第10話 レッツダンス!
試験官の指図に従って第一プールへ向かいます。慌てて飛び込むのもみっともないですから、半数を見送ってからゆっくりと。
私のパートナーが立っているのは中央から少し向こう寄りの位置。その距離を一歩一歩、エレガントに歩いて行くのですわ。
って、目を閉じていますわね。何故パートナーである私を見ないのかしら?
「開始の合図があるまで、パートナーと向かい合って待機」
近くまで来て見てみると、あの日の記憶と重なる細面の整った顔立ち。肌色は北部人の白に近くて、僅かに南部系統の浅い褐色が混じっているようでした。けれどそれも、ダルシー嬢のベージュローゼの肌のように明確なものではありません。
どうせ目を閉じているなら、今度は正面からじっくり見てみましょう。と思ったのですけれど――。
「?」
消えましたわ。え? どうゆうことですの?
見ればいつの間にか足元に
ええ? これって、私はどうすれば――?
今までのどのグループも、今いる周りのペアを見ても、こんなことをする人は一人も見当たりません。
戸惑っていると、不意に下から手が差し上げられました。そして耳から入って心を揺さぶる言葉。
「私の姫君。どうか手をお許し下さい」
ああ、この少年はパートナーである私に最大の敬意を払ってくれていたのですわ。
前に立つまでの間にもジロジロと不躾に見るような真似はせず、ただ私が来るのを待って、跪いて許しを乞う。
私を姫と呼ぶ彼こそ、一曲限りの私の騎士。さながら物語に出て来そうな一幕ですわね。
ええ、ちっとも嫌いじゃありませんわ。
「許します」
手に手を重ねて許しを告げると、下手がすれば押し当てる口付けを、私のパートナーはさり気なく優雅にやってのけました。
そして立ち上がった彼と初めて交わす視線――。
そこには深く澄んだ湖水のように、青々と透明なマドンナブルーの瞳。その瞳の中に今、はっきりと私の姿が映り込んでいるのです。
そのことに気付いた瞬間、ほんの一瞬ですけれど、世界は二人だけのものになりました。
そして伝わる
重ねた手を体から遠くへ離し、もう一方の腕は彼の肩へ。回された腕に体を預け、
ヒール、トゥ。ヒール、トゥ――。
ふわり、雲の上を舞うような、これまで知らなかった軽やかなダンス。
ステップはベーシック。
振り付けはオーソドックス。
流れる
上手には違いないのですけれど、驚くべきは何より自然なことですわ。少し背の低いパートナーは心持ち高めに顎を上げて、上手にペアのバランスを取ります。そんなところは背伸びするようで可愛いらしいですわね。でも、リードするつもりがすっかりリードされてしまって――。
けれど分かります。これは若さを抑えた大人のダンス。
お父様とお母様が結婚記念日に踊る二人だけの愛の踊り。
いつか私にもその時が……。そんな風に遠い日を夢想していたものが今――。
高い位置に回された腕が心までも押し上げて、きっと、私の肩の上では喜びの精霊フェリスが、いいえ、愛の精霊アマラが微笑んでいることでしょう。
――cutback――
出だしからの流れは完璧だった。今もスムーズな流れに乗れている。
でもダンスは一人じゃ踊れない。今のこのパーフェクトな流れを作っているのは、こちらのステップにピタリと付いて来る彼女、黒髪の姫君がいてくれてこそ。
アップにしたミッドナイトブルーの髪からキラキラと星空が覗いていた。ふと姫君の髪が解ける想像をしたら、そこからインディゴの夜空が広がって、星降る夜を舞台に
そんな美しい流れの中で、不意に
けれども不吉の知らせとも聞く。
「体を寄せて、胸を着けるくらい」
ライズアンドフォールの大きなスイングを利用してパートナーを引き寄せる。すると背後にできたスペースをゼッケン三六六のペアが回りながら流れて行くのが見えた。
「ごめんなさい。動きが大き過ぎたかしら?」
「いいえ姫君、貴女は完璧です」
そう、彼女は完璧だ。もし私が女性パートを踊るとしたら、間違いなく同じようにするだろう。
本心から告げると、姫君は少し困ったような顔をして、薄っすらと桜色に頬を染めた。
――cutback――
「体を寄せて――」
スイングを大きく華やかに見せる為の上下運動。その最中に引き寄せられて、危うく
回りながら確かめたゼッケンは三六六――。
あんの女狐! わざとニアミスを仕掛けて来たに違いありませんわよ。
「ごめんなさい。動きが大き過ぎたかしら?」
「いいえ姫君、貴女は完璧です」
またそんな台詞を……。
ですが、パートナーを私とダルシー嬢の個人的な確執に巻き込む訳には行きません。ここは私が注意しておかないと。
「フォワードロックを連続で」
「えっ!?」
それはクイックステップのテクニックですわよね? それを連続で?
今流れている
けれどダンスをリードしているのは彼。私は付いて行く他ありません。
スロウ、クィック、クィック、スロウ。
横へ回り込む円の動きから前へ踏み込むステップへ。もう戻ることも叶いませんわ。私は全てを任せて後ろへ、後ろへと下がって行くだけ――。
――cutback――
何だろう? 幾つかのペアの動きがおかしいみたい。
さっきのニアミスが合図だったかのように、今も二組のペアが危険なラインに乗って来てる。
「フォワードロックを連続で」
「えっ!?」
驚かせてごめんなさい。でも私は騎士だから、何よりも貴女を守ることが最優先。
スロウ、クィック、クィック、スロウ。
ドライブするように左右へ体を揺らしながら真っ直ぐのラインを抜けて行く。そこへ近付いて来たペアの一組目を躱して、
スロウ、クィック、クィック、スロウ。
二組目はこっちの肩に触れるところまで来た。明らかに接触を狙ってる? なら私は最後まで姫君を守るだけだ。
プールエンドでターンを決めて、そこからもう一度中へと戻る。曲が終わるまであと二十秒もない。
「センターでフィニッシュします」
「はい」
ワルツのステップに戻してカーブラインの内径を狭めて行く。大きめのステップを踏んでもバランスを崩さずに付いて来る姫君は、本当に素晴らしいパートナーだ。
これなら行ける。
そう確信してフィニッシュへと突き進んだ。
ここまでのスウィング中心の流れを収束させて、締め括りは脚だけで描くオープン・インピタスターン。
呼吸をするように意図を察したパートナーと真っ直ぐに体を立ててフィニッシュポイントへ――。
その時アクシデントが起きた。
センターゾーンに入った瞬間、例のおかしなペアの一組と別のペアが接触。パートナーを守ろうとしたゼッケン三七〇の受験生が転倒。間の悪いことにセンターのド真ん中へ倒れ込んで来た。
その場所は正に姫君のフィニッシュポイント――。
「リフトします!」
即座に決断。躊躇ってる暇はない。例え急な動作でも、ここまで付いて来てくれた姫君なら応えてくれる。そう信じて――。
――cutback――
ロングストレートからのターンを決めてプールの中心を目指します。センターでのフィニッシュは中々に素敵なアイデアですわ。
立て続けのフォワードロックで目立ってしまったからには、そこを逆手にこのまま最後までギャラリーの注目をさらってしまいましょう。歓声の一つでも起これば印象点だって跳ね上がりますもの。
「きゃっ――」
後方から突然の悲鳴。続いてドタンと重たい音。誰だか知りませんけれど、この最終盤で転倒した方がいますわね。
「リフトします!」
ふぁーっ!?
嘘でしょう、貴方――!?
驚いて声も出ません。
リフトは危険度の高いテクニック。そもそもワルツでは致しませんし、普通はある程度慣れたパートナーとすることですわよ?
ラフに踊る場合ですらどこでどう、と軽く打ち合わせをしておくものですわ。それをまさか初めてのペアで?
心構えをする間もなく、楽々と体は持ち上げられてしまいました。幾ら私が軽いからと言って随分と力持ちですこと。
て…………、
ちょっとお待ちになって! えええ!? 貴方、一体どこに手を入れていますの!?
いやーっ! 何てことかしら!?
私のパートナーと来たら、普通ならウェストを両側から支えて持ち上げますのに。
片手はくびれよりも下の腰裏へ回り。もう一方の手は私のスカートを前から中へ押し込んで、その……。股間を、股間を押し上げているのですわ!
ガイヤルドを踊る時の突き上げるようなリフトだとしても片手は
ええ、きっとそうですわよね。そうだったとしてもこれは――。
勿論ふわっとしたスカートの膨らみで周りからは見えません。特に周囲の目からは最奥のセンターですから気取られはしませんけれど……。
とはいえここで悲鳴を上げたりしたら全ては台無し。それは私の本意ではありません。なら今だけはこの羞恥に耐えて見せますわ。
ワァァァァァアアア――。
パートナーの肩に手を付けないほど高いリフト。体の中心を支えられていますから安定感は申し分ありません。
広い舞踏館が一望されて、大らかに両腕を広げればギャラリーからは拍手喝采の渦。楽団も楽器を叩いて応えてくれます。
ああ、なんて素晴らしい眺めかしら……。お股のことはもう忘れましょう!
意識を下半身から切り離して優雅にお辞儀を繰り返すと、真下には青い瞳で見つめ上げる何から何まで規格外のパートナー。その彼がゆっくりと回りながら、螺旋を描くようにして私を下ろしてくれました。
同じ高さで確かめ合う目と目。そこにある確かな信頼を感じられたことで、自然と微笑みも生まれます。
ええ、何があったにせよ、とっても印象的なダンスでしたわ。
「許します」
それだけを口にしてお辞儀を交わし、結局名前も聞かないまま、私はプールを離れて行きました。
――cutback――
私の身長は未だ成長途中で一六〇センチに満たない。だからリフトを見栄えよく見せる為に、普通よりも高く持ち上げる必要があった。
転倒した受験生の横に回りながら近付いて、その遠心力を利用してパートナーを持ち上げる。肩甲骨に当てていた手を腰裏へと落として、前からは右手を股座に押し込んで真っ直ぐに掬い上げた。これで狙いの高さが出せる。
支え手をぴったり胸元に付けた密着姿勢。すると私の姫君は、空へ舞い上がる鳥のように両腕を広げて見せた。
「奇麗だ――」
意識しない呟きを歓声が掻き消して行った。このまま余韻に浸っていたかったけど、まだ後に審査を受けるグループがいる。
転倒した受験生が離れるのを待って、塔の螺旋階段を降りて来る姿を重ねながら、私は
「許します」
ダンスを終えてお辞儀をした時、彼女が何を許すと言ったのかは分からなかった。けれど鮮やかなダリアパープルの瞳には満足と信頼が浮かび上がって、自分がパートナーとして合格点を貰えたことは分かった。
姫君を見送ってプールを離れると、背中に例のおかしな踊り手たちのおかしな視線が刺さって来たけれど、果たして彼女たちの意図は何だったんだろう?
別に知りたいとも思わないけど、黒髪の姫君が狙われていたんだとしたらやっぱりちょっと気にかかる。
今は守れたけど、ひょっとして彼女は面倒事に巻き込まれてる? だとしたらこれからも守ってあげたい。
そう思って在校生のエンドに姿を探すと、さっきまで腕の中にいた姫君の姿は、もうどこにも見えなくなっていた。
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