第36話 アブドメン

 今日は初めてガラテアとゆったりした入浴時間を過ごしましたわ。大浴場ですから人目もあって、当たり障りのない話ばかりでしたけれど、テレスとアリスにガラテアの髪や肌のケアをさせたことから、身嗜みや見えないお洒落のことなどを話して聞かせました。あの子にはいい機会でしたわね。


「お嬢様。お夕食は如何されますか。いつものお時間で?」

「そうね。少し遅らせて頂戴。それと、普段のことはアリスに任せて、テレスは今から言う通りに手紙を書いて欲しいの」

「かしこまりました。それでは便箋とペンを取って参ります」


 湯上りの体にナイトガウンをまとって、レモンピールを添えたアイスティーを頂きます。さっぱりとした香りと冷たさが喉を通ると、身の内から火照りをこそげて行くようですわ。


「準備が整いました。お嬢様、どうぞ」


 ローテーブルの前に足を畳んで、テレスがペンを構えます。


「ありがとうテレス。そうね、書き出しはどうしようかしら……」


 悩み所ですわ。一体どうすればあのダルシー嬢に協力を取り付けることができるかしら?


「どなた様へのお手紙ですか?」

「…………。ダルシー・ハイペリオンよ」

「それは差し詰め、果たし状か何かでしょうか?」

「そんな訳ないでしょう。それだったら自分の手で書き殴ったものを丸めて投げ付けてますわ」

「ですよね。では一体どのような心境の変化で?」


 好奇心を隠さない瞳が三角縁の眼鏡の奥で光ってますわ。テレスは直ぐに私をダシに楽しみを見つけようとするんですから。


「ガラテアよ。あの子の件でダルシー嬢に力添えを頼みたいの」

「ガラテア様ですか。今日までは話に聞くばかりで、初めてお会いして些か驚きました」

「でしょうね」

「ご本人もそうでしたけれど、侍女のお二人。スニーさんの方は如何にも侍女らしく見えましたが、チャロさんでしたか。彼女の方は何と言うか、その……。お嬢様にもタメ語だったのには驚かされました」


 ええ。まるっきりお子様のように賑やかな方でしたわ。けれど私は事情を知っていますから、ガラテアのお目付け役なら位階もより上なのだと分かります。何事も気に留めず侍女を演じる素振りもない辺り、如何にも陽気な魔女といった感じでしたわ。


「さて、余談は余談として書き出しよ。上からでもなく下からでもなく、対等な文言と節回しで綴りたいのだけれど、どう書くべきかしら?」

「そうですね。よくお嬢様は仰っていました。ガラテア様とダルシー様とは会うたびに挨拶を交わされる仲だと」

「不本意ながら事実だわ」

「であれば事細かに用件を書くのではなく、ガラテア様の件で相談がある旨を簡潔に記した上で、訪問、ご招待、誘い合わせ等々の日時と場所を添えて先方のご都合を伺えばよろしいのでは?」

「決まり! それで行きますわ。あとは当たって砕けろですわね。向こうが突っぱねる気でもこっちはこっちで袖を掴んで離さなければいいのよ」

「それはもう果し合いの域です。お嬢様」


 あら、私としたことが。ダルシー嬢が相手となるとつい構えてしまいます。

 それに、考えようによってはこれはいい機会かもしれませんわ。あと半月もすればアカデミーにコーディリア様がいらっしゃいます。その前にメンバー同士の小競り合いが目立つ互いのサロンの在り方について話し合うことも必要でしょう。

 ダルシー嬢は相手が南部の者であれば決して無下にしない人ですから、ガラテアの件については私が頭を下げさえすれば通るはずです。

 ええ。あの子の為なら頭を下げるくらいのこと何でもありませんわ。




 ***




 畜生、あのパッツン女。何が報酬の前払いだ。こんな危険なもんを寄越しやがって。


「くっそ、マジでやべーなコレ! うおっ、こんなデザインもう意味ねーじゃねーか!」


 ミニー・ガーフィールドから受け取ったのはとんでもねー危険物だった。ゲスロマン子爵家が後援するブランドの一つ、ラズルダズルのスケッチカタログだ。

 こいつがもうビンビンに来る! 極限までリアルに描かれた女体。思春期の妄想も追いつかないようなデザイン。

 数あるブランドの中でもラズルダズルと言やぁ、真の紳士にしか理解できない世界なんて言われるピーキー路線。下着と言っても男を挑発する為だけにデザインされた究極のエロ下着ブランドだからな。


「フレディおぼっちゃまー? どちらですかー?」


 うおっ!? やべぇ、マーサいたのかよ! とにかくこいつを仕舞って――。


「おう! 書斎で勉強中だ。何か用だったか?」

「ご休憩の紅茶とケーキをお持ちしました」

「そ、そうか。待ってろ、今開けてやっから」


 ドア越しにトレーを抱るのは俺付きの侍女マーサ。長年これと言った功績もなく平民落ちした貴族の娘なんだが、帝都の別邸タウンハウスにいた頃に母子連れで奉公に上がったところをそのまま拾った感じだな。マーサには講義の見学許可を取ってあるから普段は俺の世話より勉学を優先させてる。世話仕事はもう一人、年嵩のケイトがほとんどやってくれてる感じだ。


「ケイトはどうした?」

「外へお買い物です」

「そうか。後はいいぞ。下げるのもやっとくから、おまえは部屋で自分の勉強してろよ」

「はい。では一時間したら下げに参ります」


 いいって言ってんのに律儀なヤツだ。しかし一時間もありゃあ十分だぜ。


「戸締りよし、カタログよし。茶とケーキは後回し。さぁてここからは男の時間だ」


 あらかじめ厳選しておいたページを開いて見台にセット。見開き一杯に寝そべる女はガラテアやミニーみてーな鶏ガラ洗濯板とは訳が違う。


「やっぱ女は胸だよなぁ」


 フレームだけで機能しないブラからたわわなアレがナニしてもうヤバイ。ブラの下から腰にかけてのシースルーがまたニクイ!


「よしっ、やるか!」


 スボンを下ろして、と。


 バリーン――!!


「おわあぁぁぁあ!?!? 何だ? 誰だ窓を割りやがったのは!?」

「ごめーん! 加減を間違えた」


 その声は鶏ガラ! いやガラテアか!

 そうなんだよ。何の因果か俺の書斎の向こう正面は東北棟、ガラテアの書斎なんだよな。


「何考えてんだおまえ! バカ野郎!」

「ぎゃー! スポンを履けっ、バカーッ!!」


 ドスン――!!


 股間に分厚い本の角がめり込んだ。


「―――っっ!!!」


 おごごご……。

 野郎、ナニがアレしてトラウマみたいなこと言ってやがったが、こっちはまだ下着履いてんだろ! 男のシンボルに何てことしやがる!


「おぼっちゃま? 今ガラスの割れる音が」


 やべっ。


「マーサか、何でもねぇ! 隣のバカが窓を割っただけだ。おまえは戻って勉強してろ」

「でも、呻くような声も……」

「大丈夫だ。いいから戻れっ」

「……はい」


 っぶねー! とにかくズボンだ。それからあの鶏ガラに文句言ってやらねーと。


「もうズボン履いた?」


 は? ガラテアの声が机の向こうからしたぞ。


「おまっ、何で人の書斎にいるんだよ!?」

「怪我したかと思って。位置入替スイッチングで飛んで来た」

「魔法で侵入して来るんじゃねぇ! それと、今更怪我の心配とかおせーんだよっ。おもっくそ当てやがって」

「いいから、履いたの?」

「履いたよこの野郎!」


 立ち上がれば悪びれもしねー鶏ガラ洗濯板女。括弧、筋肉マシマシ、括弧閉じが仁王立ちだよ。


「てめぇ、いきなり人の部屋の窓を割るんじゃねぇ!」

「それはごめん。ほら、本とかでよく、人を呼び出すのに窓に小石を投げるでしょ? あれをしようと思って加減を間違っちゃったの」

「何が、間違っちゃったの、だよ。筋肉筋肉煩いヤツが自分の筋量を見誤ってんじゃねーぞ」

「しつこいな。ちゃんと謝ったでしょ」


 こいつ。本の角を喰らったせがれ・・・にも謝れってんだよ。


「着替え中だった?」

「いや。で、何の用だよ? てゆーかこの匂い。おまえ姉貴と同じ香油か何か付けてんのか?」

「分かる!?」


 途端に上機嫌な顔になって、髪も肌もツヤツヤしてるあたり風呂上がりかよ。薔薇の香油がここまで香るぜ。


「さっきナディーン様と大浴場に行ったら、テレスさんとアリスさんだっけ? 侍女さんたちが私の髪や肌までお手入れしてくれたの。その上ナディーン様から髪用の椿油と肌用の薔薇の香油を頂いちゃって――」

「そーかよ。そいつはよかったな」

「それでね。プレゼントのお返しに何を送ったら喜んでくれるかなって考えたんだけど、フレディはナディーン様が喜びそうな物、何か知らない?」


 知っるっかっ! 姉貴とそこそこ仲良かったのは四年も五年も前のこった。今現在の嗜好なんざ……。

 いや、適当に答えてさっさと出てって貰わねーとな。今気づいたが見台にカタログを置きっぱなしだ。こいつを見られたらまずいことになる。


「あー、あれだ。花とかでいんじゃね?」

「花? どんな花? 今だとダリアは季節外れだし」

「温室の花でもかっぱらって渡しゃいーだろ」

「そんな訳に行くかっ。でも花か。切り花と鉢植えとどっちがいいと思う?」

「んなもん知るか。こっちはおまえが割った窓ガラスの始末があるんだよ。用が済んだならさっさと出てけ」

「それなら大丈夫。吸引清掃バキューミング!」


 ガラテアが手の平を向けると散乱したガラス片が吸い寄せられて、サッカーボール大にまとまっちまった。便利なもんだな。


「ゴミ箱は?」

「あ、ああ。そこだ」

「よし、これで完了。窓ガラス代は後で請求して」

「別に構わねーよ」

「それはダメ。私が割ったんだからちゃんと弁償する。――ん? この本は何?」

「あ? あっ、いや、それはっ」


 くそっ、魔法に気を逸らされちまった! ガラテアのヤツ、遮る間もなく本を取りやがって。


「何これ? フレディって女の人の下着に興味があるの?」

「いいから返せよっ!」

「あ、ひょっとして誰かにプレゼントするとか?」


 最悪だよ! こいつ絶対デスピナやアシュリーに話すだろ。何としてもそれだけは防がねーと。


「でもこの下着何か変じゃない? だって隠すはずの部分が全然――」

「黙ってろ! いいか? 今見たものは全部忘れろ! 全部だ! 記憶を消して何も思い出すな。分かったな?」

「え、どうして?」

「分かったな!!?」

「……分かった」

「それでいい」


 よし、押しきった。


「でもそういうのがお洒落なら少し興味ある。ナディーン様が香りとか見えないお洒落も大切だって」


 だぁぁ! どうしてお前はそうやって前進して来るんだよ! いい加減退くことを覚えろって!


「忘れろって言っただろ! 今分かったって言ったよな!? 姉貴が何だ!? お洒落がどうした!? こんなもん着てみろっ、おまえの大好きな姉貴が泡吹いてぶっ倒れるぞ!」

「そ、そうなの? ならやめとく」


 ったくこいつはよ。だがバカで助かった。今度ばかりはこいつのバカに救われたぜ。バカとハサミは使いようたぁよく言ったもんだな。とにかくこの危険物は引出しに封印だ。ついでにミニーに言われた件を確認しとくか。


「そうだ。聞こうと思ってたんだがガラテア。筋トレはいつになったら終わるんだ? 来月になりゃあ実践格闘の講義内容だって基礎を終えて次の段階に進むだろ?」

「フレディがそんな質問をするなんて珍しい。いつもぶつくさ文句言いながら筋トレしてるのに」

「うるせーな。文句は言ってもちゃんとやってんだろ。で、いつ終わるんだよ?」

「フレディの場合、一度は鍛えた体の再調整だからそんなにはかからない。ここまで順調に来てるし、目安は来月前半くらい。秋の祭典前には目途がつくと思うけど?」


 するってーとミニーのデッサンは秋の祭典の間にでも受けてやればいーのか。俺はどうせ本邸カントリーハウスにも帝都タウンハウスにも戻る気はねーし、ミニーのヤツがこっちに残ってりゃあそれで済む話だな。


「そうそう。私も聞きたいことがあったの。フレディは筋トレやってて何か感じない?」

「何かって何だよ?」

「んー。こう、お腹の下辺りに力の起点ができたみたいな、そんな感覚」


 何だそりゃ。こいつの言い回しって漠然とし過ぎなんだよな。


「そりゃ腕でも足でも力を込めりゃ下っ腹に力は入るだろ。おまえが前に言ってた、物を掴む力の起点が体幹筋にあるって感覚はなんとなく分かって来たぞ。そのことと何か違うのか?」

「そうじゃなくて。今までに感じたことのないようなものなんだけど」

「そう言われてもな。例えばどんな?」

「紙とペンを貸して」


 リクエストに応じるとガラテアは紙に丸を描いて、その下に大の字をくっつけた。それを人体と言って憚らねーんだから呆れるぜ。十四にもなって上手い下手を論じる以前の絵しか描けねーのかよ……。


「例えばだけど。人間の脳には波動受容体があって、そのお蔭で魔法が使えるでしょ?」

「厭味か? 俺には魔法の素質がないんだが?」

「それはいいの。例えなんだから。で、私も魔法を使えるようになってから初めて受容体の存在とか、魔力が流れる感覚が分かるようになったんだけど、魔法の場合は受容体が起点で、魔力は起点に連動して動く各部の筋肉みたいなものなのね?」

「まぁ言いたいことは分かる。それで?」

「うん。魔法の威力と肉体が放つ威力を対とした場合、魔力と筋力も対になるとしたら、波動受容体の対だって存在すると思わない?」

「あった方がすっきりするのは確かだな。要するにお前が言う力の起点ってのは波動受容体の対ってことなんだろ?」

「そう、それ! 私はそれを昔から感じてるの。だから同じ鍛え方をすればフレディも感じられるようになるんじゃないかと思って」


 我が意を得たりって顔で笑ってやがる。こいつって黙ってりゃ美人だし、今みたいに笑うと確かにそこいらの女よか断然可愛いよな。そう考えるとバカだけが玉に瑕だ。馬鹿力だしよ。……ん?


「……待て。おまえの馬鹿力ってそれが理由か? 力の起点ってヤツからあのふざけたパワーを引っ張り出してんのか?」

「ふざけたパワーとか言うな。オーラだ。力の起点――私は丹田アブドメンって呼んでるけど、それが備われば攻守に渡ってオーラが使えるようになるの。そうなれば大叔父様直伝の真騎士道三十六攻を私からフレディに伝授することだって可能になる」


 真騎士道三十六攻? 何だそりゃ。いやオーラ丹田アブドメンも今の俺には分からねーが。ただ、ガラテアが今言ったことはあの日、魔法科棟前広場で目の当たりにした列車事故レベルの蹴りだとか、魔獣どもを一撃で倒した技が俺にも使えるようになるってことなんだよな?


「その丹田アブドメンってのは下っ腹のどの辺りに感じるもんなんだ?」

「ダメ。ヒントは与えない。錯覚や思い込みじゃなしにハッキリとそれは分かる。私の見込みならあと一箇月で届くはず。だから今まで以上に集中してやって」


 言われるまでもねぇ。天地の開きがあると思ってたガラテアと同じ土俵に上がれるってんならそりゃやるだろ。それでなくたって俺は姉貴が正式に嫡女になってから家での立場が紙風船だ。姉貴が魔法と学業なら俺は剣と学業で離されないようにしてかなきゃなんねーんだよ。


「特に新歓コンペ以降は私、実践格闘の講義を既定の三回に削るつもりだから、私がいないからって手を抜いたりしないこと。いい?」

「何だ? サロン活動に集中するってのか?」

「それもあるけど、他にもやることがあって」

「他にって何だよ?」


 眉根を寄せるってことは意に染まないことか? ほんと、ストレートに顔に出るヤツだよな。


「少し、自分のことを調べようと思ってる」

「自分のことだぁ? つまり、ブランペインのことか?」

「そう。ケネスとの決闘も、私がその辺をよく知ってれば起こらなかったことだと思わない? だからこの先似たようなことが起きた時の為にも」


 確かに必要なことかもな。勉強ダメ。常識ダメ。その上自分のことも満足に知らないじゃ世の中通る訳がねぇ。


 コンコン――。


「フレディおぼっちゃま。トレーを下げに参りました」


 おっと。窓からの珍客と話し込んでる間に一時間経っちまった。


「悪いなマーサ。まだ手を付けてねーんだ。それと、ティールームの方にもう一人分用意してくれねーか。俺も行くから」

「はい。かしこまりました」


 すっかり冷めた紅茶は淹れ直して貰うとして、たまにはガラテアと息抜きするのもいーだろ。


「ケーキ。おまえも食ってくだろ?」

「食べる! フレディっておぼっちゃまって呼ばれてるんだ」

「……そこは忘れろ。他で言い触らすんじゃねーぞ?」

「分かった。下着の本と同じってことね」

「おいっ、おまえマジで言うなよ!? その舌が躍った瞬間にちょん切るからな!?」

「分かってるってば。私は騎士だ。約束は守る」


 どうだかな。おまえが約束を守るヤツだってことを疑いはしねーが、うっかりが過ぎるからポロッ行きそーで心配なんだよ。マジで頼むぞ。

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