第22話 再会

「終わった――」


 最後の一頭が跡形もなく消えてしまったのは計算外だったけど、とにかくも事態は鎮静化できた。

 なんて胸を撫で下ろしていたら俄かに人が集まり始めて、返って騒ぎが大きくなりそうな気配。どこか場所を移した方がいいのかな、と思った矢先、突然に腕を掴まれた。


「おいっ、こっちだ!」

「おまえっ!?」

「フレディだ! 名前も覚えらんねーのか? いいから来い。教師連中に捕まってみろ、一晩中質問攻めに遭うぞ。いや、全部吐くまで連日の呼び出しだな」


 それは嫌だ。

 実際派手にやり過ぎた自覚はある。私に言わせればソーニアがやったんだけど、ソーニアに言わせれば私に原因があるみたいだし。仕方ない。ここはフレディに付いて行こう。

 去り際に広場を見渡すと、フレディに任せた魔獣も首根っ子に小剣グラディウスを突き立てられた状態で絶えていた。そのまま大講堂に目を向けると少し開いた戸口にアシュリーとデスピナ、それから私の姫君の姿も確認できた。直ぐにも駆け付けたかったけど、今は諦めるしかない。


「どこまで行く気? 大体どうしてフレディが私を庇うの?」

「知るかっ、姉貴がお前を逃がせって合図を寄越して来たんだよ。だからこれは、仕方なくだっ」

「姫君が?」


 それって何だか嬉しい。とっても幸せな気分。

 第一講義棟と第二講義棟の狭間を抜けると正面は西運動場。フレディと私は左へ折れて、敷地の西側にある遊園区画を目指した。


「それよりおまえ、さっきのは何だよ? あの黒い剣はよ」

「ガラテア。名前も覚えられないの?」

「こいつ……。分かったよガラテア。教えてくれ」


 素直でよろしい。まぁフレディにはちょっとだけ手伝った貰ったし、ちょっとだけ見直してあげるとしよう。ほんのちょっとだけね。


「何って魔法だけど? さっきのは闇の精霊魔法」

「マジか。ガラテアおまえ、あんだけ強くて魔法まで使えるとか反則だろ」


 だって私は魔女騎士マガデイムだもん。


「フレディは魔法使えないの?」

「うるせーな。俺は剣だけだよ。それだっておまえの方が格段にすげーしな。差があり過ぎて悔しいって気も起らねーけどな」


 その台詞は劣等感から? 足りないと思うならこれから鍛えて行けばいいだけなのに。


「私の剣は鍛えた分強いってだけだ。誰だって鍛えれば強くなる。フレディは先ず筋肉を作るところから始めたらいい。付けるんじゃなくて作る。どの筋肉にどんな意味や働きがあってどう使えばいいのか。ちゃんと知らずに鍛えたって意味なんかない」

「相変わらず筋肉好きだよな。ご大層なご高説をどーも」


 私なりのアドバイスだったのにそっけなく躱されてしまった。

 そうこうする内に遊園区画に到着。生徒たちが息抜きに訪れる緑豊かな公園だ。大きな池を迂回して北へ抜けると、半ドーム状の野外音楽堂が見えて来た。


「ここらだな。人が来そうな感じもしねーし、平気だろ」


 フレディーは音楽堂の舞台縁にドッカと腰掛けた。


「ところでその剣はどうしたんだ? 警備兵の獲物にそんな大物なかったろ」

「ん? これ? これは私の剣。そう言えば仕舞うの忘れてた」


 出した時みたいにみっともなく背中を丸めるのは止めにして、適当な位置までスカートをたくし上げよう。


「お、ちょ、おまっ」


 それから軽く片足を上げて、中に剣を突っ込む。こう、グイッと。


「バカッ、何やってんだおまえ! 足を上げるな! は? 剣は? どこに仕舞った?」

「闇の魔法のお蔭で服の陰から出し入れができるの」

「マジか。いや違う! だからっておまえ、男の前でいきなりスカート捲んなよ! さっきだってあのウォルターとかいう警備兵、おまえのスカートの中覗いてたんだぞ」

「そうなの? 別に気にはしないけど」

「いや、気にしろ? 大事だぞ? ガラテア、おまえ女だろ? まさかまだ分かってねーのか?」


 何をそんな必死に。


「私は女だ。それは認める。だからこうしてスースーするスカートも履いてるんじゃないか。……捲るのはダメだった?」

「最悪だよおまえ……」


 最悪とは言い草だ。

 スニーや他の魔女たちからはスカートを捲るなと言われた覚えはない。ただ、それが言うまでもないことだという可能性はある。でもじゃあ、スカートって何の為にこんなにヒラヒラしてるの? 捲れるようにできてるってことじゃないの?


「まぁいいさ。姉貴に引き継いだら俺には関係なくなることだしな」

「そうなの?」


 何のことだか分からないけど取りあえず私も座ろう。

 フレディの隣りに腰を下ろして黙りこくっていると、あちこちから気の早い秋の虫の声が聞こえて来た。どことなく懐かしい気配――。


「こうして緑に囲まれてると森の邸を思い出す」

「あん? それはおまえの実家か何かか?」

「そう。カルデネ州の北の端。クレサークって言う何もない田舎にね。私はそこでずっと大叔父と二人暮らしをしてたの」

「カルデネって言ったら南部の東端だな」


 フレディは何かを考える風に小顎に手をかけた。

 それにしてもこんな場所に二人でいるなんて、奇妙な縁になったもんだ。


「あれ? そうかおまえ……ブランペインって言ったら確かその辺りの」

「フレディも知ってるんだ? 昔カルデネと南のワズン一帯はブランペイン王国っていう帝国とは別の国だったんだって」

「だよな。ってことはおまえ、そこの血筋なのか?」

「あ、この話はしたらまずかったかな」


 アカデミーの受験を申し込むに当たって、ステラからはプランペインの名を伏せておいた方がいいと言われた。ステラの伝手で適当な貴族の名前を借りられるからそうしないかって。でも私は断った。自分を偽るような生き方は騎士のものではないし、何よりその名が私と大叔父とを繋ぐよすがだからだ。

 キャメロンのことは知らない。

 ユージーンのことも知らない。

 最期の手紙に書かれてた通り、私の父は大叔父でしかない。

 だからもし、私の血筋のことで何か問題が起きるようなら、その時は胸を張ってダグラス・ブランペインの娘だと言うつもりでいる。

 ステラはそれで納得してくれた。大叔父なら帝室の覚えも目出度いから構わないだろうと。でもそれは私にはどうでもいいこと。私には大叔父と過ごした時間が全てで、他のことは全部後付けに過ぎない。だから方便じゃなしに、本心から父と言えるのは大叔父だけだった。


「ちょっといいかしら?」


 不意に声がした。植え込み一つ向こうから現れたのは制服の女子三人組。襟と袖のラインが二本だから二年生だ。


「御免なさいね、急にお邪魔してしまって。私はダルシー・ハイペリオン。二人はエルスティン・ギルモアとロサリア・カンバーバッチ。私は侯爵家でエルスティンは子爵家。ロサリアは男爵家。それぞれの家の娘よ。よろしくガラテア・ザ・モンスターキラーさん」


 んん? その称号、ひょっとして広まってる? やだなぁ、恥ずかしい。


「私に何かご用ですか?」

「ええ勿論。けれど、できれば私たちだけで話がしたいのだけど――。そちらは?」

「俺か? 俺はフレディ」


 フレディは挑むように立ち上がって前へ出た。

 私も立った方がいいのかな? 上級生の前だし、立った方がいいよね。


「あんたらの大嫌いなカーブラックだよ」


 フレディ君。私でも分かることだけど、上級生相手にそんな口の利き方はしないぞ。


「カーブラック……。そう、何か誤解があるようだけど、別にカーブラック家を嫌った覚えはないわよ。それで、外して頂けるのかしら?」

「当然断るぜ」

「それは何故?」


 そうだよ、何で? それにフレディ。ダルシーさん怖い顔になったけど平気?


「こっちは待ち合わせの最中なんでな。要するに先客がいるってこった」

「そうだっけ? 私誰かと待ち合わせてた?」

「いーから、おまえは黙ってろ」


 だって記憶にないことを言うから。


「先客というのはどなた?」

「あんたの大嫌いな俺の姉貴だよ」


 ん? さっきも言ってたな。姉貴に引き継ぐとかなんとか。フレディのお姉さんってことはつまり…………私の姫君だ!

 私は姫君と待ち合わせてた!? 寝耳に水の凄い朗報キタ!!

 それにしても、渋い顔をしてるダルシーさんは私の姫君を嫌ってるってこと? 今フレディはそう言わなかった?

 あれ? ちょっと待って。この人たちどこかで見たことある。どこでだっけ?

 あ――、思い出した。


「貴女たちはダンスの試験で妨害しようとして来た人たちだ。そうですよね?」


 単刀直入に言えば即座の燕返し。


「それはきっと誤解でしょう。私も貴女のその髪色、よく覚えているわ。探し人が貴女で少し驚いていたところよ。あの時はそう、男性だったし」

「まぁ色々ありまして……。でもそうなんですか? あれは誤解とは違ったような……」


 ダルシーさんは卒なく制したけど、後ろの二人は明らかに顔色を変えてる。


「接触しかかったことは認めるわ。けれどダンスはパートナーがあってのもの。片方の意図でどうこうはできないものでしょう?」

「まぁ、それは確かに」


 あの時事故にならずに済んだのは私の力だけじゃない。姫君が最初から最後まで完璧に合わせてくれたからだ。

 ダンスは一人じゃ踊れない。言ってることは確かに正しい。


「先客のことは分かったわ。でもそれもまだ見えていないようだし。来るまでの間だけ……そうね、私とガラテアさんの二人で話せないかしら?」

「私はいいですけど――。フレディの意見は?」

「おまえがいいなら止めようがないだろ。離れるのは構わねーが、見える範囲にはいろよ」

「分かった。じゃあダルシーさん、向こうでお話ししましょう」


 そういうことになった。




 ***




 現場や大講堂に先生方が駆け付けて来ると、私たち生徒は学年を問わず、寮室へ戻るよう言い渡されました。

 南側の扉から出てピロティを横切り、正門前の花時計が植えられている前庭へ。そこで三年生は東側、私たち一年生と二年生は西側へと、それぞれの寮に向けて歩き続けました。


「デスピナさん。私たち、ガラテア様を探しに行かなくてよかったんでしょうか? せっかく親しくして頂けたのに……」


 花時計を背にして大浴場前の垣根に覆われた道を行きます。周りはまだ騒ぎのことを口々に話していましたけど、全てを見ていた私たちはなんとなく黙って歩いていました。


「でもアシュリー。ここで勝手に動いても先生たちに見つかって、結局は寮に強制送還されるだけでしょ? あたしだって気にはなるけど今は大人しく戻るしかないじゃない。それにほら、東北棟の三一〇号室へ行ってガラテアのこと、使用人に伝えるだけでもしておいた方がよくない?」

「それは、そうですね。それだけは私たちでしておかないと」


 私は引き籠りだから外歩きが絶望的に下手だし、探すつもりで行ってもどうせ迷子になるのが落ちです。それぐらいなら最初から――。


「私って本当に何もできない。とことん自分が情けないです」

「えー? 私だって今回は何もできてないんだけど」

「デスピナさんはずっと私を守ってくれてたじゃないですか」

「それって単に一緒に避難してただけじゃない。それにアシュリーでしょ? 鉱毒魔獣ヴェノムビーストのことに気付いたの。私はあれ、凄く役に立ってたと思う」

「そうなの、かなぁ」


 ずっとお店の手伝いと本の虫でしかなかった私が、望みもしない貴族になって、ここ最近はますます宙ぶらりんになった気がしていました。

 ガラテア様はそんな私に、身分なんて気にしなくてオーケーって言ってくれたんです。少なくとも私にはそう感じられました。

 それまでの私はどんなこともドンマイで済ませていて。

 お店の手伝いを失敗してもドンマイ。

 友達が作れなくってもドンマイ。

 嫌なことがあればベッドに潜ってドンマイドンマイ。

 でもガラテア様はオーケーだよって笑ってくれた。ドンマイしか知らなかった私にゴーサインを出してくれたんです。そんなことは初めてで、そのことが嬉しくって、勝手に仲良くなった気になって…………。だから、何でもいいから役に立ちたかったのに。


「お、ここにも魔女のポストがある」


 混雑している西側を避けて寮の北側へ回った先、石畳の道端に古めかしい造りの真っ赤なポストがありました。魔女さんへのお願いを書いた手紙を入れる、昔からあるおまじないのポストです。


「これ、アカデミーの敷地内に結構あるんだよね。ここにあるってことは二年生や三年生の寮の前にもあるんだろうし、花時計の掲示板の脇にもあったでしょ? あと大講堂の隣りにある温室の傍でも見かけたな。他にも探せばまだあるかも」

「私の家は商家ですけど、お店の前にもありましたよ。小さかった頃はよくお願いを書いて出してました」

「それを勝手に読む悪ガキがいるんだよねー」

「いました。私の手紙、回覧板で回されてましたから」

「それは最悪だわ……」


 私が家から出なくなった一因です。


「今度そんな奴がいたらあたしに言ーなよー。そいつの顔に落書きして、仇を取ってやるからさー」

「え?」


 声は全然違ったんですけど、節回しがちょっと似てて、思わずデスピナさんの顔を覗いちゃいました。


「あたしじゃないよ。今言ったのはその子」


 知らない人です。背の低い私より更に背の低い女の子で、着ているのはメイド服。寮の中を通る道から出て来たようで、そのまま魔女のポストに取り付いて蓋をガチャガチャとやり始めました。


「ダメよ、そんなことしちゃ」

「何でー?」

「何でって、それを開けていいのは魔女さんだけでしょ?」

「…………。あーっ、そっかそっか。そーだよなー。あたし侍女だっての忘れてた。うっかりしちゃったなー。じゃーここのは他のヤツに任せとくかー。でもなー、ガラテアが戻って来るまで暇なんだよなー」


 何か誤魔化すような素振りをしてブツブツと。その呟きの中に確かに聞き取れた名前がありました。


「貴女今、ガラテア様のお名前を言わなかった? ガラテア様の侍女さんなの?」


 すると侍女さんはびっくりした顔をして。


「え? そーだけど。ガラテア様って、あいついつの間にそんなに偉くなったんたよー。様とか柄じゃねー! あははははっ」


 呆気です。自分の主人をそんな言い方します? ガラテア様も不思議な人でしたけど、侍女のこの子はもっと不思議です。


「あのさー、あたしたちガラテアのことで報せておくことがあるんだけど、他に侍女はいないの? あんた一人?」

「お? いるよー、あたしより格下のスニーってのが。あたしは格上のチャロ。よろしくな。そんで? 報せておくことってー?」


 もう一人いるなら同時に伝えようということで、私たちはチャロさんと一緒にガラテア様の部屋、東北棟三一〇号室へと向かいました。




 ***




 野外音楽堂の角に移動した私はダルシーさんと二人、フレディたちの目の届く範囲。声の届かない辺りで会話した。

 基本、私が聞き役だから黙って彼女の話を聞いていたんだけど、要するに今、私は彼女のサロンに勧誘されてるみたい。

 その場合、私の答えは決まってる。


「お話は分かりました。でも所属するサロンは直ぐに決めなくてもいいって話でしたよね?」

「それはそう。だけど私は是非貴女に来て貰いたいわ。貴女のような人ならメンバーの手本にもなるだろうし、特に戦技科や魔法科の生徒から大きな拍手で迎えられるでしょうね。それに、サロンはある程度規模の大きなものに属していた方が活動の幅もあって、学校側の評価にも反映されやすいのよ」


 ありがたい申し出だけど、今は決断できない理由がある。


「でも、私はできれば姫君のいるサロンに行きたいので」

「姫君?」

「はい。ダンス試験のパートナーだった黒髪の姫君です」


 照れ臭い気持ちで告げたら、途端にダルシーさんの表情が険しくなった。やっぱりダルシーさんは私の姫君に対して意図や因縁があるみたい。


「それはナディーン様のことね。貴女もうナディーン様とお話を?」

「ナディーン? ナディーン様って言われるんですか、あの方は」


 想像もしなかったけど素敵な名前だ。夜空を映すあの黒髪。それにダリアパープルの深い瞳にもよく似合う。


「そう、まだならいいわ。ところで貴女」

「はい?」

「お名前だけで、まだ家名を伺ってなかったわね」


 おっと。今、家名のことを聞かれたぞ。

 大丈夫。私にはちゃんと分かってる。これはヒラメ筋の話じゃない。その点は既に学習済みだ。私だって少しは成長した。


「ブランペインです。ガラテア・ブランペイン。それが私の名前です」

「ブランペイン!? 貴女が……」


 半歩後退ってまで驚かれてしまった。


「えっ、どうかしましたか?」


 そんなに驚くようなことだった? それとも何か間違えたとか。

 ハッ、まさか、ここはヒラメ筋でよかった?

 いや、さすがにそれはないと思うけど……。


「貴女がブランペインだと言うなら尚更私のサロンに来るべきよ!」


 今度は詰め寄られた。近付いて来た顔を覗くと秋の空を映すようなサルビアブルー。とても真っ直ぐで奇麗な瞳。


「そうなんですか?」

「だってそうじゃないの。私はハイペリオン。貴女はブランペイン。その意味するところは貴女にだって分かるでしょう?」


 む、ここは考えるところだぞ。脊髄反射で「さぁ?」と言ってしまうのは簡単だ。でもダルシーさんの様子、何だか普通とは違う。

 選択科目で史学を選んでいるからハイペリオンの名前は知ってる。プルーイントンやロングモア、オルムステッドと同じで、ブランペインと共に南部諸国と呼ばれたかつての国々の一つだ。

 その共通項から辿れるものに何かある? どっちも帝国に吸収されて、後に反乱の狼煙を上げた点がそう。でもそれは遠い昔の話。私もダルシーさんも生まれてない時代のこと。経験から言えるものなんて何もない――。


「よく分かりません」


 仕方なく正直に答えた。でもどうやら不満だったみたい。


「どうしてよ? 何故? 南部には北部に虐げられて来た歴史があるじゃないの。貴女はその名を継いでおきながら、忘れてしまったと言うの?」


 ダルシーさんの中で感情が膨らんで行くのが感じられた。ダルシーさんは私に何を言ほせたいんだろう?


「忘れるも何も、私はまだ十四年しか生きてないし、昔のことは知識で知ってるだけだから……」

「嘘よ! 貴女だって北の連中からいわれのない差別を受けて来たでしょう? 踏みにじられて来たでしょう? 何も終わってなんかいないのよ、北と南は今だって憎み合ってる。いがみ合っているの。私だって……」


 そんなに揺さぶられても。どう答えたら納得してくれるの。

 私は外の世界を知らずに育って来た。だからダルシーさんの言うような経験はこれまで一度だってしたことがない。

 でも、プライドの高そうなこの人が悔しそうに目元を光らせて訴える想いは、ほんの少しでもいいから分かってあげたいと思った。それをしてあげられないことが悲しいと思った。


「ごめんなさい。私にはまだその気持ちが分かりません。そんな思いをしたことがないんです。でもいつかダルシーさんの気持ちが分かるって思えたら、その時にもう一度話をしたいと思うんですけど……、それじゃあダメですか?」


 今言えることを私なりに精一杯伝えたけど、それでもダルシーさんには届かなかったみたい。


「ダメよ……」


 目元を抑えて、ダルシーさんはまた半歩後退った。


「貴女は幸せ。今日まで守られて来たのよね。羨ましいわ。無垢なままの十四歳だなんて」


 ダルシーさんの言う通りだと思う。私はずっと大叔父に守られて来た。今はステラたち魔女に守られている。そうした恩にいつか報いて、守る側に立つのが私の目標だ。

 誰かを守る騎士になりたい。その誰かの中にダルシーさんがいたって構わない。私の心がいつかそうと決めたなら、今日の涙を、私はきっと守るだろう。でも今はまだその時じゃない。未熟な私の心はそれを決める手立てを持ってないから――。


「もう一度言うわ。私は今貴女が必要なの。貴女はサロンを学生のお遊びと思うかもしれないけれど、私は一度だってそんなつもりでいたことはないのよ」

「遊びだなんて、そんな風には思いません。でも、ごめんなさい。やっぱり今は決められません」


 ダルシーさんは両手を合わせて天を仰いだ。

 どうしてだろう? 凄く胸が苦しい。

 理由はどうあれ、こうまで私に心を向けてくれる人がいて、その気持ちに応えられない事実が、どこか罪悪感にも似た後ろめたさを感じさせていた。


「ダメか……。そして貴女は、ナディーン様の元へ行くのでしょうね」

「彼女が許してくれるなら、はい」


 失望させた。自分でも分かってるのに馬鹿正直に答えて、私はダルシーさんに追い傷を負わせた。でも強い人だから、もう涙は見せなかった。


「なら最後に一つだけ教えて頂戴」

「私に答えられることなら、どうぞ」

「勿論貴女にしか答えられないわ。知りたいのは貴女のお父様のお名前ですもの」

「私の……?」


 その質問の意図は?

 違う。意図はどうあれ私の答えは決まっている。ついさっきそのことを心の中で確かめたばっかりだ。彼女が何を思ってそれを聞くのかは考えても無駄だし、なら私は私が父と思うただ一人の名を答えよう。


「私の父は、ダ――」

「そこまでにして頂けるかしら? ダルシー様」


 その時、ずっと聞きたかった声が耳朶に触れた。

 たった四箇月――。

 なのに恋焦がれていたかのように感情は膨れ上がって、いつの間にこうまで想いが育っていたのか、自分でも驚いたくらいだった。


「もうお話の方はよろしいですわよね? 私がこうしてここへ来ましたからには」


 ああ、制服姿で風に靡く黒髪も素敵だな――。


「ええ、ナディーン様。貴女がこちらへいらっしゃるまでという約束でしたから」


 さっきまでの感情を嘘のように仕舞い込んで、ダルシーさんは刃の下に心を置いたようだった。


「でしたらそういうことで。ごきげんよう、ダルシー様」

「……ごきげんよう、ナディーン様。ガラテアさんも。貴女が言っていたいつかの機会を私、楽しみにしているわね」


 ダルシーさんは肩の触れそうな距離で姫君と擦れ違って、その背中を取り巻きの二人が追いかけて行った。

 残された私と姫君の距離は十メートル。間には何もなくて、ただ風が過ぎて行くだけ。

 体は動かない。

 声も出せない。

 今はただ、彼女からの合図を待つ他ない。

 人生にはこんな時間があるんだってことを、私はこの時初めて知った。


――私には分かりました。この方だと。


 立ち尽くす中で大叔父の手紙に見た言葉がふと脳裏を過った。

 大叔父が初めてエスメラルダ様と出会った時の想い。それをなぞるように自分の胸に通した時、


 私にはこの人かもしれない――。


 そう思った。

 確かにまだ世界を見て回った訳じゃない。けれど運命の足の速さは誰にも分からない。もし今がその時なら、私は後で逃したと後悔したくなかった。

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