第12話 退学試合

 アリアが黒崎に決闘を申し込まれた日から三日目。木曜日の放課後。

 俺とアリアは翌日に控えた黒崎との試合に勝つため、火曜日から三日間という限りなく少ない期間の間、放課後の時間は全てバレーボールの練習に費やした。

 いつもならバレーボールやバスケットボール部に全面使われて空いていない体育館なのだが、今は五月末に控えている中間試験があるため、テスト期間として部活の練習はお休みだ。

 その間に俺とアリアが体育館を占領し、二人でサーブやレシーブ、スパイクと言った基本的な動きを出来るだけ練習した。

 俺は体の傷の影響でレシーブの練習しかできなかったが、アリアは全てにおいて完璧なレベルの水準に達する勢いで練習に励んだ。

 当日の試合の作戦もある程度は決めた。

 状況によって変わってくるが、基本的に俺がレシーブに専念してボールを上げ、アリアがスパイクを打つという流れ。それが叶わぬ状況であれば無理はせず、相手コートに確実に返すという作戦だ。

 俺が完治していればもっと作戦の幅は広げられたのだが、こればかりはタイミングが悪い。

 これも黒崎の作戦なのかは知らないが、やると言った以上は仕方がない。

 アリアからは無茶をするなと釘を刺されているので、俺も勝手な真似は許されない。

 俺にできることを精一杯やるだけ。それだけでアリアは十分と言ってくれた。

 だから俺はアリアが気持ちよく打てるようにサポートするだけだ。

 初めての共闘。そして初めての部員対決。

 黒崎チームは練習に励んだのか知らないが、それなりに作戦を練ってきているはず。

 ––––––上等だ。なら、その全てを覆そう。

 俺とアリアは最高のコンディションで、決戦の日を迎えた。



     ★



 金曜日の放課後。体育館に集まっているのは体操服に着替え終えた俺、アリア、黒崎、神林の4人……かと思いきや、体格の良い男性教師がジャージ姿で1人追加で集まっていた。


「えっと、なんで先生がここに……?」


 俺の疑問に先生が答える。


「実は今週の月曜日に黒崎から審判を頼まれたんだ。前もって伝えてくれたからこちらも空き時間を作れてな。それでバレーボール部顧問として試合を見届けようと思ったわけだ」


 なるほど、そういうことか。月曜日は俺と黒崎が職員室まで提出物を運んで行った日で、あの時黒崎は先生に用事があると言って俺を昼食に行かせた。用事というのはバレーボール部顧問の先生に今日のために審判をやってもらいたいという頼みだったのか。


「黒崎は学級委員長で成績も優秀だからな。そんな生徒の頼みであればいくらでも引き受けよう」


 黒崎の優秀さは職員の間でも噂が広まっているそうだ。それは佐藤先輩の言っていた入学試験で全教科満点が影響しているのかもしれない。


「一応ルールの確認だが、試合は2対2形式の25点先取制。デュースはなし。あとはバレーボールのルールに則るということでいいんだよな?」


 先生が確認する。


「はい。それでお間違いありません」


 その情報は事前に俺たちも聞いていたから特に驚かない。


「よしっ、じゃあ早速試合を始めたいと思うが、準備の方は大丈夫か?」

「「「「はい!」」」」


 全員の返事が一致する。バレーボール用のネットと支柱はあらかじめ体育倉庫から取り出してセッティングしてあるため、俺達はそれぞれ二手にコートに別れて定位置に立つ。

 その後、サーブの先行を決めるためアリアと黒崎がジャンケンをする。勝ったのは黒崎なので、試合は黒崎チームのサーブからスタートとなる。


「では、試合を開始する!」


 ピーっと笛の音を先生が鳴らす。


 アリアと黒崎。二人どちらかの退学試合が、今始まった。



     ★



 黒崎がサーブを打つ。それもいきなり、強力なジャンプサーブだ。

 体育の時にその威力は見ていたから、多少は慣れていると思っていた。

––––––しかし、現実はやはり甘くなかった。

 黒崎の放ったサーブは、むしろ体育の時よりもさらに精度が増しているんじゃないかと思わせられるぐらいに、凄まじい威力だったのだ。


「くっ!」


 体勢を崩されたまま何とかボールに触れることができた俺だけど、うまく捉えることができなくてボールは壁の方へと弾かれた。

 先生が得点板をいじりだす。黒崎チームの得点が0から1へとめくられた。


「すまない、アリア……」

「どんまい。切り替えていきましょう」

「ああ……」


 続けて黒崎のジャンプサーブ。放たれたサーブの威力は相変わらず凄まじい。

 今度は俺ではなく、アリア方面に放たれる。


「ッ!」


 9年間バレーボールをやってきたアリアなら上手く受け止めてくれると思っていた。

––––––しかし、それも甘い考えだった。

 アリアですら黒崎のサーブをうまく捉えきれず、俺と同じで壁の方へと弾かれた。

 得点が、1から2へとめくられる。


(嘘だろ!? アリアですら取れないのかよ……!)


 アリアはバレーボールが下手なわけじゃない。むしろ上手すぎるぐらいだ。サーブ、レシーブ、トス、スパイク……どれをとっても引けを取らないぐらいに。それは素人の俺ですらそう思う。

 じゃあ何故、取れない?

 単純な話だ。黒崎がアリアより上手いからだ。

 アリアが上級者レベルであるならば、黒崎はプロ級なのだ。

 そう例えても納得してしまうほどに。

 黒崎がボールを何回もバウンドさせながら言う。


「あれ〜? もしかしてサーブだけで決着が着いちゃう感じかな〜?」


 見え見えな挑発。それに対し、アリアは。


「笑わせないで。勝負はここからよ」


 黒崎がサーブの構えを取る。


「ふ〜ん? 相変わらず強がりだね」

「アリア……」

「大丈夫よ林くん。次は取れる」

「え?」


 自信をたっぷりと含ませた口調で告げるアリア。黒崎のサーブを取るコツを掴んだのだろうか。それとも、不安に潰されないよう自分に言い聞かせているだけの強がりなのか。それは分からない。

 黒崎がジャンプサーブを放つ。威力は変わらない。

 アリアに向かってきたその弾丸サーブを、今度は––––––。


「っ、林くん!」


 体勢を少しだけ崩されたものの、しっかりと俺の真上にあげてくれた。

 ほとんど動かずに済むそのレシーブテクニックはさすがとしか言いようがない。

 俺はそのボールをちゃんとスパイクに繋げるよう、丁寧にレシーブをして上げる。

 ボールは、結構いいところに上がってくれた。

 アリアもその気持ちに答えるかのように、しっかりと助走をつけて強力なスパイクを放とうと高く跳んだ。

 まるで、お手本のポーズをそのまま切り取ったように完璧なフォームだった。


 ダンッ––––––。


 アリアのスパイクは、見事相手コートに叩きつけられた。

 得点板も0から1へとめくられ、やっと俺達に点数が入った。


「ナイス! アリア」

「林くんも、ナイスレシーブよ!」


 俺とアリアはハイタッチを決める。その光景を目にした神林は「おぉっ!」とキラキラと目を輝かせ感動しているが、黒崎はそれと対照的につまらなそうな表情でこちらの光景を眺めている。


「神林さん」

「何かな? 黒崎さん」

「作戦は覚えているね?」

「うん。とりあえずボールを上にあげればいいんだよね?」

「そう。お願いね」

「頑張る!」


 両手で小さくガッポーズをとる神林。黒崎と何か話していたようだがこちらには聞こえなかった。

 得点を取った俺達にサーブ権が戻ってくる。打つのはもちろんアリアだ。ボールを手にしたアリアがサーブの位置に立った。


(えっ!? うそでしょ……!?)


 アリアが相手コートを見て驚く。俺もつられてそちらに目を向けてみれば、何に驚いたのかすぐに分かった。


 黒崎が一人で守備をしているのだ。


 神林は打ち上げられたボールを上げる専門なのか、ネット前ギリギリのところで立っている。今思えばさっきからそうだ。

 公式戦なら『セッター』といって、味方が拾ったボールをスパイクに繋げるためにネット前ギリギリに立つことはある。

 しかし、今回はコート内に二人しかいないため、そのような立ち位置を作ってしまったらコート内の守備を一人でやらないといけなくなる。コートの広さからしてそんなの現実的ではない。コートの端っこを狙われたら到底間に合うはずないからだ。

 なのに黒崎はそれをしようとしている。まるで俺達に実力の差を見せつけるかのように。


(あり得ないわ。いくら黒崎さんでも不可能なはず)


 アリアは黒崎の作戦はハッタリだと解釈し、乱れた心を落ち着かせる。

 そして、アリアは弱点を突くかのように相手コートの端っこを狙ったサーブを放つ。

 サーブは理想な位置へと放たれた。そのサーブは誰もが取れないと思ったことだろう。


 ––––––が、黒崎は違った。


「えっ……?」


 アリアがサーブを放つ瞬間、黒崎は既に動いていた。まるで、どこを狙ってくるのか知っていたかのように。


「神林さん!」


 黒崎は見事正面でサーブを受け止め、神林に絶妙な位置へとボールを上げる。

 神林もほとんど動かずに、スパイクに繋げるためのトスを放った。

 それに合わせるように黒崎も助走をつけ、アリアと同じように完璧なフォームで俺達のコートへスパイクを放つ。


 ダンッ––––––。


 体育館内に静寂が宿る。ボールの弾む音だけが虚しく響いており、全員が呆けながらボールに視線を向ける。

 バレーボール顧問の先生でさえも、アリア以上にキレのあるスパイクに見惚れてしまっているようだ。


「先生」

「––––––ハッ。な、なんだ……!?」

「得点、入りましたよ?」


 黒崎が得点板を指差して言う。審判役でもある先生は、得点をめくるのを忘れてしまうほどに驚いていたようだ。


「そうだった。すまん!」


 黒崎チームの得点が3点へと変わる。それに対し俺達はまだ1点。まだ2点差であるため、まだまだ逆転の余地が残されていると思う。


 しかし、この2点差が……たった2点差が…………縮まることはなかった。



     ★



 それから試合は続き、気付けば俺達は窮地に追い込まれていた。

 現在の点数は以下の通りだ。



 黒崎チーム 18点

 赤坂チーム 5点



 絶望だった。

 逆転の余地が残されていた2点差という希望は、黒崎の猛烈な攻撃によって容易く打ち砕かれた。


 本当に、勝てるのか……? 


 今は自分自身にさえも、そんな疑問を持つようになってしまっていた。

 続いて黒崎のジャンプサーブが放たれる。


「くっ!」


 黒崎チーム 19点


 再び、黒崎のジャンプサーブが放たれる。


「ッ!」


 黒崎チーム 20点


 俺とアリアはミスの連続によって……戦意喪失とも呼べる状態に陥っていた。



「ふーん? なんだ、期待したけどこんなものか」


 黒崎さんが自ら壁まで転がっていったボールを取りに行く。本来ならこちら側にボールが転がっているのだから、私達が取りに行かなければならない。

 しかし、今の私達にはボールの行方を心配する余裕すらなかったのだ。


「これはもう、勝ったも同然だね」


 黒崎さんがボールを手にして言う。

 そして戻る際に、黒崎さんは私の耳元でささやいた。


「バイバイ。赤坂さん」

「––––––!」


 私は自然と目が見開いた。黒崎さんの放った言葉が何を意味しているのか。この時、改めて思い返したからだ。


(……そうだ。この試合に負けたら私、学園を去らないといけないんだ)


 黒崎さんと交わした約束は、所詮口約束。

 仮に試合に負けても知らないフリなどして、どこ吹く風の状態でやり過ごすことも可能だ。

 でも、私が黒崎さんとの約束を破ったとして、その先にある未来は暗いものだと思う。そうなれば黒崎さんは私にも想像できない恐ろしい手を使って、何か仕向けてくるかもしれないから。

 でも私は、今は一人じゃない。私に何か危害が加えられるようなことがあっても、林くんのことだから……きっと守りに来てくれるんだろうなぁ。

 その優しさにありがたい気持ち反面、申し訳ない気持ちの方がいっぱいだった。

 いつまでも守ってもらえるような、どうしようもない自分のままだったら、情けなくて合わせる顔がなくなってしまう。



 だからこそ私は、この試合に負けたら退学する覚悟を決めている。



 それが何より、私にとってのけじめでもあるから。

 私のことを、体を張ってまで守ってくれた林くんと同じ覚悟でいたいから。

 いいや、林くんに比べたら私の覚悟なんて比較にならないか。

 彼は、一人で戦ったんだ。圧倒的な力の差がある相手でも、諦めるような真似は一切せずに。



 やっぱり、かっこいいなぁ……。



 それに比べて今の私には彼が付いている。一緒に戦ってくれている。

 こんなどうしようもない自分勝手な私に、付き添ってくれている。



 あぁ。やっぱり退学なんてしたくない。

 高校生活はまだ始まったばかりじゃない。これからたくさん色んな経験ができるかもしれないじゃない。


 何より林くんと……一緒にいたいじゃない。


「…………」


 自分の置かれている危機的状況を受け入れ、彼のことを想う。

 すると、頭と心にわだかまっていたいたモヤが晴れ、思考がクリアになる。

 全身が軽くなったように感じる今の私に聞こえてくるのは、自分の心臓の音だけだった。



 ドクン––––––。



 負けたくない……負けたくない……っ。



 ドクン––––––。



 負けたくない……ッ……負けたくない……!



 ドクン––––––。



 負けるわけには、いかないのよ!!



     ★



(だせぇ……)


 今の自分を一言で言い表すのなら、そのたった三文字がお似合いだった。

 アリアに『勝つぞ!』という言葉を誓ったのに、今はこのざまだ。

 なんだよ……この圧倒的な差は。しかも、黒崎優香というたった一人の女の子にやられっぱなしなんて、男として超だっせぇじゃねぇか……。

 あれだけアリアをサポートしてやろうと決めたのに、俺は何もできていない。

 なんだよ……これ。頭の中で描いていたイメージとは全く違うじゃねぇか。

 黒崎が強いのは知っていた。それでも俺とアリアならなんとかなるって、そう信じていた。

 だが理想と現実は違った。思い描いていた夢が一気に崩れ落ちるような感覚。

 こんなはずじゃなかったのに……。もっとかっこよく、スマートに、勝利するはずだったのに……。


 好きになりかけていた自分が、嫌いになりかけている。


 いっつもこうだ。何か希望を掴みかけようとする時に限って、俺のことを絶望へと引きずり下ろそうとする。

 なんで神様はこんなにイタズラ好きなんだ……。なんで運命はこんなに残酷なものばかり用意するんだ……。ふざけんなッ。

 ちょっとぐらい、俺にかっこいい姿をさせてくれよ。それとも何か? 俺がかっこいい人間を嫌っているからその逆恨みをしようってのか? なるほど、それなら納得だ。その通りだよ。


 俺はかっこいい奴が嫌いな人間だよ。


 かっこいい奴は、俺が欲しがっているものをかっさらっちまう。

 地位も名誉も、密かに恋をしていたあの子も……かっこいい奴は全て手に入れてしまうんだ。


 かっこいい奴は生まれつき顔が良くて、生まれつき性格が良くて、そして遺伝子の恩恵なのか、運動も出来て。


 嫌いだった。何もかも手に入れてしまうかっこいい奴が、俺は嫌いだった。


 分かっている。嫉妬しているのだ。自分には持っていないものを、欲しがっているものを、生まれつきかっこいい奴は平気で手にしているから。

 あたかもそれが当たり前のように過ごしているかっこいい奴らが……俺は大嫌いなのだ。

 そんな奴らと比較していた俺は、いつしか自分が嫌いになっていった。

 最初から自分の立ち位置が決められているかのように、運命が定められているかのように生きなければならないその人生が。


 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずだと? 嘘をつくんじゃねぇよ。全然平等じゃねぇだろ。その不平等の差を埋めるために俺は必死になって勉強して、帝学園を目指したというのに……元々恵まれていた奴が同じ努力をしていたらその差は埋まらないだろうが。

 いつまでも、かっこいい奴を追い抜けないだろうが……!



『とてもかっこよかったわ』



 自虐的になっていた自分の脳裏に、ふと蘇ってきたのはアリアの言葉だった。

 理由は分からない。

 あの時は確か、冗談で言っているのではなく本音で言っていたんだよな。散々からかわれていた俺には分かる。

 俺はあの時、心が踊るような感覚に襲われとても嬉しく思った。今までかっこ悪いと思っていた自分が初めて認められたような気がしたから。

 しかし、疑問でもあった。


 俺のどこがかっこよかったのだろう。


 アリアを助けたこと? でも、それは人として当たり前のことであって。むしろ俺はボロクソにやられて、ダサい姿を晒してしまったではないか。俺の思うかっこよさとはかけ離れていて、とてもそうには思えなかった。


 じゃあ何故、アリアはかっこいいと言ってくれたのだろう。どの部分をかっこいいと感じたのだろう。


 あの時の自分を思い返してみる。あの時の俺は、アリアを救うべく目の前に立ち塞がる佐藤先輩を打ち負かそうと必死になって、それしか見えなくなって、ボコボコにされて……。それでも、諦めなくて。


「––––––」


 心の中で、ストンっと何かが落ちたような感覚に襲われた。


 はっきりとした理由はわからない。でも、そこには素通りすることのできない何かがあったような気がして……。


 だから俺は、その『何か』を納得させるために『その時の俺』と『今の俺』を重ね合わせる。


「……ははっ……」


 ようやく理解した。何故今の俺はこんなにもダサいのか。答えは至ってシンプルだった。



 諦めているからだ。



 根本的に間違っていたのだ。確かにかっこいい奴の特徴に『顔』や『性格』は重要な要素だ。でも、それよりも遥かに大事な要素が『諦めない』ことだった。

俺は佐藤先輩という強敵にボコボコにされようとも、今の自分にできること、勝てる要素を絞り出して抗った。それが最終的に勝利につながった。絶望的だった状況も、諦めなければ希望を掴むことができるんだって証明したのだ。


 だが、今の俺はどうだ?


 まだ決着がついていないのにもかかわらず、既に負け試合だと決めつけ、諦めてしまっている。強敵の黒崎優香に抗わないでしまっている。


(そりゃあ、だせぇわけだ……)


 俺は何故コートに立っている? なんのために戦っている? 思い出せ!


 そうだよ。全ては約束を守るため。アリアを守り通すためだ!


 そのために俺は、ここに立っている!



 疑問が全て解消された俺の頭と心はほこり一つないほどに真っ白でクリアな状態となる。

 そんな真っ白な空間の先にベージュ色の髪をした一人の超絶美少女が前を歩いていた。

 俺が歩み寄らなければ、手を伸ばさなければ、その人はどんどん遠のいて行く。まるで、点差の分だけ離れて行ってしまうように。

 その人を想うだけで、俺の心臓の鼓動が早くなるような感覚に襲われる。それでも、気分は不思議と落ち着いていた。

心臓の音が、はっきりと聞こえるほどに。


「…………」



 ドクン––––––。



 まだ負けていない……。俺達は負けていないだろ……。



 ドクン––––––。



 負けていない……ッ。抗え……!



 ドクン––––––。



 負けるわけには、いかねぇんだ!!



     ★



 黒崎がサーブの位置でボールをバウンドしながら告げる。


「残り5点で私達の勝利だね。覚悟は出来ている?」

(覚悟?)


 黒崎の言動に疑問を持った神林が、頭にはてなマークを浮かべるが深くは考えない。


「––––––」

「––––––」


 黒崎に問われた俺とアリアは何も答えない。


(なんだ……? 急に二人の雰囲気が変わった?)


 黒崎は俺とアリアを交互に見つめながら顔をしかめる。俺達の顔は今まで以上に真剣な眼をしており、何よりその集中力が尋常じゃなかった。


(ま、どうでもいいか)


 そして放たれるジャンプサーブ。ここまで全く勢いの落ちない威力に神林も感銘を受ける。このまま続けば黒崎チームの勝利は確実だと、審判役の先生もそう思っていたことだろう。


 しかし、状況は一変する。


 黒崎のジャンプサーブは俺のレシーブによってあっさりと受け止められ、上がったボールをそのままアリアがスパイクで叩きつけた。

 その一瞬の出来事に、体育館内には時が止まったように沈黙が訪れた。


「え……?」


 サーブを打ったばかりで油断していた黒崎は、一歩も動けずに相手の得点を許してしまう。

 審判役の先生ですら、一体何が起こったのだと未だに現実を受け止められないでいる。

 やがて数秒の沈黙後、アリアのチームに点数が入ったことを思い出して、先生は慌てて得点板をめくりだす。

 アリアチームの点数が5から6へとめくられた。


 そしてサーブ権がアリアチームへと渡り、黒崎チームへと放たれる。


(……気にしたら負け。ただのまぐれよ)


 黒崎がうまくレシーブを決め、それを神林があげる。


(そろそろ終わりにしてやるんだから!)


 黒崎が誰もいない箇所へとスパイクを放つ。黒崎は獲ったと思ったことだろう。

 しかし、やはりそこには『彼』がいた。


(なっ! どういうこと……!?)


 俺はまたもや上手くレシーブを受け止め、上がったボールをそのままアリアが叩き込む。

 アリアチームの点数が6から7へとめくられる。


(おかしい……何かがおかしい!)


 黒崎のスパイクは確実に誰もいないところへと放った最高の一撃だった。普通なら誰も反応できずに見送ってしまうことだろう。


 ––––––普通ならば。


(ま、まさか……!?)


 この時、黒崎と先生は勘付いた。俺とアリアの雰囲気が一変し、明らかに動きのキレが上がっていることを。何より、黒崎の動きを見切っていることに。



『ゾーン』だった。



 ゾーンとは、己の極限まで集中力を高め、余計な情報を排除し、パフォーマンスを最大限まで発揮させる現象のことを指す。

 これは誰もが入れる領域というわけではなく稀な現象である。

 俺とアリアは窮地に立たされたことが起点となって集中力が増し、ゾーンに入れたと黒崎と先生は推測する。神林はゾーンを知らないのか、二人が物凄く集中していることだけを察知。声をかけるのが怖いのか、俺達を見るなり怯えてしまう。

 黒崎は俺達の速攻によるカウンターに手も足も出なかった。先ほどまでの二人は手加減をしていたんじゃないか、本物のプロ選手が憑依したのではないか、漫画のように覚醒したのではないかと思ってしまうぐらいに。

 点差も気づけば並んでいた。


 黒崎チーム 20点

 赤坂チーム 20点


 そしてついに––––––。



 ダンッ––––––。



 アリアがスパイクを決めた。それと同時に点数もめくられる。


 黒崎チーム 20点

 赤坂チーム 21点


 ––––––俺達は、逆転を果たした。


「アリア!!」

「林くん!!」


 逆転を果たした事による嬉しさを共有せずにはいられなくて、俺達は体育館内に響き渡るほどのハイタッチをかわした。



     ★



 目の前に映る二人の姿に嫌気がさしている。まだ勝負はついていないのに、たかが一点逆転しただけでもう勝ったかのように喜び合う二人が。

 これから私に逆転されて敗北するかもしれないのに、そんなことを微塵も感じさせない二人の輝いている姿が。

 どれもこれも嫌気がさして仕方がない。二人の希望を壊したくなる。そんな衝動に駆られる。

 そんな希望に満ち溢れた二人の姿が、敗北した時にどんな顔をするのか見てみたい。

 でも、今の私にそれを叶えられるかと言ったら微妙なところではあった。

 それほどに私は追い詰められていた。勢いがあったうちは気付かなかった体の疲労も今は一気に襲いかかってきているから。


「ごめんね、黒崎さん。僕が頼りないばかりに……」

「そんなことないよ」


 ははっ。相当追い込まれているな私。まさか神林さんにまで心配されるなんて。

 さらに、嫌気がさしてくる。


「でも、まだ逆転できるよ! 頑張ろう!」


 頑張る? なんで? 

 別に頑張る必要なんてないでしょ。二人を見てみなよ。


「はぁ……はぁ……」

「ハァ……ハァ……」


 ほら、二人はもう体力に限界がきている。ゾーンだって切れた。もうさっきまでのプレーはできない。あとは普通にやっていれば勝てるでしょ? 


 ギロッ––––––。


「!!」


 林くんと赤坂さんが睨み殺すような目つきで私を見てくる。私の挑発が伝わってしまったのだろうか。––––––いや、違う。これは……。


 二人は、まだ集中し続けようと頑張っているんだ。


 試合はまだ終わっていない。最後まで気を抜かないようにと自分自身に言い聞かせ、無理しながらも物凄く集中している。これはゾーンなどではない。

 二人の気迫ある顔つきに思わずたじろいでしまう私。この時、無意識にイメージをしてしまった。


 私が、試合で負ける姿を。


(ははっ……。なんで私は、こんなイメージを……?)


 そうか。このままだと私は負けるって、本能が教えてくれたんだね?

 そっか。私、負けちゃうのか。

 ……不思議と絶望感はない。それよりも高揚感の方が勝っている。

 きっと、初めての敗北を知ることになる自分に興味が湧いてきちゃっているのかもしれない。

 二人の頑張りによって、敗北する自分の姿に。


(いいね〜。そういうの燃えてきちゃうよ)


 勝負事でここまで追い詰められたのは生まれて初めてで、その新鮮さが私の闘争心をより燃えさせる。

 燃えた炎は勢いが止まることを知らず、やがて豪炎となる。

 内臓からは汗が湧き上がるほどに熱が発せられているのに、頭の中は不思議と冷静だった。

 すると、全身からスーッと疲労が抜けていくような感覚に陥る。乳酸が溜まって重くなっていた体が、まるで空を飛べるかのように軽く感じる。

 今はリミッターが外れたかのように、自分の心臓の音だけが鮮明に感じ取れた。


「…………」



 ドクン––––––。



 認めよう。二人はすごい。私の想像を遥かに超えてきた。頑張る姿に見惚れてしまった。



 ドクン––––––。



 でも、まだ足りない。もっと私の想像を超えてきて。私が絶句するほどに、もっと頑張ってみせて。じゃないと、不完全燃焼になっちゃう。



 ドクン––––––。



 さぁ、決着をつけようか。気をつけてね? 今度の私は一味違うかもだから。



     ★



 アリアがサーブを放つ。誰もいない絶妙な位置へ狙ったサーブだったが、黒崎にレシーブされ、それを神林が上げようとする。ここまではいつも通りのパターン。もうその動きには慣れた。取れる!


 しかし、次の瞬間だった。


「え?」


 …………気付けば、ボールは既に大きくバウンドしながら後方へと飛んで行っていた。コートのどこに着弾したのかすら分からない。けど––––––。



 黒崎チーム 21点

 赤坂チーム 21点



 点を取られたことだけは、分かっていた。


「な、なんだよ……今の……」

「速すぎて……見えなかった……」


 俺とアリアは黒崎の異次元のスピードに驚愕していた。おかげで集中力が途切れてしまう。

 黒崎は魔法やイカサマを使用したわけではない。単純に、自身のパフォーマンスを最大限発揮したに過ぎなかった。

 黒崎は神林のあげたボールを頂点に達する前に強烈なスパイクを放った。ただそれだけだった。

 その速攻性はバレーボール用語で言えば『クイック』に近い。

 トスを短く速く上げ、速攻でスパイクに繋げる。そんな技だ。

 もちろん、神林はクイックを意識しているわけではない。黒崎に言われた『ただ上にあげればいい』だけを素直にやっているだけ。

 じゃあ何故、そんなクイックみたいな速攻性が可能なのか。これも単純な話だ。


 黒崎が無理やり合わせているからだ。


 神林はバレーボール未経験者。スパイクに繋げるボールもほとんどズレた位置へとあげてしまう。

 しかし、そのミスがまるでミスではなかったように、黒崎が無理やりスパイクに繋げてしまうのだ。

 そのスタイルはこれまでもそうだったが、今は別格。

 今の黒崎は、もはやスパイクを確実に放つだけでは飽き足らず、確実に点が取れる位置へと叩き込む威力までも手に入れてしまっている。

 相手の重心やつま先の向き、顔や目の動きといった視覚から得られる情報を瞬時で頭の中で判断し、相手の意表を突く。そんな無双状態に黒崎はなっていた。

 点差が……広がる。



 黒崎チーム 24点

 赤坂チーム 21点



 黒崎の猛反撃に焦り出す俺とアリア。


(やべぇ、マジでやべぇぞ! 次取られたら俺達の負けだッ……!)

(終盤にきて精度が更に上がるなんて……。前半は手加減をしていたっていうの……!?


 動揺を隠せないでいる俺達。黒崎の精度が急激にあがりだした起因はゾーンじゃないかと推測した。

 すぐにでも狩ってきそうな凄まじい集中力。まるで誰かに憑依されているかのように別人の雰囲気をまとっていたから。

 だがそんな情報を知ったからといって、試合の流れが変わるわけでもない。


 黒崎のサーブを俺はなんとか受け止め、アリアがそのままスパイクを放つ。––––––だが、そこには黒崎が既にいた。

 この技はもう、今の黒崎には通じない。


「くッ!」


 黒崎のレシーブであがったボールをスパイクに繋げるために神林があげる。––––––黒崎が、打ってくる!


「させないッ!!」


 アリアがブロックしようと両手をあげて、黒崎のスパイクを阻止しようとする。


 バチンッ––––––。


 黒崎のスパイクになんとか触れることのできたアリア。しかし、ボールは指先にしか当たらず、俺達のコート側に遠く跳ねて飛んでいく。

 これを返さなければ––––––俺達の負けが確定となる。

 そんな結末を絶対に回避しなければならない俺は、全速力でボールを追いかけた。


「うおおおおおおおおッッッッ!!」


 スピードに勢いをつけるため俺は思わず叫んでしまう。

 しかし、ただ走って追いかけるだけでは到底ボールには届かない。

 それを瞬時に悟った俺は、骨の痛みなどクソ食らえと覚悟し、体を大きく伸ばして飛び込んだ。


 ピキッ。


「ぐぅッッッ!!」


 骨が軋むように痛む。だが、そんな痛みなどいくらでも食らってやる! 

 だから! このボールだけは絶対に拾わせてくれ!!


 そんな強い想いが通じたのか、俺の手にボールが当たった。


 ボールは大きく打ち上げられ、アリアの方へと飛んでいく。

 我ながらさすがだと思った。そのボールはアリアがそのままスパイクを打てる絶妙な位置だったから。


 飛び込んだ俺は勢いのまま体育館の壁に思いっきり叩きつけられ、更に強く骨に響いた。


「ぐがァァアア!!」

「林くんッ!?」


アリアが心配そうに俺の方へと振り向く。


「ばか! 前ッッ!!」

「え––––––?」


 アリアが気づいた時には既に遅かった。

 高くあげられたボールは弧を描くようにアリアの上空を越えていき、相手コートへと飛んで行ってしまう。



 黒崎はもう、跳んでいた。



 ダンッ––––––!!



「––––––」

「––––––」

「––––––」



 俺は後悔した。なんであの時、悲鳴をあげてしまったのだと。

 なんで、耐えることができなかったのだと。

 アリアは俺の体のことをひどく心配している。だからさっき、俺の悲鳴に反応してしまった。試合よりも俺のことを優先して。

 だが、そんなことを悔やんだところで結果が変わることなんてない。



 黒崎チーム 25点

 赤坂チーム 21点



 俺達は、試合に負けた。

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