探し物の前に
話は決まった。ではアレックスの話を聞こう、とレリナが意気込んだところで、しかしボイドは立ち上がると、水で濡らした布をポンとレリナに投げた。
「まずは掃除の続きだ。あんたの部屋は手つかずだからこれでしっかり
「ちょっと待って、そもそも何で掃除する必要があるのよ? アレックスに
それに掃除などしたことのない自分に、この布切れ一枚で何をどうしろと言うんだ、と言うと、今度はボイドの方が渋い顔をした。
彼は洗いに行こうと両手に持っていたカップを机に下ろすと、下を向いてはぁーっと深い溜息をついた。
「あのな、レリナも分かってるだろう。昨日言ってた……そう『アルド』って言う奴だったか、アレックスはその名前が書かれてる本を知ってる。だが当然一冊や二冊じゃない。あんたが読んだのはこの書庫の何階までだ?」
「今のところ二十八階までよ」
「そんなもんだろ。で、底まで行ってみたことは無いんだよな?」
「ええ、そうだけど」
レリナが頷くと、ボイドは床をトントンと踵で叩きながら書庫の方を指差した。
「ここの書庫はな、全部で百三十七階まであるんだ。そのあっちこっちに『アルド』って名前の出てくる魔導書がある。それを片っ端から見ていくしかねぇし、底まで降りるだけでも一時間くらいは掛かるだろ? 一日で済むわけがねぇんだから、まずは掃除と食料の確保が先だ」
「待って、底まで降りるのに一時間って、それはあなたの場合でしょう。私なら飛べばすむ事だし、それに食料も要らないわ。そもそも魔力で生きてるんだから」
「はぁ、そういやエルフってのは色々便利なんだったな。いや便利とまでは言わねぇか、魔力が薄い場所だと生きられないんだったな」
「よく知ってるわね、その通りよ。ここは魔力の吹き出し口になっているようだけど、外での私はいつも空腹みたいなものよ」
言いながらレリナは、心の中で首を傾げた。ボイドはどう見てもオークで、つまりはエルフが大陸を離れた後に現れた種族だ。当然ながら交流はなかったし、お互いの事はまるで知らないはずだ。それなのに、彼はエルフがどんな種族か知っているような口振りである。
レリナは人間からオークの話を聞いていたが、他種族が入ると危険だと言う密林に住むため、彼らについては詳しく知られていないし、好戦的な種族だとしか聞いていない。なのに目の前のボイドはとても理知的だ。
どうにも聞いていた話とは違いすぎるし、人間との関係は良くないようなのに、どうして地上を離れているエルフの事など知っているのか、そこが不思議だった。
そこまで考えたところで、レリナはふと最初からあった疑問を思い出した。
「一つ聞きたいんだけど、ボイド。どうしてお前には私の魔法が効かない? 目くらましも破っているし、森蟲に触っても何ともないし、魔法で鍵をかけているドアもすぐ開けてしまうでしょう。水魔法をかけた時だって、濡れはしたけどろくに効いてないようだったし」
「ああ、そりゃオークの体質みたいなもんだ」
「体質?」
訊き返すと、頷いたボイドは鞄の中から一冊の手帳を取り出した。
ひどく読みにくい手書きの文字が
「俺たちオークはもともと魔法にかかりにくい種族らしい。たまに人間と小競り合いがあるから気が付いたんだが、大抵の魔法の影響を受けないそうだ。それでもまぁ、昨日みたいな力技で来られりゃ吹っ飛ぶはずなんだが、俺の場合は完全に防いでしまうらしくてな」
体質は人によって差があるから、たまたま自分はそれが強く出ただけだろう、とボイドは言った。
だがそれは、ずいぶんと特異な体質である上に、魔法使いが地位や権力を持つ人間やエルフからすれば、かなり危険な存在だという事だ。
この大陸には人間から聞いただけで五つの種族が住んでいる。一番多いのが人間、次いでエルフ、獣人、ドワーフ、オークと言われている。
あまり交流がなく情報が少ないながら、ドワーフは道具という形で、獣人は占いという形で魔力を使うそうだ。しかしオークについては
単に魔力を扱えないだけでなく、その効果を無にしてしまうというのは、要するに今のレリナの状況と同じように、自分を守るための魔法も無効化されてしまうという事だ。では殴打したり刃物で斬ったりすればどうなるかと言えば、これも並外れた再生力があるというのだから、他種族からすればかなりの脅威である。
レリナは内心で恐ろしいものを感じていたが、ボイドはその事実によほど無頓着なのか、手帳をパラパラと
「まぁそんなわけで、あんたみたいに魔法で襲われても怪我しなくていいんだが、逆に言えば魔法での治療も魔法で作る薬も効かないって事でな。それで俺の友人の学者先生が、病気になった時のためにこれを書いてくれたんだ」
ボイドはのんびりとそう言って、少し嬉しそうに微笑みながら手帳を見せてくれたが、レリナは一体どこの馬鹿がこんな物を渡したのかと腹を立てたくなった。
最強の体の唯一の弱点を補わせれば、国の勢力図すら塗り替えられる可能性がある。それを思ってレリナは本気で不安になったが、当の本人にそんな気は全くないようで、また大事そうに手帳を鞄に
「で、話は戻るがまぁ、あんたには森蟲の言葉が分からねぇだろ。いくらあんたが楽に移動できるとしても、俺が付いて行くしかねぇし、俺は魔法にかからないから一緒に飛ぶわけにもいかないってわけだ。目的の本が何冊あるんだか分からんが、一番下まで昇り降りするのに一時間もかかるのに、そうたくさんは持ち歩けないだろ」
「……」
「なんだ、何か不満なのか?」
「その理屈は分かるとしても、私の部屋を掃除しろと言うのとどう関係があるの? 部屋が汚れていても不自由するのはお前だけで、私は何も困らないわ」
反論すると、ボイドはかなり驚いたらしく、大きな金色の目を更に大きくした。
しかしそれで納得するのかと思っていると、ボイドは腰を屈めてレリナと視線を合わせ、さっと手を伸ばすと長い髪を
びくりと体を硬直させたレリナに構わず、二度三度とそうして髪に触れてから、ボイドは自分の手を広げて見せた。その指の間には、灰色っぽい綿のようなものがもわもわとこびりついていた。
「見ろよこれ。せっかくの綺麗な髪がこんなに埃だらけになってんだぞ。あんた結構美人なのに、部屋が汚ねぇからこんな事になってんだ。レリナはそれでいいのかも知れんが、俺は勿体ないと思うぞ」
正面から真顔でそんな事を言われて、レリナは自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
綺麗だなどと、生まれた時から言われ慣れた
それなのにこの無骨な、エルフ王としての威厳も美しさもまるで意味を為さないような情緒の持ち主に、真っ向から綺麗だなどと言われるとは思ってもみなかった。
いとけない子供が、美しく磨かれ光を弾く宝石を見て「わぁ綺麗だ」と言うのと同じようなものだ。そう思って心を落ち着けようとしたが、まるで無駄だった。
勝手に熱を持っていく頬を静めることがどうしてもできず、レリナは渡された掃除用の布を握り締めると、くるりとボイドに背を向けた。
「分かった、掃除する。少し待て」
「あ、ちょっと待て。そのままだと髪で床を掃いてしまうからな、くくってやる」
「大丈夫だ、髪くらい自分で束ねられる!」
「そ、そうか? んじゃまた後でな。俺はあっちの部屋で寝起きするから掃除しておく。何かあったら呼べよ」
最後まで気遣わしげに声を掛けてくるボイドの言葉を背に受けながら、レリナは逃げるようにその場を後にした。
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