来客

 唐突に静かな日々に変化が訪れたのは、ボイドが書庫に来て二か月と少し、ボイドが物資の調達に出ている日だった。


 彼が来るまでは、レリナはいつも自室の扉に魔法で鍵をかけ、誰かが来ればすぐ分かるように窓際で魔導書を読んでいた。

 窓にガラスがはまっているのはその部屋のみで、他の窓は全て板で覆うだけのものだ。当然、談話室にもガラスの窓はなく、日の光を入れるには開けっ放しにするしかない。

 だがそれでは中に何者かがいると示しているようなものだ。にもかかわらず窓を開け放って読む癖がついたのは、これまでボイド以外の侵入者が現れなかったためと、森蟲たちがレリナの想像以上に、森の周囲をこまめに巡回していると気付いたからだった。


「ここだけは通路にさせてもらうぞ」

 ボイドはレリナと森蟲たちにそう言うと、草を抜いてやぶを切り払い、出かける時に通る道をある程度歩きやすいように整えていた。その上、森蟲たちの頼みを聞いて目くらましの魔法も解いたため、森の外から誰でも入れるようになっていた。

 ただしそれは、彼らが自由に出入りするための処置で、ここに動物も人間も招き入れたりはしなかった。


 それが一体どういう訳か、その日に限って、真っすぐ書庫の方へ向かって来る人間が現れたのだ。アレックスは周囲をふわふわと飛んでいたものの、体に触れないよう付かず離れずの距離を保ち、その人間を樹木化させないように気を配っていた。


 魔導書に目を落としていたレリナは、ふと視界を茶色いものがよぎったような気がして視線をそちらに向け、仰天して手にしていた本を取り落とした。

 やって来た人間は、ボイドが整えた道をたどって来たようで足音がせず、レリナが気付いた時には、窓のすぐ下まで近付いていたのだ。


 栗色の髪を赤い紐で束ね、元は緑だったのだろうせた木の葉色のローブを着た、色白で小柄な若い男だ。無理に大人物のローブを着ているような細い肩で、裾は少し引きずっている。

 少年とも青年ともつかない若い顔立ちをした彼は、窓辺のレリナに気付くと琥珀こはく色の瞳を大きく見開き、地面にさっと膝をついた。


 その瞬間、今まで確かに人間だったはずの男の気配が変わった。

 周囲の草木がそれに呼応するようにざわざわと揺れ、風もないのに彼のローブがふわりと広がる。赤茶色の髪は雪雲のような灰色になって紐が外れ、長く伸びてさらりと地面にまで落ちかかった。同時に少年にも見えた体は、若いながらも肩幅も背もある男のそれに変わっていた。

 ほんのりと赤みを帯びていた肌は更に白くなり、耳が長く伸びて先が尖っていく。

 ふ、と顔を上げたその男と目が合った。琥珀色だった瞳は、淡い紫水晶へとその色を変えていた。


「ご無沙汰しております。大樹の王、レイディアナ様。私を覚えておいででしょうか?」

 静かに口を開いた男は、そう言うと懐かしげに、そしてどこか寂しげにも見える顔をして微笑んだ。


 レリナは思わず飛び上がるようにして立ち上がった。

 いきなりのことに、膝の上の森蟲たちがコロコロと転がり落ちて、わーっと驚いたように飛び上がった。しかしレリナはそれに構う余裕もなく、入り口の扉へ駆け寄り外へと飛び出した。


「フランデュール!! 氷の王の側近のあなたがどうしてここに!?」

 あまりに急いで駆け寄ったせいで、レリナは途中で小石を踏んで転びそうになった。

 それを見て驚いたように立ち上がったフランデュールは、さっと腕を伸ばしてレリナを抱き留めた。

 三年ぶりに見る同胞、しかもこの場にはまるでそぐわない、王の次に立場のあるエルフだ。そんな彼が人間の姿をして地上にいるなど、レリナはまるで知らなかった。


 もっともこの五百年、レリナは自分が地上に降りるため、大樹の国の者たちを説得し、各国の王たちとばかり言葉を交わしていて、それ以外の者たちのことはまるで把握していなかった。

 フランデュールがいつ地上に降りたのか、なぜ完全に人間の気配をまとって現れたのか、どうして地上に降り、また何のためにここへ来たのかなど、レリナには分からない事ばかりだ。

 ただ、「レイディアナ」と本名を呼ばれるのは本当に久しぶりで、顔を合わせるどころか姿を見る事すらなかったこの五百年が、一瞬で縮まったような感覚だった。



 フランデュールは、湖の国の護衛であるアルドとも、人気のない場所では親しく話す珍しいエルフだった。

 氷の国の者たちはみなどこか表情が硬く、その本心を多くの者には見せなかった。しかし同時に辛抱強く、他者を認める懐の深い者が多かった。

 それは王も同様で、湖の国の王が大陸の浮上に反対していた時も、彼を説得しつつ、他国の王にも他に策はないのかと、眉間にしわを刻みながら提案し続けていた。

 そんな氷の国のエルフの中でも、ひときわ穏やかで気取らず、好奇心も強かったのがフランデュールだった。自国の者にさえ気味悪がられていたアルドと親しくなったのも、彼のそんな性格ゆえだ。



 聞きたいことは山ほどあったが、フランデュールはレリナの腕に手を添えたまま周囲を見回し、少し困ったように首をひねった。

「僕は地上の様子が気になるという王の意向に従って、六年前にこの地上に降りたんです。それからずっと人間の学者に混じって研究をしてきたんですが、最近協力してくれる者が現れましてね。今日は彼からここに呼ばれて来たんですが……どうやら今はいないようですね」

「呼ばれて来たとは、もしやボイドに? ここにフランデュールの探している何かがあるのです?」

「おや、お知り合いでしたか。ええそうです、ボイドです。しばらく連絡が途絶えていたんですが、お詫びと一緒にこちらへ来て欲しいと手紙が届きまして……おっと、丁度良かった」


 振り向いたフランデュールの視線の先では、重そうな荷物を山ほど積んだ荷車を引きながら、ボイドが帰って来たところだった。

 一週間も帰って来なかった彼は、じきに寒くなるこの地で冬を越すためなのだろう、食料に敷物や壁掛け、衣類にまきなどありとあらゆるものを荷車に積んでいた。ロープで縛ってはいたが今にも崩れそうで、後ろを振り返りながら歩くボイドは、なかなかレリナたちに気付かなかった。


「手伝ってきます、少し失礼しますね」

 そう断りを入れてフランデュールはレリナの腕をそっと外すと、ボイドの方へ駆け寄っていった。

 いつも穏やかに、王の側でその威厳いげんを損ねることのないよう振舞っていたフランデュールが、その瞬間とても嬉しそうに笑い、楽しそうに駆け出したのを見て、レリナは呆気に取られてその背を見送った。

 さっきまでの人間姿はあまりにも庶民的で、彼にはまるで似つかわしくないと思っていたが、本当はあの姿こそ彼の本質ではないのか、と思うほどに、無邪気で素直な笑顔を見せたのだ。


「おう、やっと来たのかフラン」

「やっとじゃないよ、まったく。地図もないこんな所にいきなり来いなんて、アレックスが気付いてくれなかったら森で迷ってたよ」

 まるで数年来の友人のような調子で、ボイドとフランデュールは言葉を交わすと、にこりと歯を見せて笑い合った。

 終わりゆく夏の陽の中、その輝くような笑顔は不思議と、レリナの心に小さな雨雲を呼び寄せるような、そんな寂しさを感じさせた。

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