不戦敗

雪猫なえ

不戦敗

えみは、強いな。俺はそう思えないから」


 小山内賢史おさない けんじは、一年付き合った彼女にきっぱり別れを告げた後そう付け足した。ぽろっと嫌みっぽく残さずにはいられない自分が惨めだった。


「喧嘩したいわけじゃないんだ。聞いてくれよ……はあ、お前はいつも聞いてくれないから……あっ、いやそういうつもりじゃ……はあ」


「いい加減、溜息やめたら?」


 うんざりした様子で、田中咲たなか えみは吐き捨てる。


「賢史のこと、私はまだ好きだよ。けど、いつからかな、賢史、ちょっと変わったよ」


「咲にはわからないんだよ。溜息が吐きたくなるこの感情が。だから、俺たちもう終わりだよ。別れよう、いや、別れてくれ。お前のためにも」


 再度別れる意志を伝える。もう残す言葉はないし、残すべきではないと思った。


「意味、わかんない。何、私のため、って」


 その言葉が一番咲のしゃくに障った。


「私のため、なんて綺麗に包んで責任の押しつけてこないで。賢史が嫌になったんでしょ。自分の責任を逃れるために私を使わないで」


「わかんないと思うよ。だから、もう止めよう。流れのままにずっといっしょにいるのは、お互い辛いだけだ」


「え、ねえ待ってよ、ちょっと賢史!」


「私は、流れに任せて付き合ってたつもりなんてないのに……ずるいよ……酷いよ」


 こうして、賢史と咲の関係は終わった。少なくとも、賢史はお別れをした。

 

(嫌いだ。期待されてる奴も優遇される奴も陰鬱な奴も華やかな奴も幸せそうな奴も。でも、こんなひがみっぽい俺が一番嫌いだ)


 ***


 社畜の朝は早くて寒い。そのくせ悠々と遅く来た奴が優秀な幹部になる逸材なんだからやってられない。

 心の中でそう毒突きながら賢史の朝は始まった。


「まあ、高校生の俺が言えたこっちゃねーけど」


 つまらない日々だと勝手に低評価ボタンを押して淡々と毎日を消化していく自分をそれこそクズ野郎だと思いながら、朝のHR《ホームルーム》が始まるのを待つ。


「おうおう、陰気くせー顔してるなあ賢史!」


「うるっせーよ馬鹿」


 遠慮なしにガバッと肩を抱えてきたのは、賢史と中学から友達をやっている糸井尊いとい たけるだ。インテリのような名前に賢そうな容姿をしているこの眼鏡だが、その本質はと言うと典型的なやんちゃ坊主だ。


「お前なあ。失恋したって夜中の一時に連絡してくる方がうるせーと思うけど。つっても事情が事情だからなあ、詳しく聞かせろよ」


「昨日言ったまんまだよ。俺が振って関係は終了。以上」


 咲と賢史の仲を知っている尊には、情報を共有する必要があるとの判断で、賢史は昨夜のうちに尊に連絡していた。断じて泣き言をぼやきに電話したわけではなかったが、深夜になったのは、それでも多少複雑な心境ではあったからだ。


「どういう経緯があってお前が振るに至って、どういう言葉で彼女と別れたのかって聞いてんだよ」


 例の如く、尊は根堀は掘り聞き出そうとしてくる。賢史としては、単なる業務連絡のようなものだったため、事実以外を伝えるつもりは毛頭なかった。

 それでも、尊がしつこいことも今まで通りで、どちらも引き下がらないうちに予鈴が鳴った。

 後でまたくっからな、と言い残して尊が自分の席に渋々戻った後、賢史はぼんやりと窓を見ていた。三人揃って二年一組になったことを飛んで喜んだのはつい4ヶ月ほど前だ。奇跡のように感動したクラス替えも、今となっては元カノと一緒になってしまったという気まずさに変わる。季節の移ろいに乗せて、自分の思いの薄情さにげんなりする。

 クラス替えから派生して、席替えでも咲とは因縁があった。どういうわけか、咲はいつも賢史の前方のどこかになる。別に咲が勉学に意欲的で自主的に志願して挙手するわけでもない。偶然そうなるのだ。一年生の頃からそうだった。賢史が咲の後ろ側に来たことはなかった。せいぜい横列が同じになったくらいだ。そのときでさえも、咲の光の強さに賢史は勝手にやられていたのだが。

 そう、賢史はこの席配置がずっと重荷になっていた。一番最初は、咲のことを認識する前だったからそこまでしんどくはなかった。よく発言する、真面目そうというより気の強そうな女子がいるな、と思う程度だった。二回目の席替えは中間考査が終わった頃で、咲と付き合い始めた直後だった。席が替わりたての頃は、自分の可愛い彼女をずっと見つめていられることをラッキーだと思った。咲の背中や斜め後ろからの横顔を見つめながら、優越感に浸ったりもした。

 でも、そんな感情も長くは続かなかった。春、入学した当初のように、徐々に咲の光が眩しくなった。いつのまにか前を向くことが辛くなり、目を逸らして視界に彼女が入らないようにしている自分がいた。そのことを自覚した頃から、賢史は咲との別れを意識するようになっていった。咲の聡さを持ってすれば、賢史の異変はすぐに気付くことができた。目が合わない、そう咲が感じた頃には、既に賢史の頭の中に破局の二文字が色濃く浮かんでいた。


 ぼんやり、ひたすらぼんやり、努めてぼんやりしていたら、水曜日の学校生活はいとも簡単に終わってしまった。賢史が帰り支度をしていると、すかさず尊が駆け寄ってきた。賢史の机に勢いよく両手をついて、逃がさないぞ、と目で示す。


「なんだよ」


「しらばっくれんなよ。昼休みは情けをかけてやったんだ、今は吐け」


「昼は、ただ単にお前が宿題忘れて呼び出されただけだろうが」


 尊が古典の宿題をまるっと忘れて職員室に呼び出されるところを賢史はしっかり見ていた。見ていた、とは言っても、授業が終わって教室を飛びだそうとした尊を教師が大衆の前でがっちり捕まえたのだが。


「でもそれはお前にだって一責任があるんだぞ賢史ぃ」


 唐突に尊はぼやいた。


「はあ?お前の宿題忘れを俺のせいにすんなし。責任転嫁も大概にしろよ」


「賢史お前、昨日の晩自分が何したか忘れたのかよ」


「お前に電話はした。以上。だけど別に女子みたいに五時間も六時間も一晩中話したわけじゃねーだろーが」


「いいや!お前が通話してきたからってのも大きいって!」


 尊が声を張り上げる。


「まあ好きに思っとけよ。俺の知ったこっちゃねーし。現に俺はちゃんと宿題忘れなかったしな」


 賢史の正論に尊はぐう、と根を上げる。

 一件落着かと賢史が廊下に視線を移したとき、そこでは長く下ろした黒髪が揺れていた。

 咲と、目が合う。

 不意打ちに遭った賢史は咄嗟に机に目線を流す。彼女は下校するところだったのだろうか。賢史からすれば年中流行っているように思える、くすみカラーの紫のリュックが見えた気がした。寒色系に分類されがちなその色が、咲の艶やかな黒髪と相まって、鋭いけれど暖かく感じられたことが懐かしく思い出される。彼女の笑顔がくすみ色をほんわりと染め上げていた下校道が恋しくないと言ったら、嘘かもしれない。そんなフラッシュバックが一層恨めしい。未練がましい自分を見ているようで重苦しい。

 尊は未だ素面しらふでぐだぐだ管を巻いており、咲と賢史の一連の動作には気付いていないようだった。

 どうせ明日の授業が始まれば嫌でも見ることになるのに、と自分の無駄な抵抗が空しかった。


「さあ、放課後こそは詳しく吐きたまえ!!」


 ぐだぐだに飽きたのか単純にはっと思い出したのか、尊が再びしつこい攻めを開始した。

 机に伏せていた姿勢から一転してガバッと上体を起こした彼は、強い意志を帯びた瞳を賢史に向ける。


「遂に古典に当てられたか」


 また茶化して話を逸らそうとする賢史だった。


「別に鬼塚にこってり絞られてなんかねーし!」


 そしてしっかりと乗ってくる尊も一周回って流石とも言える。完全下校時間まで、まだまだ先は長い。これから各々の生徒が自他の教室や図書室、自習スペースに空き教室など、使える施設をフル活用して活動を始めるのだろう。勤勉な同級生達に半ば感服しながらも、自分とは無縁な習慣に賢史は溜息をつく。

 咲と付き合っていた頃は、自分も自学を学校でしていた時期があった、と再び回顧録が蘇る。


 ***


「その絵、あなたが描いたの」


 出会いはすこぶる無難な常套句だった。


「そうだけど……」


「私がネットで親しくしている創作者の人と似てるのよね……同じ学校の人で、今度身バレを考えていたんだけど」


「え、そっち……えっと、田中さんも絵を描くの」


「咲で良いから」


 すかさず修正が飛んできて、賢史は一瞬虚を突かれる。多少しどろもどろしながらも軌道修正を試みる。


「あ、えっと、咲、さんも絵を描くの?」


 どうしても初対面でしかも女子に呼び捨ては躊躇われて賢史は敬称をつける。及第点だと言うように彼女はふん、と鼻を一回鳴らした。


「そう、『タダノタナカ』って聞き覚えない、小山内賢史君?」


「うえっ!?」


 もちろんフルネーム呼びは冗談ではあるが、急に名前を呼ばれたことと、自分の名前を知っていたことに賢史は驚きを隠せなかった。


「ちょっと、同じクラスでしょ。名前くらい把握してるってば」


 咲が、可笑しがるというより訝しげな表情を浮かべたので、賢史は慌てて弁明を考えたが、先に咲が話を進めた。


「もしかしたら、『賢児』さんかなって思ったんだけど、違ったかな。賢いの『賢』に子供って意味の『児童』の『児』なんだけど……間違ってたらごめんね、私超変な人だね」


 はにかむ笑顔が純粋に可愛いな、と思った。


「いや、合ってるあってる。ごめん、ちょっとびっくりし過ぎて頭がショートしてた」


 賢史が謝罪の意を示すと、咲はまた笑った。


「ごめんごめん、私こそ急だったもんね。あんまり嬉しかったから、期待が先走っちゃって」


 えへへ、と照れる姿は、女子だなぁと賢史は感じた。


「ていうか本当に賢児さんでびっくり!そして本名と同じだったんだね。漢字は変えてるけど」


「うん、名字の小山内にかけて、『幼い』を使おうと思って。最初は『賢い幼稚園児』ってつけようかとも考えたんだけど、イマイチ過ぎてさ、略したら今のけんじになったんだ」


 賢史のユーザーネームの由来を聞き、咲は何それ、と笑い続けていた。よく笑う女子らしい女子、それが賢史の咲に対する第一印象だった。そしてそれは、その先もなかなか覆ることはなかった。

 ホルモンが好きだ、と咲が焼き肉屋デートでカミングアウトしたときくらいだろうか。しかしそのときでさえも、肉の好みを語ることへの抵抗を端々に漂わせた咲はかわいらしいと形容するに相応しかった。


「何で俺にこんな可愛い彼女がいるのだろう」


 賢史はずっとそう思っていた。「いる」が「いた」になった瞬間も、同じことを思っていた。

 初めて二人きりで出かけたきっかけは、賢史が作った。


「今週の日曜日、ちょっと出かけない」


 そのときの咲の表情を、賢史は今でも鮮明に覚えている。少し驚いた後の安堵の感情、そして次に発現したのはありきたりだが、花が咲いたような喜びだった。

 面食らったのは、賢史の方だった。


「うん、うん、いいよ。行こっ!」


 彼女の弾んだ声は、ただの賛同じゃなかった。大賛成、と目が、彼女の全身が、空気が歌っていた。

 その頃、賢史の方はとっくに恋に落ちていた。咲の方がどうだったのか、いつから賢史を好きだったのかは、ついぞ賢史が知ることはなかった。いつか知ることができるのか、とふと考えることもあるものの、今となっては不可能だろうなと思っていることを、当時の賢史はわかるわけもなかった。だからずっと聞かないままだった。

 初デートは、ロマンチックさは薄いものの、憧れる人も少なからずいる、買い物デートだった。デートに誘うというよりも、用事に付き合ってもらうことを口実に連れ出した形だったため、そうなることはいわば当然で自然な流れだった。

 咲の方にも不満は見られなかった。少なくとも賢史はそう感じていた。


「今日、何で私を誘ってくれたの?」


 素朴な疑問だったのだろうか、あるいは聡い咲のことだから、確信を現実のものにしようとしたのだろうか。結果的に、彼女のその一言で、賢史の口が正式に告白の言葉を紡ぐこととなった。彼の言葉を受けた咲はとても満足げだった。過去一の笑顔は花が咲いたと言うより大切なものを噛みしめた表情かおだった。

 賢史の一世一代の恋が実った後、手をつないで帰るという追加イベントが発生したのは、咲の機転のお陰だったことは余談だが。


 ***

「明日も俺は粘るからな!俺のしつこさはお前が一番良く知ってるんだから覚悟しとけよ賢史ぃい!」


 知ってる、と心の中で賢史は呟いた。呆れを含んだ呟きだ。尊のしつこさは正真正銘筋金入りで、校門を出て、帰路が別れる所まで尋問のは続いた。尊のこの性質は恋愛においても例外ではなかった。そしてそれこそが厄介の種だ。


 尊が好きになった女子が何人も泣いてきたことを、賢史は知っていた。もちろん嬉し涙などではない。尊はいつかストーカーで捕まるんじゃないかと、賢史は密かに思っている。いや、本人に伝えてもいる。自覚という代物は何よりも大切だという賢史の信念の下の決断だった。賢史が尊にやばいぞと訴えたのはもう何ヶ月前のことだっただろうか。


「だから、俺は既に事実は伝えた。親しき仲の礼儀は果たしてあるの」


「んなわけ!!詳細情報全然貰ってないからまだ果たしてない!」


 尊の必死で熱烈なアピールも空しく、賢史はスタスタと帰路を歩む。流石の尊も自分の下校ルートを外れてまで賢史を追っては来ないだろう、そう思ったからだ。

 案の定、尊は渋々ではあったようだが賢史を解放した。


 「何で別れたか」


 賢史は一人呟く。そんなの、賢史本人だって知りたい。

 ニカッと笑う咲の笑顔が好きだった。彼女の背中を隠す淡い紫が好きだった。それがいつも咲を見つける目印だった。気付けば毎朝そのパステルカラーを探していた。彼女の色白で華奢な体躯たいくが美しいと思った。賢史より小柄な体で機敏に動く姿に見惚れないときはなかった。重力や風に合わせてなびく肩より長い黒髪は持ち主の丁寧な生活を感じさせた。少し赤みを帯びた暗黒色は、活動的な一面も反映していると思った。きっと休日も積極的に外出をするのだろう、その相手が賢史ではないときも、もしくは相手などいない場合でも。一匹狼と言うには周囲が賑やか過ぎたけれども、彼女は決して自分一人で行動できないタイプではなかった。

 お化けが平気な彼女が好きだった。二人で入った日には、賢史のビビり様など情けないでは済まなかった。咲はいつでも先陣を切って賢史の前を歩き、時には賢史を庇うような仕草まで見せた。吊り橋効果とはよく言ったもので、賢史の方がその魔物に魅せられてしまっているような有様だった。


 今でも、聞かれたらきっと好きと答える。


 咲の、眩しいくらいの笑顔がダメだった。彼女の跳ねるような行動力がいけなかった。意識しなくても目に入る、集中力を上げるという薄紫が目につきまとった。払っても払ってもついてきて、やがて振り払えなくなった。気丈な彼女を見ていられなかった。一緒にいるときにはいつも自分の存在意義だなんて不毛なことばかり見出そうとしていた。

 賢史は、囚われたことに気付いてしまった。

 疲れた。


「明日も明後日も、お前に言うことなんて、ねーよ」


 咲に宛てたのか、尊に吐いたのか、賢史にもわからなかった。


 ***

「おはよう賢史!さあ今日こそ」


「もうさ、疲れたんだよ」


「え」


 台詞を遮って言い放たれた賢史の言葉に、尊は固まる。次に、その表情が不安に曇る。


「え、と、賢史?」


「もう、疲れたんだ」


「それは、えっと?」


 未だ意図を確かなものとして認識できずにいると、賢史はすっと席を立ってしまった。空の席の前に残された親友の困惑は当然のものだった。


「お、俺?じゃないよな……」


 唐突に行方をくらませた賢史はというと、行く当てもなく彷徨っていた。女子と違って、男子トイレで個室に籠もる気にはならない。朝のHRまでにはまだ二十分ほど猶予がある。

 どこかに何か用事があるかのように、前を捉えて通常の歩幅で歩く。とりあえず職員室を仮初めの目的地に任命した。


「失礼します」なんて扉をノックするはずもなく、何の質問も提出物もない賢史は、忙しなくも再び一歩踏み出す。宿題なら登校してきてすぐに教科係に出してしまったし、昨日の授業は体育以外全て上の空だった。疑問なんて浮かぶはずもない。

 勇気なんてなくても踏める一歩があるんだな、なんてしょうもないことを頭に抱えた。


 尊のことだからすぐにでも追ってくる可能性も当然のように頭に入れていた。しかし思いの外捨て台詞が効いたのか、尊の長めの茶髪の先一ミリも賢史の視界に入ることはなかった。もちろん高校の校則で髪染めは禁止されているが、尊の場合は薄めの色素が地毛のため許容されている。不意に賢史は自分の黒髪をいじってみる。

 何の変哲もない、日本人の一般的な黒。漆黒と言うほど鮮やかではなく、黒茶色と言うほど日に焼けているわけでもない。

 つまらないな、と一言そう思った。


「つまらねー奴」


 今度は耳にも届く。息だけは毎日こんなに詰まるのに、なんて。


 五分もするとHRの本鈴が鳴るのですごすごと教室に帰る。尊のことを気まずく思ったが、自らが蒔いた種なので文句は言えない。入るときの一瞬で尊の席の方へ視線を走らせる。尊はずっと教室の出入り口を気にしていたのだろうか、すぐに目と目が合った。咄嗟に逸らしてから、気恥ずかしさからなのかそれとも反射なのか考えた。人は、意図せず襲ってきたものに対しては避ける行動を取りやすいのだろうから、と言い訳してる自分に気付く。気付いた頃には自分の窓際の席に帰ってきており、後方の席の尊のことなど見えもしないのだが。

 目に入るのは、自分の前方のみ。そう、前にいる奴らしか見えなくなる。辛くなるだけなのに、首を絞めていくだけなのに、それでも人間は前にいる他人にばかり目が行く。


 (無様だな)


 今日も春より伸びた黒髪を避けて、緑色の黒い板に集中する一日が始まる。


 緊張の糸を解くことができたのは、六時間目の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間……だったらどれほど楽だったかと賢史は今日も頭を抱える。一気に緊張緩和するのは体に多大な負担を強制供給する。

 顔をノートに落としがちだったせいで一際凝り固まった上半身を伸ばす。自然と呻くような声が漏れ出す。ほうっと一息に吐き出したとき、ようやく開放感を実感できた。

 気配に気付いて左を向くと、尊がおずおずと近づいてきている最中だった。


「朝は、ごめん」


 賢史が先行した。きっと尊もほとんど同じ台詞を吐こうとしていたに違いない。そこそこに長い付き合いなので、尊の考えそうなことは賢史にはわかる。


「俺が悪いんだ、お前は何も悪くない。あんな電話を夜中に突然かけて、事実だけ話してああはいそうですかって納得する親友なんてそういねーよな、わかってたよ」


 わかってて、賢史は電話の夜から今日までずっと逃げ続けた。


「そ、そりゃあそうかもしれねーけどさ……俺も、しつこくほじくり回して悪かったなって、思ってはいたんだよ。それでもどぉーしても気になっちゃって、だってお前と咲ちゃん、すっげーお似合いだったじゃん」


 お似合い、だなんて小っ恥ずかしいワードが自分に向けられるなど思いもしなかった賢史は驚きに固まる。


 お似合い。どこをどう取ればそんな結論に至るのか、賢史には検討もつかなかった。


「咲ちゃんはお前のことすっげー好きだし、お前も咲ちゃんのことすごく大事にしてたじゃん。あんな、見てる方も幸せ、みたいなカップルが突然別れるなんてさ」


「い、一体俺らのどこ見てればそんな風に解釈できたんだよ」


 率直な疑問をストレートにぶつけることしかできなかった。賢史の思考はほとんど完全に停止していた。


「俺は、付き合ってすぐに咲に対して酷いくらい冷たくって、救いようもないくらいダメな彼氏で、ていうかあいつの彼氏だなんて名乗って良いわけもないような状態で」


「賢史お前、そんなこと思ってたの」


 次の驚くのは尊の番だった。


「第三者である俺から見れば、賢史と咲ちゃんは最高のカップルだったけど」


「そ、そんなわけ」


 発言主が尊であるだけに、鵜呑みにできないと言ったら折角収まったギクシャクが再発してしまうだろうか。友人ヒエラルキーが崩壊するほどやわな間柄ではないことは確かだったが。


「俺、付き合ってすぐ、咲に全然優しくできなくなったんだよ。最低だろ」


 どう咀嚼していいのかわからなくなり、賢史はとりあえず事実を伝えていく方向にシフトチェンジした。


「賢史は、いつだって咲ちゃんに優しかったと思うけどな。あれって公衆の面前限定の演技だったわけ?でもお前そんな器用な奴じゃねーじゃん」


 尊から「公衆の面前」なんてパワーワードが出てくると賢史は思いもしていなかった。先ほどから立て続けにアドレナリンが放出されているが、会話は続く。突然席を立って帰るわけにもいかない。


「お、俺は……」


 言葉に詰まって何も言い出せない。遠くで救急車だかパトカーだか消防車だかのサイレンが鳴っていることしかわからない。脳内で鳴っている自分の心の音は、何一つ聞こえないのに。


「だからさ、あの夜、俺凄いびっくりしたんだぜ。お前、それ咲ちゃんどうしたよって」


「咲が……?」


(そういえば)


 不意に脳裏に思い出が上映される。


(別れを告げたあのときあの場所、咲は何を言っていたっけ)


『いい加減、溜息やめたら?』

『賢史のこと、私はまだ好きだよ。けど、いつからかな、賢史、ちょっと変わったよ』

『私のため、なんて綺麗に包んで責任の押しつけてこないで。賢史が嫌になったんでしょ。自分の責任を逃れるために私を使わないで』

『え、ねえ待ってよ、ちょっと賢史!』


 何も聞き入れる気がなかった賢史の背中に最後に一つぶつかって落ちていった言葉も思い出す。


『私は、流れに任せて付き合ってたつもりなんてないのに……ずるいよ……酷いよ』


 別れ話当時の賢史には、咲の返事の色なんて何も見えなかった。しかし今思い返せば、なんて鮮やかすぎるくらい鮮烈な色をぶつけてくれたんだろと思えた。


「咲に、悪いことしたな」


 自然と言えた言葉だった。


「そ、それ、本人に謝ってやれよ」


「謝る……」


 謝った。確か別れるときにきちんと謝った。けれども、アレは一体何に対する謝罪だったのか。切り出したのは、賢史だった。


「ごめん咲、別れよう、俺たち」


 たった一言そう告げた。その瞬間で賢史の中の交際は終わった。その後の流れは、もう事が済んだ後の余韻に過ぎなかった。だから咲の言葉一言一句たりとも掬い取ってやれなかった。


「付き合ってすぐ、なんかじゃない。最後の最後まで、酷い彼氏だったんだな」


 はは、と最早笑いしか出ない。尊はきっと依然として怪訝そうに賢史を見ているんだろう。だから尊から続けられた言葉は賢史にとって意外だった。


「何回も言うけどさ、賢史はそれなりに良い彼氏だったんじゃねーの」


 まだ慰めてくれる尊こそ良い奴だ、なんて賢史の心が呟く。


「じゃなきゃ咲ちゃんもあんなこと俺に相談しねーだろうし」


「は?」


(咲が、相談?しかも尊に?)


 尊のたちの悪さや不器用さは咲ももちろん承知だったはずである。それでも尊に相談する、しかも賢史には何も知らせずに、というのはいささかどころではなく変な話だった。


「咲がお前に何相談したってんだよ」


「え、あれ、そっか。これってっ秘密って言われてたっけか。あちゃー……」


 言われずとも、やっちまった、という声が聞こえてきそうだった。こういう所が不器用で馬鹿だという評価に繋がる所以なのだ。


「ごめん、聞かなかったことにしてくれねー?これ、咲ちゃんには墓場まで持って行けっていわれてたかも」


 墓場まで、はオーバーだったにしろ、相当賢史に知られたくなかったことは把握する。そんな重大な秘密を忘れていた上に暴露してしまう尊に恐ろしさを感じるが、今は咲の重要機密の方が気になるポイントだ。


「お前それはねーよ。手遅れにも程がある」


「だよなー!じゃあ話すけど」


 粘りもへったくれもなくあっさり話し始めた尊の軽さに、いくら親友でもこいつの口にだけは戸を立てようと試みないことを誓った賢史だった。


 ***

「倦怠期って、いつ頃来るもんだと思う、糸井君」


「はあ!?」


 咲が心の内を尊にさらけ出したのは賢史と付き合って四ヶ月が過ぎた月曜日だった。別に魔が差したわけでも、うっかりしていたわけでもない。彼女の意志で「賢史の親友」に話を聴いてジャッジしてほしかったのだ。

 もっとも、賢史がボロクソに貶すほど馬鹿でもないだろうという計算が前提にあったわけだが。


「倦怠期って、んな夫婦じゃあるまいし」


「将来を考えた健全なカップルの悩みとして普通だと思うけれど」


 こんなへんてこりんな組み合わせでの会話は、端から見たらどう見えるか、尊はそんなことを思っていた。後から男子連中に馬鹿にされるか冷やかされるかしてもおかしくない。もしこの状況が、賢史に咲という新しい彼女ができた直後だったら、尊にそんなことを考える余裕はなかっただろう。しかし相談された当時は三人で出かけることもある間柄だった。たまにではあるが。未だに「糸井君」呼びではあるが。学校では挨拶さえもほとんどされないが。

 とにかくそのときは飄々と会話を続行できていた。


「俺恋愛には疎いんだけど……賢史から聞いてない?」


「糸井君の言動は逐一賢史から聞いてる」


 だったらどうして、と尊が言わなかったのは、答えがすぐに咲から聞けたからだった。


「だってあなた、賢史の親友じゃない。相談役に抜擢されたのは自然だと思うけれど」


 そこで妙に納得してしまったのもいけなかったのかもじれない。しかし咲の威圧感にも責任がないとは言えない。今思うと、「賢史の親友」ということしか要素がなかったとも言えるが。


「で、相談って」


 そして尊の方も、気にならないなどと言ったら嘘だった。


「賢史、無理してるんじゃないかなって」


「は?」


「だから、賢史は私と無理して付き合ってるんじゃないかなってずっと思ってるの」


 咲曰く、付き合ってと告白されたから手放しでオッケーしたものの、その後の賢史の様子が徐々におかしくなっている気がするとのことだった。


「具体的には?」


「手をつないでいても上の空な気がするし、心ここにあらずって言うか、別のことにお熱な感じ。でも他に女がいるわけでもなさそうだし」


 他に女がいないことは把握済みなところが怖いと思ったことは咲には内緒だ。


「まあ他に女はいないだろうな。賢史、そんな器用な奴じゃねーし」


 器用な男だったら、彼女と一緒にいるのに別のことにうつつを抜かす様な真似も、そもそもしないだろう。


「一体何がそんなに気がかりなんだろー!課題とかでもないでしょう、だって私たちのクラスそんなに困るような課題出てないし、そもそも課題だったら私に相談してくれれば解決なわけだし」


 咲がこんなにうだうだとくだを巻くように悩んでいる姿は新鮮だった。もっとテキパキとした一面しか尊は見たことがなかった。賢史がどうかはわからないが。

 あと自分に言ったら解決だと豪語する咲が更にちょっと怖い女子だと思ったこともまたまた尊の胸の内にしまい込む。もう一個付け足すと、咲が課題に困らないことと、同じ課題で賢史が困らないかどうかは別問題だろうと思った批判も内緒だ。


賢史あいつ、何悩んでんだろーな」


 色々思案した結果、尊はとりあえずひたすら同調しておくことにした。


「ね」


 咲はそれっきり何も言わなかった。二人だけではない教室に夕日が赤かったことは鮮明な記憶だ。


 目が合わなくあった。そう咲が尊に持ちかけた時には既に遅かったのかもしれない。賢史は身辺整理の支度に取りかかっている最中だった。精神世界で、という意味だが。具体例は咲しかいなかった「身辺整理」だったけれども。


「倦怠期、だったのか?」


 思い出を反芻している内に咲の言葉を思い出して尊が尋ねる。


「倦怠期って……そんな、熟年の夫婦じゃあるまいし」


 かつての尊と同じことを賢史が追体験ついたいけんならぬ追発言する。


「だよなぁ。だと思ったんだけどさ。咲ちゃん、真面目に悩んでたぞ?あんときのお前も今のお前も、一体どうしたってんだよ。可愛くて両思いの彼女がいる、何悩む必要があったんだよ」


 半分やっかんでるだろ、と内心小突きながらも賢史は改めて説明方法を模索する。上手く言葉にできない物事なんてこの世に山ほどあるとは思うが、まさか自分が、それも恋愛で、しかも彼女を実際に持っているのに直面するとは思いもしなかったサプライズイベントだった。


「そうなんだよな。そう、なんだけどさ」


 その続きは賢史の中でも見つかってなかった。

 賢史は知らなかった相談のときの夕日を、尊と二人で追体験していることは事実らしかった。


 ***

 転機が来たのはそれから二ヶ月ほど後のことだった。依然として咲は前方の席で、毎日視線を逃がす日々ではあったが、個々人の事情はお構いなしに、月日は確実に経っていた。それを象徴するのが、文化祭の到来だ。学園祭前に別れるなんてちょっと惜しいことしたかな、と未練たらしく思うが、この季節まで彼氏彼女という関係を続けられていた自信はない。


 昼休みに生徒会役員から配られた応募要項を見る。毎年恒例の、文化祭パンフレットの表紙についてのものだ。賢史の気持ちがざわつく季節だった。無造作にファイルに入れ、机の中に再度突っ込んだ。その一連の動作や心境が、咲から逃げるそれと完全一致していることに、賢史も気付いてはいる。


 帰りのHRもそつなく終わり、今日もいつも通りの平日が幕を閉じた。中学と違って部活もないのでそそくさと玄関まで歩いてくる。玄関で、応募用紙が目に留まった。昼に渡された要項を思い浮かべてしまう。たしか条件は、無意識に記憶を探る。

 もともと絵は描いていた。そもそもそれがきっかけで咲とも出会ったのだ。何気なく用紙を手に取り、持ち帰ろうとしたときだった。


「よー!なーに見てんのー!」


 背後から尊の奇襲があった。


「お、パンフレットの表紙イラストの応募用紙?なになに、賢史今年は応募すんの」


 ド直球でぶつかってくる尊に賢史は押されることしかできなかった。


「い、いや別に」


「えーでもお前絵描いてたじゃん。一回やってみても」


 いいじゃん、そう尊が口にする前に叫んでいた。いや、怒鳴っていた。


「いいから!なんでもないっつってんだろ!」


 直後にもちろん後悔はしたが。尊は何も悪くない。ただただ一直線で。いつも八つ当たりしてしまっているのが情けなくてこの上なく申し訳ない。いくら受け止めてくれるからといって、限度というものがある。

 思わず叫んだことに一番驚いていたのは賢史自身だった。ごめん、と口では謝りながらも、本心ではさほど反省していないことは賢史が一番よくわかっていた。

 尊にしては珍しく、特に気にしてないと言い、そのまま帰宅していった。恐らく、この前の咲との件で尊なりに反省したんだろうなとまた申し訳なく思う。手に握った応募用紙を見つめながら、賢史しばらく立ち尽くしていた。


 毎日、昼の放送でパンフレット表紙についての応募が募られている。催促されているような気がするのは、賢史自身がまだ実行に踏み切れずにいるからだった。その放送を聞く度に、賢史の心はかき乱された。前方の咲の様子を伺う余裕もないくらいに。


(これ以上呼びかけて、応募する奴が増えたらどうするんだよ……!)


 そんな浅ましい自分との葛藤に忙しかった。自分でも性根の悪さに辟易していた。まだ応募することさえも決断していないというのにどの立場で、と毎日自分を叱っていた。まるで小さな子供をあやす飯事ままごとのようで滑稽に思えた。


 迷いきれず宇、それでも確実に迷っていた賢史の背中を押したのは、尊と、咲だった。


 ***

 今日も醜い自分を真っ向から見るのかと登校が億劫になっていた頃だった。絶対に被らないはずの登校時間が、咲と被った。付き合う前とも、付き合っていたときとも、そして別れた今も変わらない淡い紫が、行く手を阻んでいた。一目で、賢史のことを待っていたと理解する。場所も、いつも下校の時別れる交差点だった。

 気まずい思いで前を通り過ぎようとしたが、咲には賢史を見逃す気がなかったようだった。


「ねぇちょっと。挨拶もなしに通りすぎるんだ?」


 口がきけなかった。どの面下げておはようなんざ吐けるんだ、ただそう思った。


「賢史、いつから私のこと避けてると思ってんの」


 そんなこと、賢史が一番良く自覚していた。ハッキリと答えられる。別れたあの日、あの瞬間……よりもっと前、付き合いだして四ヶ月経った八月、あの夏、あの月曜日だ。休みが明けたら、思っていた以上に直視できなくなっていて自分で自分のもろさに驚いたあの月曜日だ。

 そうは答えはしなかったけれども。


「いい加減にしてよね。一体いつまで私を視界から抹消していくつもりなの、一生?」


 最短距離を走ってきた質問が賢史に直撃した。こらえるしか道はなかった。そして遂に咲は驚きの言葉を放った。


「賢史、パンフレット応募しないの」


 思いもしなかった言葉が乱立した気分を賢史は味わった。


(パンフレット?応募?)


「私見てみたいけどね。賢史が描く表紙絵」


 更に思いがけない言葉をもらい、賢史はフリーズ状態だった。まぁ本人にその気がないなら仕方ないよね、と今回は咲が一方的に会話切り上げて学校向かう。賢史は、やはりすぐに答えることができなかった。


 教室に行くと、普段より少々重い面持ちで尊が賢史の席に座っていた。そして今回は何を切り出すかと思ったら、彼のしつこさは何年経っても健在だった。


「なあ、やっぱり一回応募してみねーの?俺、賢史の本気見てみてぇよ」


「引き下がるべきなのは解ってるけどさ、今回のパンフに関してはさ、俺が発言することで変わることだしと思って。前回と違って」


 前回、とは咲との別れについて深く追求してきたことだろう。やはり尊なりにあの一件を引きずっていたらしい。


「やってみればよかったって後悔すんの、嫌じゃね?」


 まさか尊の言葉に背中を押されるなどとは思っていなかった。


「不戦敗、してもいいのかよ」


 押さえるような声は、尊が単に茶化しているわけではないことを教えてくれる。そして強引に応募まで漕ぎ着ける気もないことも。


「どうして、わかるんだよ」


 賢史の気持ちなんて解るわけがない、と揶揄されたと勘違いしたのか、尊はビクッと文字通り身を引いた。


「ちが、違うんだよごめん。不思議でさ。あんなに、伝わらなかったのに、俺の色んな感情、咲には。なのに、今回は、二人ともにバレバレなんだなって」


「ふ、二人?」


 尊の困惑具合からして、どうやら咲と尊で打ち合わせたわけでもないらしい。だとすると、咲の行動力には本当に脱帽する。そして、別れた後も賢史を気にかけてくれていたことに胸が締まる。

 賢史は、自分に正直に挑戦することに決めた。募集要項が手元に渡ってから一週間も経っての決断だった。


 何から始めていいものか戸惑いながらも賢史はシャーペンを手に取る。普段使いの、何も飾らない0.5mmのドクターグリップだ。久しぶりの感覚と感触に少し胸が高鳴っていた。高揚感などいつぶりかと思いながら筆を紙に置いた。

 翌朝、昨晩の内にある程度まで出来上がった作品を見て満足気に笑う賢史。温かいものが心に宿っているようだった。

 登校してから、賢史が恐れていた事態が起こっていた。他の参加者がいないなんて思っていなかったが、教室内でパンフレットの表紙についての話題が上がっているのを目の当たりにするのは快いものではなかった。聞きたくない、とイアホンをはめ込む賢史だったが、やはり嫌な情報は耳に入ってくる。舐めきった言葉が賢史に刺さる。

 毎年パンフレットの表紙は専ら美術部員の競争のようなもので、必ずと言って良いほど彼ら彼女らがさらっていく。


(だから、嫌だったんだよな?)


 これは負け犬の捨て台詞ではなかった。賢史が賢史自身に向けた、理解を示すための優しい問いかけ、確認だった。そう自問してから、以前の賢史ならここで投げ出していたと気付く。今回の差異は何なのだろうと考えた末、二つの顔が浮かんだ。


 ***

 パンフレットの表紙絵の応募が多数あったようで、文化祭の二週間前に全てのイラストが一枚のA4用紙に集合させられ多状態で全校アンケートが行われた。帰りのHRで各クラスアンケート用紙を集める。残酷なことに、応募者の一人である賢史も、後ろの席から回されてくるアンケート用紙を受け取り、前に流すという作業を担う。大統領選挙でも生徒会選挙でもないわけで、用紙は裏か表かも気にされずに流れてくる。賢史が、一部の人の分でも、結果を見ないでいられる訳がなかった。


 誰が見ても一目瞭然、即決といった印象だった。

 投票用紙が回収された後、HRが始まり、やがて終わった。いの一番に教室を後にした賢史を、友人二人はクラスを問わず見ていた。


 生徒玄関に立ってスマホをいじるふりをして、迎えの車を待っている風を賢史は装っていた。彼が今朝も自転車通学だったと知っている尊が今度も背中を叩く。


「お疲れー!今日部活は?」


(本当に馬鹿だな、こいつ)


 賢史が帰宅部であることを知らないわけがないのに、声をかける常套句や口実がそれしか思いつかなかったであろう尊を、愛を持ってあざけってやる。応募したことを知ってか否かかは、賢史にはわからなかった。


「ねーよ、馬鹿」


 泣きそうなことを必死に隠しながら賢史は答えた。流石に女々しい自覚がまさっていた。本当は、涙がもう目に浮かんでいる。


「いーなぁ、俺これから移動ー」


 頑張れよサッカー部、と声をかけて尊の背中を見送る。咲との時はどうして一緒にいたのかと今更ながら疑問に思う。もしかしなくても話を聞き出すためだけに休んでいたのではないか。いや、サボる口実だった可能性も殺しきれないが。どちらにせよ、部活が多少なりとも犠牲になっていたことと、更に季節が進めば外部施設ではなく校内トレーニングになるなということを頭に抱えて、賢史は帰ろうとした。さっきまでは重過ぎて前に出せなかった足が、今は元通りだった。


 賢史、と呼ばれて彼が振り向くと、そこには咲がいた。どうやら尊との会話が終わるのを待っていてくれた様だ。


「お疲れ。いい絵だった。ありがとう」


 馬鹿にするわけでもなく、ただ優しく微笑んで咲は賢史にそう言った。そしてそのままその場を立ち去った。


(はっ……かっこよすぎかよ、俺の元カノは)


 咲は何にも触れなかった。心身どちらにも。ただ台詞をそっと置いていった、そんな風だった。そんな彼女らしさが、今の賢史には心地よかった。咲が自分に向けた笑顔を再び浮かべたとき、賢史はいつかの咲の言葉を思い出した。


「私、賢史の絵が好きなんだよ。また見せてよね。約束」

 

 それに対するありがとう、だったと遅ればせながら気付いた。きっと咲も、賢史が気付いても気付かなくても構わなかったんだろうと感じた。


(だとしたら、俺が気付いたことで、少しは咲に対して罪滅ぼしになるのかな)


 夏から更に伸びた黒髪を飾ったのは、もう桜ではなかったけれど。紅葉が済んだ葉もパステルな紫の立派な装飾になるんだな、と賢史は思った。そしてまたしても遅過ぎたけれども、賢史は咲に一言も描くと決めたことを伝えていなかったと気付く。もちろんどんな絵を描いたかも教えたわけがない。尊も、咲とは親しいわけではない。咲の強さを、短時間の内に別角度から再確認させられた気持ちだった。


 後日、配られたパンフレットを見るのはやはり辛かった。咄嗟に裏返して机に伏せる。裏側にはデフォルメ化された愛らしい動物がいた。オレサマがこの学校のマスコットキャラクターだ、と言わんばかりの風格に思えた。惨敗を諦めてからもう一週間以上経つのに依然として隠れていたらしい涙に賢史の内心はぐちゃぐちゃだった。


(どんだけお豆腐なんだよ俺はさぁ)


 教室の中で、まだ帰りのHRの途中だが、どうせ誰も賢史の異変に気付くまいと思った。なぜか隠し事ができない咲も、今は前を向くしかない場面だ。既にパンフレット含む配布物も全て全員の手元に渡った。今は担任教師の毎度規定のHR時間を超越するありがたいお言葉タイムだった。

 何度目かわからないが、今回またしても賢史は自分自身に驚いていた。あれほどまで劣等感に支配され、どうしようもなくて見捨てたと思っていた自分に、まだ熱が残っていたことが意外だった。短くも長い人生の中でどんどん凝り固まって冷め切ってしまったと思っていた感情は健在で、そこにまだ熱が篭っていた。学校にて自分の意外な一面を垣間見た後、家の自室で再び何の変哲もないシャーペンを握る賢史だった。


 もう、いいや。


 心底そう思った。


 黒髪もパステルカラーのどんな色も、もう、目に痛くない。

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不戦敗 雪猫なえ @Hosiyukinyannko

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