第51話 氷の意志
斜めに砥がれた鉄の刃が無慈悲に木枠を滑り落ちて、あの人の命を呆気なく奪った――。
その瞬間に居合わせた訳じゃない。子供たちとも別々に塔に幽閉されていた私は、けれどもはっきりと夫の生が閉ざされたことを感じた。
「キャメロン……」
涙は出なかった。悲嘆を越えた絶望に涙はついて来れなかったから。
喪失感は時間の感覚も奪い去って、子供たちの未来と、キャメロンとの過去がひっきりなしに去来する日々。けれど初めから結末は分かっていた。
キャメロンと育んできた愛があってこそ子供たちは育ち、生きる。最愛の人を失った私は半身を削ぎ落されたのも同然で、どんなに愛していても子供たちを生かす術がないのだと悟っていた。
「どうか許して。私は子供たちと生きるより、貴方の許へ行きたいの――」
水差しの破片を手首に当てた時、冷たさだけで痛みは感じなかった。全てに疲れてしまって、後はただ眠るだけ。
最期に見たのは高窓の向こうに輝く青くて冷たいお月様。きっと私の魂はあの高みにまで昇って、先に逝ったキャメロンと共に輝く月で過ごすのだろうと思った。
目を閉じて、手首から抜けて行く体温を感じていると、霞む意識の縁から何かが内側に滑り込んできた気がした。
――可哀相に……。何て深い哀しみだ。
「誰? 誰でもいい、私のことはそっとしておいて。このまま逝かせて」
――生きて叶える望みもないのか?
「何もない。何もなくなった。全ては奪われてしまったの」
――もし魔法が使えたら?
「魔法……? 魔法が使えたら私は――」
私の守護星は彗星。もし魔法が使えたとしても物語にあるような復活の魔法は使えない。キャメロンのいない世界なんて私には無意味。でも――。
――復讐を果たせるとしたら?
その言葉で、もう手放してしまおうと思った意識を逃がすまいと握り締めた。
そうだ。最愛の人を奪われてこのまま泣き寝入りなんてしたくない。無力だった私に魔法の力が宿るなら、それは復讐にこそ向けられるべきでは?
私の最愛を奪った家族に、いいえ、もう家族とも思わない。侵略と支配の頂点に君臨する帝室の血。その
いたぶり尽くそうなどとは思わない。それほど私は酔っていない。寧ろ冴え冴えと冷めている。ただ無慈悲に、躊躇なく、キャメロンの命脈を絶ったギロチンの刃のように、彼らを滅びの淵へ追い込むだけ。
「魔法を教えて」
――教えるまでもない。私たちは今から一つになる。私の力はおまえの力、おまえの心は私の心。魔女を狩るほどの力が一なる私に望みのままを果たさせるだろう。
私は死を払いのけ、その言葉を受け入れた。
そうして私は
***
貴賓の寝所になる離宮の奥殿で、私はティーテーブルを挟んでコーディリアと向かい合っていた。この離宮で人間のまま動いている鼓動は二つ。コーディリアと、あとは地下の迷宮に隠れたユーイン・ラ・フェイだけ。他は皆石に変えて
「貴女の身に起きた不幸は分かります。絶望も――。全てを分かるとは言いませんけれど、分かりたいと思う」
コーディリアの言葉に嘘はなくても、それが私の胸に響くことはない。過去にあった絶望は最早遺物で、今はただ復讐を望む心だけ。
「おまえは死を免れない。なのに冷静ね。怖くはないの?」
「怖いです。けれど貴女が石に変えた全ての人が助かるなら、覚悟しなくてはいけないんだと思います」
震える瞳を堪えて懸命に、現世の第三皇女は私を見ていた。その瞳がふと流れた先にナディーン・カーブラックの冷たい彫像。ベッドには寝姿のままミランダ・ベスタベネラが石になっている。
「私の命と引き換えに、皆を助けてくれるのですよね?」
「そうよ」
その答えは真実。
「私にあるのは帝室を滅ぼしたい一心。それだけよ。伝説に謳われる
先のことは分からない。きっと私に溶け入った
「それなら今直ぐにでも私の命を奪って下さい」
「勇敢な子。でもダメよ。貴女は私の孫娘、ガラテア・ブランペインに命を奪われるの。それが帝室を滅ぼす引き金となって、復讐の歯車を回すのだから」
「ご自分の孫に私を殺させるのですか? どうしてそんな残酷なことを……」
残酷? お笑い種だわ。
「残酷というものはね、貴女。夫を奪い、私が自死したと見るや子供たちまで次々に処刑した情け知らずの帝室を言うのよ」
「けれど末の子のユージーンは許されました。それはブランペインの造反を許し、血脈を残そうとしたエスメラルダ様の――」
エスメラルダ! 私から何もかもを奪った悪魔のような女。
「お黙りなさい!! それ以上言えば石にした者たちの命も保証できないわっ」
発火した私を見て、多くの者は怨念だなんだと騒いだけれど、焼け落ちる塔の中から甦った私は光の魔法で姿を変えて、当時テンペル州で活動していた
「魔女に紛れて計画を練り始めた私の耳に、早々に飛び込んで来たのが子供たちの処刑よ。まだ幼い子たち。それを帝城の庭に引きずり出して家畜を捌くように首を落したとは帝都中の噂だったわ。それをさせたエスメラルダを貴女は何だと言おうとしたの? いいえ、聞きたくもない。聞く必要もないことよ。エスメラルダの行いはまだどこかで揺れていた私の心を微塵の揺らぎもないものに変えた。その点では感謝するべきなのかしら?」
「そんな、私はただ……」
死の宣告を受けた憐れな子羊。それでも折れないコーディリアの心を私は本心では讃えていた。この娘の半分の強さでもユージーンにあったなら、当事者でもない孫娘を運命の輪に引きずり込む必要なんてなかった。
けれどユージンは逃げ出した。これから先も飽くことなく逃げ続ける人生でしょう。一度逃げを決断した者は次の岐路に立ってもまた逃げることを選択してしまう。逃げて逃げて、ただ無為に朽ち果てて行くだけ。だから私はユージーンを諦めた。代わりにその種を汲んで、この復讐の火蓋を切ろうと――。
けれどもう時間がない。
ガラテアを見失っていた時間が余りにも長過ぎた。まさか老け込んだダグラスに引き取られていようとは。
キャメロンを売ったダグラスにまんまと足を引っ張られたことで、今やヒューバートも先の見えない五十代。いつ没してもおかしくない。
帝室の最後の当事者である老帝が存命の内に、何としてもこの復讐劇を始める必要があるのよ。
***
「手間をかけさせてごめんね」
「手間だなんて。それより、アカデミーに戻る道は分からない? アカデミーに戻りさえすればメクセラ先生に来て貰えるわ。そうすれば貴女だって助かる見込みがあるでしょ」
魔女はゴーレムに潰された下半身を凍結させることで延命していたけれど、それだっていつまで持つか。
「魔法を使えればねぇ……。
「昨日した話、覚えてる?」
「ええ。
脳裏に昨夜の話が甦る。
今、離宮を支配している
始まりは偶然。スリルがカルデネ生まれの友人、
魔女同士挨拶をと楽屋を訪ねたスリルは、そこで
「ほんのチラッとひと目だけ。でもそれでサロメの正体がエカテリーナ皇女だってことは直ぐに分かったよ。あたし、エカテリーナをよく知ってたから」
「だとしても、どっちが本当の姿かなんて分かるもの?」
「そりゃ分かるよ。あたし魔女だもん。光の幻でサロメっていう架空の魔女を演じてたんだ。サロメに魔女名と
スリルはサロメの正体を見抜いた。だからと言ってその時点で
けれど放っても置けない。スリルが何度となくサロメの周辺に現れることで、それを不審に思ったある魔女が動き始める。
「あたしには呪いで済ませたのに、オフィーリアは殺された。それも結局はあたしのせいね」
「貴女のせいなんかじゃないわ」
「どうなのかな。あたしも死んだも同然になってようやく呪いが解けたけど、オフィーリアを死なせた悔いは消えないよ」
それは……。昨日今日会ったばかりの私の言葉でどうにかなるものじゃない。
「でもどうしてオフィーリアは殺さてしまったの?」
「さあね。とにかくサロメはハグらしくないんだ。ハグは
「その訳が別に優先する目的ね。そしてその目的が帝室への復讐、なのよね?」
「うん。追いかけ回してる内にそうだって分かった。そりゃエカテリーナの気持ちからしたら許せないよ。愛した夫も子供も奪われて……。でもそれを認めてしまったらあたしたちは魔女じゃなくなる。あたしたち魔女は一度だけ、戦争に加担するっていう大きな大きな過ちを犯した。だからもう二度と過ちは許されないんだ」
魔女たちが戦ったのは四七〇年代から始まった東部奪還戦争。約六十年の戦いを経て帝国は反旗を翻したマリスタニ公国から三分の一の領土を奪還した。
帝国と王国。その一方に加担して魔女が初めて人間の、兵士たちの命を脅かした戦い。
けれど、歴史家によればそれ以前から王国の、取り分け王国派精霊聖堂の魔女に対する挑発行為は酷かったとされているわ。神の存在を否定する魔女との対立を殊更に煽り、北部同盟の版図内では当たり前に魔女が追い立てられていたと聞くし、東部戦線の火蓋が切って落とされてからは、戦争に加担していない王国在住の魔女をすら的にかけ、大規模な魔女狩りが敢行されたとも。
「私は魔女を人間の味方だと信じているわ。南部も帝国の支配を受けて変わった。その変化を乗り越えられたのは身近で貴女たち魔女が支えてくれたからよ。私の魔法の師匠はハイペリオン王家の守護とも言われた
「あはっ、メグ姉かぁ。曲者揃いの黒猫突撃団を率いる、とんでもない跳ねっ返りだぁ」
旧ハイペリオンの土地では知らぬ者もない、右の目尻に涙のペイントをした魔女。涙とは無縁の陽気なメグ師匠は、いつだってハイペリオンの希望だったわ。
「跳ね返りって。確かにそんな噂も聞いたけれど、私の前ではいつも品のいいお姉様だったわよ。ほら見て、メグ師匠から貰った黒猫印のポーチ」
「へぇ、そりゃ凄い。認められたんだね。人間が魔女団の証を貰うのは第四位階、
「本当に? そんなこと一言も言われなかったけれど」
キルトのポーチに黒猫のアップリケを縫い留めたお守り袋。中には氷の精霊石が入ってる。メグ師匠は北部貴族の嫌がらせに遭っていた私をいつだって力強く慰めてくれた。それがあったから今の私がいる。
「懐かしいね。もっと話していたいけど、お別れの時が来たみたい。せっかく会えたのに残念」
その声の力なさに私は手を取るのが精一杯だった。
「あたしの
「やめて。そんなの嫌よ。私は貴女を助けたいのに!」
握った手を頬に寄せると、スリルは空いている手で私の髪をそっと撫でた。
「いいの。あたしに最期の仕事をさせて。ダルシーを助けさせて。ね?」
微笑みの中に瞼が閉ざされると、それまでじっとしていた周辺の闇が渦を巻いて、横たわるスリルの上に黒々と
「本当に、逝ってしまったの?」
「…………」
「スリルは私が連れて行くわ。貴女は
彼女の下半身を覆っていた氷が音を立てた時、喪失感から震えが走って、ただただ涙がこぼれ落ちて行った。
「ダルシー、泣かないでー」
「ダルシー、ずっと一緒にいるから」
労わるような優しい声に触れて、袖口で乱暴に涙を拭うと、目の前に浮かぶのは私とスリルのニックスたち。二つの姿は重なって、光を浴びたプリズムのように輝き始めたわ。
「あ、あなたたち、何を始めるつもりなの?」
氷の透明を彩る七色が氷霧の靄に包まれて、余りの美しさに尻込みしてしまうほど。
線の細かった
「あなたは……?」
「やだなぁ、ボクたちだよー」
柔らかく帯を引く優し気なエコー。
「ボクたちはボクになって今からはダルシーのヌーラ!」
私のニックスはスリルのニックスと一つになって、氷の上位精霊に生まれ変わった。そういうこと?
「さ、急ごう。スリルの為にも無事に戻らないと」
「そうね。そうよね。付いて行くわ。道案内をお願い」
悲しむ気持ちを今は置いて、スリルが命懸けで止めようとした
***
スリルのニックスだった記憶からヌーラは迷いなく飛び続けたわ。
追っ手を撒こうとデタラメに逃げ回った私は、南部はルーリンとの州境にまで迷い込んでいたみたい。昨夜星を見て確かめた北の方角へ、移動経路はほとんど真っ直ぐ。
「暗くなって来たけど、まだなの?」
「気になるならロケートしてみなよー」
「ロケート? 何をロケートするのよ」
「スリルは北のスパイとプランペインの娘にチップを撒いてた。それが
北のスパイ? ブランペインの娘というのはガラテアのことよね。
まぁいいわ。それで分かると言うならロケートするまでよ。
「
「反応が一つしかないわよ?」
「あれー? 片っぽ
「みたいね」
要するにスパイかガラテア、どっちかにバレたってことだわ。でもそれは今考えることじゃない。感覚的に掴めた距離と方角は問題なし。それで十分よ。
「悪くないわ。夜までには戻れそう!」
「でしょー? 大変なのは街道に出るまでー。そっから先は楽々ちーん」
ニックスだった頃と変わらない素振りで宙を舞うステップ。持ち前の暢気が戻って来たみたい。
「ふふっ、そうやって浮かれてると痛い目を見るわよ、ヌーラ」
「ダルシー、伏せてーっ!!」
「!!?」
ほら! うっかり気を緩めたらこれよ!
伏せるというより盛大に転倒して、もう何度目かの土被り。いい加減慣れて来たわ。咄嗟に庇った頭の上をけたたましい笑い声が飛び越えて行った。
「今のは何!?」
「
「多分、どうあってもダルシーの姿をコピーしたいみたい」
私に逃げられたことが相当な計画の穴になってるのね。なら尚更――。
「冗談じゃないわ! どうすればいい?
実践魔法教習では一年の後学期から対人、対魔物の交戦カリキュラムが組み込まれる。けれど
特に
「
「そーそー。
ニ者や不特定多数の感情を結び合わせるのが
「
とにかく薄闇と木立に紛れている敵を見付けないと。それまでは五倍の魔法防御で相手の攻めをどうにか耐える。
「ダルシー、多分、
「嘘でしょ!?」
「ヌーラ嘘つかない。奥の手を使ってー」
私のニックスだった記憶がそう言わせるのね。でものっけから奥の手? 当てが外れたらそれこそ後がないじゃない。
「右から飛んで来るー!」
「くっ、
単純に言えば魔力を濃縮して爆発させる高等テクニックね。
バクンッ――。
上下から挟み込むような圧力が目に見えない
「これが
「でも抑えてる! 反撃してーっ!」
「言うのはタダでしょ! 無茶振りだって分かってる!?」
「ダルシー、生まれ変わったボクを信じてみよー!」
そうか。心なし魔力の通りがスムーズなのは上位精霊のパートナーを得たから。そういうことなら昨日までの私以上に戦えるはず!
いた!
離宮で追い縋って来た従僕の
「ヌーラ! 合わせて!」
「ダルシー、任せてー!」
一撃で倒す。倒しさえすればこっちが気絶したって構わない。今日が明日でも時間はまだある。ここで私が乗っ取られたらそれこそ全てがお終いなんだから。
「
キリキリと音を立て、眼前に浮かんだ凍気の塊りは、かつて見たこともないほど美しくて、
「グピッ!?」
「キュゥゥゥウウ……。クケケケケ、カパパパパーーッ」
形容し難い断末魔を上げて、邪霊の靄は四散して行った。
確かな手応えと同時に、肩から滑り落ちる重荷。
「やったね、ダルシー。こてんぱーん!」
「ええ、どうにかね……」
「大丈夫ー?」
「少し、休みたいわ」
ごっそり抜けた魔力と今日までの疲労。そこにホッとした想いが重なって、私は倒れ込む体を支え切れなかった。
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