暖炉の前で
次にレリナが目を覚ました時には、自室のベッドの上に仰向けで横たわっていた。
既に完全に日が暮れているのか、部屋の中は真っ暗で、窓硝子からは月の光が煌々と差している。
横になったまま窓の外へ視線を移すと、星か蛍か妖精か、小さな粒のような光が幾つも踊っていた。
深夜になればもっと闇は深く、森は静けさに包まれる。
森蟲の声で眩暈を起こした後、どうやって自室に戻ったのかは覚えていないが、まだそれほど時間は経っていないようだ。
少しほっとしながら、再び眩暈を起こさないか注意深く上半身を起こすと、レリナは自分の体をあちこち触った。
幸いどこにも怪我はしていないようで、気分も悪くない。いつの間に脱いでしまったのか、服は下着一枚になっているが、視線を動かすと枕元に畳んで置かれていた。
拾い上げて月明りにかざしてみたが、白いチュニックもパンツも破れたりしている様子はない。しかし目を凝らしてみると、袖の一部が裂けて繕われた痕があった。
自分で縫ったような記憶はもちろん無いが、森蟲達にしてはやけに世話を焼くな、とレリナは少し眉をひそめて、それからハッと飛び上がるようにしてベッドから降りた。
素早く視線を扉へと向けると、予想通り半開きのままで、隙間からゆらゆらと光が揺らぐのが見えた。
この部屋のすぐ外は、元は談話室だったと思しき少し広い部屋だ。部屋の壁の中央に暖炉があって、どうやら何者かが火を焚いているらしい。
倒れる直前の事を思い出せば、それが誰かは容易に想像がつく。
レリナは素早く扉の陰に身を寄せると、薄暗い部屋の中でほんのり赤く光を放つ暖炉の方を窺った。
元は傷んだ低いテーブルと椅子が並べられていたが、それらは全てどかされたのか、埃だらけの床一面が薄明るく照らされている。
真っ二つになった入り口の扉は、修繕しようとして諦めたのか暖炉の脇に置かれていて、代わりにテーブルが入り口に立て掛けられていた。
火の前には衣類と思しき布や鞄、水筒にナイフなど細々とした旅の道具類が並べられている。そしてそれらに囲まれる形で、逆光で真っ黒に見える大柄な男が、太い手足を投げ出して大の字に寝ていた。
「夢じゃなかったのか……」
思わず呟きながら、レリナは恐る恐るその男に近寄った。
暖炉の前で呑気に横たわる巨体は、殆ど服を脱いで赤黒い肌を晒している。眠っているので判断し辛いが、白い牙を口の両端から覗かせるそのオークは、まだ若い男のような顔立ちだ。
枯草色の長い髪を後ろに流していて、その隙間からは尖った耳の先が覗いている。
悪い夢でも見ているのか、時々眉間に縦皺を寄せて唸っているが、レリナが近寄っても起きる様子はない。
周囲に転がる物を見たところ、どうやらレリナの魔法で水浸しになった荷物や服を乾かし、手入れをしている途中で眠り込んだらしい。
この状況で裸で眠り込み、自分を攻撃した相手が近寄っても目も覚まさないその豪胆さにも呆れるが、レリナが何より驚いたのはその体だ。
仰向けに寝ているそのオークの体には、シーツの代わりとでも言うかのように森蟲達が大量に群がり、一緒になって寝ているのだ。
森蟲はその名の通り森に住む、妖精とも生物とも言い難い存在だ。敢えて言うなら、魔力で自由に動き回る植物、というのが近い。
そして森蟲と言う名前だけあって、彼らは森を育て、増やし、魔法によって森を荒らす者達から守る存在だ。
そのため通常は、人間などが住む場所には現れず、自分達が守る森の中心、魔力の最も多い場所に住んでいる。
元は妖精であるエルフにとっては、生きるのに必要な魔力の源を示してくれる変わった生き物、という程度だ。
しかしもしも人間が、そんな彼らに接触するような事があれば、容赦なく「森の一部」にされてしまう。
具体的に言えば、森蟲に体が触れると、大抵の動物は体が植物になる。即座に変化するわけではないが、まず警告のようにポンと芽が出て、そこで体を離さなければ全身に芽が出て伸び、葉が開き、花が咲き、同時に肉体は固い樹木に変化していく。
芽が出た時点ですぐ引き抜き魔法薬で処置をすれば、全身が樹木化するまではいかないが、それでも触れたところは確実に変質してしまう。
だというのに。
「何で平気なんだ、お前は」
寝ているオークの真横まで近寄って、その胸の動きを確かめると、レリナは呆れて溜息をついた。
試しに体の上の森蟲の一匹を摘まみ上げてみたが、その下の皮膚は特に色も変わっていないし、体のどこにも芽が出ている様子はない。
手のひらを上に向けて投げ出された左手には、彼がやって来た時に握りしめていた、頭に双葉の生えた森蟲が丸くなって眠っている。
魔法の影響を受けにくい、つまり耐性がある者は稀に居る。しかしこれだけの数の森蟲に集られ、あまつさえその双葉の森蟲を手に握って平気な生き物など、珍しいを通り越して異常だ。
森蟲にも影響力の大小があるが、双葉のそいつは並外れて力が強い。
通常ならば一日以上かけて徐々に変化する樹木化を、ものの数秒で遂げさせてしまうのだ。
何度か森の外で侵入者を退ける姿を見て、妖精のある種の無情さを知ってるレリナでさえも、その光景には背筋が凍り付くような思いをしたものだ。
おまけに他の森蟲ならば生きている者にしか影響しないが、そいつだけは死んだ者でも影響する。例えそれが、動物の皮で装丁された書物であっても、だ。
うっかりそいつに触れたばかりに、ナイフで背表紙を割る羽目になった本は三十冊程だろうか。
それもレリナがここにやって来て三年程の間の事なので、まだ行った事のない書庫の底には、そんな本が山ほどある可能性もある。
それを分かっていての事なのか、この双葉の森蟲はあまり書庫に近寄ろうとしない。
代わりに度々外を飛び回り、レリナが目くらましを掛けた森の外まで遊びに出ては、土産とばかりに木の実や石などを拾ってくる。
こいつもその土産のつもりだろうか、とレリナは改めて寝こけているオークの顔を眺めた。
呼吸はいつの間にか静かになり、眉間に寄っていた皺が取れると、その寝顔は少しは愛嬌があるようにも見える。
それに倒れた自分をベッドに寝かせ、破れた服まで繕ってくれたのは十中八九この男だ。
そもそも森蟲にとって危険な存在なら、レリナが倒れるほど大声で鳴いて止めたりはしないだろうし、体中に取り付いているのも、攻撃する意図はまるで感じられない。
むしろどちらかと言えば、極端なほどに懐かれている。
動く植物も同然の森蟲は火を嫌がるので、暖炉の火の前で寝るところなど見た事がない。それが何の警戒心もない様子で、彼の体の上で時々コロコロと転がりながら寝ているのだ。
転がり過ぎて暖炉に突っ込んだらどうするんだ、と思うが、そんな事さえ彼らの頭からは抜けているらしい。
レリナに対しては一度も見せた事のないそんな森蟲の姿に、ふと彼女は初めてオークを目にした時の事を思い出した。
エルフの一族が人間に生存域を脅かされて、大陸の一部を魔法で空に浮き上がらせることで、地上との交流を断ってからおよそ五百年。
その時地上に残された同族の生き残りを探しに降りたレリナは、すっかり様変わりした地上の姿に呆然とし、また驚きもした。
しかし何より彼女の胸を騒がせたのは、エルフが地上に居た頃には終ぞ見たことのない、「オーク」と呼ばれているこの異形の種族だ。
まるで凶獣と化した動物たちのような、見るからに恐ろしげな外見に、猛々しく危険だと噂される彼らは、一体いつどこから現れたのかも分からない、と人間達は言う。
魔力の薄い地上でいつの間にか生まれていた、新たな種族。美しくも優しくもなく、まるで地上を席巻する人間に対抗するような姿をしていながら、密林を切り開くでもなく、自然と共に生きている種族。
あるいは海を渡って大陸外からやって来た、とも言われる彼らを初めて目にした時、不思議な事にレリナは、恐ろしさより懐かしさのような感情を真っ先に覚えた。
己のどこから湧いたのかも分からぬその感情の理由が、レリナには今も分からないままなのだった。
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