第91話 アリスの鳥籠
命じられてやってきた場所は、部屋数の見当もつかないくらい大きな古城だった。
身の回りのものを最低限、詰め込んだバッグを片手に、ミューは門の前に立ち尽くしていた。
これが新しい仕事場?
何かの間違いではないのか。ミューは手元の地図と周囲の景色を見比べた。
広大な平原。他に建造物はなし。
何度も確かめるが、やはりここが指定された場所であることに間違いはなかった。
ノックをして、大きな扉を押す。
正面には、メイドの服装をした女が立っていた。
「お待ちしておりました。ミュー」
メイドは深くお辞儀をした。
「私はイゾルデ。この城には10年ほど勤めておりました。
あなたに仕事を引き継ぐよう、王より仰せつかっております」
「——初めまして、なのですわ」
形式的な挨拶を返し、ミューは会釈をした。
儀礼的な言葉だけを交わすと、イゾルデはミューを応接間へ通した。
「この城の主、アリスお嬢様の身の回りのお世話。それがあなたの仕事です」
イゾルデは最も簡潔な言葉で、口火を切った。
「アリスお嬢様が過ごされる上で、不都合の無いように働く。それだけです。
お嬢様が欲するものは全て与えてください。
お嬢様が望む事は全てを叶えてください。
ただ一つ。外に出るだけを除いて」
「外に出ること……?」
城の外に広がる広大な平原を思い浮かべた。ミューの言葉に、イゾルデは首を振った。
「庭のことではありません。外とは、外の世界のこと。私たちの悪魔の住む魔界の外の世界のことです。
外の世界へ出ることのみ、お嬢様は王より禁じられております」
その説明に、ミューは怪訝な顔をした。
外の世界は悪魔があまり干渉しない世界。よっぽどのモノ好きがたまに行き来をすることがあるとは聞くが、多くの悪魔にとっては縁のない場所。それがミューの認識だった。
全てを叶えて良い。けれどそんな場所に行くことだけ、わざわざ禁止する。
何の意図があるというのか。尋ねると、イゾルデは淡泊に返事をした。
「それは分かりません。尋ねたことがありませんし、尋ねる必要もありません。
王の命令なのですから」
無機質な態度と言葉が、それ以上の追及を許さなかった。
ミューは言葉を飲み込むと、黙って小さく頷いた。
建物の管理は、出入りする別の悪魔が行う。
基本的にミューはアリスの身の回りを世話しながら、傍に控えてさえいればよい。
必要なことを最低限だけ残し、イゾルデは城を出て行った。
ひとり取り残されたミューは、頭の整理がつかないままに、アリスの部屋を訪問した。
「失礼します。お嬢様」
ノックとともに、部屋へと足を踏み入れる。
ミューの目にした光景は、床に散らばる無数の玩具と、それに囲まれた少女の姿だった。
窓から差し込む真っ赤な月明かりの中で、少女はカードを積んでいた。
「アリス……お嬢様ですよね」もう一度声をかけたとき、ようやく少女は青い瞳をミューへと向けた。
「はじめまして。本日よりお嬢様のお世話を務めることになりました、ミューと申します」
イゾルデがそうしていたのを真似て、ミューがお辞儀をする。
「……」
——。
反応なし?
十数秒経って、ミューはおずおずと顔を上げた。アリスはものを言わぬまま、積んでいたカードを崩していた。
それからミューへ向かって手招きをした。誘われるままに傍へ寄ると、アリスは重ねたカードをミューへ渡した。
「カードでお遊びになられますか?」
「ん」
「それではタワーを作りましょう」
さっきまでやっていた遊びの続きを提案するミュー。アリスは小さく頷いた。
小さな手で器用にカードをつまみ、無数の三角形が構成されてゆく。
淡々と作業のようにタワーを高くしてゆくアリスを見ながら、これは楽しいのだろうか……とミューは疑問に思った。
カードを積み上げる時のハラハラ感は微塵も見せない。
崩れてしまっても表情ひとつ変えず、作業を再開するアリス。
さらに会話もない。これ私、必要?
色々考えながらカードの絵柄を眺めていると、いつの間にかカードを積む手を止めていたアリスが口を開いた。
「別の遊びにする?」
考え事が顔に出ていたのかはわからない。
けれど少女の提案は、ミューの心の中を見透かしているかのように思えた。
——しまった、気を遣わせてしまった!
ミューは申し訳なく思った。「えーと、なのですね……」誤魔化す台詞を探すが、なかなか言葉にならない。
慌てて部屋の中を見渡すと、今度は別の玩具が目に入った。
「そ、それでは積み木にいたしましょう!」
「ん」
ミューが運んだ箱から積み木を取り出し、並べていくアリス。
途中まで何を作っているのかわからなかったが、どうやらお城のようなものを作り始めているのがわかった。
……。
そしてやはり、全くない会話。
時々ミューが言葉をかけるものの、アリスは短く返すだけで続かないため、気まずい時間だけが続く。
「も、もしかしてお嬢様が作っているのはこのお城でございますね? とてもお上手です」
「ん」
「こんなに正確にお作りになるだなんて、よくお城はお作りになられるのですか?」
「ううん」
「ではよほどこのお城が気に入っておられるのですね」
「ううん」
「……」
私が下手なのがいけないんだろうな、多分……。
アリスの作り上げた城に乾いた拍手を送りながら、「わーい、完成でございますね!!」と無理やりテンションをあげていくミュー。
そんな彼女にアリスは言った。
「別の遊びにする?」
「——ごめんなさい、なのです」
笑顔のない少女の言葉に、ミューはそう返すことしかできなかった。
すれ違っているような、噛みあっていないような。ミューにとってはそんな風に思える日が何日も続いた。
その日も、ミューは独り遊びをするアリスの傍に控えていた。アリスは淡々とカードを積み上げては、崩していた。
ときどきミューにストロベリーのドリンクを求める以外は、傍らのミューに言葉を発することもなかった。
そんなアリスを、ミューもまた言葉なく見つめていた。
私は何のためにここにきたのだろう。
何度目かもわからない疑問を、自分の胸に問いかけながら。
「楽しいですか、お嬢様」
ミューの言葉に小さく頷くアリス。少しおかれた間が、ミューの胸に突き刺さった。
自分の仕事は主の望みを叶えること。そのためにここにきたはず。
なのに何日たっても、笑顔にして差し上げられない。
「——すみません。向いていないですよね、私」
ついこぼしてしまった言葉。しまった、と思いミューは慌てて口を押さえた。
そんな彼女の言葉に、少女はカードを積む手を止めて体を向けた。そして瞳の奥を覗き込むかのように、じっとミューの目を見つめた。
ばつが悪くなって目を逸らすミュー。しかし少女は瞬きひとつせず、体を硬くする従者を見ている。
初めて見せる主の態度に、ミューは観念したかのように口を開いた。
「すみません、お嬢様。私、誰かと遊ぶのに慣れていないのです。
わけあって……ずっと孤独な身でありまして」
ぽつぽつと身の上を語るミューの言葉に、アリスはじっと耳を傾けた。
ミューが語ったのは、常に誰かがついていて、大勢に囲まれて生活することの多いアリスとは全く別の境遇。
仕えるべき主に、しかもこんな少女に話すなんて情けないと思いながらも、ミューはここに来るまでの経緯を繕わずに話した。
そんな彼女の話を、アリスはやはり表情を変えずに聴いている。
楽しい話をしているわけではないのだから当然か……ミューはそう思いながらも、主の笑顔を引き出せない自分が情けなかった。
「——すみません、つまらないですよね。こんな話」
「……」
「……。わたしは別室に控えております。何かあればお呼びつけください」
頭を下げ、部屋を後にしようとするミュー。
逃げるようにして背を向けた時、小さな抵抗感がミューのメイド服を引っ張った。
スカートの裾を、アリスの小さな指がつまんでいた。
お嬢様……?
口を開こうとした矢先、アリスの指が部屋の隅を指していた。
そこには先日、作りかけていた積み木の城があり、その部屋の一角には前はなかったはずの人形が二つ置かれていた。
一つは小さな女の子。
一つはメイド服を着た女性。
二人が手を繋いで空を見上げている。
少女の人形は、優しい笑顔を浮かべていた。
「退屈なのは、いや。
寂しいのも、いや。
そばに、いてほしい」
それははじめてアリスがミューに伝えた、自分の正直な気持ちだった。
その夜。
ベッドに入ったアリスは、絵本の読み聞かせが終わっても、なかなか瞼を閉じることはなかった。
「大丈夫です、お嬢様。
私はここに、控えているのですわ」
ミューが言うと、アリスは毛布から顔を半分だけ出したまま頷いた。
「このお城から見る景色は素敵ですわね」
たなびくカーテンの向こうに、星の瞬く夜空が広がる。
「外の景色はお好きですか?」
アリスはふるふると首を振った。
「失礼しました。このお城の方がずっと素敵でしたわね」
「素敵じゃ、ない」
枕をぎゅっと抱えて、アリスは声を漏らした。
「素敵なお城なんかじゃない。私にとっては、ただの
私の欲しいものは、こんなところにはないのに」
「
ミューが聞き返すと、アリスは押し黙った。言ってはいけないことを言ってしまったような、ばつの悪そうな顔だった。
初めてミューは、アリスの“願い”の片鱗を気がした。
「お嬢様の欲しいものは、外にあるのですか?」
その質問にもやはり回答はなかった。
しかしそれ以上、突っ込んで聞くことがミューにはできなかった。アリスは外に出ることを固く禁じられている。
魔界における絶対の存在。王。
王の意向に背くような言葉を、感情を、主の口から引っ張り出すことが許されるはずがない。
ただ、ミューは気がつかなかった自分を恥じた。
アリスは感情がなかったのではない。ただ我慢していただけだったことを。
欲しいものに手を伸ばすことさえ許されない鳥籠の中、ずっと一人、その気持ちを抱えて。
私の仕事は、お嬢様の欲するものを全て与える事。お嬢様が望む事を、全て叶える事。
なのに私はまだ、何一つ、ここに来た意味を果たしていない。
今こそ始めよう。
アリスお嬢様の為の時間を。
いつの間に寝静まったアリスの額を撫でると、ミューは部屋の隅に置かれたペンとメモ用紙を手に取った。
そして短くこのように記した。
“外の世界で最も面白いものを、できるだけたくさん届けて”
アリスの鳥籠は満たされていた。外の世界に存在するおよそ全てのものが、そこにはあった。
ただひとつだけ、いまだそこに運び込まれたことのないものが存在するとわかった。
それは命を持つもの。生き物と呼ばれるものだった。
だがその多くは知能が低く、アリスの
けれどその中で一種だけ、悪魔に近い知能を持つ生き物を見つけた。
それが人間だった。
ミューおよび何名かの悪魔による仮説が立てられて数日後。人間の世界で大規模な失踪事件が起きる。
共通点はひとつ。人々は鏡の前で姿を消したということ。
そして消えた人間たちが行き着いた先こそ、この『アリスの鳥籠』と呼ばれた城。
ミューによる、アリスの為の遊戯。
“禁じられた遊びゲーム“が、ここに幕を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます