第44話 キス
翌朝。物凄い勢いで寮室の扉が叩かれた。
眠い目を擦りながら夜着のまま扉を開けたらアシュリーとデスピナの顔。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないです」
「あんた今何時だと思ってんの?」
ティールームの壁時計を見て蒼白。
「十時……」
「早く着替えて下さい。三限目が始まっちゃいます」
「あたしたちは先に戻るわよ。こっちまで遅刻する気はないからね!」
最悪だ! チャロもスニーもとっくに出てったみたい。確かに自分のことは自分でやれって言われたけど、まさか朝も起こしてくれないなんて思わなかった。
「あああ、昨日二時過ぎまで話してたから!」
普段なら寝坊なんてしないのに、夜歩きのツケがこんな形で!
急がなくっちゃ! 三限目って何だっけ? 精霊学だ! メクセラだったら相当まずい。
着こなしも何もない勢いで制服に袖を通してダッシュ! 寮の階段を転がり落ちるように駆け下りたら寮監とまともにぶつかった。
「こらっ、寮内を走るんじゃありません!」
「すみませんでしたーっ!」
振り返って謝ってる余裕なんてない。謝罪を投げ捨てひたすら走った。
幸い一年生寮は第一講義棟に程近い。そうじゃなかったら二人も起こしに来てはくれなかっただろう。
警備兵の立つ入り口に猛然と飛び込んで右旋回九十度。鐘が鳴る中を突き当りまで走り抜けて第四教室の引き戸を思いっ切り引いた。
「はい、蛇」
「嘘でしょ!?」
「ラトルスネーク、カモーン!」
無残! ギリギリアウトだった!
お馴染みのガラガラ蛇がシャツの下を這いずり回る。冷たさとくすぐったさに悶絶すれば教室中から笑いの渦が巻き起こって、お蔭ですっかり目が覚めた。
***
「まったく酷い目に遭った」
四限を終えてお昼休み。今日はレストランに行くからアシュリーとデスピナとは別々だ。更には先週から怒りの日、逸楽の日、悔恨の日の実践格闘は削っていて、ランチの後に向かうのは大図書館と決まってる。
「そうだ。図書館で思い出した。ウッドチップの正体は分かったんだからフレディに伝えておかなきゃ」
一度運動場に寄って一人筋トレに勤しむフレディに報告。某魔女団の印とだけ伝えたら「詳しく聞かせろ」って返されたけど、そもそも昨夜、考えなしにフレディを巻き込んだのが間違いの始まり。
勿論、フレディがいてくれて助かった。けど、このままズルズルやったら魔女同士のゴタゴタに巻き込むことになるし、それはチャロやスニーが許さない。
ついでにフレディに渡してあったチップも回収。こっちも
用を済ませて素早く踵を返した私は温室側から大図書館を目指した。その途中で出くわしたのは円形教室から出て来た二年生の一団。
「あ、ケネスだ」
ケネス・アップルガース――。
保健室での会話からもう随分経つ。見たところ体調は元通りみたいだけど、あれっきり私たちの間に変わったことは何もなくて、廊下ですれ違えば会釈する程度の間柄。
誓いの真意を確かめようにもどう切り出したものか分からないし、向こうは向こうで素っ気無く通り去ってしまうのだから取り付く島もない。
ケネスに関してはまったく気鬱だ。どうにも魂胆が知れない。分からない意図を悩んでも仕方ないと思う反面、分からないで済ませてはダメだと思う心が
「どうした? 五限はいつも実践格闘じゃなかったか?」
うわ、珍しい。ケネスの方から話しかけて来た。こんなこと初めて。
「先週から受講を規定の三回にまで削ってて、一日おきに図書館通いしてる」
「勉強か。噂は聞いてる。座学で色々やらかしてるそうだな」
オーキッドグレイの瞳に意地の悪い光が宿る。
「やめて。忘れて。昨日と今日とで同じ私だと思わないで」
ケネスは笑った。
まさか、今日の失態がもうバレてる? 不愉快だ。いつか見てろ。
「ケネスはこれから剣十字サロン?」
「いや、戦技教習には復帰したんだが、サロン活動は来月からにしろとレイモンドからのお達しでね」
レイモンド先輩は剣十字サロンの主宰。ブロンドの好男子で人当たりも甘口。けど今日のケネスも角がなくて随分と甘口だ。そのせいか、つい私も予定にないことを口走ってしまった。
「そう。なら今からの予定は?」
「ない。寮に戻るだけだ」
「待って。それだったら手伝って欲しいことが」
「手伝う? 何をだ?」
「その、私が今図書館で調べてるのは、ブランペインにまつわる歴史とか人物のことで、だから、どの本が参考になるかとか教えて貰えると助かる」
上目遣いに反応を窺うとケネスはまた笑った。でも、さっきとは違う優し気で静かな笑い。
「言ったはずだ。いつ如何なる時もおまえの求めに応じると」
焦った。
「違う! そんなつもりで言ったんじゃない」
「分かってる。行くぞ」
私がまだ誓いを呑み込めてないと知ってる顔。冷やりとさせて意地が悪い。でも、話せたことはよかった。それから、笑顔が見られたことも。
***
大図書館は五階建て。二階、三階の中央は吹き抜けで、四階は持ち出し禁止の書棚と個室の勉強室。五階は地図などを始めとした大判の紙資料で埋め尽くされてる。
私とケネスは南部関連の書物を数冊選んで、自習机に移動した。
自習机は各階にあって、一階は中央部分。二階、三階は吹き抜けを囲む手すり際。私たちは人の少ない三階の一角に椅子を引いた。
「それで、今は何を調べてる?」
「えっと、手始めに王家の概要はざっと調べた。戦後のブランペインは王弟が生かされる形で帝国に組み込まれてたでしょ。侯爵家になって、それからキャメロンの代には公爵家にもなった」
控え目に言っても暗い歴史だ。
敗北し、最後の王は刑に処され、王弟は勝者に臣従して、後の代に帝室の一員となるも造反。再興を成すと思われたキャメロンは帝都で処刑台に登り、妻であった皇女エカテリーナも後追い自殺で世を去っている。
キャメロンの後にカルデネを託された大叔父、ダグラスだけが皇帝の威光に服して功績を残した。
「ケネスはダグラス・ブランペインをどう思う?」
「その答えは自分を何者とするかで変わって来るな」
「自分を?」
「そうだ。俺は自分を帝国の臣民だと信じてる。だからダグラス・ブランペインは国家に忠誠を尽くした誉ある騎士だと思う」
「私もそう思う!」
大好きな大叔父を褒められたことがただただ嬉しかった。
「だが自らをブランペインの臣下、民だと信じる
「簒奪なんかしてない! キャメロンは造反の責任を取らずに亡命を考えてた。どの本にだってそう書いてある。仮に亡命してたらカルデネやワズンの、旧王国の民はどうなったと思う? 大叔父様は家じゃなく故国に尽くした。エスメラルダ帝が大叔父様を方伯として封じたのは、大叔父様がそれを望んだからじゃない」
「分かってる。落ち着け。事実は一つだ。おまえの言ったことは正しい。だがそれは
まったくその通りで、感情に振り回された自分が急に恥ずかしく思えた。
「しかしそうか。おまえは以前も大叔父御のことを口にしていたな。父親代わりのその人物とずっと二人で暮らしていたと。それがダグラス・ブランペインだったのか」
「うん。だからもう、私が何者かは察しが付いたでしょ」
ケネスは辺りに人がいないのを確かめて頷いた。
「話を戻そう。今は何を調べてるって?」
その切り返しには思わずポカンとしてしまった。
「どうしてそうなる。私の血筋を知ったのに、文句の一つもないの?」
重いはずの事実を躱された気がして反射的に噛み付いた。
ブランペインの亡霊に振り回されて来たケネスなら、キャメロンの血統に言いたいことがあるはずだ。なのにケネスは私を責めない。どうして?
私の疑念を余所にケネスは眉一つ動かさなかった。
「おまえこそどうしてそうなる。俺が認めたのはおまえであって、それは血筋を見て決めたことじゃない。関係ないんだ。話を戻してもいいか?」
「……うん」
確かにケネスは保健室で、私に私のままでいいと言ってくれた。そのことを私が素直に受け止められずにいただけで、ケネスはあの時から何も変わってなかったということか――。
「おい、聞いてるのか?」
「あ、うん。今はその、私の母親が誰かを知りたくて。それを調べてるところ」
「なるほどな。それは中々に難しそうだ。だが焦らず地道に行こう」
ケネスは早速数冊の本をひっくり返して、選んだ一冊をパラパラと捲り始めた。
物静かな横顔。果し合いをした時の激しさはどこにも見当たらない。
「ありがとう」
意識せずに感謝の言葉がこぼれ出た。
「ん? ああ、気にするな」
相変わらず素っ気無いのに、皮肉さは欠片もない。その横顔から目が離せなくて、どうしてだろう? 気がついたら浅黒い頬に顔を寄せていた。
「な、何だ?」
「ううん、分からない」
驚いた瞳。
本当に分からない。何故自分がそうしたのか、どこにその訳があるのか。
唇が触れた?
それとも鼻先だった?
ただ自然とそうなっただけで、理由なんて必要なかった。
「それで、何か分かった?」
「あ、ああ。ここにユージーンの婚姻に関する最初の記述がある」
ユージーン・ブランペイン――。
星歴五八二年誕生。ウラノス国王を討ったダグラス・ブランペインの功績により、それまで帝都に置かれていた身柄は解放され、五八六年に四歳でカルデネの地に戻った。
五九七年。成人してダグラスより方伯の地位を譲り受けると、同じ年に最初の結婚。相手はコホーテクの名家、マーキュリー帝領伯家の次女アリソン・マーキュリーとある。
「だがアリソンは六〇六年に病没している」
「本当だ。当時の流行病が原因だって書いてある。じゃあ私の母親は誰になるの?」
私の生まれは遡って数えると星歴六一九年。アリソンが母親である可能性は皆無だ。
「六〇九年にフラウンホーファー子爵家の息女と再婚したとなっているな。ほら、ここだ」
「フラウンホーファー? どこかで聞いた気がするけど……」
「帝都があるテンペル州の名家だからそれなりに名は通ってる。北部貴族との婚姻はブランペインを帝室側に繋ぎ止める作戦だろうけどな」
要するに政略結婚ってヤツだ。物語にあるような羨まれる結婚とは無縁の人生だったということ。
「二番目の奥さんの名前は分からないの?」
「いや、別の本に載ってるだろう。これか、こっちか――。ああ、これだ」
ジャクリーン・フラウンホーファー――。
後添えとしてユージーンと同じ二十七歳での輿入れ。北部への郷愁が強く、夫婦仲は早期に破綻。子を成さないまま夜の生活もなくなり――。
「夜の生活って?」
「んっ、んん! まぁそれは、夫婦のことだから色々あったんだろ」
何故赤くなる。
「色々って?」
「それよりここだ。六一六年、ユージーンと使用人の間に庶子が生まれてる。記録上の最初の庶子だな」
何となく話を逸らされた気がするけど、まぁいいや。
「他にも庶子のいる可能性が?」
「当然だ。貴族の当主なら多くの子を成すのは使命の一つだからな。記録になくても外に子供を作った可能性は十分ある」
「つまり、私もその庶子に当たるってこと?」
「正式な婚姻歴が二度で、年代的にどちらも当て嵌まらないならそうなるな。だが知りたいのは誰が母親かだろう? ならこの辺りの記述が鍵じゃないか?」
庶子誕生に失望したジャクリーンは強引に実家へ戻った。その反動か、ユージーンの女性関係はこの頃から複雑奇怪、支離滅裂なものになって行ったとある。
「一説には中央の諜報活動に対する防諜の一環と言われている乱行だな」
「防諜?」
「そうだ。遡ってアリソン病没の頃から、ユージーンには王国派精霊聖堂と接触を持った疑いが浮上していた」
「そのことなら他の本にも色々書いてあった」
ヒューバート帝はカルデネ州での諜報活動を強化して、ユージーンが王国派精霊聖堂を介して北部同盟と繋がっている証拠を突き止めようとした。
結果、ユージーンが六〇一年に王国派精霊聖堂の洗礼を受けていた過去が判明。それでも北部同盟との繋がりまでは見えて来なかった。
ユージーンはのらりくらりと追及を躱して、実際に亡命する六一九年まで、決定的な証拠を掴ませてない。
「こんな記述もある。ジャクリーンが密偵として送り込まれた可能性について触れた内容だ」
「密偵? つまり結婚は建前で、裏切りの証拠を掴みに嫁いで来たってこと?」
「この頃の記述は事実と推測が混ぜこぜになって、何が本当か、簡単には分からない状態だな」
「ならどうすれば本当のことが分かるの?」
「さあ、それは――。ただ、ジャクリーンの件に関しては、強引に実家に戻っている点から密偵だった可能性はあると俺は考えている。その場合、手詰まりで逃げ帰ったというより、何か手を打って帰ったとは思わないか?」
確かに。嫁入りという形で送り込まれた密偵なら、実に大掛かりな作戦だったはずだ。それを成果がないからと尻尾を巻いて引き上げたとは信じ難い。
「例えば、他に密偵を残して行ったとか?」
「先ずはその線だな。諜報活動を継続する為、フラウンホーファーの周辺にいた人物がカルデネに残った可能性はあるだろう」
「その誰かを見つければ私の母親が誰かも分かる?」
「そう都合よく直結するかは分からない。だが世に知られざる情報を握ってる可能性は高いと思う。少なくとも次に繋がる何かは分かるはずだ」
フラウンホーファー……。
はっきりとは記憶してないけど、最近どこかでその名前を耳にした覚えがある。いや、それだけじゃない。その名の人物とどこかで会った気がする。それもこのアカデミーで。どこだった? 誰だった?
「五限の終わりの鐘だ。この後はサロン活動じゃないのか?」
「そうだけど、今何か思い出せそうで」
「焦るなと言ったろ。図書館に来るのは一日おきだったな。それならまた明後日、続きを調べよう」
「うん。今日は手伝って貰って助かった。本当にありがとう、ケネス」
「いいんだ。気にするな」
それだけ言うと、ケネスは本を抱えて書棚へ向かったきり、そのまま戻っては来なかった。
何だろうか。
私は彼の誓いを受け入れてしまったんだろうか。
それまであったはずの、どうにか誓いを退けて距離を置こうとする想いが、今日のことで奇麗さっぱり消えてしまったかのように思う。
気にするなと言いながら、全てこちらの求めに応じて、明後日もまた力になってくれると言うケネス。
指が無意識に唇に触れると、何となくその答えが分かった気がした。
「そうか。これはきっと感謝の気持ちだ」
ケネスの行いに報いようとする想いが、今までとは違う目で彼を見させてる。私はそうと結論付けることにした。
***
六限はサロン活動。昨日は例の免許関連の勉強会だったから、今日は通常の活動になる。内容は確か、音楽科の講師を招いてピアノの演奏会をするとか言ってた。
「あれ? ナディーン様は?」
コテージに入るなり探したけれど、定位置に姫君の姿が見当たらない。進行はビアンカさんとリンジーさんが仕切ってるみたいだ。
「ナディーン様は急用で、五限から外出なさったそうですよ」
「そうなの? 外出ってどこへ?」
アシュリーの言葉にガッカリしつつ行方を尋ねると、返って来たのは意外な答え。
「何でも昨夜、コーディリア皇女殿下が離宮に入られたとかで、三年のミランダ様と、二年からはナディーン様とダルシー様が急遽ご挨拶に伺うことになったみたいです」
皇女殿下は離宮からアカデミーに通われるから、挨拶に出向いたということか。
ミランダ様は学内最大の銀河サロンの主宰というだけじゃなく、帝国御三家の一つ、ベスタベネラ家の御令嬢。その上、卒業後には皇太子シリウス様との婚約も噂されている才媛だ。
随伴のナディーン様も帝国御三家だし、ダルシーさんは侯爵家でも旧ハイペリオン王家の血筋。いずれも銀河サロンに次ぐ規模のサロン主宰者でもある。
「帰りはいつ頃? 離宮って遠いの?」
「さあ? アカデミーと離宮は馬車で十五分程度の距離だって聞きましたから、五キロくらいしか離れてないと思いますよ」
「そうなんだ。今日はせっかく会える日だったのに……」
新歓以降、サロンの本格始動で一日おきにしか会えなくなった私の姫君。
急遽のことなら仕方ないけど、私はナディーン様の騎士なんだから、本当ならお側付きとして同道したかった。
結局、ナディーン様は演奏会が終わっても戻らず終い。
私はコテージの二階に上がって、昨日訪ねた浪漫サロンの件をアシュリーとデスピナに報告した。二人とも、明日にはサンプルが手に入ると知って弾みを得た様子だった。私としても出だしの順調さには満足してる。
状況を整理すると、スパイの件はチャロとスニーが鋭意調査中。スパッツの企画はこのまま徐々に進めて行けばよさそう。
となると気になるのは、今日図書館で仕入れたフラウンホーファーの件。
ケネスが言うには帝都ネビュラを擁するテンペル州の名家らしい。だとしたら帝都に詳しいナディーン様に聞くのが近道だ。離宮に入られた皇女殿下のことも気になるし、後でナディーン様の寮室を訪ねてみよう。
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