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相沢

君は間違ってない

 扉を開けた瞬間、遮るもののない光が目、いや肌全体に突き刺さる。僕は思わず目をつむる。自分が立っている場所から屋上のフェンスまでは十mといったところか。「生きて地面を踏むのもあと十数回だ」と思いながら足を進める。

 形だけの小さなフェンスを乗り越え、端の出っぱりの上にそっと足を置く。

 50m以上下の地面を見ても、不思議と恐怖は感じない。今、僕の心は「これから死ぬ」という言葉に支配されている。思い返すこともない人生の代わりに思い浮かぶのは、ドラマや漫画に出てくる自殺のシーンだ。ふつうこんな場面なら、大切な人を思い出して涙が出たりするんだろうな、でも自分にはそんな人はいない。というよりも思い出せない。

 どこまでも冷静な自分に対して、清々しさと悲哀が半々くらいの溜息が出る。そういえば、昨日の夜は何を食べたっけ、今朝の朝ごはん――


 びゅんっ


 すさまじい音をたてて風が僕の横を通り過ぎる、のと同時に、風に押されて、支えるもののない僕の体は前に向かって空中へと飛び出していく。

 え? これで死ぬの? 嘘……あと少……まだ、死にたくない……


「待って‼」

 ギリギリその叫び声が聞こえ、落下が止まる。

「大丈夫?」

「は、はい……」

 思い切り足をつかまれた衝撃で、腰が妙に痛む。

「上げるね、ちょっと待って……ふんッ!」

 逆さまの身体が引き上げられる。完全に脱力しきった僕は広い屋上の上にへたり込んでしまう。

 改めて声の主を見ると、彼女は聞こえた声の感じよりずっと若い、とはいっても二十歳前半くらいだろうか。数滴の汗が彼女の首筋を流れている。

 いつもより強い風が、彼女の髪をなびかせている。僕が来ている制服のシャツ(死ぬときに来ている服なんて何でもよかった。ふと目に着いたのが制服だったから、それを着ていただけだ)も、バタバタとうるさく音を立てている。

「とりあえず、休めるところにでも行こうか」

 何も考えられぬまま僕はその言葉に頷き、彼女について屋上を後にした。


「なんで、助けたんですか……」と、下に降りていくエレベーターの中で、憎らしい声で僕は呟く。

「反射かな? 勝手に身体が動いてた」

 そう言う彼女の声が、エレベーターのごおおっという音と共鳴する。「本当は、一瞬、死にたくないって思ったんです。あのとき」と言おうとするが、屋上に上がったときに捨てたはずのプライドが邪魔をする。

「理由になってないです……」

 鏡に映る、ふてくされたような僕の顔を見て、彼女がクスリと笑う。僕がだんまりを決め込んでいるうちに、エレベーターは一階についてしまった。


 休める場所って、ここのことか。マンションの一階ロビーには、平日なので僕たち以外誰もいない。ベンチに腰掛け、彼女の買ってきた缶コーヒー(僕のはミルクコーヒーにしてある。彼女なりの気遣いだろうか)を一緒に飲みながら、彼女は自分自身のことを色々と教えてくれた。

 彼女―折平京香さんは、僕と同じこのマンションに住んでいて、大学を卒業後、一年ほどフリーのライターをしてから、出版社の広河文庫に就職して一年目だという。本人曰く、「このままライターをしていても良かったが、大学時代の先輩に誘われて入った」ということらしい。年齢は十五歳の僕より九つ上だ。身長は170㎝の僕よりも少し低いくらいで、端正な顔にボブの黒髪がよく似合う。屋上には気分転換のためによく行くのだそうだ。

「瀬尾くんのことも教えてよ」

 ……? 何故僕の名前を知っている? まだ僕は何も言ってないはずだが……

「シャツの袖。Seoってかいてあるじゃない」僕の気持ちを見透かしたように、彼女が答える。

「瀬尾順治です。中三……です」

「そうじゃなくて、自殺の理由。なんで死のうとしてたのさ?」

「……もう一人で生きるのに疲れたからです」

「一人って……親は」

「親は一年前に離婚して、父はいません。母さんは貨物船の船長なので、ここ三ヶ月は週一回の電話だけです」

 周りの大人やクラスメイトに「お母さんが貨物船の船長ってかっこいいじゃん!」と言われるたびに心が抉られる。「親と会えなくて可哀想」という感情を「かっこいい」の五文字だけで隠せると思っているのがバレバレだ。

「学校の楽しさも分からないし、進路も何も……どうしたらいいか、分からなくて……」

「うん、うん、辛かったね」と頷きながら、京香さんが僕の背中をさする。

「夕ご飯くらいは、家に食べに来たら? あとは、何言おうとしてたんだっけ……そうだ! 夢がないなら、私からちょっと提案があるんだ。来てくれたら話すね」

 僕は涙で歪んだ顔で京香さんを見る。

「人数分のご飯は用意しておくから。でも来るなら三時より後にしてね? 家の片付け、しておきたいからさ」

 話の進みの速さに何も言えない。彼女は「1224号室ね」とだけ言い残し、コーヒーを一気に飲み干して、エレベーターに乗って行ってしまった。

 僕は只々、閉まったエレベーターの扉を見続けている。そういえば、こんなに泣いたのは何か月ぶりだろう……いや、家族以外の人の前でなら、数年ぶりになるかもしれない。

 何にしろ、今日はもう疲れた。半分以上残ったミルクコーヒーの重さを手に感じながら、僕の瞼は下に降りていった。


 腹部に冷たさを感じて目を覚ます。シャツには茶色い染みができている。何が起きたのかを悟って、ため息をつきながらスマホを見ると、既に3時を過ぎていた。


 一度自分の部屋に戻ってジーパンとTシャツに着替えてから京香さんの部屋に向かう。どうせ一人で食べる夕ご飯はいつもの冷凍ハンバーグだ。それよりも誰かと食べるご飯の方がずっといいだろう、と謎にポジティブな気持ちになる。

 ドアのインターホンを押すと、すぐに顔を出した京香さんは随分と息切れていた。たぶん、さっきまでずっと片付けをしていたのだろう。

「ようこそわが家へ!」

「お邪魔します」

 家に入ると、テーブルには二人分の食事が用意されていた。

「スパゲッティなんて久しぶりに作ったけど、味は保証するよ? まあ、冷める前に食べようか」

「はい!」

 自分でもわかる。この「はい」は、今日発した言葉の中でいちばん元気の割合が多い。椅子に座ると、僕と京香さんは口を合わせたように同時に「いただきます」と言った。


「……ところで、提案ってなんですか?」

 これを訊くためにここに来たのを忘れていた。しかし、皿洗いをしている京香さんの耳には僕の声は届いていない。

「……あの!」

「ん⁉」

 ご飯を食べる前まではずっとぼそぼそ喋っていた僕から大きな声が出たのに驚いたのだろうか。目を丸くした京香さんがこちらを見る。もう一度「提案って」まで言いかけたところで、彼女が、そうだ! と思い出したように答えた。

「私、広河文庫で働いてるって言ったじゃない? ウチは年に二回新人賞があるんだけどね、順治くんもそれに応募してみないかな? と思って」

「新人賞……ですか?」

「そう! 新人賞に関しては、誰にだってチャンスがあるんだ。もし選ばれたらそういう道も開けるしね。まあ、倍率は凄く高いんだけど、私なら多少はアドバイスできるから……さ」

 いいじゃないか。結果どうこうよりも、今夢中になれることができたならそれでいい。

「やります」

「そうこなくちゃ。……と、今夜は自分の部屋に戻る? それともこっちにいる?」

「今日だけ、こっちがいいです。折平さんが良ければ」

「京香でいいよ」

 彼女が微笑みながら言う。

「わかりました」

 ふと、一枚の写真が目に付く。二人のそっくりな少女が、仲良く座ってピースをしている。

「この写真は?」

「ああ、これね……私の双子の妹の文香っていうの。十歳のときに川で溺れて亡くなったんだけどね」

「そうなんですね……」

 無関係の人間が安易に口出ししていい事じゃない。だから僕は何も言わなかった。

「食事後にこんな話も嫌でしょ、もう夜も遅いんだからこのことは忘れてお風呂にでも入りな。寝るのはソファーの上になるけど、いいよね?」

「もちろんです。あのっ……今日、助けてくれてありがとうございました」

 京香さんは何も言わず、眉をクイッと上げて微笑んだ。


* * *


 その日からは、マンションと学校、マンションの中では僕の部屋と京香さんの部屋を行き来する生活が続いた。一日の歩数が少し増え、会う人が一人増えただけなのに、世界がばっと広がったような、何となく、そんな感じがしていた。

 新人賞に応募するにあたって、京香さんは僕に、まずは何か本を読め、と強めに勧めた。

「とにかく本をたくさん読んで。ジャンルを問わず、いろんな文章に触れてからがスタートラインだからね。なんかねえ、順治くんって本をたくさん読んでいそうな顔じゃないのよね」

「顔⁉」

 なんとなく悟った。この人は思ったことをズバズバ言ってくるタイプだ。多分。

 先生をしてもらうんだったらそれぐらいの方がちょうどいいと言えば、確かにそうなんだが……と思いながら、自分の顔を触る。

「本をたくさん読んだり書いたりしてる人はね、だいたい理知的な顔をしてるのよ」

 ああ、今のは響いたな。遠回しに「理知的な顔じゃない」って言われたんだ、僕。

「……本をたくさん読んだら、理知的な顔になれますか?」

「それじゃあ本を読む目的が変わっちゃうよ。新人賞、目指すんでしょ?」

「そうです。なので、今年の応募はやめて来年の第一回か二回のどっちかにしようと思ってます。今は、ですけど」

「うん、わかった。それなら家の本は自由にとって読んでいいからね」

 京香さんの指さす方向を見る。本棚の中に収められている本は、興味のあるものを見つけるのにも一苦労なくらいの多さだ。

「もしかして、これ全部読んだんですか?」

「うん」

 当然だ、という風に彼女が言う。

「すっげ……」

 思わず声が漏れる。京香さんがびっくりした顔でこっちを見ている。

「どうしました?」

「いや、君っていつもかしこまった喋り方ばかりするからさ。『すっげ』とか言うんだなー、って思って」

「そりゃ、中学生ですから」

 二人分の笑い声が、部屋のなかに響く。

 ふと足元にひんやりとした冷たさを感じる。外の方を見ると、ベランダに続く窓が少し開いて、カーテンがゆっくりと、呼吸をするように揺れていた。


* * *


「おかしいな……」

 毎週土曜日は仕事が休みだと言っていたのに、インターホンを押しても京香さんは出てこない。鞄から合鍵を取り出そうとするが、後ろからの「ちょっと、キミキミ!」という声で手を止める。

「こんにちは。大槻署刑事課の佐藤です。キミ、この部屋の人と知り合い?」

 なんとなく、嫌な予感がした。鍵を取らずに鞄から手を出して、自分の発言が正解であることを願いながら、「違います」と言った。

「あの、何が」

「仕事上は言えないんだ。すまないね。ご協力ありがとう」

 初めから用意されていたような台詞を言い終えると、スーツを着た小柄な男はそそくさと去っていった。

 確か刑事課って、犯罪捜査が担当だったよな……

「まさか……」


 小走りで自分の部屋に戻り、テレビをつけてニュースにチャンネルを変える。

「……ました。大学生の金森宗介さん 二一歳が首のあたりを刃物のようなもので切られ死亡、同じく大学生の花井勇気さん 二一歳が腕や脚に切り傷を負うなどの軽傷です。警察はこれを殺人及び傷害事件として捜査しています。現場と中継が繋がっています。……はいこちら、現場の月島です。現在、現場付近にはブルーシートが……」

「な……」

 言葉が出ない。

 違う、そんなはずがない。まだ、まだわからないんだ。京香さんが事件に関係してる根拠なんてどこにも……まだ会って三週間しかたってないのに、なんで……


 突然、インターホンが鳴る。

 誰だ。何も考えずにドアへ向かう。扉の向こうにいる誰かに淡い希望を持ちながらドアノブをひねり、扉を開ける。目の前にいたのは京香さんだった。

「瀬尾順治くんかな」

「京香さん! 良かった」

「私は京香じゃないよ」

「え……?」

 じゃあこの人は誰だ? 一瞬、まさか、と思い浮かぶことがひとつあるが、そんなわけない、とかき消す。

「京香の妹の、折平文香です」

 彼女の口から出た言葉は、そのまさかだった。

「妹って、ずっと前に亡くなってるはずじゃ……」

「あら、お姉ちゃんから聞いてたのね」

 仕草も声も、全く同じだ。

「どういうことか知りたい?」

「はい」

 僕の部屋に入り、ドアを閉めると彼女は語りだした。

「私は本当は死んでない。死んだことになってただけ。私達の両親はね、貧乏だったの。そしてクズだった。あいつらにとって双子が生まれるっていうのは予想外のことだったみたいね。何せ子供一人育てるのがやっとのお金しかなかったんだから。私達はずっと虐待を受けてた。それでね、十歳の誕生日に言われたの。『明日までにどちらかを殺して近くの山に埋めてこい。帰ってくるのは一人だけでいい』ってね。私達は山に行った。でもね、どちらかを殺すなんてできなかった。当り前よね。普通の人間にはそんなことできるわけないわ。でも、あのときにお姉ちゃんが言った言葉は今でもよーく覚えてる。お姉ちゃんはね、『これからは二人で一人の人間として生きていこう』って私に言ったの。どういうことかわかる?」

「いえ、あんまり……」

「私達は見た目も声も、性格もそっくりだった。だから、そこで折平文香は死んだっていうことにして、二人で折平京香として生きていくことにしたの。そこからの流れはスムーズだったわ。私が死んだふりをしてお姉ちゃんがその写真を撮ってから、先に家に帰った。片方が死んだっていう証拠の写真を見せたらあいつら、すごく喜んでたんだってさ。まったく、反吐が出るわよね。次の日になって、親が仕事に言っている隙にお姉ちゃんがやっと私を迎えに来てくれた。それで、このことがばれないように私たちはルールを決めたの。どちらかが京香として生きているとき、もう片方は家の屋根裏に隠れておくこと。一日ごとに交代して京香としての生活をすること。その日が終わったら全部の情報を共有すること。とかね。二人で一緒にいられるのは私達の部屋の中だけだったから苦しいこともあったけど、私が死んだことになってからはあいつらが信じられないくらいに優しくなったから、生活にはすぐに慣れたわ。私は川で溺れて死んだって、お姉ちゃんから聞いたでしょ? あれも私達で共有してたルールよ」

「じゃあ、仕事も学校も、二人で交互に行ってたってことですか?」

「そう。あの日からずっと、それが私達の日常だった。君と会っていたのはどの日もお姉ちゃんの方だったけどね」

「あの、京香さんは今どこに?」

「それは言えない。お姉ちゃん、人を殺しちゃったの。私がここに来たのもそれを伝えるためよ」

 それを聞いて僕は絶句する。

「嘘だ……」

「仕事から帰る途中で男の人二人に襲われてね、路地裏に連れていかれたんだって。君も中学生ならお姉ちゃんが何されそうになったか、わかるでしょ? でも、地面にガラスの破片が落ちていて、それで二人を切り付けて……」

「一人が亡くなって、もう一人が怪我、ですよね。ニュースでやってましたよ」

 僕はさらに続ける。「それで、これからどうするんですか?」

「逃げるしかないの。もしもお姉ちゃんが捕まったら、私の戸籍が消えてしまう。私っていう存在が消えてしまうから……だから、そうするしかないの……」

 彼女の声が、どんどんか細くなっていく。

「お姉ちゃんが来たら、君は絶対止めると思ったから。だから私が来たの。それじゃあ、さよなら」

「……ダメです」

 去ろうとする文香さんの腕を掴む。

「なんで? それならどうしろっていうのよ。新しい戸籍をつくることがどれくらい大変か知らないの? そもそも、お姉ちゃんを襲ったあの二人が悪いんじゃない!」と、僕の手を振り払って彼女が声を荒らげる。

「それでも‼ 人を殺してしまったら絶対に罪を償わないといけないんだ! 逃げながら生活するのも無理に決まってる!」

「そんなことわかってるわよ! だけど今までの生活を続けるにはこうするしか……!」

「今までの生活って……そんなもの、やめてしまえばいいじゃないか‼」

 彼女がハッとした顔でこっちを見る。

「これからもずっと、そうやって自分じゃない人間として生きていくつもりですか? もう、やめましょうよ。京香さんも、あなたも、今ならまだ、新しい人生を始められる筈です。自分勝手だけど、でも……もう京香さんに会えないなんて、嫌なんです……」


「もう、いいよ」


 そう言ったのは文香さんではなかった。文香さんがズボンのポケットからスマホを取りだす。

「順治くんと話させて」

 それを聞いて、文香さんが涙を流しながら僕にスマホを手渡す。

「……京香さん?」

「そうだよ。もうどこにいるか隠す必要はないね。今、駅ビルのホテルの部屋から固定電話で話してる。実はね、文香に、ずっと電話を繋いでもらっていたの。最後に、小説の手伝いができなくてごめんねってことと、さよならって君にもし言えれば、言っておきたくて。でも気が変わった。私も文香も、さよならを言うべきはこれまでの人生だったみたいだね」

 そう言った後に、電話の向こうで、彼女がフフッと軽く笑ったような気がした。

「私、自首するね。文香にも、新しい戸籍を作って、自分の生きたい人生を生きるようにって、伝えてあげて」

「スピーカーにしてるから、きっと聞こえてますよ」

「そっか、良かった。ねえ順治くん、私は刑務所に行かないといけないから、少しだけ文香の心のケアをお願いしてもいいかな? それ以外のことはきっと、あの子ならできるはずだからさ」

「わかりました」

「それじゃあよろしく。もう、自殺なんてしないでね。大丈夫だよ。君は間違ってない」

「……はい!」

 しっかりと話すためにこらえていた涙が、一気に溢れてくる。

 隣では、文香さんが顔も隠さずに、大粒の涙をこぼしながら泣いている。僕はもう繋がっていない電話に向かって、泣きながら「ありがとう」と繰り返した。


* * *


 京香さんの自首、そして逮捕から二か月が経った。正当防衛ではなく過剰防衛が認められ、前科がないことから三年六か月の懲役になったと、文香さんから聞いた。執行猶予がついて現在は就活中だが、猶予期間が終わるまでは僕に会わないでおく、というのは京香さん自身の意志だそうだ。

 一方の文香さんは家庭裁判所で新しい戸籍をつくり、新しい「折平文香」として生き始めた。生活が安定するのにはもう少し時間がかかりそうだというので、今は週に一回のペースで電話をしている。かつては京香さんとして広河文庫に勤めていたので、今は彼女に小説を書くサポートをしてもらっている。


* * *


「順治、ごめんね。いま台湾からこっちの港に着いたんだけど、検疫が済むまでもう少し時間がかかるから、あと二週間は船の上で足止めになるかもしれない」

「大丈夫だよ。こっちのことは心配しないでいいからさ。体に気を付けて、船長、頑張ってね。母さん」

「ありがとうね。あんたこそ頑張りなよ」

「うん、それじゃあまたね」

 電話を切って扉を開ける。光が目に差し込んでくる。

原因不明の感染症の流行のせいで、母さんの乗る貨物船は今も、大きな港で入国のための検査を待っている。

「あと二週間か……長いな」

 誰もいない屋上で、フェンスに手をついて呟く。そして僕は外の景色を見渡す。ただ、あの日のことを思い出したくて。あの日、ここで、僕は死のうとした。どうしてあの一瞬、死にたくないと思ったのかが分からなかったが、あの日ぶりにここへ来たことでなんとなく、分かった気がする。たぶん、どんな人でも、良くないことが原因の時にはサッパリとは死ねないんだ。そして今みたいに心がある程度充実しているときには、そもそも死にたいなんて思うことはない。結局、サッパリ死のうとするなら、とにかく生き続けるしかない、きっと、そうなんだ。あのとき、京香さんが助けてくれて良かった。

「『君は間違ってない』か……」


 びゅんっっ‼


 突風が吹きつける。あのときよりも強い風。

「うわあっ!」

 僕の身体は後ろに体一つ分とばされる。

 あのときと、反対だ……

 僕は尻もちをつき、そのまま仰向けになって上を見る。

ゆっくりと瞬きをしたあと「もう、死にませんよ」と、上を向いたまま僕はつぶやく。

 僕の視界からは雲が流れるように消えていき、ただ真っ青な空だけが残った。



 完


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