第35話 ガラテアの秘密
ケネスと話をした翌日。私はまったくと言っていいほど何をやっても身が入らなかった。午前中の講義はいつの間にか終わっていたし、ランチタイムでは生返事を連発してアシュリーとデスピナを呆れさせた。いつもなら筋トレに勤しむ五限もボケッとベンチプレスの椅子に座り込んだまま。フレディは悪い物でも食べたんじゃないかと本気で心配したみたい。
「ガラテア様、もうお開きですよ」
「え? ああ、うん」
声の主は背負い鞄を背負ったアシュリー。辺りを見回すとサロン活動は終わってた。
今日は東西の大陸を行き来する商人を招いて、西大陸の現状を聞きながらのお茶会。最初の内こそ耳を澄まして聴いていたけど、段々と頭に霞がかかって、気が付けば考えているのは存命と知れたユージーン・ブランペインのこと。それから名前も知らない母親のことばかり。
「今日はどうしちゃったんですか? お昼休みもそうでしたけど、すっかり心ここにあらずで心配です」
「ごめんアシュリー。ちょっと考え事をしてて――」
「考え事? 悩み事の間違いじゃないの?」
探るような目をしたデスピナは直ぐに眉を開いて、同時に「お手上げ」と肩を竦めた。
「まぁどっちでもいいけどさ。あたしたちに話せないことなら大好きなナディーン様に相談してみたら?」
「ナディーン様に?」
ナディーン様はビアンカさんやリンジーさんと立ち話の最中。普段から忙しい方だし、この週末は新歓ゴルフコンペがあるから近頃は余計に慌ただしい感じだ。
「やめとく。今日も忙しそう……」
本当は相談したい。相談以前に話しておきたいこともある。アシュリーとデスピナにいずれ話そうと思った諸々の隠し事を、先ずはナディーン様にきちんと伝えておくべきだ。
「ダメです、ガラテア様」
「アシュリー?」
「明日もまたそんな顔をされたら、今度はこっちが気になって気になって何も手に付かなくなっちゃいます。だから、はい。今直ぐ行ってナディーン様に相談して来て下さい」
眼鏡の奥のクロムイエローの瞳が有無を言わさぬ光を湛えていた。
「言う通りにしてやってよ。アシュリーはさ、本当は自分に相談して欲しいのを我慢して言ってるんだよ。あたしも同じだから分かる」
そこまで言われてようやく二人の気持ちに気がついた。
「ごめん、二人とも。ありがとう」
「いいんです。ほら、早くしないとナディーン様行っちゃいますよ」
「明日のランチタイムにでも結果を報告してよね」
「分かった」
踏ん切りの着いた私は友達二人に見送られながらナディーン様の元へ向かった。
***
「どうぞ、召し上がって」
「頂きます」
話したいことがある。そう口にしたガラテアさんの面差しに神妙な気配を感じた私は、打ち合わせの続きをビアンカとリンジーに任せてコテージの二階へ上がりました。
「美味しいです」
「それはよかったですわ」
レースのカーテン越しに柔らかな秋の陽が射して、ガラテアさんの頬にかかる
「これはどちらの茶葉ですか?」
「いい質問ですわね。そう、そうやって茶葉の産地や紅茶の色合い、香りの話をするのがお茶を出した相手への礼儀ですわ」
褒めると浮かぶ素直な笑みが私はとても好きです。少しくすぐったそうに、マドンナブルーの瞳がキョロキョロと動きますのよ。
「今日はプルーイントンの茶葉を用意しました」
「プルーイントン? それは確か……帝国の一番南の州でしたよね?」
「当たりですわ。元々はプルーイントン王国があった場所です。帝国に吸収された南部諸国の中では唯一、州名にその名を残していますわね」
そうですか、と籠る声で返事をしたきり、ガラテアさんは今日のサロンで見せていたアンニュイな表情に戻りましたわ。
「それで、お話というのは?」
「はい……。実は、その……」
いつもなら失言も構わず思ったことを上らせる口が、今日に限って随分と歯切れの悪いことですわね。
けれど機会は機会です。ガラテアさんに対しては前々から時間を取って話したいこと、確認したいことが山ほどありました。
帝都で彼女を見かけてから早五箇月。互いの名前も知らぬままステップを踏んだのはもうそんな前のことかと驚かされますわ。
ブランペインと
あれはもうどう言葉にしたらいいのかしら? 最前からガラテアさんに対しては強く惹かれるものを感じていましたけれど、それがまさか仮とはいえ、主と騎士の誓いを交わすことになるだなんて……。
ところがです。
ところがですわよ?
次の日には積もる話をと胸に期していた訳ですけれど、蓋を開けて見れば話は見当違いの方向へ流れ始めたのですわ。
先ず、どうした訳かガラテアさんが剣十字サロンのケネスさんと決闘するという謎の展開になりました。そして翌日。決闘の会場で一方的な力を見せ付けたかと思えば、そこから更に飛躍して
連日の一騎当千振りに胸を打たれのは確かなことですけれど、正直言って私、一連の流れにはほとほと疲れてしまいました。
また次の日には前日に推薦のあったガラテアさんのご学友二人がサロンに参加することになりました。活動後、三人で連れ立って帰るのだと察すれば呼び止めるのも躊躇われて、結局その日も話をする機会は得られず終い。
そうして迎えた次の日のこと。
私は目を、いいえ、耳を疑いましたわ。お昼休みになっていつも通りコテージへ向かっていた時のことです。西運動場に差しかかると遠間にガラテアさんの走る様子が窺えました。運動場前のベンチに腰を掛けて膝の上にはバスケット。ランチですわね。誓いを交わした間柄ですから素通りはあり得ません。私が近くまで行って声をかけようと思ったその時です。ガラテアさんは明後日の方向へ向けて、やにわに声を上げました。
「あっ! ダルシーさーん! ダルシーさーん! こんにちはーっ!!」
ね? 耳を疑いますでしょう?
私の方には気付きもしないで、よりにもよってあの性悪女狐を相手に誰憚る様子もなく。そこにはもうどんな風の吹き回しも何もありませんでしたわ。その時の私のみじめさやら、みっともなさやら、それはもう真に迫って無残なものでした。
名前を呼びかけようと挙げた手は中途半端な位置で硬直。衝撃に後退った足取りもアキレス腱が
しかも! その日以来似たような場面に何度も出くわす羽目になったのです。慣れて来た頃によくよく観察してみれば、女狐サイドも相当気まずい様子。そんなところだけは幾らか溜飲が下がりましたわね。
けれど私は直ぐに分かりました。話を聞く機会を逸し続けながらも普段の様子を見ていれば分かるものです。ガラテアさんは男として育てらたというだけでは説明が付かないほど、一事が万事、何から何まで普通や一般と感覚がかけ離れているのですわ。
常識に囚われず空気を読むことをしない。いえ、そう言ってしまっては身も蓋もないのですけれど。何と言うかこう、彼女なりの配慮が中々に実を結ばないと言うべきか……。
それが一転。こうして言い淀む様子を見せれられると、興味もそうですけれど、心配が先立ってしまいますわ。だって、余りにも普段の様子とかけ離れているんですもの。
「それはそうと、本当でしたらもっと早くにこうした機会を設けるべきでしたわね。何分入学式から立て続けにバタバタとしてしまって、ここ最近は新歓ゴルフコンペの準備もありましたから、随分と間が空いてしまいましたわ。ごめんなさいね」
「いえ、私は別に」
このまま待っていても言葉が出ないようですから、こちらから水を向けて話の弾みにでも引き出しましょう。
「実のところ貴女には聞きたいと思っていたことが山ほどありますのよ。だからもしよければ先に幾つか質問をさせて貰ってもいいかしら?」
「はい。私に答えられることでしたら」
「ありがとう。そうですわね、先ずは――。ガラテアさん。貴女、かの英雄ダグラス・ブランペイン様とは近しい間柄だったりするのかしら?」
私個人の興味も絡め、切り出しの問いかけとしては妥当な線かと思いました。無論、興味ばかりのことではありませんわ。仮にも主従となったからには、ガラテアさんの身の上を把握しておく必要があります。さあ、どんな答えが返って来るかしら?
「ナディーン様はどうして父をご存知なんですか?」
「……ん?」
お待ちになって。今何て……。
父? そう言いましたわよね?
「父!? それはお父様という意味の父ですの?」
「はい」
ですわよね。それ以外に父は存在しませんわ。
んんっ! 軽く放ったジャブが思いの外ヘヴィブロウになって返って来ましたわよ。
でもお待ちになって。それであればガラテアさんは先帝エスメラルダ様の寵臣の娘ということになりますわね? ブランペイン一族の中で唯一帝室の覚え目出度い王殺しの英雄の娘ということに。だとしたら事実を明らかにすることで周囲の妙な勘繰りを打ち消せたりはしませんこと?
いいえ。この場合は逆かしら? 寧ろ今まで以上の注目の的に? ともあれ軽々な判断はしかねますわね。
「そうでしたの。驚きましたわ。実は私、春にブランペインの物語を観劇する機会があって、それからというもの、ずっとダグラス様のような忠誠の騎士に憧れていましたのよ。それがまさか、貴女がその娘さんだったなんて――」
「そうですか。お芝居で。私もまさかナディーン様にそんな風に言って頂けるなんて思いもしませんでした。とっても嬉しいです」
心から喜んでいる様子を見ればダグラス様とガラテアさんの関係が如何に良好なものだったかが窺い知れます。
それにしても何だかソワソワしてしまいますわ。たまさかの幸運とはこのことです。だってガラテアさんは私が理想とした騎士ダグラス様の娘だったんですもの! どうしましょう? 何を聞けばいいのかしら? 頭も胸もフワフワして取りとめがありません。
「でも――」
「でも?」
明るくなった表情がまたもや神妙に返ってしまいましたわ。
「ダグラスが私の父だというのは事実じゃないんです。願望というか、気持ちの上でのことというか……」
私の浮かれた心は立ちどころに羽を生やして飛んで行きました。と同時にガラテアさんが本当は告げたくない事実を口にしたのだと直感で分かりましたわ。ええ、本題を切り出して来たのだとも。
「どうぞ、続けて。今日する話は全てここでだけのこと。私と貴女の間に遠慮はいりませんわ」
「はい。ありがとうございます」
ガラテアさんは僅かながらに微笑んで、それから紅茶を一口。ソーサーにカップを置くと気を鎮めるように深い呼吸を二度繰り返しました。
「私はこの春まで自分の出生を知らずに来ました。その日まで何も知らないまま、クレサークの片田舎で大叔父様と二人。ずっと二人きりで暮らしていたんです」
ガラテアさんは大叔父ダグラス・ブランペインとの十四年間を懐かしむように語りましたわ。表情を追えば如何に幸せな時間が二人の間に流れたかは一目瞭然でした。
ダグラス様が亡くなって、旅に出たガラテアさんは遺言を携え一人帝都へ。そこで私との最初の出会いがあった訳ですわね。
「でも大叔父様にはすっかり騙されました。私は自分がブランペインであることも、女であることも知らずにいたんですから」
「それには何か、理由なりお考えなりがあったのかしら?」
「どうでしょう? 大叔父様は頭に大きな戦の古傷があって、そのせいか年がら年中同じ話をしていましたし、時々呂律がおかしくなったりもしてましたから。騎士として私を鍛えることだけは首尾一貫してましたけど、他のことは分かりません」
「そう」
戦傷のエピソードはブランペインの物語にも語られていたことですわ。確かにそれが元でダグラス様は表舞台から遠ざかって行かれた。
「あの、これは興味から聞くのだけれど、ダグラス様はどんな方だったのかしら? その、人柄なり、風貌なり」
「人柄ですか? そうですね。大雑把と言うか、とっても大らかで、それから声も大きくって、手だって私と比べたら二回りは大きかったです」
それは差し詰め、豪放磊落な偉丈夫のイメージですわね。しっくり来ます。しっくり来ますわ。声は低くて太い感じかしら?
「あとは……そう! 見た目は熊みたいでした」
「クマ!?」
それは……私の想像からはかけ離れてしましましたわね。頭の中でエスメラルダ様の肖像画に熊を描き加えてみましょう。ええ、誰がどう見てもアンバランス。美女と野獣ですわ。
いけません。これ以上傷口が広がる前にこの話題は切り上げにしましょう。
「それでガラテアさん。帝都でご遺言を果たした後は、どんな経緯でアカデミーへ?」
「アカデミーの件は全部ステラが手回しをしてくれたんです」
「ステラさん?」
「はい。メテオリリーマ魔女団の団長です」
「は……?」
えっ、国祖様?
「待って頂戴。分かりませんわ。どうして唐突に黎明の魔女様のお名前が!?」
「どうしてって言われても、偶然ばったり会って……」
「ばったり? ばったりって何ですの?」
「え、だから、帝室墓所の立入許可が下りなくて困ってたら、ステラが魔法で連れてってくれて……」
そんなバカな話があるもんですか! どこに脈絡がありますの?
「貴女今、ステラ・オーラニア・メテオリリーマ様のお話をしているのよね?」
「そうですけど……」
「ごめんなさい。もっと分かりやすく説明して貰えるかしら?」
「分かりやすくと言われても……」
ガラテアさんは困惑の面持ちで小首を傾げました。けれどそれは私が取って然るべき仕草ですわよ?
「あ、そうだ。私は自分の出生を、エスメラルダ様の廟で大叔父様の遺言を読むことで知ったんですけど、ステラはそれ以前に私が何者か見当つけてました。それで、私を世間知らずのまま放り出す訳にも行かないからって、アカデミーへ」
先見の明! それであればどうにか話も見えてきますわ。黎明の魔女様はガラテアさんの生い立ちを見抜かれて、庇護下に置く必要があると考えられたのでしょう。
「要するに、貴女の身の上を考えれば捨て置けなかった。そういうことですわね?」
「そうだと思います」
「それが理由で黎明の魔女様が貴女の後見人になって下さったと?」
「恐らくは」
驚く反面、黎明の魔女様が後見人であれば粗方のことに納得が行ってしまうのですわ。
「過日の呼び出しですけれど、
「はい。どちらも十五分程度で済みました」
あれだけの騒ぎの中心にいたガラテアさんを相手に、普通であれば考えられない対応です。
「それはやはり、ステラ様が何らかの形で動かれた――介入を図られたということかしら?」
「どうなんでしょう? 何も聞かされてないのでよく分かりません」
「貴女、そのくらいのことは確かめておくべきですわよ? 直接自分に関わることでしょう。そもそも貴女の今の立場は平民ですわよね? それがこうして――」
「え?」
「え?」
思わぬ反応に鸚鵡返しになってしまいました。その事実すら理解していないだなんて……。
「いえ、あえて言葉にするものでもないと黙っていましたけれど、ブランペインの名は今では貴族籍から削られていますわよ? それが貴族待遇でアカデミーに在籍できていること自体、異例中の異例なのですわ」
「そうなんですか? ちっとも知りませんでした」
と、この反応。まったく以ってお手上げです。
アカデミーは治外領ですから、原則として国の干渉は最低限度。帝室にしても通われる皇族のこと以外で口を差し挟むことは致しません。だからと言って独立採算ではありませんから、橋渡し役は存在します。アカデミーの最高責任者は当然大学長ですけれど、国とアカデミーを取り持つ管理責任者として当地に任じられているのがカノープス伯爵です。
カノープス伯爵がアカデミーの実務に触れることはありませんわ。伯爵の任務は出入りする一切の情報管理。分かりやすい一例は生徒の成績ですわね。内容を検分する訳ではなく、保護者、帝国人事院、帝室といった、生徒本人以外への通知を遂行する立場にあります。
伯爵は情報取り扱いの責任者としてアカデミーに開示や秘匿といった指示を出せる立場ですから、そこに黎明の魔女様が圧力をかけることで、情報操作やある種の配慮が生じたことは説明がつきます。そればかりかガラテアさんを取り巻く諸々全てに得心できてしまうのですわ。国祖様は考え得る限り最高のパトロンと言えるでしょう。
「混乱させてしまってすみません。もっと早くにお話しておくべきでした」
こちらの沈黙を察しての言葉に私は首を振りました。
「いいえ、貴女は自ら話してくれましたわ。今日まで機会がなかったのは私が忙しさにかまけていたせいでもあります。ですから寧ろ、驚いた分を差し引いても嬉しく思っていますわよ。話してくれてありがとう」
「ナディーン様……」
「あとは貴女の出生のことだけれど」
「はい」
口元を引き結んだガラテアさんは、一度膝頭に落とした視線を上げて真っ直ぐに私と目を合わせました。
「私の父は、ユージーン・ブランペインです」
ここまでの話の流れから見当のついていた名前です。けれど実際にそれを聞かされると、背筋を走った衝撃に唇が震えました。
大逆者キャメロンの孫にして亡命者ユージーンの娘。それこそが私が自らの騎士として選んだ彼女の正体。
「私にとっては後にも先にも、父と呼べるのは大叔父様ただ一人です。血の上では違っても、ダグラス・ブランペインだけが私の父でした」
「その気持ちは分かりますわ。私個人の意見としても、その想いはそのままでいいと思います。対外的にもそうしておいた方がいいのでしょうし」
「はい。ステラも同ように言ってました。ただ――」
「ただ?」
「私は昨日、ケネス・アップルガースと話をしたんです」
ガラテアさんがアカデミーに復帰した彼を尋ねたことは私も承知置きのことですわ。
「彼から何か言われましたの? 話がこじれてしまっただとか?」
「いえ、和解はできたんだと思います」
「そう。それはよかったわ」
「はい。ただケネスと話をする中で、私は初めてユージーンが今も生きていることを知らされたんです」
「――!」
ユージーン・ブランペインの生存――。
その可能性は各方面で囁かれていたことですわ。私の立場では深く窺い知ることは不可能でしたけれど、帝国がその消息を今も追っている事実は承知していました。
「それは確かなことですの?」
「はい。この事は口外しないで頂きたいんですけど、アップルガース家はユージーンの消息を掴んでいました」
「そう。今日のことは二人だけの話と決めたことですから、一切口外しませんわ。仮に話さざるを得ない時が来たとしても、必ず貴女に断りを入れます」
「ありがとうございます」
秘密が増えることは危険の兆候。けれど今は秘密を共有することで強くなる絆を信じましょう。
「アップルガース家はブランペインの帰還を期して水面下での準備をして来たようです。でもウラノス王国に匿われていると思っていたユージーンは、実際には別の場所にいました」
「まさか、北部同盟に?」
「そうです。ユージーンは今、ヘールボップ王国にいると言ってました」
「ヘールボップ! それで、貴女の考えは? ユージーンがそこにいると知って貴女はどうするつもりなの?」
ここは重要なところですわ。帝国と王国は二百年以上に亘って対立し、今や東大陸を二分しています。そうした現状で万が一にもガラテアさんが二大勢力の境界を跨ぐ意思を示したなら、それだけは思い留まらせる必要があります。
「正直言って、ユージーンが生きてると知った今でも、彼に対してどうこうという想いは湧いて来ないんです。私が気になるのは私を生んだ母親のことで――」
「お母様? そう言えば貴女のお母様って……」
「誰かは勿論、名前も何も知りません。お叔父様の遺言に母親のことは一切書かれてませんでした。だから知りたい。ただ知りたい。その事を相談しようと思った時、私の全てをお話しする必要があると思って、それで今日こうして――」
それは極普通の感情で、同時に堰き止めようのない子の心。こうして私を頼りとしてくれたからには是が非でも応えてあげたいですわ。けれど私のこれまでを振り返って見た時、ブランペインの物語を除いて南部のことは何一つ知らないのです。これでは到底――。
ん……?
「ナディーン様?」
今ふっと面白くない考えが脳裏を過りましたわ。できれば丸めて屑籠にでも放り込んでしまいたいところですけれど、他に思い浮かぶものがないならこの際手を伸ばしてみる他ありません。
「ガラテアさん」
「……はい」
よっぽと
ええ、不愉快ですわ。だって私がこの件で頼ろうと思い浮かべたのは
「貴女がお母様の消息を知りたいと願う気持ちはよく分かりますわ。ですから私もでき得る限り調べてみましょう」
「ナディーン様! ありがとうございますっ」
「ただし!」
「はいっ」
強く発すると前掛かりになった姿勢が面白いように後ろへ反れました。
「貴女はそれ一辺倒になって日常を疎かにしないことよ。勿論、自分で調べるなとは言いません。けれど今日の話で貴女がアカデミーにいられるのは国祖様の恩寵あってのことと分かりましたわ。多方面に渡って及ばない実力を満たす為にも、学業を後回しにすることは私が認めません。いいですわね?」
「わ、分かりました」
「結構。それでは私は私の伝手を手繰りますから、貴女はそうね、手始めにケネスさんからより詳しく話を聞くのがいいのではないかしら?」
「ええっ、ケネスから……ですか」
「あら、何か問題でも?」
「……いえ」
明らかに問題があるという顔で否定しましたわ。けれどまぁ、そちら方面はガラテアさんに任せましょう。私の方がよっぼと気が重いんですから。
「さて、では他に話しておきたいことがなければ、今日のところはこの辺りで――」
「あっ、まだ話しておくことがあります!」
「……何かしら?」
ここまでの内容が内容なだけに蛇足感をありありと感じました。でも「ある」と言うなら聞く他はありませんものね。
「あのその、実は……私魔女なんです」
「……はい?」
「えっと、だから……」
何を言っているのかしらこの子は? 魔女? どちら様が?
……ああ! そういうこと?
「貴女、寮に入る前は魔女の館にいたんですの?」
「はい」
「迷信よ。魔女の館に出入りしたからといって魔女になったりはしませんわ。魔女は
「はい。それです」
「それ、とは?」
「え? だから私、
「ふぁーーっ!?!?」
ガターンッ――!!
「ナディーン様!?」
びっくりし過ぎて椅子から転げ落ちてしまいましたわ。いたたた……。
「大丈夫ですか?」
サッと助け起こしてくれたのはありがたいですけれど、
「ちっとも大丈夫じゃありませんわ! 貴女が魔女って、一体どういうことですの!?」
「それが、実は試験の二日目に工事の穴に落っこちて……」
ありましたわね! そんなエピソードが!
それで? 死にかけて? 目出度く魔女におなりに?
「そんなバカな話誰も信じませんわよっ」
「魔女名は
「聞こえません!」
「契約精霊は
言った傍からガラテアさんの両肩に見たこともない二体の精霊が姿を現しました。
ばぁぶぅ! きゃっ、きゃっ――。
「……ガラテアをよろしくね」
「ふぁーーっ!!」
姿形での見分けは付きませんけれど、まとうオーラで下位精霊とは明らかに違うと分かります。上位精霊二体との契約。それはもう魔女でしかあり得ないことですわ。
魔女?
ガラテアさんが?
「ガラテアさん、貴女本当に?」
「はい」
はい、じゃないですわ!
ダグラス様に鍛えられた騎士で後見人は国祖様。その上キャメロンの孫にしてユージーンの娘。それだけでも十分以上に重々しいというのに、かてて加えて魔女!?
「あ、侍女のチャロとスニーも魔女です。一応」
そんなオマケみたいな言い方……。こっちは既にパンク寸前。息も絶え絶えですのよ?
「あっ、貴女ねぇ……」
貸された肩に縋ってみっともなく息を乱してしまいましたわ。
こうも立て続けに人を驚かせておいて、自分はキョトンとしているんですもの。いやになってしまいます。
そうは言っても、私にも負うべき責任はありますわね。ガラテアさんのことはこれから知って行けばいいと決めて受け入れたのは私です。ここへ来て如何に奇想天外な事実を突き付けられたとしても、一方的に撥ね付けたのでは誠実とは言えませんわ。ガラテアさんが無垢な原石なであるなら磨いて光らせることこそ私の役割。
それにしたって――。
どうして貴女のような人が私の前に現れたのかしら? そればかりが不思議でなりませんわ。
お答えになって魔女さん。
貴女は私の願いを叶えてくれに来たのかしら?
ひょっとして私が魔女のポストに入れた手紙を読んでくれた?
それで私の下へ?
いいえ――。
そうでなくともいいのですわ。ただこれから先も、こうして側にいてくれるだけで心強い貴女。私にはない純粋さをその胸に秘めた人。必要で、手放せない――手放したくない貴女なんですもの。
「許します」
もう何度目かの許しを与えると、彼女は笑顔で頷きましたわ。その眩しさには敵いません。
「えいっ」
「ひたーっ!?」
鼻の頭をギュッと摘まんでやりました。びっくりした顔をして、それがまた可愛らしいのですわ。
さぁ、驚いてばかりいても話は前に進みません。この辺りで区切りを付けましょう。
「ガラテア。私たちは全てが今からですわよ」
「はい」
「私たちは今日、ここから始まるのですわ」
「はい」
「んんー? ちゃんと理解できているのかしら?」
もう一度ギュッとして差し上げましたわ。するとピンと背筋を伸ばして、
「はい! 姫君と私は今日ここからですっ」
「大変結構。その意気ですわ。私ももう、貴女を呼ぶのにさん付けはしませんわ」
「はいっ、嬉しいです!」
底抜けに明るくて屈託のない笑顔。
私も同じ。まるで子供時代の心持ちで、自分でも忘れかけていた自然な笑みを咲かせることができました。
「小指をお出しなさい。内緒の話は
「はい。
私の夢と彼女の夢と。絡めた小指のように二つ重ねて支え合って行くのですわ。そうなればいいと願い。そうなれるよう努力するのです。
私たちの出会いはきっと、それを叶えるに相応しいものなのだから――。
「ところで確認だけれどガラテア」
「何ですか?」
「もう他に付け加える話はないのよね?」
「ありません!」
「そう。なら結構よ」
「あっ、やっぱりありました!」
「どっちなの!?」
「私の秘密のこと、アシュリーとデスピナと、それからフレディにも話しておきたいんですけど……」
「今さっきしたばかりの
「だって私、隠し事が下手だから、いつも一緒だと絶対ボロが出ちゃうと思うんです」
まったく反論の余地もなくその通りでクラッと来ましたわ。自覚があってもボロを出すんでしょうから手を打つ必要はありますわね。
「その件については新歓コンペが終わってから考えましょう。それまではお口チャックですわよ」
「はいっ」
「ところでガラテアはこの後は?」
「特に何もありませんけど。ナディーン様は?」
「私はすっかり肩が凝ってしまったわ。よければ一緒に大浴場へどうかしら?」
「ナディーン様とお風呂!? 行きます! 是非ともお背中を流させて下さいっ」
「それは結構よ。貴女に頼んだら背中の皮が剥けてしまいそうだわ。入浴には侍女を伴いますから貴女は何もしなくて大丈夫」
「そうですか……」
弾けたと思ったら途端に萎んで。こうまで分かりやすい子に隠し事は無理ですわね。
「そうそう。貴女の侍女は魔女様だという話だったわね?」
「はい。チャロとスニーです。二人ともここへ来る前は魔女の館にいました」
「そう。お会いするのが楽しみだわ。ではそうね。今から一時間後に大浴場の前で待ち合わせしましょう」
「分かりました! 飛んで帰って支度してまた飛んで行きますっ」
「私今、一時間後と言いましたわよ?」
「はいっ」
脱兎の如く駆け出すガラテア。窓から見ていたら土煙を上げてコテージを去って行きましたわ。騎士が主を置いて行ってどうする気なのかしら? 本当にしようのない子。
けれど遠ざかるその背中を追うのは私の視線ばかりではないのですわ。今も、そしてこれからも、過去が彼女の影を追う。そんな風に思われてなりませんでした。
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