眠る楽園の旅人たち

しらす

森の書庫の出会い

侵入者、或いは訪問者

 遥か昔、イズワスは常春の大陸だった。

 青い空には雲が走り、雨は大地の隅々までを潤し、草木は一年中芽吹いて花を咲かせた。

 風と共に鳥や虫が舞い、月と太陽が入れ替わる度にあらゆる者達が眠りと目覚めを繰り返す。

 魔力に溢れたその楽園では、多くの妖精たちが生まれた。彼等はそれぞれ望みのままに生きた。或いは根付き、或いは飛び回り、或いは更なる理想の土地を求め、そして……




 ぱた、ぱた、ぱた。

 屋根を伝う雨が地に吸い込まれながら、小さな穴を穿つ音がする。

 日暮れ前になると降る雨は、この季節のこの土地ではごくありふれた現象だ。

 イズワスの北東、丈の高い木々に空を覆われるこの森は、冷涼な風が常に吹いている。しかし今は短い夏の盛りだ。

 今のうちに少しでも陽の光を浴びようと木々が葉を広げ、むっとするような熱気と湿気とをその枝の下に閉じ込めている。雨が降り出す前に動物たちはねぐらへ戻るので、夕暮れの森はしんと静かだ。


 だがその静けさゆえに、常ならば耳を澄まさねば聞こえない音が、ひときわ大きく聞こえている。

 こんな時間に盛んに動き回るのは、夜も眠らぬ妖精たちか、はたまた人目を忍んで移動する訳ありの者たちか。


 いずれにせよ、レリナにとっては関わりのない話だ。妖精などここにも幾らでもいるし、堂々と表を歩けない身の上なのは彼女も同じだ。


 腰まで伸びる淡い緑の髪を枕に、白い手足を長椅子に投げ出して寝そべりながら、レリナはちらりと部屋の中を見回した。

 古い書庫の一角であるこの部屋は、一言で言えば荒れ果てている。


 かつてはレリナの同族、エルフたちが管理していたこの建物は、地上部分は二階までしかなく、外から見ると頑丈な石造りではあるものの小さな家だ。

 しかし一階の書架のある部屋へ足を踏み入れれば、そこは膨大な量の書物を収める書庫だと分かる。

 壁一面が書架に覆われ、その前を行き来するための通路には手摺がつけられている。なぜ手摺があるのかと言えば、部屋の中心には床が無いからだ。

 手摺から下を覗き込めば、延々と地下へ続く書架と、その前を何周もする通路と階段が見える。


 地上ではなく地下へと続く書架。明り取りの窓も無く、風も通らぬはずの、一体どうしてこんな場所に造られたのかも分からない書庫。

 しかしそこかしこで蛍のような光が飛び交い、地下から吹き抜けの二階の窓へと、吹かないはずの風が吹いている。

 かつてこの書庫を造った者達の手によるものだろう、あちらこちらに妖精が住み着く環境が整えられていて、常に書架の周辺だけは清潔に保たれている。



 そう、清潔なのは書架の周辺だけだ。

 レリナが今いるこの部屋は、ここに住み込んでいた者の私室であったようだが、今や廃墟も同然だ。


 埃っぽく、部屋の角という角には蜘蛛が巣を張り、たまにしか使わないキッチンには、これまた埃をかぶった鍋釜が積まれている。

 皮の破れた長椅子も座り心地は悪いし、ベッドは布団の代わりに藁を詰めて使っている有様だ。


 レリナにとってとりわけ居心地の良い部屋ではない。にもかかわらず、彼女がこの部屋を自室として使っているのは、外がよく見える硝子の窓がここにしかないためだ。

 古く歪んだ硝子の向こうからは、沈みかけた太陽の光が雲間から差している。その光はレリナの白い肌を淡く紅色に染めた。


「はぁ。呼んでも無いのにお客かしら」


 窓の外、鬱蒼うっそうとした茂みをガサガサと乱暴に揺らしながら、何かが近づいてくるのを目にし、レリナは溜息を吐いた。

 普段なら黙って通り過ぎるのを待つのみだが、今日はどうも、そういうわけにはいかないらしい。


「ぴぃぴぃ、ちーちー、ぎしぎし」

 いつもは静かな森蟲達が、常になく騒いでいる。

 鳥の卵を真ん中辺りでくびれさせたような体に、草の根のような四つの足を持つ彼等は、この古い書庫の先住者たちだ。


 森蟲たちは頭にめいめい違うものを生やしている。何かの葉であったり、開いた花や蕾だったり、春先の木の芽だったり、長々と伸びる枝であったり。

 それらを盛んに振り回しながら、しきりとレリナの周りを飛び回っているのだ。

 わさわさ揺れるその頭は、見ている分には賑やかで可愛らしいが、その行動は何かを警告している様子だった。


「分かったよ、今行く」

 近付いてくる足音は一人分だが、人間にしては重く響く。かと言って大型の凶獣という様子でもなく、その動きは俊敏でもないし、足音を殺す様子もない。

 だが確実にこの建物まで接近してくるという事は、途中にレリナが仕掛けている目くらましの魔法を破って来たという事だ。


 レリナは側に立て掛けていた青い木の杖を手に取ると、長椅子から立ち上がった。

 すたすたと木製の扉まで行くと、その下の角を爪先でコンと蹴る。外からは決して開けられないよう、封印の魔法を掛けてある扉は、靴先に仕込んでいる魔法石に反応して音も無く開いた。



 部屋を出て右へ行くと、すぐに入り口の扉がある。その正面に立つと、レリナは杖を真っすぐ外へ向けて身構えた。

 まだ相手がこちらの気配に気づく様子は無く、足音が乱れる様子はない。ならば、扉を開けた瞬間に一番得意な魔法で叩くだけだ。


 レリナは杖の先に意識を集中させる。足音が扉の前で止まる。

 何やら声がした後、自室と同じように封印を掛けてあるはずの扉が、勢いよく開いた。


「水よ!!」

 間髪入れずにレリナは叫んだ。


 長い詠唱を組み込む複雑な術は、効果は高くともそれだけで敵に居場所を察知されてしまう。しかし一人旅の身では、その間自分の身を守ってくれる者も居ない。

 それならば、とレリナが旅の間に身に着けた、至極単純で効果的な方法だ。

 一言で詠唱できる得意な魔法を、出来る限りの魔力を込めてぶつけるだけ。

 しかし単純ゆえに、その効果はすぐ相手に伝わる上に、後始末が面倒なほどの威力を発揮する。


 扉を開けた侵入者は、杖から一斉に吹き出した水に跳ね飛ばされ、扉ごと外へ吹っ飛んでいく。間が悪ければ立ち木にぶつかり、頭や背中を思い切り打ち付けるだろう。

 その隙に次の一撃を加え、完全に昏倒させる。魔法の効果を打ち消してくるこの相手には、鈍器の方が有効だろう。

 そう思ってさっと入り口脇の棍棒を手にしたレリナは、吹っ飛ばした侵入者を追おうと視線を戻して、そこで硬直した。


 無慈悲に最大限の魔力を込めた水魔法で、確実に扉の外へと押しやった筈の侵入者は、そこにしっかりと立っていた。


 吹き飛ばされた扉の代わりに入口を塞ぐかのように、縦にも横にも大きな体をした男が、目を丸くしてレリナを見下ろしている。

 雨除けの外套から覗く手足も顔も、暗い赤色をしていて、あっけに取られたように見開かれた双眸は猫のような金色の瞳だ。

 白い牙が覗く口をぽかんと半開きにして、その男はレリナを、その杖を、拾い上げた棍棒を順番に見た。


「な……なんで……」

 幾つもの疑問が一斉にレリナの頭の中で飛び交う。しかし混乱のせいで口から出たのは間の抜けた疑問だけだった。


 外見から察するに、侵入者は遥か南方の密林に住むというオーク族だ。フードで瞳より上は隠れていて容貌は分かり難いが、常人離れした背の高さと太い手足は、他種族ではまず見かけない。

 彼等について広く知られているのは、その巨体と恐ろし気な顔、それにひどく好戦的な種族だという事くらいだ。


 大陸の最南端の密林に住み、まずそこから出て来ないので、その姿を見ようと思えば自分から赴くしかない。しかし異種族が旅するには危険すぎる土地で、敢えて行こうという物好きも居ない。

 それゆえどんな種族なのか詳しくは知られていないが、少なくともこんな寒い土地で出会うとは、レリナは予想もしていなかった。


 またそれ以上にレリナを混乱させたのは、男が一歩も動かずにその場に居ることだ。

 かなりの勢いで発動した水魔法は、扉を吹き飛ばして真っ二つに折ったらしく、背後にはその残骸が転がっている。

 だが当の男は全身びしょ濡れになりながらも、平然とその場に立っていた。

 まるで帰宅したとたんバケツで水を浴びせられたような、予期せぬ出来事に驚いただけ、という顔をしていて、魔法がさっぱり効いていない。



 レリナはジリ、と左の踵を後ろへ滑らせた。

 彼女が思い切り蹴り飛ばしたところで、この巨体相手ではびくともしそうにないし、入り口は完全に塞がれている。ならば足止めをして書架の奥の隠し通路から脱出するしかない。

 棍棒をそっと床に戻し、杖を両手で構えると、レリナの肩に火の妖精が現れた。熱を操る彼等の手を借りて、今ぶちまけた水を凍らせれば、僅かでも動きを鈍らせることはできるだろう。

 一瞬でそう判断し、レリナは再びオークの男へ真っすぐに杖を向けた。


 その途端だった。

「ぴいいいいいいいいいいいいい!!」

 耳をつんざくような音が突然鳴り響いた。


 まるで警笛のような、突風が壁の隙間を抜ける時の音のような、それでいてそれを何十倍にもしたような音だ。

 しかもその音には魔力が籠っているのか、レリナの耳の奥でわんわんと反響し、頭にまで響いて来る。


 彼女は咄嗟に両手で耳を塞いだものの、既に手遅れだった。頭の中まで響いた音は脳を引っ掻き回すように鳴り続け、次第に目が回って来る。

 レリナはたまらず膝をつき、倒れないよう杖に縋った。そこでようやく、音はぴたりと止んだ


 しかしレリナにはもう逃げる手立てがない。今の音の影響でしばらくは魔法が使えそうにないし、肩の上からは火の妖精が消えている。

 しかも入り口に立っていたオークの男は、真っすぐにレリナの方へ近づいていた。


 このままでは捕まってしまう。立ち上がろうにも足が完全に萎えていて、杖を振り回す力すらない。

 絶望的な気分で、レリナは自分の目の前までやって来た男の顔を見上げた。


 薄暗い部屋の中、フードに覆われて男の表情は見えない。ただ金色の瞳だけが、きらりと僅かな光を反射して光った。

 赤い手が伸び、レリナの肩に乗せられる。それだけでずっしりと重い腕は、彼女の肩をぐっと掴むと、倒れそうになっているレリナの体をぐいと起こした。


「なぁおい、大丈夫か嬢ちゃん?」

 初めて男が言葉を発した。しかしその声は、レリナの予想を大きく裏切り、戸惑いと気遣いを多分に含んだ穏やかなものだった。

 その場に腰を落とした男は、左手に何かを握ったまま、右手でレリナの肩をしっかりと支え、彼女の顔を覗き込む。


 ふとレリナがその左手に視線を移すと、男も同じように自分の左手を見て、握っていた手を広げて彼女に見せた。


「ぴぃ」


 太い指の中から現れたのは森蟲だった。座り込むように手足を縮めていたその森蟲は、自由になったと気付くとぴょんと立ち上がった。

 頭には種から芽吹いたばかりのような双葉がある。それをくるりと振り回すと、まるで伸びをするように、草の根のような細い手足をにょきにょき伸ばしていく。


「ぴーぴぴっぴ、ぴー」

 呑気に歌うような声を上げると、森蟲は男の手のひらの上でくるくる回り出した。踊っているのだ。

 それを目にした瞬間、ぎりぎりまで気を張って保っていたレリナの意識は、ぷつりと糸が切れるように途切れてしまった。

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