第98話 ラスト・メッセージ
八月の某日。日本の国内で、類を見ない集団失踪事件が発生した。
日本の各地で、ほぼ同時期に、多発的に起きた“神隠し”。
数十名に上る人間が、忽然と消えた。
目撃者はゼロ。手がかりはなし。
不可解な失踪事件は世間を騒がせ、混乱に陥れた。警察による捜査も難航を極めた。メディアを通じて様々な憶測が飛び交い、騒動に拍車をかけた。
一部の商業施設は営業時間の調整を余儀なくされた。子供に外を歩かせない保護者が激増した。社会生活への影響は枚挙に暇がないほど多く大きかった。
そしてそれは、更に拡大してゆくことを誰もが予感した。
しかし事件は、一人目の失踪から数日後。突如として進展を見せる。
失踪していた人々が戻ってきたのだ。それも全員が。
警察、メディア、諜報機関、ジャーナリストその他諸々の組織はこぞって事件の究明に乗り出した。このとき判明していた失踪者は33名。彼らの口から、不可解な失踪事件の真相が語られることだろう。期待と好奇に満ちた目で、世間は事件の被害者に視線を釘づけた。
だが被害者の証言から真相が語られることはなかった。被害者は全員が、事件発生時および失踪期間中の記憶を失っていたのだ。
身体的な障害は何一つとして負っていない。失踪してから数日間の記憶だけが、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
調べれば調べる程に謎は深まった。そして新しい憶測を生んだ。
ある人は言った。この失踪事件は、犯罪組織の手によるものだと。
ある人は言った。いや、これは某国による拉致事件だろうと。
またある人は言った。
これは、悪魔の仕業であると。
何が真相かは、半年が過ぎた今でさえ誰にもわかっていない。
本誌はその時の出来事を振り返りつつ、独自の視点で真相に切り込もうと試みる——
「せーんぱいっ! なに読んでるんですかぁ?」
背後から聞こえた声に、桂木は開いていた雑誌を閉じた。
振り返ると、桂木のひとつ後輩の
「隣、いいですか? いいですよね先輩ありがとうございますっ!」
一息で言うと、御代は桂木の席の隣にパスタサラダを置いた。桂木は人もまばらな大学のカフェテリアをぐるりと見渡した。
「隣どころか、席なら死ぬほど空いてるぞ」
「先輩は可愛い後輩に独りメシをさせる気なんですか? ウサギは寂しいと死んじゃうんですよ」
「兎の話はしてないが……まあ、いいけど」
カップを口に運び、桂木はコーヒーと一緒に言いたいことを飲み込んだ。
「で、先輩は何を読んでたんですか? 私が来たら急に閉じちゃって。あ、もしかしてエッチな本ですか? 駄目ですよ。こんな公共の場で励んじゃ」
「そうだな。家に帰ってじっくり見ることにしよう」
「……や、そんな先輩冷たい。もうちょっと構ってくださいよ」
「悪いな。袋とじの中身が気になって仕方がないんだ」
「つき放さないでくださいよぉ! 謝ります、謝りますからっ!」
ぺこぺこ頭を下げる後輩にため息を吐いて、浮かせた腰を桂木は降ろした。
「少し懐かしい記事が載ってたから、眺めていただけだ」
そう言って桂木は目次の一部を指した。
見出しを目にすると、御代は「あ」と小さく声を漏らした。
「すみません。あの事件の記事だって知らないで私、無神経に……」
「いいよ。何も覚えちゃいないし。
それに、事件の当事者なのは御代も同じだろ」
桂木は遠くを見るように、少し目を細めた。
二人は集団失踪事件の当事者として、学内で騒がれた時期があった。姿を消したのが同じ日であり、同じゼミの所属であることから、事件の直後は様々な噂が飛び交った。
しかし7日後、
記憶を失った状態で。
「——御代は家に戻ってすぐ、警察の勧めで医者にかかったと聞いた。
御代こそ大丈夫だったのか」
観察するような視線を向けながら、桂木は当時の状況を振り返った。
彼が戻ったのは御代に遅れて二日後。戻ったその日に、桂木は御代の安否確認を行った。
それで知った。こちらへ戻った御代が記憶を失っていたこと。
そして戻ってからずっと、理由もなく泣き続けていたことを。
「……すみません、心配かけちゃって。
どうしちゃってたんでしょうね、私。何も覚えていないのに、ずっと泣いてたなんて」
「御代……」
「あ、でも先輩が戻ってきたって知ったら、胸のつっかえが綺麗さっぱり消えちゃったんですよ!
やっぱり先輩は私の心のオアシスっていうか?
——なんて思っちゃったりもしたんですが、でも変ですよね。
戻った直後の私は、先輩が失踪してたことを知らなかったはずなのに」
御代の記憶は失踪直後から戻るまでの期間が抜け落ちていた。だから周囲に知らされるまで、彼女は桂木が失踪していることも知らなかったことになる。
それでも御代は確信めいたものを感じていた。
頬をつたう涙の
「——私と先輩は同じ日にいなくなったそうです。きっといなくなった理由は同じだと思うんです。
なのに私だけが、先輩よりほんの少しですが早く家に帰ることができた……。
本当に先輩は、何も覚えていないんですか?
私や他の被害者の方と同じで」
「だから何度も言ったと思うけど」
何も覚えてないんだ。警察にも、メディアの取材にも、両親友人にも繰り返した台詞を桂木は口にしようとした。
しかしそれを阻んだのは、御代の言葉だった。
「先輩、本当は何か知っているんじゃないですか。
でもわざと、覚えてないふりをしているんじゃないですか」
「俺がそんな嘘つきに見えるのか?」
「見えません。でも考えに考えて、必要だと思える嘘なら口にするひとです。
たとえば……それが可愛い後輩のためであるとか」
最後は囁くような声だった。活発な彼女に似つかわしくない、震えを噛み殺すような声だった。
その声は、桂木が頭の片隅に隠していた記憶を呼び起こさせた。
全てが反転する鏡の中の世界。御代とともに“悪魔の九択”に臨んだこと。
そして彼女と共に、寿命のやり取りを行うゲームに臨んだことを。
御代とちがい、悪魔による記憶の改ざんされなかった桂木が、忘れているはずはなかった。
けれど、それでも。
「答えられないな。仮に覚えていたとしても。
それが、可愛い後輩のためなら」
知らない方が、心が軽くなることもある。
そういう考えのもと、桂木はずっと通してきた答えを返した。
「——ずるいです。先輩。
そんな風に言われたら……それ以上、訊けないじゃないですか」
はにかむような笑顔に変わった御代に、桂木は何も答えず微笑んだ。
それから少しだけなんてことの無いやりとりを交わして、桂木はカフェテリアを出た。そうして、ひとり帰途へとついた。
その道すがら。大学で別れた御代の笑顔を浮かべて、桂木はため息をついた。
今日もまた、嘘をついた。明日も、その次の日もずっと嘘をつく。
嘘をつき続ける。そして秘密を、ひとり、墓場まで持っていく。
そんなことを、曇った顔で考えた。誰にも秘密を語らない。それは、桂木が自分で決めたことだった。けれど一人で秘密を抱える寂しさは、半年が経った今でさえ消し去ることができずにいた。
桂木は、一人で秘密を抱えられるほどには強かった。
それでも、痛みを感じないほどに強くなかった。
ものを想いながら、桂木はマンションの玄関をくぐった。そして習慣のように、郵便箱を空けた。
するとダイレクトメールに混じって、珍しく手紙が入っているのを桂木は見つけた。
真っ黒な封筒。切手は貼られていない。
なんの気もなく、桂木はその場で封を切った。
中身は短い手紙に、地図が添えられていた。
そちらには差出人の名前が書かれていた。
From Isolde.
「イゾルデ、って読むのか? これ」
覚えのない外国人の名前に怪訝な顔を浮かべながら、桂木は本文に目を通した。
“桂木千歳様へ
ご無沙汰をしております。先日は、アリス・ケージでの戯れにご参加をいただきありがとうございました“
アリス・ケージ。その単語に、一瞬、桂木はピンとこなかった。
しかし“戯れ”の二文字を目にしたその瞬間、桂木の表情が強張った。
全身が急速に熱を帯びる。
深呼吸を挟み、桂木は続きに目を通した。
“最後にお伝えをし忘れたことがございましたので、手紙にてお知らせをさせていただきます。
記憶の消去に関することです”
最後にお伝えをし忘れた……その前置きで、イゾルデが何者かを桂木は把握した。
おそらくは、桂木を見送った悪魔“タテハシオリ”の本当の名前だ。
ミューが“
その悪魔が記憶のことに関して話があると切り出した。いったい、何のことだというのか。
桂木は読み進めるのが怖くなった。けれどせめぎ合う理性と、少しの好奇心が、止めることを許さなかった。
“私の手違いにより、桂木様の記憶は残されたままとなっております。
そして実はもう一つ、私は記憶の処理について、やり残したことがございました。
詳しいことは指定の場所にて。
きっと、あなたにとって有益な時間となることでしょう”
同封されていた地図には、赤い×マークが付けられていた。指定の場所を示す地図なのだろう。
悪魔からの誘いというだけで、桂木の警戒を高めるには十分だった。
脳裏に蘇る命の奪い合い。二度とあんな思いはしたくない。
しかし、罠だとすればこんな回りくどい手段を取るだろうか。やろうと思えばいつでも鏡に引きずり込むことができる連中なのに。
それになんだ? 記憶の処理って。
——誘いに乗るべきか。乗らざるべきか。
桂木は揺れた。けれど最後は決めた。
地図の隅に短いメッセージを見つけ、行くことを決めた。
“追伸
アリスお嬢様と共に過ごしてくださり、ありがとうございました”
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