第96話 帰還
「お話は済みましたか」
扉の外で待っていたタテハに、桂木は頷いて返した。
「悪かったな。お前にとっては余計な事をさせただろう?」
「いえ、お気になさらず。行きましょう」
タテハは不愛想に答えて、廊下を進んだ。桂木は彼女の背中について歩いた。
「俺がこっちに来て9日。もとの世界ではどうなっている」
「時間の進みはこちらの世界と同じです」
「……。
バイトも講義もだいぶサボってしまったな」
「こちらに来た人間のほとんどは失踪者の扱いされています。帰還を喜ばれこそすれ、責められることはありません。なので平気でしょう」
「それは平気なのか?」
説明やら何やら逆に面倒じゃないか。桂木は胸のうちで悪態をついた。
「ご安心ください。こちらにいた間の記憶は、帰還の前に消すことが可能です。
そうすればここでのことを引きずることも、必要以上の詮索を受けることもありませんでしょうから」
「——それは確認したいところだった。
記憶を消すのかどうかは、俺が決められるのか?」
「決められません。こちらの一存です」
ざっくりとした返事が返された。じゃあ消すことが可能とか言うなよ。
「人間の世界で受け入れられはしないでしょうが、魔界の存在を知られるメリットは私たちにありません。
なのでこちらに来た人間の記憶は、基本的には消す決まりです」
「基本的には?」
「稀におっちょこちょいの悪魔がその作業を忘れます」
「割といい加減なんだな」
桂木も今度は突っ込んだ。
「それでタテハ。お前はおっちょこちょいなのか?」
「さて、どうでしょうか」
つかつかと歩みを進めながら、タテハは返した。
「桂木様は、私がおっちょこちょいであることを望むのですか?」
「ああ」
「何故」
それは……桂木は言いよどんだ。鳴海の言葉が頭をよぎった。このゲームに参加させられたのは無駄ではなかった。意味は違えど、桂木にも同様の思いがあった。
彼もまた極限の戦いを通じて、たくさんの仲間と出会った。禁じられた遊びゲームで出会った、武藤一真。鳴海要。そしてそれまでのゲームでともに戦った吉田、辻。
ここに来たからこそ手に入れることができた、かけがえのない出会いだった。
それに……。
足元に視線を落とす桂木の脳裏に浮かんだのは、一足先に人間の世界へと戻った後輩の笑顔だった。
——アリスとは別の悪魔が、またいつか人間たちを攫っていかないとも限らない。
その時、俺が
それが本音。しかし気恥ずかしくなったのか、桂木は照れ隠しのように頭を掻いて口を開いた。
「少しはおっちょこちょいな部分もあった方が、可愛げがある」
そうタテハに伝えた。
タテハはなぜか少し、歩を緩めた。しかし「そうですか」と言って、またすぐに歩き始めた。
案内された場所は、一回戦『クラッシュ・チップ・ゲーム』を戦った会場だった。
中央には、ゲームのときにはなかった大きな鏡が用意されていた。
「ここが入口、いえ、出口です」
短く説明し、タテハは桂木に道を空けた。
「ここに入ると、人間界に戻ることができます」
「行先は?」
「入ってきたときと同じです。桂木様、あなたの場合は……
「微妙だな」
戻る先が後輩の女の子の部屋。気まずいタイミングで登場したら面倒なことになるだろう。
「ご希望であるなら、別の場所に変更することもできます。人が通れる大きさの鏡さえあるのなら」
「それを早く言ってくれ」
追加の説明に、桂木は心底ほっとした。
では行先をご指定ください。タテハの言葉に、桂木は少し考えて、自宅近くの公園を指定した。
あまり利用者のいない公園のトイレ。よほど誰かに見つかることもないだろう。そう考えた。
「心得ました。それではお入りください」
促され、鏡の中に入る。
中は温かくもなく、冷たくもなく、絶妙に生温かくて変に心地よかった。
「それでは桂木様。お疲れ様でした」
タテハは恭しく礼をした。桂木の目の前のガラスのような部分が徐々に滲み、かすみ、タテハの姿が遠く感じるようになっていった。
そして最後。「あ」という声が、桂木の耳に聞こえた。
「いけません。記憶を消すのを、忘れてしまいました」
その声は、お手本のような棒読みで。
桂木は思わず苦笑するしかなかった。
目が覚めたとき、辺りは薄暗くて、空気はひんやりしていた。
見慣れた公園の、噴水の傍。そこに桂木千歳は倒れていた。
起き上がると、まずは辺りを見渡した。人影はなかった。が、近くの道に犬の散歩をしている老人と、ジョギングをしている女性の姿を見つけた。
次に時計を見た。公園に設置された時計は5時10分。早朝であることがわかった。
鳥の鳴く声が聞こえた。どこからか電車の走る音が聞こえてきた。
帰ってきたんだと、桂木は思った。
「メシ食べてえ。シャワーも浴びて……。
いや、まずそれよりも」
覚束ない足で立ち上がる。そして大きく息を吸い込んで
「あいつ、どうしてるかな」
吐き出すように、桂木は口にした。
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