

「言った」

「酷い」

 真波は木ノ下を裏切った。

 友達を売った。

「沖縄で」

「ん?」

「おれたちの話、聞いてたでしょ?」

「何のこと?」

「やっぱり」

「え? 何?」

「おれ」

 おれはもう。

 真波との関係なんてどうでも良かった。

 大事なものをぶっ壊されたから。

「二人が近くにいたの」

 何もかも。

 要らない、と思った。

「知ってるよ?」

「え?」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 そして。

「でも」

 往生際の悪い震え声。

「二人の話、聞こえなかったよ?」

「何で知ってるの?」

「え?」

「あそこで話してたこと」

「知らないよ?」

「じゃあ」

 おれは起き上がって。

 窓の外を眺めた。

 徐々に夕闇が空を侵食していた。

「何で訊かないの?」

 畳み掛けるように。

「話聞いてたら」

 真波に割り込ませないように。

 おれは詰問した。

「バラした犯人になる理由」

「え」

「何で嘘つくの?」

「嘘ついてないよ?」

 真波はしらを切った。

 それがまた。

 おれを苛立たせた。

 舌打ちを堪えて。

 あくまでも冷静に。

 けど。

「何でああゆうことするの?」

「してないって」

「したじゃん」

「朱里の言うこと信じるの?」

「じゃあ」

 早口になって。

 らしくないと思いながら。

 おれは。

 電話口に思いの丈をぶちまけた。

「ホントのこと、教えてよ」

「だから」

 真波は苛立っているのか。

 食い気味に言った。

「バラしたの、朱里でしょ?」

「何で?」

「何で、って」

「話聞いてなかったんでしょ?」

「え、うん」

「だったら」

 おれは止めをした。

 終止符を打った。

「木ノ下がバラした、って思わないでしょ?」

「それは、さっき」

 そこで真波は黙り込んだ。

 失言だったことに気付いたようだった。

「何で木ノ下がバラした、って思うの?」

 電話の向こうからは。

 真波の呼吸音すら聞こえなかった。

「やっぱり」

 窓の外は次第に静かになっていった。

 対照的に。

 おれの追及は激化していった。

「話、聞いてたんでしょ?」

 やがて。

 真波は応答した。

「どうしてわたしを責めるの?」

 泣きそうな声だった。

 いや。

 たぶん。

 泣いていた。

「やったの?」

「知らない」

「そう」

 おれは冷静ではなかった。

 ただ。

 冷めていた。

「じゃあ」

 意外にもその言葉はすんなりと。

 喉から零れてきた。

「別れよ」

「え?」

 理解が追いついていないようだった。

「待って」

 待つ気はなかった。

 きっと。

 おれの中で。

 真波は重要な人間じゃなかったんだろう。

「妬いてたの?」

 だから。

 羞恥を抱かせる台詞が。

 躊躇なく言えた。

「男相手に?」

 きっと。

 聖人には言えない。

「違う」

 真波に嘘をついている様子はなく。

「だって牛島くん」

 真実を知ってもらいたいようだった。

「朱里とよく話してるじゃん」

 浮気。

 そう思ったのか。

 けど。

 手遅れだった。

「最低」

 真波は。

 木ノ下に濡れ衣着せようとしていた。

 おれが木ノ下を嫌うように仕向けた。

 確かに。

 おれは木ノ下を嫌いになった。

 けど。

 それ以上に真波が嫌いになった。

「ごめん」

 真波は涙声を晒した。

「おれに謝ってどうすんの」

 おれは真波から愛されていた。

 愛しているからこそ。

 真波は暴走した。

 けど。

 愛される喜びよりも。

 聖人を貶められたことへの怒りが勝った。

 聖人は。

 絶対にこんなことはしない。

「バイバイ」

 おれは電話を切った。

 真波の連絡先を消した。

 真波が写っている画像を全て消した。

 跡形もなく消した。

 そして。

 携帯電話を机に置いた。

 窓の外を眺めた。

 大分暗くなっていた。

 カーテンを閉めた。

 部屋の中が薄暗くなった。

 おれは電気も点けずに。

 布団の上に仰向けになった。

 謝らなくてはならないのはおれも同じだった。

 木ノ下に。

 聖人に。

 きっと木ノ下は気にしていない。

 けど。

 聖人は。

 一番傷付いているはずだった。

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