第29話 タプルマジック

 ガシャーン――。


 扉近くの窓ガラスが割られて、入り込んだフレディが小宮殿の扉を開け放ちましたわ。


「全員、急いで中へ!」


 レイモンドさんの指示に従ってそれまで行き場を失くしていた見学者たちが小宮殿の中へ逃れて行きます。


「ナディーン様もお早く!」

「結構よ。私はここに残りますわ」

「そうは仰っても外にいては危険です」


 私は扉前の露台テラスに立ったまま、手の平を差し向けてビアンカとリンジーに見るべきものを示しました。


「今あそこで貴女たちの言う危険そのものと対峙しているのは、我が北斗サロンのメンバーであり、アカデミーの後輩。そして何より私の騎士ですわよ? 彼女の忠誠を受け入れた私には、ここに立って全てを見届ける義務があるのですわ」


 私にも契約精霊がいて魔法が使えますから、一時は加勢も考えました。けれどあの子は私たちに安全な場所に留まるようにと願った。それを思えばあの場所は今、あの子だけの領分。私は離れた場所から、せめてこうして見守るだけです。


「でしたら私もご一緒に」

「わ、私も。メンバーの頑張りをしっかり見届けますわっ」


 私は両隣りに立つ二人の手を握って、ただ頷きました。


「ご安心をレディ。万一の時には私が皆さんをお守りします」

「あらレイモンド様。その剣はどちらから?」

「中にあった飾り物を失敬して来ました。ガラスを割ったついでです。もしお許し頂ければ彼女の加勢に向かいますが?」

「いいえ――」


 剣十字サロンを率いる彼の実力を疑いはしませんわ。けれど私は断りました。


「既に線引きは済んでいますわ。彼女は私たち全員を守ると決めて戦っているのです。レイモンド様、今は貴方も守られる側ですわよ」

「どうやらそのようですね。男としては口惜しい部分もありますが、正直言ってガラテア君の戦い振りには付いて行けそうにない。まだまだ修行不足のようです。ここで見て勉強させて頂きます」

「ええ、是非ともそうなさって」


 どこか鼻の高い気分になって、その時私、須臾しゅゆの夢を見ましたわ。

 まだ見ぬ西の大地――新世界。

 風も太陽もこことは違うその土地で、帝国から封土を頂いて治める私。隣りには今と同じ、ビアンカとリンジーがいて、少し離れた場所で兵士たちを鍛えているのは私の騎士、ガラテア・ブランペイン。

 その夢が本物になるのなら、私の騎士があの化け物を相手に後れを取ることなどないはずです。裏を返せば無事に事が収まった時、私の夢も夢ではなくなる――。

 何故か不安もなく、そんな思いに駆られていました。




 ***




 精霊は、憤怒霊フローレはどこにいるの?

 魔法の力を駆使してるとはいえ、蹴り一発で弾き飛ばされたことを思えばどうしたって精霊探しに集中し切れない。

 既に人だった気配もかなぐり捨てて、憤怒邪霊バンダースナッチと化したケネスはめくら滅法の攻撃を繰り出して来る。

 片手に持ち直した刃挽きの片手半剣バスタードソード。空になった腕から繰り出される鋭い鉤爪。相変わらず猫のように小回りの利く足。煙を吐きながら食らい付こうとして来る獰猛なあぎと――。

 際どい攻撃はソーニアが位置入替スイッチングを使って数十センチのズレで避けてくれてるけど、綱渡り気分はどうにも抜け切らなかった。


 バッチコーーン――!!


 ほら、喰らった。


「いったぁーい! うわっ、鼻血出た。もっとしっかり避けてよソーニア!」


 痛みの反射で非難を向けたらボソリ。


「……ソーニアは悪くないわ」

「何で!? 位置入替スイッチングの制御はソーニアに任せるって言ったでしょ!?」

「…………もん」

「ソーニア?」

「頑張ってるもん……」

「え?」

「ソーニア頑張ってる! ソーニアは魔法得意だけど、こんな風に戦ったことなんてないの! でも頑張って何度も避けたでしょ!?」


 まずい。怒らせちゃった。確かにソーニアの言う通りだ。

 自分が戦いに集中してればできること。そんな考えから、ソーニアにもできて当り前みたいに思ってた。


「悪かった! ごめん! 謝るから自動制御オートマチックは切らないでっ」

「やっ! ソーニア一生懸命やってるのになんで叱られるの!? もう知らない!」

「ちょっ…………」


 消えたかー……。うわー、これは失敗した。

 ソーニアとペペリットと三位一体で上手くやれる。そんな風に思ってたのに自分の手で台無しにしてしまった。何てバカなんだ私は!


「ガババッ、精霊の加護が消えたかっ、おしまいだなっ、騙り屋!!」


 その言葉で瞬間的にスイッチが入った。自分への憤りが格好の八つ当たり先を見つけた感じだ。考えなしに間髪入れず気を練って放ったのはカウンターの一撃。


「おまえがくたばれっ、一撃粉砕アルティメットブロウ――!!!」


 カッとなって反射的に繰り出したのは大叔父直伝、真騎士道三十六攻の第三攻、打撃最強の一撃粉砕アルティメットブロウ

 脇腹を抉りながら突き上げるショベルフックに乗せて、うっかり手控えていた攻撃を叩き込んでしまった。


「しまった――」


 やっちゃった…………。

 重い体を宙に舞わせて、ドスンと落ちれば舞台に生じるクレーター。

 死んだ?

 斬撃最強の一刀両断グレートディヴァイダーに引けを取らない一撃だ。素手だったとしてもこれは――。

 待って、今足の指がピクッて動かなかった? 靴を破って飛び出してる爪先が、ほら! 生きてる!


「よかったぁぁぁぁぁ!! セーフ! タッチの差でセーフ!」


 二本先取の時にも見せなかった渾身のガッツポーズ。

 咄嗟だったから丹田アブドメンの気の練り込みや筋肉の絞り上げ、全ての連携が不十分だったんだと思う。お蔭で死なせずに済んだ。


「ハッ、そうだ今の内だ。バンダースナッチが伸びてる間にフローレを探さなきゃ」




 ***




 …………。

 これ……。私のフォロー、いる?

 何よ今の? あの巨体が軽々宙を舞ったわよ?

 勿論ガラテアの体には肉体向上アスレチック生命維持ライフセーバーが重ね掛けされている。けれど普通に考えて、下位精霊とのシンクロでも使える基礎の基礎な魔法でああまではならないわよね?

 実践格闘の試験で教官に全治二箇月の怪我を負わせたとは聞いていたけど、今のはそんなレベルでもなかったでしょ。誰がどう見たって化け物はガラテアの方なんじゃないの?


「だからってボサッともしていられないわね。ええと――」


 位置入替スイッチング自動制御オートマチックが解除されてるのは何か理由があるのかしら? 何かのトラブル? あるいは別の魔法を使う気だとか?

 いずれにせよ憤怒邪霊バンダースナッチが動けない今の内にガラテアが憤怒霊フローレと接触できれば、その先は邪霊が復活しても私の煙魔法で押さえ込んでしまえばいいだけ。

 ガラテアには余計な魔法を全部解除させて、鎮静化セデーション一点張りで叩き込んで貰いましょう。

 チャロの言う通りガラテアが魔法でも馬鹿力を発揮するなら、五倍クインティプルを超えて六倍セクスタプル七倍セブタプル、ひょっとして八倍オクタプルくらいまでは行けるのかもしれない。


「それで届かなければいよいよ選手交代よ」


 その際の手順は簡単。私はここでこのまま姿を消した状態で鎮静化セデーションを仕掛ける。ガラテアには魔法をかけてる振りをして貰っててもいいし、さっきまでみたいに適当に憤怒邪霊バンダースナッチの相手をして貰ってもいいわ。

 私が通りすがりの魔女ならバンッと出て行って片付けてしまうんだけど、今はガラテアの侍女ってことになっているから、そうも行かないのよね。

 さて、私も憤怒霊フローレを見つけておかないと。




 ***




「いた! ペペリット、あれがフローレで合ってる?」


 ばぁぶぅ! きゃっ、きゃっ――。


 合ってるみたい。

 絵本で見たサラマンダーによく似てる。オレンジ色の体をして逆立った髪を揺らめかせながら、バンダースナッチの近くをフワフワ舞ってる。その姿は男とも女とも付かない妖精のような美しさだ。


「怒りの精霊だなんてちっとも思えない――。ねぇ! そこの精霊さん。君ってフローレでしょ?」


 ゴワッ――。


 振り向いた精霊の髪が伸び上がって、燃え盛る炎のように揺らめいた。

 怒ってる? でも躊躇してる暇はない。


「私はガラテア。こう見えても魔女なの。まだ新米だけど、感情霊アドフェークと魔女は友達、そうでしょ?」


 シュルルン――。


 髪が元のサイズに収まった。フローレはそのまま私の方へ宙を泳いでやって来て、肩の上にいるペペリットにお辞儀をした。


「こんにちはフローレ。えっと、私の魔女名は騎士剣の魔女エースオブスペード。私はあそこの悪いヤツを退治したいんだけど、それにはフローレの協力が必要なの。力を貸してくれる?」

「構わないよ。でも君、本気で怒ったことはある?」

「本気で怒ったこと?」


 まさかそんな質問が飛び出して来るとは思わなかった。こっちとしては急いでるんだけど、フローレにはそんな事情関係ないみたい。


「そうだよ。本当に怒ったこともないのに怒る気持ちをどうこうする魔法なんて使えっこないもん」

「そういうことね。ちょっと待って」


 魔法を使う為に必要な質問なら無視も後回しもできない。

 でも、私って怒ったことあったっけ?

 ここ最近フレディとはガミガミやり合ってるけど、あれは本気で怒るのとは違うし、その時その時でカッとはなっても、誰かと取っ組み合いの喧嘩をしたなんてこともない。ずっと昔を振り返って見ても、腹の底に怒りを溜め込んだなんて覚えは一切なかった。

 本気の本気の本気の怒り…………。


「あった! 私本気で怒ったことある!」


 見つけた。本当に一度だけ、叫ぶくらい怒りを感じたことがあった。


「へぇ、どんな時?」

「うん、自分が女だって分かった時」


 最初はただ衝撃だった。やがて喪失感から絶望や哀しみが生じて、他にも言葉にならないドロッとした感情が溢れて来た。その全部がグツグツと心の釜で煮込まれて行って、どうしようもなく暴れ始めたのが怒り。あれは間違いなく怒りだった。


「どうして怒ったの?」

「その時は、女じゃ騎士になれないって思い込んでたから」

「……魔女なのに騎士なの? ヘンテコ!」


 フローレは笑った。怒りの精霊なのに屈託のない笑顔。でもその言い草と来たら――。


「ヘンテコじゃない! 私の小さい頃からの夢。それが女だっていうだけでダメになるのかと思ったらどうしても許せなかった。ずっとずっとそれだけだったのに、大好きな大叔父様と一緒に目指して来たのに。女だからダメって思ったら自分のことが許せなくって、心の底から本当に腹が立ったの」

「そうなんだ。うん、その怒りは本物だね」

「フローレには分かるの?」


 簡単に言われてどこか拍子抜けする感じ。でもフローレはしっかりと私の心を言い当てた。


「分かるさ。本当に怒った時のことを思い出すと、その時のプンプンした気持ちが戻って来る。今、君は話しながらムカムカしてたでしょ?」

「してた」

「ちょっと怒っただけなら後になって思い出しても笑い話で済んじゃうもん。でも本当に怒った時のことは笑ってなんか済ませられない」


 本当にそう。あの時の感情がぶり返すと、私の心は途端にピリピリし始めて、今もお腹の下の方が熱いくらいだ。


「分かる。今でも全然笑う気持ちになんてなれない」

「君、怒る気持ちを大切にしてね」

「大切に?」


 そんなこと考えたこともなかった。


「人は何があった時に怒るのか。それはとっても大事なこと。本当の怒りは本当に大切なものの為にしか燃え上がらないんだ。見て。あそこで倒れている子もそう」

「ケネス・アップルガース?」


 言われてみれば彼の本物の怒りって何だろう? 今起きてる状況は、彼の本物の怒りにバンダースナッチが付け込んだってことなのかな?


「力を貸してあげる、騎士剣の魔女エースオブスペードガラテア。一緒にあの子の怒りを鎮めてあげよ。あんまり怒ると体にだってよくないもん」


 フローレはクスクスと髪を掻き上げながら言った。本当に怒りの精霊なのかと不思議な思いに包まれる仕草だ。同時に味方して貰えることにホッともさせられた。


「ありがとうフローレ。なら一緒に頑張ろう」

「その代わり二つ約束ね」

「二つ? 何を?」

「一つはあの子と話をして、どうして怒っていたのかきちんと理解してあげること」


 つまり、それが怒りを大切にするってことだ。ようやく私にも分かって来た。


「分かった。約束する」


 私だって知りたい。思えばケネスは最初の呼びかけの時からもう怒っていた気がする。会う前からそんな気持ちをどうして抱えていたのか。それはきっと私が知っておかなくちゃならないこと。


「もう一つはとっても簡単」

「何?」

「怒りたい時には我慢しないで怒ること! それが僕たちフローレの栄養になるから」

「ふふっ、分かった。怒りたい時にはちゃんと怒る。それも約束する」


 今まで私は、ステラやチャロの感情豊かな様子を見て、何気なく魔女の典型だなって思ってたけど、こんな風にちゃんとした理由があったんだ。

 感情の魔法は感情を知る者にしか使えない。だから変に我慢するよりも、その時その時の感情ときちんと向き合って行くのが正しい姿勢。中には恨みや憎しみなんて怖い感情もあるけど、きっと長く生きていればその全てを理解することになるんだろう。


「さあ、早速始めよう。フローレ、お願いね」

「それはいいけどガラテア。重層魔法タプルマジックはちゃんと使える?」

「タプルマジック?」


 何だか可愛い響きだけど、耳にするのは初めて。


「色んな魔法を同時に使ったり、一つの魔法を何倍もの力にしてかける魔法のことだよ。ガラテアも今それをやってるけど、もっともっと強くしないと裏返りリバースの邪霊には敵わないから」

「もっと強く? さっき五つまで重ねてたけど、それよりもっとってこと?」

「契約精霊に手伝って貰って魔力の無駄遣いを減らすといいかも」

「なるほど。ペペリット、お願いできる?」


 ばぁぶーあ、ぷぷぷいっ――!


「できるって言ってくれてるみたい。あとは――。ソーニア! さっきはごめんなさい! お願いだから戻って来て」


 シーン――。本気で見限られたかも……。


「ちょっとだけ! ほんのちょっと手伝ってくれるだけでいいから! 五分、ううん、一分だけでもいい!」


 もう本当に、さっきのバカな自分を殴りつける思いでお願いした。すると肩の上に、


「…………。今度やったらそれでおしまいよ」

「はい」


 そんな台詞、昔何かの本で読んだな。確か甲斐性のない領主を捨てて出て行こうとする夫人の台詞だ。私ってそのレベルなんだ――。


「集中して……」

「おっけーソーニア。ペペリットとフローレもよろしくね」


 ばぁぶぅ! きゃっ、きゃっ――。


「上手に僕を飛ばしてね。細かいことは任せておいて」

「分かった。フローレ、頼りにしてる!」


 その時、丁度いいタイミングでスニーの煙メッセージも流れて来た。私がフローレとのコンタクトに成功したのを見ていたんだろう。メッセージの内容はフローレに言われたこととほぼ同じ。魔法を重ね掛けする重層魔法タプルマジックで、ただ一つ、鎮静化セデーションの魔法だけに集中して、バンダースナッチに投射しろってこと。タイミングは今。


「行くよ、倍掛けの倍掛けで――」


 初めて使う魔法でも「任せておいて」と言ってくれるフローレに全幅の信頼を置いて作戦開始!

 私自身はへっぽこ魔女でも、三体の精霊が味方してくれれば何とでもなる。


鎮静化セデーション――!!!」


 魔法を唱えると同時にフローレは弓なりに飛んで、そろそろ起き上がろうかというバンダースナッチの頭に突っ込んだ。

 私はフローレが描いたラインを目に焼き付けて、それに沿って魔力を流し込むイメージをキープ。あとは威力を倍々に積み上げて行くだけだ。


「今五倍クインティプル……。もっと集中して」

「了解、ソーニア!」

六倍セクスタプル七倍セプタプル八倍オクタプル九倍ノナプル……」


 肩の上でタプルをカウントして行くソーニア。そのたびにズシリと負荷がかかって消耗がかさむ。今までに感じたことのない感覚だ。

 六倍セクスタプルで頭が重ったるくなったかと思うと、七倍セプタプルになった途端、偏頭痛に似た刺すような痛みに貫かれた。

 八倍オクタプルに突入すると今度は全身にじっとりとした汗。頭から脊椎を抜けて腰にまで疲労感が広がって行く。

 そして九倍ノナプル。腰に溜まったしんどさが今度は徐々に膝へと下り始めて、まるで背後から忍び寄る暗い影のよう――。


「まだ行けるわよ……もっと……」


 ソーニアの声はいつと変わらないトーン。

 だけどとんでもない!

 私は全然いつもの調子なんかじゃない! 寧ろまったくの逆様で、今にも終点に辿り着きそうな気になってた。


「ほ、本当に!? 何だか結構、頭とかガンガンして来てるんだけど……」

「まだ足りてないから………もっとして……」

「……わ、分かった」


 スパルタだ。容赦がない。

 でも魔力の効率をコントロールしてくれてるソーニアが言うんだから、間違いなく今より先へ行けるんだろう。それにさっきの引け目があるから反論も口にしづらい。

 信じる。

 やるぞ。

 波動受容体から流れる魔力を鎖のように固く繋いで――。


十倍デカプル十一倍ウンデカプル十二倍ドデカプル十三倍トライデカプル……。あとちょっとで行けそう。頑張って……」


 うそうそっ、無理だってば!

 止まってた鼻血がまた出て来たし、横隔膜が緊張して普段通りの呼吸ができてない!

 これが筋肉の不調や関節の故障、骨の損傷だって言うなら何がどうなったか直ぐにピンと来るし、対応だって心得てる。でも波動受容体の状態や魔力の消費量がどう人体に影響するのかなんて、私にはまだよく分かってない。分からないってことは恐怖でしかない。

 とにかくキツイ! しこたま苦しい!


「本当に行けるの!? 何だかちょっと怖くなって来たんだけど……」

「いいから……」


 何が!?

 何にもよくないよ!

 こんなに息が苦しいのに、ソーニアってば何だかさっきの仕返しみたいになって来てない?

 本当に行けるんだよね?

 信じるよ?

 私は分かんないから、ソーニアを信じるしかないからね?


「はぁ、はぁ、んぐっ――。まだまだぁぁぁぁあああ!!!」


 チラッと見ればバンダースナッチが半分起き上がって、魔法に抵抗しようと藻掻いてるみたいだった。でもとてもじゃないけど相手の様子を見ながらとかやってられない。余計なことは全部捨てて、集中を維持するので一杯一杯。


十四倍テトラデカプル十五倍ペンタデカプル十六倍ヘキサデカプル、あ……。十七倍ヘプタデカプル……」

「ちょちょ待って待って!? 今あって言わなかった? あって何!?」

「言ってない。続けて……」


 絶対言ってた!

 嘘でしょ!? まだ続くの!?

 これ以上やるともう立っていられそうにないんだけど……。

 何て言うか今、鍛え上げた筋肉がしぼんで行くような喪失感に襲われてる。これはもうハッキリと恐怖そのものの感覚に近い。でも、そうは言っても自分の状態を確認する知識も術もないし、ここで勝手にやめる訳には……行かないか――。


「ふーっ! ふーっ! もうっ、いいからっ、全部っ、持ってけぇぇぇぇぇーーっ!っ!っ!」


 あと少しで完全に膝が抜ける!

 私今、二本目の開始線に立ったケネスみたいに足プルプルしてる!


十八倍オクタデカプル十九倍ノナデカプル、すごっ……二十倍アイコサプル。もういいわよ。終わったわ……」

「ひょ、ひょんろ?」


 遂に呂律も逝ってしまわれた。でも――、


「終わっひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 やっと、やっと終わってくれたぁ……。

 長かった。長かったよ。実際は二分とか三分なんだろうけど、死ぬほど長く感じられた。


「はぁ、はぁ……。ねぇ、ソーニアっ」

「何……?」

「ひょっとしてだけど、さっき、あ、って言った時に、終わってなかった?」

「…………。気のせいでしょ」


 絶対嘘だコレ! 絶対あの時終わってたって! 間違いない!

 だって、あとちょっとって言ってたのが十三倍トライデカプルで、そこから二十倍アイコサプルまで行く訳がない!

 怖すぎる。

 最後の方なんか魂が抜けて消えて行くんじゃないかとすら思えた。

 私もう二度とソーニアのこと怒らせたりしない。


 ばぁぶぅ! むぃむぃ――。


 ペペリットがごきげんな声を上げて姿を消した。

 そうか、本当に終わったんだ。

 舞台の方に目をやれば、元の姿に戻ったケネス・アップルガースが大の字になって倒れている。制服はボロボロのまま。でも、胸の上下で呼吸をしているのは分かった。


「……それじゃあね」

「待って、フローレはどうなったの?」

「もう帰ったみたい……」

「帰った? まだお礼も言ってないのに」

「心に想えば……伝わるわ」


 そう言い残してソーニアも消えてしまった。


「心に想えば、か――」


 感情の精霊たちにはそれで伝わるってことなのかな。

 思えば今日は怒りの日。憤怒霊フローレの守護は本当にあった。私は姿のないフローレを心の中で見送って、秋空高く感謝を捧げた。


「ありがとうフローレ。私が怒りたくなった時には、いつでもご馳走を食べにおいで」


 そして背後からの足音。


「ガラテア!」


 たった一言。それだけで全てが報われた気になって、感じていた疲れもたちまち消えてしまう。


「ナディーン様!」


 いの一番に駆け付けてくれた姫君を抱き止めて。長かった一日はようやく終わりを迎えた。

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