出会った男

 しばし座り込んでレリナが物思いに耽っていると、不意に右手で摘まんだままだった森蟲が「ぴぃ」と小さく鳴いた。

 頭に花が咲いているそいつは、目が覚めたら宙ぶらりんになっていたのに驚いたのか、身を捩ってぴぃぴぃと抗議するように鳴いて暴れた。


「ああ、悪かったってば」

 取り落としそうになって慌てて元の場所に戻してやると、たちまち仲間の隙間に頭を突っ込み、手足を縮めて潜り込んでいく。

 全くの不干渉ではないが、森蟲たちは基本的にレリナを避ける様子があった。こうして触ると嫌がる事も多く、警告を発するのも珍しいくらいだ。


 見た目は愛らしい部類なのに少し残念だ、とレリナは思う。

 この書庫に来た当初は、彼らは物珍しそうにレリナに寄って来る様子だったのだが、半年もすると双葉の森蟲以外は遠巻きに様子を窺うような態度になっていた。

 あるいは自分が来たことで彼らに負担が掛かっているのか、と思ったレリナは、彼らの労力が減るよう、森の周辺に目くらましをかけてもみたが、特に変化はない。


 そんな森蟲たちが、初対面でこれほど懐く相手というのはかなり不思議だ。不思議でもあるし、少し羨ましいような気分にもなる。

 何とも言えない心持ちで、しばし森蟲たちを眺めていたレリナは、自分を見つめている二つの目に気付いていなかった。



「起きたのか、嬢ちゃん。気分はどうだ?」

 不意に足元から声を掛けられ、仰天したレリナはびくりと腰を浮かせた。

 さっと声のした方に視線を遣ると、いつの間にか暖炉の火に照らされて爛々と光る金色の瞳が開かれていた。

 自分の体の上に寝ている森蟲を起こすまいとしてか、脱力した手足を動かさず天井を見上げたまま、オークの男は囁くように小声で喋った。


「そんなに怖がらないでくれ、地味に傷つく」

 返事をしないレリナの顔を見て、彼は太い眉を八の字にすると大きく息を吐いた。

 胸の上で寝ている森蟲の何匹かが、それに合わせるようにもぞもぞと向きを変える。

「そんな格好のやつを見て、怖がる馬鹿が居ると思うか?寝てると思ったから驚いただけだ」

 腹の上を指差しながらレリナが答えると、彼は首を起こして周囲を見回し、レリナの顔に視線を戻すとふっとに笑った。

「確かにそうだな」

 心なしか嬉しそうな顔をした彼は、喉の奥で軽く笑い声を立てると、空いている右手を振った。


「今日はもう寝てろ、嬢ちゃん。これじゃ明日の朝まで起き上がれないからな」

 そう言って再び瞼を下ろす男に、レリナは内心で慌てた。

 辛うじて顔には出さなかったが、まるで小さな子供を相手にするような男の態度に、若干の苛立ちも覚えてしまう。



 五百年振りに降り立った地上では、かつての同胞であり、あらゆる場所に住んでいた筈の妖精たちはほぼ姿を消していた。

 代わりのように人間たちが、大陸全土を支配する勢いで各地に国を建て、美しかった野山を街に、田畑に変えて生活している。

 そしてこの人間たちを統率しているのが、人間の中でもごく一部の魔法を扱える者たちだった。


 かつて彼らに魔法の使い方を教えた一族であるエルフは、半ば信仰の対象と化していて、何も知らずに地上に降りたレリナは、行く先々で神のように敬われた。

 お陰で見知らぬ土地も同然となった地上の旅でも、不自由は少なく、どこの国でも歓迎されて、知りたい事はおおよそ何でも教えてもらえた。

 しかし一方で「あなたのお耳に入れるようなお話ではございません」と、口を閉ざされる事もしばしばだった。

 それが面倒になったレリナは、やがて魔法で人間に擬態するようになっていたが、今は元の姿のままだ。


 そもそもレリナはエルフの中でも王族と呼ばれ、同族にも敬われ、また美しいと称えられるのが日常だった。

 妖精たちが多く宿る大樹から生まれた彼女は、その葉裏と同じ透けるような淡い緑の髪に、湖面に似た透き通ったみどりの瞳を持って生まれた。

 異種族の中でもとりわけ人間には、白い肌に整った容貌のエルフは美しいと言われることが多かったが、そんな同族の中でもレリナの持つこの色は珍しいものだ。


 地上の者たちの殆どが持ちえないその色は、強い魔力を持つ者の証でもあり、また同族をも従わせる旗印でもあった。

 代わりに負わされるのは、王族として地上を管理し、同族たちを導く重い役目ではあったが、レリナ自身はそれも誇りの一つとしていた。


 そんな自分の姿を目の当たりにしていながら、こうもぞんざいな態度を取られるのは初めてで、驚きと同時にどう対応していいのか分からなくなってしまう。


「言っておくが、私の名前は嬢ちゃんじゃない、レリナだ。それにお前よりは遥かに歳が上だ」

 困惑を隠して腕組みし、レリナが意識して低い声を出すと、男はちらりと片目だけを開いた。

「そうか、ならおやすみ、レリナ婆さんや」

「また水をぶっかけられたいのか、お前」

 声は穏やかで優しげだが、明らかに馬鹿にしたような一言を投げると、彼はまたすぐに目を閉じた。


 眉を吊り上げたレリナにもまるで興味が無さそうなその態度に、本当に頭から水をかけてやろうかと思ったが、そうなると後始末が大変な上に、また森蟲たちに反撃される可能性が高い。

 清々しい程の無関心に苛立ちながらも、自分の容姿などこの男にはまるで無意味なのだという事だけは理解して、レリナはそれ以上口を利く気が失せてしまった。



 どちらにせよ彼が言った通り、夜が明けるまで森蟲たちは動かないだろうし、無理やり放り出す気が無いなら寝ているしかない。

 どんな力でもって森蟲の影響を退け、そしてレリナの魔法を破ったのか。そもそもなぜ森蟲を拾って来たのか、聞きたいことは山ほどあるが、全ては夜が明けてからだ。


 ひとまず彼は、レリナと敵対する気はまるで無さそうなので、放っておいても問題は無いだろう。

 そう考えてレリナが立ち上がり、自分の部屋へ戻ろうと背を向けると、背後ですっと息を吸う小さな音がした。


「俺はボイドだ。おやすみ、レリナ」

 驚いてレリナが振り返った時には、既に男―ボイドは目を閉じて、今度こそ全く起きる気がないという顔で眠っていた。

 だがそのひどく親し気な言葉は、レリナを激しく動揺させるに十分なものだった。



 王族として地上に生を受けてから、彼女と対等の立場で言葉を交わした者たちはごく僅かだ。

 その殆どが同じ役目を背負って生まれた者であり、互いを尊重し合いながらも、立場ゆえに親しみとはほぼ無縁だった。

 あるいは同じ立場でありながらも、レリナに対してひどく高圧的な態度を取る者さえいた。


 そんな日々の中で出会った、一人のエルフの青年がいた。

 少し青みを帯びた黒い髪に、水底のような深く底の見えない青の瞳をした彼は、額にも頬にも、腕にも背中にも黒い鱗を持ち、周囲からはひどく恐れられていた。

 隣国である湖の国の騎士であった彼は、しかし初めて言葉を交わした時から、レリナに対して気後れする様子もなく、言葉少なに気遣ってくれた。


 ボイドの言葉は彼の言葉にそっくりだ。そう思った途端、急速に戻って来た感覚に、この五百年堪えていたものが押し寄せてきて、レリナの肩が震えだした。

 駆け戻るようにして自室に戻った彼女は、扉の封印魔法を確認すると、そのまま扉に背中を預けてズルズルとしゃがみ込んだ。



「何なんだ、あいつは」

 両手で顔を覆いながら呟き、誰にともなく首を横に振る。


 五百年前にエルフたちが地上を離れた時、湖の国の王は最後までそれに反対した。

 大陸の一部とはいえ、大地を空に浮かせるなど、膨大な魔力を要する技だ。そんな事をしてしまえば、地上からは殆ど魔力が失われてしまう。それが地上に住む者たちにどんな影響をもたらすか分からない、と。


 それに対して他の国々の者たちも、レリナの治める大樹の国の者たちも、蔑みと哀れみを込めてこう言った。

「我々をそこまで追い込んだのは地上の者たち自身だ」と。

 それでも反対を叫び続けた湖の国の王は、遂に大陸を浮上させる手立てが整えられた時、それを主導した山の国の王の厳命で、民もろとも地上に取り残された。


 どうしてあの時、自分も残る道を選ばなかったのか。

 ようやく地上に戻ったレリナは、かつて広大な湖があった筈のその場所で、膝をついて暫く立ち上がれなかった。


 どれほど後悔しても、何もかもが手遅れだった。今更自分に出来ることは何もない。

 そうと分かっていながら、今も空へ戻れないのは、それでも彼にもう一度どこかで会えないかと、ずっと探し続けているからだ。


「アルド……」

 懐かしい名前が、自然とレリナの口から零れ出す。

 呼んでも返事はないと分かっていて、心の中でずっと呼び続けて来た名だ。

 込み上げて来るものを堪えるレリナの髪を、銀色の月が何も言わず照らしていた。

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