第7話:すまないがコーヒーは飲めないんだ
名もなき旅人は急いで軍服に着替える。
今まで着ていた服を脱ぎ、ダブダブの軍服に袖を通す。ようやく着替え終わる頃にはもう日が暮れて夜になっていた。
「キミ、どこかで見たような気がするけど気のせいかな? 」
エミールは道化師のようないつもの笑みを浮かべる。こちらとしては面識など全くないのだがどこかで見かけたような気も薄々感じていた。
「気のせいだ」
名もなき旅人は平静を装いながら軍服と同色の帽子をかぶる。
「そうかな。でもキミは何か隠してそうな気がするんだ」
「すまないが俺を
名も無き旅人は強気に出た。今までは
「あのさ……キミは本当に旅人なのかい? 」
「旅人では無いなら俺はなんなんだ」
エミールは腕を組んで考え込む仕草をする。
「分からないよ。でもキミの名前くらいは知っておきたいんだ」
「名前か?俺は名もなき旅人と言ったはずだ」
やはり名前に疑問を持たれるかと思い、ため息をつく。人をだましているようで良心が痛むが自分を守るには致し方ないことだ。贅沢を言うようで悪いが自分の名前を出さずに済むようにしたかった。
「その時点でボクに隠してる。ねぇ、キミの名前を教えてくれないかな? 」
「だから俺の名前はないって言ってるだろ!」
険悪なムードが部屋を包む。自身の事は隠しつつ相手を
「そうなんだね。あっ、キミ。ちょっとコーヒーとクッキーを持ってきてくれないかい? 」
エミールは名もなき旅人と口論して喉が渇いたのか見張っていた男性に飲み物を頼んだ。そういえば今日は飲まず食わずだった。昨日も
「キミもお腹が空いているだろう」
「余計なお世話だ」
「全く……さっきからずっと腹の虫が鳴いてるようだけど」
まさかお腹が空いていることを相手が知っているとは思わなかった。思わぬ弱みを握られ名もなき旅人は黙り込む。
「手が焼ける子ほど可愛いとは言うけどアンリちゃんと同じく手がかかっちゃうと困るからね」
「アンリは手が焼ける子なのか? 」
名もなき旅人は少しでも話を逸らそうとする。これ以上問い詰められてしまっては手詰まりになってしまう可能性すらあった。
「そうだねぇ。アンリちゃんは他人が興味を示さない外の世界ばかりに執着してるよ」
ふと名もなき旅人の頭の中でアンリとの会話の一部始終が蘇ってくる。確かに彼女は外の世界に関心があったことは間違いではないだろう。そうでなければ名も無き旅人に対してあまり興味を示すこともなかったはずだ。他にも彼女が名も無き旅人に他の国の話を聞きたいと言っていたことがある。名も無き旅人は現実逃避したいだけだと即断していた。
しかしそれも違かったのだ。あんな悲痛な声を上げるならば答えはひとつしかない。
亡命だ。
味方もいない状況はかなり心細かっただろう。だからこそ彼女にとって名もなき旅人はわらにでもすがるような存在だったに違いない。
「エミール様。紅茶を持ってきました」
しばらくすると男性が紅茶の入ったコーヒーカップとクッキーを持ってくる。しかしエミールは男性に氷のような笑みを浮かべた。
「キミ、コーヒーと言ったはずだよ? 」
「でもエミール様は紅茶が好みでは……」
「はぁ、この雰囲気で紅茶が飲めないのは分かるよね? 」
エミールは立ち上がると道化師のような笑みのままコーヒーカップを投げ捨てる。
コーヒーカップの砕け散る音が聞こえると同時に破片が名もなき旅人の足元まで届く。エミールの態度に紅茶を持ってきた男性の顔が一気に蒼白した。
「は……はい……」
「すぐにコーヒーを持ってきて。喉が渇いてるからね」
「お、仰せのままに」
男性はビクビクしながらもコーヒーカップの破片を片付けると部屋を出ていった。
コーヒーと言えば昔に1度だけ名も無き旅人はどこかの国で飲んだことがある。だがあまりの苦さに吐き出しそうになってから飲んでいない。コーヒーカップが1つしかなかったことから名もなき旅人の分までは来ないだろうと楽観視していた。しかし男性が帰ってくるや否やその思いは木っ端微塵に打ち砕かれた。
「すみません。コーヒーを持ってきました」
先程の男性が荒い息のまま人数分のコーヒーとクッキーを持ってきたのだ。
名もなき旅人の前のテーブルにコーヒーが置かれる。コーヒーの匂いが鼻を突き、お腹が鳴った。
「ありがとう。さてと……キミもお腹が空いている事だし食べないかい? 」
エミールはそういうとコーヒーに手をつけた。どうやら見る限りなんの変哲もないブラックコーヒーだがまずはクッキーに手をつける。
クッキーは美味しかった。しかしどこか口の中の水分を奪っていきそうなほどパサパサしている。1枚ずつ手を伸ばしていくうちに気がつけば4分の1ほど減っていた。名もなき旅人は一旦伸ばしかけた手を引っ込める。かなり食べてから言えたことではないが何かしら毒を混入させている可能性だってあったのだ。
名もなき旅人はエミールの邪悪な気を感じ取ったせいで彼に対して疑心暗鬼になっていた。嫌な気を感じたら何もかも疑いにかかるのは自身の悪い癖だとしても気になって仕方がなかったのだ。
「キミ、コーヒー飲まないのかい? 」
「あぁ。すまないがコーヒーは飲めないんだ」
名もなき旅人はそう言うとコーヒーを見つめる。コーヒーカップに並々と注がれたコーヒーは相手の心の内のように黒くよどんでいる。
「そうなんだね。かなりクッキーを食べてたけど喉が渇かないのかい? 」
「大丈夫だ」
名もなき旅人は強気に言ったが実際はかなり喉が渇いていた。そのせいか自分の声が段々と掠れていくことに気づく。
「そうなんだ。でもかなり苦しそうだけど……」
エミールは張り付いたような笑みを浮かべながらクッキーをかじっていた。
「コーヒーが気に食わないのは許してくれ。今日はコーヒーが飲みたい気分だったんだ」
「そうなのか」
このやり取りから喉の渇きが限界に達しブラックコーヒーにようやく手をつける。
名もなき旅人がコーヒーに手をつけなかった理由はただ純粋に飲めないだけではない。
コーヒーは場合によっては自白剤として用いられることがある。記憶を失っているならばこのような警戒は必要ない。しかし名もなき旅人は記憶を封じているのだ。自白剤など使われたら即座に封じた記憶が解かれてしまう可能性がある。
だが不眠状態にならなければ自白剤としての意味は無い。そうだと踏んで手をつけると直ぐに飲み干した。あまりの疑り深さに元々自白剤としてコーヒーを持ってきてないことなどは頭から吹っ飛んでいた。
「にげぇ……」
名もなき旅人は顔をしかめる。あまりの苦さに震えそうになるが何とかこらえた。勝負にも試合にも負けたような嫌な感覚が襲う。
「キミ、コーヒーは美味しいかい? 」
エミールの質問に名もなき旅人は半ば気分を害しそうになるが必死に堪えるとこくりと頷く。
「そうかい。明日は早いから早く寝るんだよ。じゃあ、おやすみ」
隣にいた男の人がコーヒーカップとクッキーが入っていた籠を片付けるとエミールと共に部屋を出ていった。
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