第14話 忘れもの

 正門で二人静かにたたずんでいる俺と神林。今は大雨が振り出して、ずぶ濡れ状態になっている。

 天気予報では雨の注意喚起をしていなかったので、残念ながら俺たちは傘を所持していない。

 このままでは風邪を引く恐れがあると思い校舎内に避難しようと提案したのだが、神林は首を横に振って『僕はここで待っているから』と言い出す。

 おそらく、俺が『正門で待っている』なんて言ってしまったからだろう。

 約束はちゃんと守る。使命感とも言えるその想いにはそんな力強さを感じた。

 神林だけずぶ濡れにさせるのは気が引けるので、俺も一緒になって正門で待つことにした。



     ★



 アリア達と屋上で別れてから、かれこれ40分以上は経っている。

 あの時ガールズトークに任せる勢いで二人に託し、神林ごとここに連れてきたのにはもう一つ別の理由があった。

 それは神林に邪魔される可能性があったからだ。

 神林は良くも悪くも情に厚い人間だ。それは屋上で見せた熱い訴えによって明らかとなっている。

 今回の問題は最初にも言った通り、同じ中学であるアリアと黒崎の問題だ。

 論理的に考えて二人の問題に口出しする権利は本来持ち合わせていない。だから先ずは二人で真剣に話し合える場を設ける必要があった。誰にも邪魔されない環境を。

 はっきり言ってそこから先は二人次第だ。怒号を言い放ったり、もしかすると殴り合いにまで発展する可能性だってあるかもしれない。

 でも、それでいい。それがちゃんとお互いのためになるのであれば、心の底に溜まっている想いを本音で言い合うことができるのならば、それでいいのだ。

 それが今、二人のすべきことだから。

 もしあの場に神林がいたのなら、きっと二人の争いを止めに入る。それじゃあダメだ。それだと不完全燃焼を起こしかねない。

 火が乗り移った薪は、すすになるまで燃え続けさせなければならない。

 それが神林の指摘した、本来するべき『過程』だったのだから。

 ここまで一言も発さずにうつむいていた神林が、ようやく何かを口にした。


「また、元通りになるよね?」


 雨の音にかき消されてしまうぐらいの弱々しい声量。


「また、みんなと一緒にいられるよね!?」


 さっきよりも大きく声量をあげたその言葉は、ハッキリと俺の耳に届いた。


「ああ。きっと大丈夫だ」


 きっと、なんて曖昧な答えを告げたのは、確信がなかったからだ。

 今回の問題は二人の問題。


『あんたには関係ない』


 黒崎の指摘した通り、俺と神林は関係のない人間。

 いくら正論をぶつけようとも、『あんたには関係ない』の一言で跳ね除けられてしまうのだ。

 つまり、この問題を解決するには、みんなと一緒にいられるのかは全てアリアに掛かっていると言っても過言ではない。

 だから俺はアリアに全てを託してあの場を去った。


「アリア……」


 それでも俺は考えた。考え続けた。

 もし……もしアリアの説得が失敗に終わった場合……俺には一体何ができるのかと、必死に思考回路を巡らせていた。



     ★



 1時間が過ぎた頃だった。

 薄暗い校舎の中から、人影がこちらに向かってくる。

 時刻はもう18時30分を過ぎているので、この時間まで残っている生徒など限られている。

 そして遠くからでも分かるシルエットを見て、それが誰なのかすぐに分かった。

 薄暗い校舎を抜けると、ベージュ色の髪があらわになる。


「アリア!」

「赤坂さん!」


 アリアがこちらにゆっくりと歩いて近づいてくる。

 やがて俺たちの前で立ち止まったアリアの表情は、見るからに浮かない様子だった。

 瞳をわずかに伏せ、どこか焦点もあっていない感じだ。

 よく見れば顔には赤く腫れた部分がり、制服もかなり汚れている。予想していた通り、二人は争ったのだろう。

 アリアは意を決したように俺たちと目を合わせる。瞳には涙が潤っていた。

 そして––––––。


「ごめんなさい……」


 たったその一言で、全てを察してしまう。

 アリアの説得は……失敗に終わってしまったのだと。


「そうか……。よく頑張ったな」


 責めるわけでもなく、俺はアリアの頭を優しく撫でる。そうすることでしか、アリアの落ち込んだ気持ちを和らげる方法が思いつかなかったから。


「赤坂さん……」


 神林もきっと俺と同じ気持ちのはずだ。これは誰かを責められる問題ではない。

 むしろ、体をボロボロにしながらここまで頑張ってくれてありがとうと、神林の儚い笑顔はそう語っている。

 今度は俺がアリアの代わりとなって黒崎の元へと行こうとした時、アリアに手首を引っ張られた。


「今は……一人にさせてほしいって」

「……そうか」


 本人がそう言っているのなら、そうさせるのがベストなのだろう。

 俺たちはしょうがなく、三人で帰路に立つことにした。

 アリアと黒崎、二人が屋上で語り合っていたガールズトークを聞きながら。



     ★



 帰路に立ってから15分が経過した頃、アリアのガールズトーク語りにも幕が降りた。

 俺と神林は屋上にて二人の間にそんなことがあったのかと、内心驚きと動揺を隠せないでいた。

 それと同時に、虚しさも込み上がる。

 この場には、いるべき人がいない。初めて帰宅部メンバーの思い出を作った、黒崎優香という女性が。


「…………」


 アリアの話が終わるとグループ内には沈黙だけが続いた。いつもなら気軽に話せるメンツなのに、今だけは口にする言葉も慎重に選ばなければいけない重たい空気感が漂っていて、何か話題を切り開こうと思っても開いた口は結局閉じてしまう。

 そんな誰も言葉を発せない状況の中で、俺は沈黙を破った。


「悪い、忘れ物をした。二人は先に帰ってくれ」


 返答も聞かずに俺はすぐさま学園へと走り出す。その気まずい空気感から逃げるように。

 いや、違うか。逃げているというと語弊が生じる。俺自身そんな意識は感じない。

 どちらかというと、体が勝手に動いていたような感覚に近い。

 なぜ体が勝手に動いていたのか。きっと俺の中で『不完全燃焼』が起こっているからかもしれない。

 ––––––それだけではない。

 アリアと神林。二人の心からぶつけた想いが俺の想いと合わさって、欠けていた最後のピースがぴったりとハマったような感覚を覚え、気付いたらあんなセリフを口にしていたのだ。


(アリア、神林。ありがとう)


 俺は追ってこない二人に背を向けたまま、心の中でお礼を言う。


(二人のおかげで、今度こそ黒崎を打ち負かしてやれそうだ)



     ★



 赤坂さんが屋上から去り、今は一人となった私。

 下に落下しないよう取り付けられている手すりにしがみつき、ただなんとなくぼんやりと遠くを見つめる。

 視界に映っているのは建物ごとにライトが照らされたなんともロマンチックな光景だった。

 今は悪天候によりそのロマンは薄れつつあるが、天気がいい日に見れば悪くない景色へと移り変わることだろう。


 好きな人が隣にいたら、なおさらに……。


 雨の勢いは弱まることなく、むしろさらに強くなっている気がした。

 もはや雨に打たれるのが痛いレベルである。それでも私は、屋上から移動することをしなかった。


 ここを移動してしまえば、一つの選択肢を失ってしまうから。


 そう。今の私は、二つに一つである選択肢をここで決断するために、ここに残っているのだ。

 私は手すりを、ギュッと握る。


ダンッ!


「!」


 後方から屋上のドアが強く開かれた音にびっくりして、私は思わず振り向く。

 そこには、息をきらしながらびしょ濡れ状態の林くんが立っていた。


「……なんの用?」


 雨にも負けないほどの冷たい態度をとってしまう。

 そんな私に嫌な顔をすることなく、彼は息を整えたあと真剣な目つきで私と目を合わせながら告げた。


「忘れものを、取りにきたんだよ」

「忘れもの……?」


 私は屋上の辺りを見渡す。しかし、どこにも彼の所有物らしきものは見つからない。


「残念だけど、ここにはあんたの忘れものはないよ」

「あるだろ。目の前に」

「?」


「忘れものというのは、お前のことだよ。––––––黒崎優香」


「!」


 予想していなかった回答に、私は思わず驚いてしまう。

 彼は冗談で言っているわけではなく、本気でそう言っているのが伝わってきた。


「一緒に帰ろう、黒崎」

「……バカ言わないで。今は一人にさせて。赤坂さんから聞かなかった?」

「ああ、聞いたさ。全部な」

「っ」

「お前がなんであそこまでアリアを憎んでいるのかも、全部理解した」

「なら、私の気持ちも理解しているでしょ? 今は一人にさせてよ」

「それは出来ない」

「ッ」


 彼の物分かりの悪い対応に、私はつい舌打ちをしてしまった。

 だから無理やり願望を押し通すと言わんばかりに、私は便利な言葉を使った。それはさっき彼を退散させることに成功した便利で即効性のある言葉。


「あんたには関係ないって言ったでしょ。部外者は引っ込んでいてよ」

「残念ながら、今はお前たち二人の問題じゃない。ここからは俺たち『帰宅部メンバーの問題』だ」

「……」

「お前は大事なメンバーの一人だ。だから迎えにきた。お前ならその意味を理解しているはずだ」

「……」

「もう一度言うぞ。一緒に帰ろう、黒崎」

「…………抜けてやるよ」

「!」

「たった今、私はメンバーから抜ける。これならあんた達とは関係なくなるよね?」

「黒崎……」

「どう? これで私たちとの関係はなくなったよ。分かったのならさっさとここから立ち去って」


 これ以上話すことはないと意思表示するように、私は彼に背中を向ける。


「…………いい加減にしろよ、黒崎」

「……」

「いつまで意地はっているつもりだよ。お前の好きだった渡辺という奴は、もういねぇんだよ」

「ッ!」


 黒崎の肩がビクッと跳ね上がる。認めたくない真実を突かれて体が無意識に反応してしまったのだろう。

 その後黒崎は、何かを思い詰めるように手すりの下を見つめ始め、一度ゆっくりと瞳を閉じる。

 そして、何か覚悟を決めたように瞳をゆっくりと開き始めた。


「……いいや、いるよ」

「!?」

「あの空の向こうに……渡辺くんはいる」


 黒崎は天を仰ぎながら、そう呟く。


「ねぇ、林くん。最後に質問なんだけどさ」


 黒崎が振り返り、俺と向き合う。

 そして、これまでに見せなかった儚い微笑みを見せて、こう告げた。



「ここから飛び降りれば、好きな人に会えるかな?」



「––––––」


 俺は黒崎に向かって強く足を踏み込み、風を切るように全力で走っていた。

 黒崎の問いに答えるよりも、体が先に動いていた。

 アリアの時と同じだ。俺の脳が、何が何でも阻止しろと、そう命令を下している。


「ッ––––––!」


 急に俺が向かってくることに驚いたのか、それとも恐怖を感じたのか、黒崎は反応していたものの体が硬直して動けないでいた。

 俺は黒崎の両手首をしっかりと掴み、離さないようにした。––––––が、黒崎は俺から逃れようと必死に抵抗し始める。


「いやッ! 離して!」

「離すわけねぇだろッ!! お前、自分が何をしようとしているのか分かっているのか!?」

「分かってる、分かってるよッ!! だからあんたに聞いたんだよ!!」

「こんッッッの、バカヤロウがァァァアアアッッ!!」

「!!」


 俺のらしくない怒号に黒崎は度肝を抜かれ、今は拍子抜け状態になっていて抵抗することを忘れてしまっていた。


「いい加減、目を覚ませよ黒崎! 死んだら本当に会えると思ってんのかよ。いつまでそんな生温い妄想に浸っているつもりだよ!」


 黒崎はわなわなと口を震わせ、今にも泣き出してしまいそうな瞳で俺を見つめている。


「お前が言ったんだぞ黒崎。ここは漫画やアニメの世界じゃない。現実世界だ。どんなに強く願おうと、死んだ人間が生き返ることはねぇんだよ!」

「ッ……」

「もう一度思い浮かべてみろよ。お前の好きだったやつを。お前の好きだった渡辺というやつはこんなことを望んでいないはずだろ! そいつの言葉に耳を傾けてみろよ! そいつはお前になんて言っている!?」


 そう言われた時、真っ先に思いついたのは私がフラれた苦い思い出だった。




『……ごめん、黒崎。俺には……好きな人がいるんだ』

『ッ!!』

『いつも、目標に向かって頑張っている赤坂をな。お前の気持ちに応えてやれなくて……ごめん。––––––でも俺は! 友達として、お前を特別扱いするほどに好きだから』

『……え?』

『お前は誰よりも心優しい。困っている人がいたら自分のことは後回しにして、すぐに助けてあげるんだからな。だからお前の周りにはたくさんの人が付いてくるんだろう。俺は、そういうお前が大好きなんだ』

『っ……!』

『だからこれからも、身近にある大切なものを大切にする黒崎優香であって欲しい』

『……うん』

『お前みたいに素敵な女性だったら、必ず俺よりも素敵な男性が現れるはずだ。––––––そしたら、いつか俺に紹介してくれよな。約束だぞ?』




 なんで、こんな思い出したくもない思い出が蘇ってきたのか分からない。

 でもきっと、そこには何か意味があって……渡辺くんは訴えかけてきたのだろう。


 いや、違う。本当は気づいている。ただ、私が意地っ張りなだけだ。


 認めてしまえば、それは負けを意味するから。

 でも、その想いを否定するわけにはいかなくて……見て見ぬフリをするわけにはいかなくて……私は、もう一度向き合った。

 そしたら、なんとも言えない気持ちにさせられて……気付いたら涙が溢れ、彼の言葉を口にしていた。


「身近にある大切なものを……っ……大切にしろって、言ってるよぉ……ッ」


 涙が次々と溢れ出す。歯を食いしばって必死に抑えようとするが、溜まっていた想いの分だけ、それは止まることを許してくれない。


「じゃあ、黒崎にとってその大切なものというのはなんだ!? それはどこにある!?」



「目の前にあるよッッッ!!」



 心の底から放たれた力強い声量に俺は圧倒されてしまった。

 意地を張り続けた一人の天才少女による想いは、天まで届いたのではいかと思うほどに強く気持ちがこもっていたから。


「目の前に……あるよぉ……っ」


 その想いが彼女を縛っている鎖に少しずつひびを入れていく。

 一触即発だった黒崎は、今は萎んだ風船のように、何かにしがみつかないと崩れ落ちてしまうほどに弱まりつつあった。

 そんな彼女に俺は両手を背中に回して支える。すると、黒崎は俺の胸の中で顔をうずめ、ポツリポツリと嗚咽を混じりながら呟き始めた。


「お願い……今だけでいいから……胸を貸して……っ」


 黒崎の体が小刻みに震えていた。


「ああ。そんぐらいいくらでも貸してやるよ」

「うぅ……っ……ううぅ……ッ」


 この場は大雨の音でうるさいはずなのに、まるで時が止まったように黒崎の泣き声がはっきりと聞こえた。


「わたし、分かっていた……! こんなことしたって、なんにもならないって……ッ」

「黒崎……」

「フラれたことが、赤坂さんに負けたことが悔しくて、悔しくてっ……仕方がなくて……嫉妬して……恨むようになってッ……きっと、渡辺くんが死んだことを理由に自分を正当化して、復讐を果たそうと決めたんだと思う」

「そうか……」

「でもね、それと同じぐらいに赤坂さんに憧れていたんだ」

「!」

「だって、好きだった人が私じゃなくて赤坂さんを選んだんだもんっ……」

「……お前がキャラ作りしているというのは、それが関係しているのか?」

「うん、そうだよ。少しでも、赤坂さんみたいに大人っぽくなろうって」

「バカかお前は」

「!」

「いいか、誰かに憧れるのはかまわない。きっと誰しも、あんな人になりたいって憧れることぐらい一回二回はあると思うから」

「……」

「でもな、お前がいくら努力したって、その人にはなれないんだよ。アリアはロシア人のハーフだし、お前は純日本人だろ? 遺伝子からして違う。地毛の色だって違うし、顔の作りも違う。どんなに姿形を寄せたって、お前は絶対にアリアにはなれないんだよ」

「……っ」

「自分を見失うなよ黒崎。お前の好きだった奴は、黒崎優香のことも好きだったはずだろ」

「––––––ッ!」

「俺は渡辺って奴がどんな男かは知らない。でも、お前がそんなに必死になるぐらいだ。きっとそいつは素敵な人なんだろうな。お前は心優しい奴だから」

「そんなこと」

「あるよ。体育の授業の時、うずくまっていた俺の元へすぐに駆けつけてくれたろ。心配してくれたんだよな?」

「っ……」

「それだけじゃない。帰宅部メンバーで遊んだ時、お前は神林にぬいぐるみをプレゼントしてやった。お前はあの時、挑戦したかっただけと言っていたが実際のところは違うんだろ?」

「……」


 それらは全て相手のことを想ってやったこと。日頃の行いがちゃんとそこには出ていて、口にしなくともちゃんと相手には気持ちが伝わっていたのだ。


「お前は、本当に優しい奴なんだな」


 馴染みのある言葉をかけられ、止まりかけていた涙が再び溢れ出す。必死に止めようとしても無駄だった。

 それに気づかってか、林くんは続けて話す。


「なぁ黒崎、お前が自分のことをどう思っているのか知らない。でも、俺はお前を尊敬しているんだぞ」

「!」

「勉強もスポーツも、他のこともなんでも吸収して自分のものにしてしまうその才能にな」

「……」

「俺はお前みたいに天才じゃないからさ、人並み以上に努力しないと何かを得られない不器用な人間なんだ。だからお前を見ているとつくづく尊敬するんだ」


 羨ましがるように、妬むように、自嘲するように鼻で笑う。


「でも、俺が本当に尊敬している部分はそんな生まれつき能力のことじゃない。お前の勇気ある行動に尊敬しているんだ。––––––告白とかな」

「……え?」

「告白って、めちゃくちゃ勇気いるよな。頭の中では何回もシミュレーションして、完璧だと思っても本番ではなかなか言い出せなくて……失敗したらって思うと、やっぱり言わない方が良かったんじゃないかって」

「林くん……」

「俺は臆病者だからさ……当時好きだったその人には言わなかったんだ……言えなかったんだ。結局その人には想いを伝えることなく、疎遠になったよ……」


 黒崎とは違う形だが、俺もまた好きな人に想いを伝えることすら出来なくなってしまった経験がある。

 その人は気づいたら何処かに引っ越したらしく、今はどこにいるのかすら分からない。

 きっと、もう二度と会うこともないだろう。だから黒崎の気持ちが分からないでもないんだ。


「でも、お前はちゃんと伝えたんだ。好きな人に想いを」


 俺は黒崎と少しだけ身を離して両肩を掴む。そして、ちゃんと目を合わせて言葉を伝える。


「離れてしまった人に想いを伝えることはできない。––––––でも、お前はちゃんと伝えたんだよ! 関係が壊れるかもしれない不安を抱えながら、自分の言葉で正面から!」

「ッ!」



「お前は、頑張ったんだよ!!」



「––––––!」


 慰めや励ましが欲しかったわけじゃない。私は……。



 自分だって、頑張っていることを認めて欲しかったんだ。



 渡辺くんに振り向いてもらいたくて。赤坂さんに負けたくなくて。一人の女の子ととして出来る限りのことは尽くしてきた。

 食事は栄養バランスよく摂り、適度な汗が流れるほどの運動をして、睡眠の質にも気をつかいながら、自分の理想である7〜8時間は熟睡した。

––––––気付けば、体は完璧なほどに仕上がっていた。理想の自分を手に入れたのだ。

 でも、無駄だった。渡辺くんの目に映っているのは、自分の理想の遥か上を行く、超絶美少女だったのだから……。



『いいよな、天才は。頑張らなくたって、なんでも手に入っちゃうんだから』



 いつの日か、誰かに言われたセリフを思い出す。

 ふざけないで。私だって、手に入れられないものだってある。頑張らないと手に入れられないものだってあるんだよ。私は神様なんかじゃないんだから。

 そうやって、表面部分だけ見て私のことを評価するのはやめてほしい。反吐が出る。

 誰も私が頑張っていることなんて知らない。気付いてくれない。

 一人の人間として、一人の女の子として。日々頑張っていることがあるのに、それを誰もが、『天才』だとか『才能』だとか『生まれつき』という一言で片付けてくる。私はそれに、不満でしかなかった。

 確かに勉強やスポーツはなんでも出来る。それは指摘通り、才能の恩恵なのだろう。

 でも、そんな恩恵だけでは得られないものもあるんだよ。私はそれを必死に得ようと、頑張ったんだよ。頑張っていたんだよ! 

 誰かに認めて欲しかったんだ……。

 気付けば私は、嗚咽を混じりながら大粒の涙を溢していた。

 大雨も合わさって、まるで大量の涙みたいだ。

 そんな私を、彼はまた胸の中へと引き寄せた。


「よく頑張ったな」


 一番言って欲しかった言葉を告げて。


「……うっ……うぅ……ッ……うわぁぁあああああああああああんッッ!!」


 私は子供のように泣きじゃくる。

 妄想に浸り、幻想を浮かべ、あの人を想い浮かべながら。

 もう叶うはずのない、温もりに錯覚を感じながら。

 今だけは、好きだった人がそこにいるかのようだった。



     ★



 黒崎が泣き止むまで、俺はずっと側にいてあげた。

 屋上は大雨の音でうるさいはずなのに、黒崎の嗚咽、鼻をすする音、乱れた生温かい息が、鮮明に感じ取れる。

 震える黒崎の体は冷えたことによるものか、それとも悲しみによるものか、はたまたその両方か。

 密着している体からは、震えと同時に『痛み』が心に伝わってくる。

 痛い、物凄く痛い……。

 黒崎の悲惨な姿を見続けることに耐えきれず、俺は天を仰ぐ。

 空は相変わらずドス黒い雲で覆われていた。


「…………」


 なぁ、神様。見ているか? 彼女の悲惨な状況を。

 どうして、こんな残酷な運命を用意するんだ? 教えてくれよ。

 あんたのせいで、危うく退学者と自殺者を出すところだったんだぞ。俺と神林がこの学園にいなかったら……どう責任取るつもりだ?

 これはあまりにも残酷だろう。苦難を乗り越えることに成長があると考えているのなら、その考えは一度改める必要があると思うぞ。

 人はそんなに強い生き物じゃない。ちょっとしたことがきっかけで、あっさりと道を絶ってしまう弱い生き物だ。

 今回の件でそれを理解したはずだ。まぁ、天から見下ろして高みの見物だけのあんたに俺たちの気持ちは到底分からないだろうがな。

 それとも、また俺を孤独の世界へ導こうとしているのか? もしそうだとするのならば、俺は運命に立ち向かうぞ。逃げも隠れもしない。

 やっと手に入れたんだ。こんな俺の隣にいてくれる、大切な人達を。

 決めたんだ。そんな人達と楽しい思い出を出来るだけ作って、みんなと笑って一緒に卒業しようって。

 この先どんなに過酷で残酷な運命が待ち構えていようと、俺はいくらでも抗ってやる。



例え––––––この身を犠牲にしてでもな。



     ★



 黒崎が泣き止み、ある程度気持ちが落ち着いたところで一緒に屋上を出る。

 時刻は19時を過ぎてしまっていて、校舎内は真っ暗だ。

 校舎を出てみれは雨雲は去っていないものの雨は止んでいて、歩道に立てられた外灯を頼りに正門へ向かう。

 正門前には見慣れた男女二人組が立っていて、俺達の姿を見つけると安心した笑みを向けてくる。


「林くん! 黒崎さん!」

「おかえりなさい。二人とも」


 神林とアリアだった。どうやら俺たちを迎える為に、引き返して待ってくれたようだ。

 そのことが嬉しくて、つい俺も二人と同じ笑みを向けて返す。


「ああ。ただいま。二人とも」


 帰宅部メンバー全員がそろう。その中で浮かない顔をしているのはやはり黒崎。これまでの仕打ちや、今回の件でいたたまれない気持ちになっているのだろう。無理もない。さっきまでは敵対関係であったのだから。

 黒崎は俺たちと目を一向に合わさず、視線を横へと向けたまま何も言葉を発さない。そんな黒崎の前に、アリアが立つ。

 すると、黒崎はアリアと目を合わせた。

 見つめ合う二人。見るからに一触即発な雰囲気が漂い始めている。

 それでも、俺と神林はただ見守る。神林は止めようとしたのか、何か口を開きかけたが自制心でなんとか踏みとどまる。

 先に言葉を発したのは、アリアだった。


「黒崎さん。私はあなたが嫌い。あなたは、私が欲しい物を持っているから」


なんでも成し遂げてしまう『天才』を。


「私だって、あんたが嫌いだよ。あんたは私が欲しい物を持っているから」


 諦めないで頑張り続ける『秀才』を。


「「だから、これからは––––––」」


 二人の声が、同時に重なる。




「「良き友達(ライバル)として、一緒にいて欲しい」」




 真剣な目つきで見つめ合うアリアと黒崎は握手を交わす。

 側から見ていた俺はそれが何を意味しているのかすぐに分かった。


 和解の印だ。


 ただの握手なんかじゃない。そこには、二人の想いがたくさん詰められている。

 それを分かち合うように、理解し合うように、痛み分けをしたのだ。

 やがて二人は手を離し、柔和な笑みを浮かべた。



––––––友情が芽生えた瞬間だった。



 なんて美しい光景なのだろう。変な伝統スポットなんかよりも遥かに美しいではないか。

 見惚れてしまっている自分がいる。開いた口が塞がらないほどに。

 それは神林も同じようで、二人を愛おしく見つめている。

 そんな絶景に、空から見下ろしているだけの神様でさえも魅了されたのではないだろうか。

 その証拠と言わんばかりに、雨雲で覆われていた空は徐々に晴れていく。

 やがて、世界に平和が訪れたように空は元の姿へと取り戻したのだ。

 もし太陽が少し顔を出していたのなら、そこには全員が一瞬で見惚れてしまうほどの大きくて綺麗な虹がかかっていたことだろう。

 それをみんなで共有できないことに少しだけ残念な気持ちではあるが、まぁいいだろう。


 だって、虹よりも綺麗な光景がここにはあるのだから。


「じゃあ、そろそろ帰るか」

「そうね」

「うん」


 俺に続いてアリアと神林も帰路に立とうとし、正門を抜ける。そんな俺達を他所に、一歩も動かずに一人だけ棒立ちしている存在に気づく。足音が、一人足りない。


「ほら、一緒に帰るぞ。黒崎」


俺は黒崎に振り向いてそう言う。黒崎は俺を見て呆けていた様子だったが、すぐに首を横に振って余計な考えを一蹴させた。


「うんっ!」


 遅れてやや駆け足で正門を抜けた黒崎。俺の隣までやって来た黒崎の顔を見て、思わず微笑んだ。

 それはキャラ作りでも、作り笑いでもない。

 本心によって作り出された黒崎優香の笑顔は、子供のように無邪気だったから。



     ★



 私は林くんの振り向いた姿を見て、思わず呆けてしまった。

 彼に重なって見えたのは、当時好きだった渡辺くんだったから。

 胸が高まる。

 なんだろう、この感覚。胸がドキドキして、気持ちが落ち着かない。なにより、どこか懐かしい感じだ……。

 その感覚を思い出すのに時間はかからなかった。

 何故ならそれは、たった2年前に味わったばかりの––––––。



––––––恋した瞬間だったから。



 やっぱり、私の身だては間違っていなかった。

 彼には、渡辺くんの面影がある。それは赤坂さんを救い出したあの時から感じていたものだ。

 死んだはずの渡辺くんの雰囲気をまとっていて、どこか放っておけない部分がある。

 そんな確証もないことを確かめるために二人で何かしたくて、私は林くんを学級委員に誘ったんだ。

 見た目や性格はそこまで似ていないけど、最後まで救いの手を差し伸べ続けるその優しさと熱量は渡辺くんそのもの……いや、それ以上だった。


『お前みたいに素敵な女性だったら、必ず俺よりも素敵な男性が現れるはずだ。––––––そしたら、いつか俺に紹介してくれよな。約束だぞ?』


 ……ねぇ、渡辺くん。見ている? 

 あんたの言った通り、私の前に素敵な男性が現れてくれたよ。

 ちゃんと、約束は守ったからね。



     ★



 帰宅部メンバーで帰路に立つ。

 横二列になって歩く俺たちの前には黒崎と神林が楽しそうに会話をしている。

 そんな中、俺の隣で歩いているアリアが俺に話しかけてきた。


「林くん」

「ん?」


 爽やかな風が吹き始め、髪を優しく揺らす。




「いつかあなたも、手に入れて見せるから」




「––––––」


 妖艶な笑みで、いたずらな表情を浮かべるアリアに俺はたじろいでしまう。




––––––その言葉は、本音か、冗談か。




 そんな知る由もないたまに呟かれる言葉にからかわれて、俺の感情はいつも振り回される。これも隣の席同士の由縁たるものなのだろうか。

 最初に出会った頃は隣の席の赤坂という色の無い関係でしかなかったのにな。

 でも、今はそんな無色透明の関係とは違って、まだ自分でもはっきりとは分からない別の何色かに染まりつつある。

 その色が最終的に何色として完成するのか、俺は期待せずに心の底にしまっておくとしよう。

 そして何よりも、これからは大切な人達と一緒に楽しい想い出を作っていきたいと思う。




 たまに本音か冗談か分からない事を呟く隣の席のアリアの……隣として。

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