ひとつめの理解
ボイドが持って来たお茶は、甘い花のような香りのする不思議なものだった。
色は薄くて本当に味がするのかと疑ったが、ほんのりと渋くて甘い。勧められるまま二杯飲んでから、レリナはふぅと息を吐いた。
「気分が落ち着いて体があったまる茶だ。知り合いが持たせてくれたもんでな」
そう言いながらボイドも三杯飲み切ると、気持ちよさそうに椅子に背を預けて脱力した。
そんなボイドの肩や頭や膝の上には、昨夜のようにまた森蟲たちが乗っている。
よほど好かれる体質なのかと思いつつ、膝の上の一匹を摘まみ上げると、心底嫌そうに「ギィィィ」と鳴かれた。
「レリナ、あんたこいつらに嫌われてる原因分かってるか?」
慌てて元の場所に降ろしていると、不意にボイドにそう問われた。彼は膝の上に降ろされた森蟲の頭を軽く撫でてやっていた。
「いいや、よく分からない。嫌われているのはお前を見てれば分かるが」
「一番の原因はな、さっきみたいな事を何度もやらかしてるせいだ。こいつらは大人しいから捕まえやすいけどな、首を掴まれるってのは嫌なもんだろ?」
「く、首!? 待て、あのくびれた部分は首なのか!?」
「まぁ首がどこかは置いといてもだ、自分より大きな生き物に摘まみ上げられて、あんたなら気分がいいか?」
そう言うと、ボイドはいきなり手を伸ばしてきてレリナの首を軽く掴んだ。
あまりの素早い動きに反応できず、咄嗟に
「な。これで分かるだろ?」
そう言ってボイドはすぐ手を放したが、レリナは身じろぎも出来なかった。
窓から吹いて来る風が、さっきまでの涼しさを通り越して、急に冷たいものに変わる。雲が動いて空に影が差しただけだ、と頭の隅では理解していたが、それでもレリナは目の前の男が豹変したかのような感覚に囚われた。
彼には全く害意はない様子だったし、レリナを本気で怖がらせようとしている様子もなかった。本当にただ、首に少し触れただけだ。
それでも体が
そもそもレリナは体に触れられる事に慣れていなかった。
友人らしい友人もいなかった彼女にとって、他者と触れあう機会など、せいぜい握手をする程度だ。背中や肩すら触られるのは稀で、ましてや首など触る者が居れば、周囲の者達が黙っていなかっただろう。
だがそれは、ここにいる森蟲たちにとっても同じことだ。
最初にこの書庫を訪れた時の好奇心に満ちた反応は、彼らがもう長い間、エルフに出会ったことがなく、彼らに触れられる存在と出会ったこともない、という証だ。
そんな彼らが、いきなりやって来た言葉も通じない相手に、首を掴んでぶら下げられたりすれば、嫌がったり怒ったりするのは当たり前だ。だというのに、レリナは当然のようにそれを繰り返していた。
思い返してみれば、ボイドは最初に現れた時から森蟲を手のひらに乗せることはあっても、決してぞんざいに扱ってはいなかった。こうして邪魔になるほど体に乗られても、はたき落とす事さえしていない。
「……すまない、私が悪かった」
ボイドに群がる森蟲たちに向けて、レリナは深く頭を下げた。自分がそれほど無神経だとは、今まで考えた事がなかったのだ。
「ぴ」
「ぴぴっ」
「ちー……」
「ぴぴぴぃ!」
顔を起こすと、部屋中の森蟲たちが一斉にレリナの方を見た。囁き合うように小さく鳴きながら、あちこちで顔を見合わせて、何か相談するような様子だ。
「ぴ!ぴぴっぴ、ぴぴっぴー」
そのうち一匹が、思い付いたようにぴょんとレリナの手の甲へ飛んで来ると、続けて三匹がぴょんぴょんと肩に、膝に、頭に飛びついて来た。
「ははっ、分かったんならいいってよ!」
耳をそばだてて彼らの声を聞いていたボイドは、ニッと牙を剥き出して嬉しそうに笑った。
まるで屈託がなく、親しみを顔一面に広げたような彼の笑顔は、その恐ろしげな顔とは対照的に愛嬌があって、レリナはどきりとした。穏やかで優しい性格なのは感じていたが、笑うと一気に柔和な顔になって、それが不意にレリナの記憶の中の笑顔と重なった。
懐かしいその笑顔は、この五百年の間にもうおぼろになりかけていた。なのにまるで今、目の前でその人が笑ったかのようにくっきりと思い出せた。
あの時の笑顔も、目の前のボイドの顔も、自分に好意を向けてくれる者のそれだ。それがはっきりと分かった。
それなのに、どういうわけかレリナにとっては、涙が出そうなほどに胸が苦しくなる笑顔だった。
「なんだ、嬉しくないのか?」
「いや、違う……すまない、何でもない」
浮かない顔に気付いたのか、ボイドはレリナの顔を覗き込んで来た。その真似をするように、森蟲たちも膝の上に下りてきてレリナの顔を見上げた。
だが自分でも理由の分からないことは、説明のしようがない。何も言えずに言えると、ボイドはもう一杯お茶をよそってレリナに渡した。
すこしぬるくなったそのお茶を一息に飲み干すと、きゅっと締め付けられるようだった胸が、少しだけ楽になってくる。
「ぴぃぴぴぃっぴ、ぴぃー」
手の甲に乗った森蟲が、様子を窺うように声を上げた。例の双葉の子、アレックスだ。その双葉をそっと撫でると、彼は一度その場で飛び跳ねてから、くるくると踊り出した。
嬉しそうなその姿を見ていると、自然とレリナの顔にも笑みが浮かんだ。
「ありがとう、アレックス。今まで私を見守ってくれてたのね」
「ぴっ!」
返事をするように鳴くその言葉は相変わらず分からないが、誇らしげに胸を張る姿で、何を言いたいのかはレリナにも分かった。
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