第13話 ガールズトーク

 試合を終えた俺たちは、道具を片付けて制服に着替え、先生にお礼を告げてから屋上へと集まった。黒崎が一度そこで集まろうと提案してきたからだ。きっと人集りがないところで話をしたいのだろう。

 屋上に出た時、さっきまでは晴れ空だったのが今は雨雲が世界を覆い尽くしている。空気も冷たい。

 時刻は午後17時を過ぎたばかりでまだ日が沈むには早い時間なのに、今だけ時間が早く進んでいるかのように辺りは薄暗い。

 それはまるで、試合に負けた俺とアリアの心情を現しているかのようだった。

 一人だけ俺たちから距離を離した黒崎がアリアと向き合って言う。


「私の勝ちだね。赤坂さん」

「っ……」

「約束、覚えているよね?」

「…………ええ」


 アリアがブレザーのポケットから一枚の紙切れを取り出す。退学届だ。


「えっ……?」


 それを見た神林が虚を突かれたように驚く。


「途中からの追い上げは正直驚かされたよ。まさか、あんな潜在能力が二人にあったなんてね」


 瞳を伏せ、感傷に浸る黒崎は本当に感心しているかのようだった。


「でも、あと一歩及ばずだったね。二人がもう少し鍛錬を積んでいたら結果は分からなかったかも」


 俺とアリアは全力を出し切った。これ以上のことはできないと胸を張って言えるほどに。それでも、黒崎には勝てなかった……。

 またもや、黒崎の実力に思い知らされてしまった。


「負けた気分はどう? 悔しい? 二人で協力すれば勝てると思った? 残念。ここは現実世界。漫画やアニメのようにお約束の展開は必ずしも訪れないの」


 黒崎の挑発じみた腹たつ言動に、俺とアリアは今も悔やみながらうつむいているままだ。何も言い返せない。俺たちが負けたのは紛れもない結果であり、事実なのだから。

 そんな俺たちの姿を見て、神林は違和感を拭えなかったようだ。


「ちょ、ちょっと待ってよ。黒崎さん、さっきから変だよ? なんでそんな言い方をするの?」


 黒崎は神林に視線を向けるが、何も言わない。


「赤坂さんも、退学届ってどういうこと? なんでそんなものを持っているの?」


 神林は何一つ状況を掴めていない様子。どうやら黒崎は、神林に今回の試合の意味について明かしていないようだ。


「ねぇ、林くんは知っているの? なんでこんなことになっているの……?」


 神林の不安でいっぱいの瞳が俺を捉える。瞳が微かに揺れていて、その疑問を解消してやらないと神林は不安に潰されてしまいそうだ。

 だから俺は、覚悟を決めて告げることに。


「さっきの試合は、二人の退学を賭けた試合だったんだ……」


 一瞬だけ時が止まる。聞こえてくるのは髪を強く揺らす風の音のみ。やがて風がおさまると、神林は口を開いた。


「…………う、うそだよ、ね?」

「…………」

「ねぇ、嘘なんでしょ? 林くんのことだから、また冗談で僕をからかってそう言っているんでしょ? ねぇ!」

「……教えてやれなくて、すまなかった……」

「…………」


 神林が納得していない風で呆ける。きっとこれは何かの冗談なのだと。自分を驚かせるために仕組んだドッキリなのだと。リアリティを出すためにみんな何も言わないだけなのだと。

 しかし、それが冗談じゃないことを知ったとき、それは想像を絶するほどの辛い痛みを負うことになる。

 数十秒の間、神林は何も喋らないでいた。きっと、神林なりに状況を考察しているのだろう。頭の中である程度整理がついたのか、口を開き始める。


「……この際、みんながなんでこんな争いをしているのか問わない。きっとみんなのことだから、僕に気をつかって言わなかっただけだと思うから」


 うつむきながらポツリと呟く神林。


「でも、こんなのおかしいよ!」


 顔をあげ、俺たちと目を合わせながら力強く告げる。瞳には涙が滲んでいた。


「なんで、二人がそんな罰を受けないといけないの!? なんでっ、そんな争い事をしないといけないの!?」

「……」

「……」


 アリアと黒崎も、神林から目を逸らさない。


「二人の間に何かあったことぐらいは理解した! でも、こんなのおかしいよ!」


 神林の瞳から、涙がこぼれ落ちる。


「二人はちゃんと話し合ったの!? 本音を打ち明けたの!?」


 アリアと黒崎は黙り込んで何も言わない。いや、言えないのかもしれない。

 なぜなら二人は、そんなことをしてないから。神林も二人の表情を見て、それは察したようだ。


「なんでそれをやらないの!? 争う前にするべきことがあったでしょ!」


 喋れば喋るほど、神林の涙の勢いを増していった。


「林くんもだよ! なんで二人を止めなかったの!? どうしてそれをしなかったの!?」


 俺の方へと視線が移り変わる。神林の瞳には、涙と共に怒りも滲んでいた。


「林くんならそれが出来たはずでしょ!? なのに、なんでそれをしなかったの!?」


 俺も、アリア達同様に黙り込んでしまう。


「みんな頭良いのに、なんでそれが分からないのォォッッッ!?」


 神林の気迫ある想いは、雨雲を突き抜けて天まで届いたんじゃないかと思うほどに、力強く心がこもっていた。


「ハァ……ハァ……うぉえ……っ!」


 無理をして大声をあげてしまったことにより、神林は膝をついて吐いてしまう。


「神林ッ!!」


 俺はすぐさま神林に寄り添い、気持ちを落ち着かせるようにと背中を優しく撫でた。


「僕は……怒っているんだからね……ッ!」


 普段の生活からは感じ取る事のない怒気を含んだ低い声に、この場にいる者は圧倒されてしまう。

 背中を撫でていた俺自身の手も、思わず離してしまうほどに。


「僕だけを除け者にして……勝手に争って……」


 神林の体が、小刻みに震えている。



「僕たちは、同じ帰宅部メンバーじゃないかァァッッ!!」



 無理をした大声により神林は再び吐いてしまう。


「神林、もういい……! お前の想いは十分に伝わった」

「うっ……うぅ……ッ」

「ありがとな、神林。俺たちのために、怒ってくれて」


 神林は、ついに泣き崩れてしまった。言いたいことを、言いたかったことを全て出し切り、伝えたことにより、あとは湧き上がってくる感情の処理に大変そうだ。きっとそこには、俺たちの思い出が浮かび上がっていることだと思う。

 みんなで一緒に食べた食堂、ファッション披露、初めてのゲーセン。まだみんなと遊んで1回目の思い出だが、それはとても幸せな思い出として、記憶に保存されている。

 みんなが楽しんでいた。みんなが笑っていた、みんなが幸せそうにしていた。

 それは俺たち帰宅部メンバーが全員揃っていたから作り上げることの出来た最高の思い出。

 そのうちの誰かが一人でも欠けたなら、そのような思い出を作り上げることはできなくなるのだろう。

 神林はそれをひどく嫌っている。いや、俺もそうだ。

 あんなにみんなが等しく、楽しく過ごせるメンバーなんてそう巡り合えるものではない。

 そんな大事なメンバーを、誰かを取り除こうとするなんて……俺たちは、一体何をやっていたんだ……。

 なんで、話し合いをせずに争いをしていたんだ。

 なんで、そんな大事な過程をすっ飛ばしていたんだ。


 さっきの試合に、一体なんの意味があったというのだ。


 もしも、最初から神林にも相談していたら、こういうことにはならなかったのだろうか。


「…………」


 俺は嗚咽で苦しんでいる神林の想いを引き継いで、黒崎に問う。


「教えてくれよ、黒崎」

「……」

「何がお前を、そこまでそうさせるんだ」

「…………」


 結局、黒崎についての情報を集めても真実にたどり着くことはできなかった。

 黒崎は好きだった人にフラれ、その好きだった人はアリアのことが好きだった。そこの恋愛事情が黒崎の憎悪に繋がっていることだけは分かった。

 でもそれだけで、ここまでアリアに対して牙を向けようとすることに、腑に落ちない部分もある。

 俺もアリアも、佐藤先輩ですらも知らない『何か』を、黒崎は隠しているとしか考えられない。

 その真実にたどり着くには、もはや本人の口から告げてもらうしか方法はなかった。

 でも黒崎は答えない。氷のように冷たく、無表情の顔には俺たちの背中にゾッとさせるおぞましい雰囲気を漂わせている。

 でも俺は、そんな恐怖から逃げないようにと黒崎の目を捉え続けた。

 やがて口を開いた黒崎。


「あんたには関係」


 発せられた言葉は、期待していたのとは全く違う返答だった。


「関係ない、か……」


 そうハッキリと告げられた俺は、かえって頭の中がクリアになった。


『関係ない』


 その通りだ。この問題は、最初から『俺たち』には関係のない話だったのだ。

 神林の指摘通り、俺たちは最初から間違っていたのだ。何もかも。


「行こう、神林」

「え?」


 神林は泣き顔をこちらに向ける。



「ガールズトークに、男が混ざってはいけない」



 そうだ。俺たちは、根底から間違っていたのだ。



 これは最初から、同じ中学によるガールズトークで解決できる問題だったのだ。



「……うん」


 神林もどこか納得した様子で、俺と一緒に重く感じる体を起き上がらせる。

 そして、屋上の出入り口へと向かった。


「正門で、待っているぞ」


 それだけを言い残し、男二人は屋上を後にした。



     ★



 林くんと神林さんが屋上から去り、黒崎さんと二人っきりになった私は、一度屋上ドアの方へと視線を向けた。


(ありがとう。林くん、神林さん)


 二人がなぜ、私を一人に残したのか大方検討はついていた。それはこの問題を解決するにあたって、今はちゃんと当事者の私たちが真剣に話し合う必要があるからだろう。

 その話し合いに全く関わりのない二人が入り込む余地は無くて、途中で水を差してしまわないようにと私たちを信頼して残してくれたのだと思う。

 決して見放したわけではない。時にはサシで挑む必要があるのだと。遠回しにそう教えてくれた気がするの。

 でも、私は一人じゃない。ちゃんと心の中にあなたたちの想いも一緒にいる。

 だから、もう怖くない。

 私は握り拳を胸に当て、二人に向けて内心呟く。


(黒崎さんは、私がなんとかするから)


 空は今にも大雨が降り出してきそうなほどに雨雲の色が濃くなっていた。


「黒崎さん。さっき林くんの言っていたことに、答えてもらえるかしら」


 私自身も黒崎さんのことは全て林くんから聞いてある。

 佐藤先輩が襲ってきたのも、中学時代から憎まれていたことも。

 でも何度考えても、記憶を振り返ってみても、ここまで憎まれる原因が分からなかった。

 彼女はまだ何かを隠している。林くんはそれにも気づいていて、だからさっきこのような質問を問いかけたに違いない。


「…………あんたにフラれた渡部くんが、あの後どうなったか知ってる?」


 黒崎さんが急にそんなことを問い始める。

 私が知っている情報の中で、渡辺くんは黒崎さんとクラスメイトで、私に告白しフラれた人物ということだけ。

 それ以降、当時他人などに一ミリも興味なかった私には知るはずもない。

 分からない、と返答するかのように黙っていると、黒崎さんは衝撃発言をしだす。



「急性ストレスによって、突然死したんだよ」



「ッ!?」


 聞き間違いだと思った。私にフラれた渡部くんが、死んだというのだから。


「あんたにフラれた当日、渡辺くんの様子が明らかに違うって家族も証言していた。口も一切聞かず、食事も摂らずに、部屋に引きこもったらしい」


 黒崎さんの握り拳が、小刻みに揺れている。


「あんたがあんなひどいことを言ったからッ……渡辺くんは……死んだんだよォッ!!」


 黒崎さんの憎悪が、ついに剥き出しとなる。彼女の憎悪の正体が今、分かった気がする。

 そんな悲惨な結末を迎えた渡辺くんとの最初で最後の会話を思い出す。

 学校の図書室で勉強を終え、帰ろうとした時に廊下で彼は呼び止めたんだ。



『……私に何か用?』

『急に呼び止めて、ごめん。俺は2年D組の渡辺裕也って言うんだ。俺のことは……知ってるかな?』

『知らないわ。微塵も』

『そ、そうだよな……! そりゃそうだよな! ごめん、変なこと聞いちゃって』

『用件があるならさっさと言ってもらってもいいかしら? 時間がもったいないの』

『ご、ごめんっ。えっと……おれ! 前から赤坂さんのことが気になっていた!』

『……』

『図書室で、いつも勉強頑張っているよな? 帝学園目指しているんだろ? すげぇな。あんな偏差値の高い高校を目指しているなんて』

『……』

『おれ、そんな風に目標に頑張っている赤坂を見て、惚れたんだ!』

『……』

『いつも……色々と辛い想いをしているだろうけど、それでも諦めないで頑張っている赤坂に、惚れてしまったんだ』

『だからっ、友達からでもいい! おれと、恋人になる前提で……付き合ってくれないか!?』

『ごめんなさい。私、あなたみたいな男は好きじゃないの』

『え』

『それに、今は恋愛なんて全く興味がないの。そういうごっこ遊びがしたいのなら他を当たってくれる?』

『おれは––––––』

『聞こえなかったのかしら? そういうごっこ遊びがしたいのなら他を当たってちょうだい。時間の無駄なの』

『おれは……ッ』

『私はあなたなんかに微塵も興味ない。関わりたいとも思わない。––––––二度とその顔を見せないで』


 こうして二人の最初で最後のやりとりは報われない形で幕を終えた。

 そして翌朝になると、渡辺くんは自分の部屋で……死んでいたそうだ。

 普段から健康に問題がない彼と、当時の様子を語ってくれた家族の情報をかけ合わせ、急性ストレスによる突然死と解析されたようだ。

 その事件はすぐに学年中で広がり話題となったのだが、他人に興味関心がなかったアリアにとって、それはどうでもいい情報として左から右へと抜けていたようだ。

 そんな自分の一言によって、誰かを死に追いやってしまった事実に、当然今のアリアは内心穏やかではない。

 心臓の鼓動が早くなり、呼吸が浅くなっているのが分かる。


「これで分かった? 私がなんであんたに恨みを持っているのかを」

「っ……」

「あんたは私の好きだった人を傷つけただけじゃなく、『死』へと追い込んだんだ。そんなあんたが、私は憎くて憎くて、仕方がないんだよッッ!!」


 黒崎さんが憎悪剥き出し状態でこちらへと走ってくる。まるで虎に襲われているかのような迫力と恐怖に、私の足はすくんでいた。

 黒崎さんの握り拳が、私の顔を襲う。


「イッッッ––––––!!」


 その勢いある衝撃と痛みにバランスを耐えきれなくなった私は仰向けで倒される。

 黒崎さんはすかさず馬乗りになり、一方的な攻撃を繰り出す。


「今から徹底的にあんたを痛めつけてやる。渡辺くんの屈辱と私の憎悪を、思う存分ぶつけてやるから覚悟しなッ!!」


 黒崎さんの強く握られた拳が再び顔を襲う。痛いッ、痛い!!

 私は必死に抵抗し、なんとか黒崎さんの両手首を掴むことに成功。しかし、重心の関係上、黒崎さんの方が有利なことに変わりはない。このままではいずれ力尽きてしまう。

 だから私は、掴んでいる手首をあえて思いっきり引き寄せ、痛いのを覚悟で黒崎さんに頭突きをかわした。


「ッッ!」


 痛みの反動で力が緩んだ黒崎さんの隙を私は見逃さない。私はすかさず、黒崎さんのお腹に渾身の殴りを入れた。


「ぐぅッ!!」


 後方へと距離を置いた黒崎さん。これでなんとか振り出しに戻すことに成功。今のうちに呼吸を整えた。

 バレーボールの疲労が響いているのか、お互いに肩で息をするほど疲労に襲われていた。

 雨が、ポツポツと降り出した。


「ハァ……ハァ……」

「はぁ……はぁ……」

「黒崎さん、もうこんなことやめましょう……」

「……」

「こんなことしたって、何も報われないでしょ」

「……フフッ。あははっ……アーハッハッハッ!」


 天を仰ぎながら笑い出す黒崎さん。雰囲気がさらに一変し、不気味さが増していた。今は本当に、悪魔のようだった。


「黒崎さん……」

「だったら、ここに渡辺くんを連れてきてよ!! 生きた状態で、ここに連れてきてよォッッ!! そしたらいくらでもあんたと和解なんてしてやるよッ!!」

「それは、無理よ……」

「だったら大人しくボコられてろぉッ!!」


 黒崎さんがこちらに駆け寄ってくる。さっきよりも勢いと感情の起伏が増していて、それは見ているものを震えただす。

 それでも私は逃げずに立ち向かう。こちらも託された想いを背負っているから。

 黒崎さんが殴りのモーションに入ったので、私はそれを防ごうと両手を前にかまえる。


「なっ!?」


 しかし、黒崎さんのそれはフェイントだった。本命は私の足。

 黒崎さんは素早く腰を落とし、私の足を振り払った。予想外の攻撃と、急なバランス崩しに私は1秒も耐えることができず、呆気なく倒されてしまう。

 地面に叩きつけられる背中。背中の痛みに意識が持っていかれている間に、黒崎さんは既に殴りのモーションに入っていて––––––。


「がはぁッッ!!」


 今度は顔ではなく、溝を狙った殴りが私を襲う。てっきり顔面を狙ってくるものだと思っていたから、その攻撃は不意打ち同然のようにクリティカルヒットしてしまう。

 呼吸が一瞬できなくなる。今まで味わったことのないその激痛に、瞳には自然と涙が浮かび上がり、口の中は粘り気のある唾液が大量に分泌されていた。

 今すぐ逃げたい……立ち去りたい……怖い……恐い……ッ。そう強く思わせるほどに、全身に伝う激痛は尋常じゃなかった。

 これを何十発も喰らい続けた林くんは……一体どれほどの痛みを……ッッ。

 今まで味わったことのない激痛に耐えきれず、涙が頬に流れ落ちる。


「ふんっ。泣いたって許さないんだから!」


 私は殴りかかってくる黒崎さんの手首を掴もうと必死に喰らいついた。その抵抗に、黒崎さんも苛立ちを覚えながらなんとか振り払おうと必死になっていた。


「なんであの時、あんなひどいことを言ったァ!?」


 黒崎さんの黒く淀んだ瞳が、私を捉える。


「あんたがあんなひどいことを言わなければ、渡辺くんは今も生きていたかもしれないんだ!」


 黒崎さんは私の抵抗する動きに苛立って仕方がないのか、私の両手首を地面へと抑えつける。

 お互いに至近距離で睨み合う形となった。


「あんたがもっと気を遣った言葉を告げてやれば、渡辺くんは死なずに済んだかもしれないのに……!」


 黒崎さんの憎悪に満ち溢れた瞳が、更に迫ってくる。


「あんたは私の好きだった人を殺した––––––殺人者なんだよッッッ!!」

「ふざけないでッッッ!!」


 肉離れになるんじゃないかと思うぐらいに、私は全身に力を入れて黒崎さんの体を振り払う。

 そして、黒崎さんのお腹に蹴りを一発かました。


「ぐっ!」


 お腹を抑え、痛みに耐える黒崎さん。立つことでさえやっとの彼女は、体力に限界がきているのが分かる。それは私も同じだった。


「ふざけないで……っ。私だって、どれほど辛かったか……あなたには分かるの?」

「私が、どれだけ苦しかったか……泣きたかったか……あなたには分かるの……?」


 黒崎さんは乱れた息を整えるだけで、何も言わない。


「…………」

「きっと分からないでしょうね。友達に恵まれ、順風満帆な生活を送っていたあなたんかに!!」

「っ……」

「……あなたはさっき、私を殺人者だって、言ったわよね?」

「……」

「それはあなたもよ! 黒崎さんッ!」

「!?」

「あなたは私がいじめられていることは知っていた! 気づいていた! でもあなたは、何もしてくれなかった!」


 気付けば、涙がこぼれていた。

 過去の辛かった出来事を、思い返してしまったから。


「私はあの時、本当に辛かったのよ……ッ? 他人の気持ちを想う余裕なんて、全くないほどに……追い詰められていたのよ……!? 分かっているはずよね!?」


 黒崎さんは唖然としていた。


「あなたが私に寄り添ってくれたら……ッ……あなたが私に手を差し伸べてくれたら……結果は変わったかもしれないじゃないッ!」


 黒崎さんは歯軋りを鳴らし、握り拳を震わせている。



「どうして助けてくれなかったのよ!? どうして見て見ぬふりなんかしたのよッ!?」

「ッ……!」



「あなたも、殺人者同然なのよ!!」



「あかさかアアアァァァァァッッッ!!」


 怒りに身を任せ、瞳孔を開き、殺意剥き出しの状態で向かってくる黒崎さんは、本当に殺人を犯すんじゃないかと思うほどに恐ろしかった。

 私も逃げずと黒崎さんに向かって走り出す。

 そして二人同時に放たれた拳は、顔面への相討ちを喰らう結果に。


「「ッッ!!」」


 二人同時に殴り飛ばされ、二人はなんとか体を起き上がらせようとする。


「……自分だけが被害者だと思わないで。私だって、あんなことを言いたくて言ったわけじゃないのよ」


 あの時はグレていたのだと思う。自分をこんな地獄へと追いやった告白というイベントに。

『またか』という呆れた感情を雑に振り払うように。二度と発生しないように。

気持ちに余裕がなかったから、苛立ってしまったから、あんな冷たいことを言ってしまったんだ。それは今も後悔している。

 その後悔に苛立ってしまう私は、とばっちりを与えるかのように意地悪な質問をまたしてしまう。


「もう一度聞くわ、黒崎さん。どうして……私を助けてくれなかったの?」


 瞳を伏せる黒崎さん。数秒の沈黙後、目をゆっくりと開いて告げる。



「……助けなかったんじゃない。あえて助けなかったんだよ」



「え––––––?」

「渡辺くんがあんたのことを好きだってことは知っていた。あんたを見かけるたびに、渡辺くんはいつも目で追っていたから。私には分かる」

「……」

「だからこそ、あんたを助けなかった。いじめられているあんたの姿を、みっともない姿を見せつけてやれば、渡辺くんはあんたのことを諦めてくれるんじゃないかと思ったから……」


 うつむきながら語る黒崎さんは、どこか悔やんでいそうだ。


「でも、それは逆効果だった。あんたはいじめられようとも、それを糧に必死になって、目標達成への着火剤として頑張り続けていたんだ」


 その通りだ。私はそれで帝学園に合格できたと言っても過言ではない。


「渡辺くんは、あんたのその姿を見て惚れてしまったんだよ。どんなに苦難が立ち塞がろうと、諦めないで頑張り続けるその姿にね……」


 きっと黒崎さんは、この時疑問に思ったことだと思う。なんで頑張らないと目標達成できない私を好むのかと。頑張らなくても多くのことを達成できる私じゃダメなのかと。


「私は心の中であんたが挫折してくれることを期待していた。そうすれば、渡辺くんは……私に振り向いてくれると思ったから」


 だから黒崎さんは最後まで私を助けなかったんだ。いつか私が折れることを、期待して。


「……なんで、あそこまで頑張ろうとするの? どうしてあんな状況でも諦めようと思わなかったの!? 普通なら耐えられないでしょ!」

「––––––希望を捨てなかったからよ」

「っ」


 自然と口から出た言葉に、黒崎さんはたじろぐ。


「あなたの言う通り、私は何度も諦めかけた。それでも、今を乗り越えたらきっとこの先には明るい未来が待っているんじゃないかって……希望を持ち続けたのよ!」


 ついに訪れた高校生活に明るい未来に導いてくれたのは他でもない。––––––林くんだった。

 林くんという存在が、私に希望を与えてくれた。


「やっと、手に入れたのよ……こんな私にずっと一緒にいてくれるって、約束してくれた大切な人が……!」


 名前を言わなくとも、それが誰なのかを黒崎さんは察していた。


「だから、お願いよ……っ……私から、もう大切な人を奪わないで……ッ!」


 アリアはうつむきながら大粒の涙を流し始める。くしゃくしゃになったその泣き顔は、雨と一緒になってコンクリートの色を黒く染める。


「…………」


 今すぐにでも崩れてしまいそうなアリア。それを黒崎は凝視している。

 彼女は一体、何を思っているのだろうか。


「いいよね、あんたは……」


 やっと声を出した黒崎さんの声に私は顔をあげる。



「大切な人が、すぐ隣にいるんだから」



「ハッ––––––」


 黒崎さんのセリフを聞き、私は悟った。

 すると、全身が金縛りにあったかのように硬直し始めたのだ。


「ぁ……ぁぁ……っ」


 ろれつが回らず、口もパクパクと上手く言葉が発せられない。全身も寒気を感じはじめ、小刻みに震えだす。

 私はこの時、ようやく彼女の憎悪について真の意味で理解した。

 それと同時に自分の愚かさを知ってしまった。

 黒崎さんが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。そして私の目の前で止まり、胸ぐらを掴んできた。掴んでいる手が、小刻みに揺れている。


「どうしてくれるの……? 私のは……」

「ぁ……ぁ……っ」

「私の大切な人は……どうしてくれるの……?」

「ぁぁ……っ……ぁぁぁっ……ッ」

「私の隣にも……いてほしいよ……ッ」


 胸ぐらを掴んでい手が解放されると、今度は両手に握り拳を作って私の胸を交互に叩いてきた。もう叩く力も残っていないのか、そんなに痛く感じない。


「ごめんなさい……」


 ようやく硬直から解放され、精一杯かけてやれる言葉は謝罪の一言だった。


「ごめんなさい……っ」


 今思うと、林くんが私に言った『謝罪会見の練習でもしているのか』という指摘は、もしかしたらこの時のためにあったのかもしれない。


「ごめんなさい……っ!」


 それぐらい、今の私に発せられる言葉は『ごめんなさい』の一言だけだった。

 だがこれは、いくら誠意を込めて謝罪をしたところで、取り返すことのできない大事件だった。それぐらい、私の犯した罪は想像以上に大きかったのだ。

 だって––––––



 黒崎さんの隣に、大切な人が戻ってくることはないのだから。




 うつむいている黒崎さんの顔は雨によって前髪がくっついて、表情を伺うことはできない。

 しかし、ギリギリと歯軋りを鳴らしながら嗚咽を漏らし、悲しみに満ち溢れていることだけは音だけで想像がつく。

 やがて黒崎さんは叩くのをやめ、私の足元で泣き崩れてしまった。

 大雨が、降り出した。

 彼女の歯軋りも、泣き声も、鼻水をすする音も、全て雨の音でかき消されるほどに強く降り出した。全身がずぶ濡れとなる。体温も一気に下がるように冷やされる。

 そんな大雨のことなど眼中にないほどに泣き続けている黒崎さん。私は彼女にかけてやる言葉が見つからず呆然としている。

 そんな黒崎さんの姿を見て、私の胸は張り裂けそうになる。

 それを避けようとするように、私は天を仰ぐ。

 あの空の向こうからは、黒崎さんの好きだった渡辺くんが私たちを見ているのだろうか。

 渡辺くんは私のことを怒っているだろうか。許してくれるだろうか。

 そんな考えても仕方がないことを考え始める。

 もちろん、いくら考えようと答えが分かるはずもない。考えるだけ時間の無駄なのかもしれない。

 それでも私は言わないといけなかった。

 あの時の悔いと共に……本当に言いたかったことを渡辺くんに……空の向こうから見ていると妄想し、伝えなければならなかった。

 謝罪も含め、全てはこの一言のためだけに。



––––––ごめんなさい。

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