平日小品

銘苅奏詩

第1話 消しゴム

 私が通っていた中学のジンクスで、とりわけて有名なものに、授業中に落とした消しゴムを隣の女子に拾ってもらうと拾われた方が恋に落ちるというのがある。

 私ははじめのうち、そんなもの信じちゃいなかった。しかし当時、恋愛礼賛の風潮を切って捨てる事で有名だった谷岡という友人が、それで恋煩いにかかってしまった。初恋の、いわゆる片恋慕である。なんでもあれ以来、何をするにもその人の事が気になって仕方ないのだという。そのとき私は恋というものをアニメでしか知らなかった。むろん多少の興味はあった。それで彼の話を聴いているうちに、私もひとつ試してみようと思いだした。

 ちょうど季節は晩秋で、その日は誰かを恋に落とすためにペンでト書きしたような雨が朝から静かに降りつづいていた。一時間目は国語であった。しばらくウトウトするうちに、先生が黒板の板書を放棄して Stray sheepをやりだした。しきりにStray sheepと言う。黒板にびっしりとイタリックを綴る。しまいには「おい君、どういう意味か答えなさい」と生徒を指名して問答になった。よく見ると他ならぬ谷岡である。「はあ、ギリシア語です」と谷岡が返すと先生、ニヤニヤしながら「バカいえ、これは英語だよ」と至極当然の応酬をした。妙に不可解なやり取りであった。谷岡はつまらない冗談を言うような奴じゃなかったから、より一層不可解であった。とはいえこの一件によって、クラスに満ちていたけだるげな空気が少し揺らいだように思われた。私はこれを好機と見た。意を決してなるべく自然に、机上のMONOを肘でこづいた。

 消しゴムは乾いた音を立てて、隣の女子の椅子の下に入り込んだ。悪くない配置であった。これなら気付かれるのも時間の問題と思われた。私は来たるべき恋を想像しては平時の授業もうわの空で、甘美なアニメ的シチュエーションをいくつも思い描いては鼻歌交じりに頬杖をついたり窓の外を眺めたりしていた。

 ところが彼女は気付かなかった。一時間目が終わり二時間目が始まっても一向に足元に構わない。そうこうするうちに昼休みになった。その頃になると私も自分の策略に微かな懐疑を持ち始めていた。そういえば彼女はよく教室でこけていた。障害のない廊下でもまっさらな床に蹴つまずいて転ぶ様を私は何度か見かけていた。彼女は足元に疎いのだとそのときようやく気が付いた。かといって今更故意に落としたものを回収する気にもなれなかった。私は意固地な男であった。こうなれば誰かに拾われるまで、知らぬ存ぜぬを押し徹すしかなかった。

 やがて授業が終了し放課後がやって来た。それでもなお消しゴムが日の目を見ることはなかった。私は「もうどうにでもなれ」と半ばやけくそに半ば失意に打ち沈み、しずしずと教室を後にした。

 翌朝私が教室に入ると例の消しゴムは消えていた。辺りを探してみたもののまるで見当たらない。どうやら誰かに拾われたものとみえる。結局私は消しゴムの一件を諦めることにした。もうどうせ戻っては来まい。消しゴムは世の中に腐るほどあるのだ。あれに固執する義理はない。そんな言い訳を延々繰り返した挙句、売店で同じ型のものを買って学ランのポケットに忍ばせた。

 黒板脇の落とし物入れの隅にほこりを被ったMONOを見つけたのは、それから随分経った後の事である。

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