文化財保護法施行記念日 後編


 虫の音を割るように流れる黒い小川に、淡い橙の光がまた一つ、ゆらりと近づいてくると。

 下草が水面に首を浸しては、幾度と跳ねる姿が照らされて浮かび上がる。


 秋乃がつぶやいた言葉。

 灯籠の光が、まるで魂に見える。


 そんな一言のせいで、この幻想的な光景に別の意味を感じた俺は。

 指先一つ動かせないままに。



 『おばあちゃん。大学に合格できたよ』



 もういくつ目になるだろう。

 誰かへ宛てた、遅すぎた手紙が視界を横切るのを、ただ茫然と見つめ続けていた。



 ――飛び越えるには勇気がいる。

 そんな幅の小川は、早めの夕食をとったお好み焼き屋台のお姉さんから聞いた農業用水路のひとつ。


 地元の人は。

 特に恋人同士なら。


 灯籠の回収場所に近い。

 静かな下流で楽しむとのことで。


 良い情報を教わった御礼にと。

 お好み焼きをお代わりしたら。


 お礼のお礼として。

 穴場中の穴場なる場所を教えてくれたのだ。


 本流から、いくつかの灯籠が流れ込む小川。


 ここの方が。

 一つ一つの想いを。


 ゆっくりと感じることができるらしい。

 


 『タクミの怪我、先生のおかげで良くなりました』

 


 風にのって時折耳に届く華やかな喧騒。

 地元の人がホストとしてお客を楽しませる。

 屋台やベンチが並ぶ、大きな川に面したメイン会場。


 気配は感じるのに、木々と夏虫の音に阻まれて直接見えることは無く。

 まるで、居るべき世界から切り離された、遠いどこかへと続く道の途中へ。

 迷い込んでしまった気分にさせられる。



 『今日のデート楽しい! 夜の、一番幸せな光景っていうのも一緒に見ようね!』



 そう。

 この地で一番幸せな光景。


 どなたに聞いても、必ず締めのセリフとして付け加えられるグランドフィナーレ。


 必ず最後まで見て行って。

 そう言われては、願いに応えぬわけにもいくまい。


 でも、こんな支流で。

 一番幸せな光景とやらを堪能することなどできるのだろうか。



 ……灯籠の流れぬ暗闇が続く。

 天を仰げば、木々の隙間を埋め尽くすように色とりどりの星が瞬く。


 一つ一つが誰かの夢。

 昔、お袋からそう言われた思い出がある。


 だとしたら。


 世界一のファッションデザイナーになりたい。

 そんなお兄さんの夢は。

 どの星なのだろう。



 そして地上を見れば。

 すぐ隣にも、煌めく星が一つ。


 浅い吐息を感じることができるほどの距離なのに。


 彼女は、星だから。

 手を伸ばして掴むことなど叶わない。


 秋乃の夢。

 彼女の星もまた。


 今は、まるで絨毯に敷き詰められた宝石とも思えるほどの。

 星々の中に紛れているのだろうか。


 それとも。

 既に、自分の星を。


 見つけ出しているのだろうか。



 喧騒を運ぶ風が水面を走る。

 彼女の黒髪を戯れに梳いて、海を目指して離れていく。


 もともと無口な女だ。

 こうして数十分もの間。

 お互いに黙っていることも少なくない。


 でも、今は。

 沈黙の時間が居心地を悪くする。


 下草が足下に揺れて、歯牙にもかからない程度触れるだけで逃げ出したくなる。


 秋乃がここにいたい気持ち。

 優しい気持ちは汲んでやりたいけど。


 まだ、お前に比べて子供な俺は。

 知識ばかりで、精神が伴っていない俺は。


 耳に残ったお兄さんの言葉を未だに消化できず。


 現実から目を背けて。

 お前と二人。


 幸せな光景とやらを、賑やかな場所で見たいと。

 ずっと、それだけを願い続けている。



 『あなたがいてくれたから、今日も私はお好み焼きを作り続けることができます』



 二人の夢。

 幼い俺には、画用紙にクレヨンで描いた絵のように感じられる、現実味の無い将来の夢。


 今の居場所を離れることはできない。

 そんな彼女の夢を叶えてあげたいから。

 付いて来てほしくない。


 そして戻ってくる保証がない、遥かイタリアへの遣外けんがいもまた。

 彼の夢であり。

 彼女はそれを邪魔したくない。



 お互いを思えばこそ。

 約束も交わすことなく、別の道へと別れていく二人に。


 俺たちは、成すすべなく。

 言葉もかけることなく。


 去っていく彼の背中を。

 見つめている事しかできなかった。



 『なおくんがずるいとおもっただけどけえきはんぶんくれた』



 木の葉が、幼馴染と袖をすり合わせ。

 夏虫の声が、途切れ途切れに耳朶を打つ。


 夢よりも恋を取る彼らもまた。

 終わろうとする季節を感じて、必死に愛を歌うのだ。


 そんな気持ちと。

 真剣に向き合う気持ちに。


 貴賎などない。


 夢と恋。

 どちらも尊い。

 どちらも清い。



 不意に川面に手を浸した秋乃が踏み分けの音を立てると。

 すぐそばで奏でられていた恋の歌が一瞬止まり。

 耳が忘れていた川の旋律がよみがえる。


 誰かがそばにいると知っただけで。

 歌うのをやめた臆病者は。


 まるで、まだまだ恋に不慣れな。

 俺達、高校生や中学生。


 でも、不慣れだからこそ自分の全て。

 必死に全力で恋に向き合って。

 夜も眠れないほど悩んで頭を抱えて。


 一歩を踏み出して失敗した時は。

 二度と立ち上がれないほどに涙を流す。



 だから、川よ。

 秋乃がしゃがんだくらいで動じることのない大人たちよ。


 いくつも恋をして。

 心の池の向こう側に、忘れてしまった思い出のボールがいくつも浮かんでいるお前達の目で。


 俺たちの恋を量らないでくれ。


 気楽に笑ったり、茶化したり。

 話しのタネにしたりする、俺たちが握ったボール。


 それは、池に投げ込む最初の一つで。

 俺たちの人生全てをかけた一投なんだ。



 笑うなかれ。

 子供たちの恋。


 笑うなかれ。

 俺たちの歌。



 ……ぽつりぽつりと。

 忘れかけていた頃合いに流れて来ていた灯籠が。

 次第にその数を増していく。


 いくつもの想い。

 いくつもの願い。


 誰かの言葉を一つずつ。

 胸に想い描きながら見つめていると。


 一体、何のイタズラだろう。

 幼かった昨日の俺には。

 幸せしか感じる事の無かった言葉が。


 ゆっくりと回りながら。

 俺たちの下へ近づいてきた。




 『一年前、勇気を出して告白した僕と、その想いを受け止めてくれた君へ』




 たった一つのセンテンスは。

 長く、そして大切な時間をその身に宿し。


 俺たちの前を通り過ぎると。

 いくつかの想いに紛れ。



 やがて。

 遠くへ消えて行った。



 ……彼の言葉が離れていくと。

 さらに灯籠の数が増す。


 この地で。

 一番幸せな光景。


 その始まりを告げるかのように。

 川上が、ぼうっと白く、淡く灯される。



 視線を遠くまで投げると。

 まるで天へと帰る天の川。


 星の道がどこまでも続き。

 俺たちの元へ、次第に伸びて来る。



 その先頭を流れる灯籠が。

 くるり、俺たちへ顔を向ける。


 そこに書かれた言葉。

 この地で最も幸せな言葉に感動した俺は。


 同時に。


 痛いほど胸を締め付けられることになったのだ。

 



 『ありがとう』




 この地でもっとも幸せな光景。

 それは地元の方が言う通り。



 『ありがとう』

 『ありがとう』



 人が人であることの意味を。

 俺たちに、それだけを伝えてくれる。



 『ありがとう』

 『ありがとう』

 『ありがとう』

 『ありがとう』


 

 感動と嬉しさ。

 悲しさと絶望。


 白と黒とが胸でない交ぜになると。

 自然と唇が震えて。



 ほんの一粒。

 流れる涙。



 『ありがとう』



 涙の意味は。

 その言葉が。

 俺の目に。



 『さようなら』



 そう映ってしまったから。




 ……昼間、秋乃が話していた。


 灯籠に書かれた言葉は。

 誰かが誰かへ宛てた心の写し鏡だと。


 はっきりと伝えたいから。

 直接では恥ずかしいから。


 想いを込めて。



 『ありがとう』



 灯籠へ託す。



 本来の意味は。

 死者へ届けたい言葉。


 もう届かない、遅すぎた手紙。



 『ありがとう』



 時代と共に。

 その意味が変わり。


 今は、まだ。

 間に合う言葉を届ける者もいる。




 でも。




 俺たちから離れた草むらに。

 ずっとひとりでうずくまっていた彼女には。



 もう。



 間に合わない。




『ありがとう』




 きっとこれが。

 彼からの、最後の手紙となったんだ。





「ああああああああああああああああ! 

 ああああああああああああああああ!」





 ずっと聞こえていた。

 聞こえないふりをしていた嗚咽は。


 とうとう悲しさが堰を切って。

 激しい慟哭に押し流される。



 瞬きすらできない。

 とめどなくあふれる涙を拭うこともできない。


 身じろぎひとつできなくなった俺の隣。

 秋乃はゆっくりと腰を上げる。


 そして、ひとつ鼻をすすった後。


 俺の手を。

 痛いくらいに握りしめた。




 灯籠は、ゆらり一回り。

 映し出される言葉が見せる絵物語。


 それは誰かの一年か。

 それは誰かの一生か。


 くるり。

 またくるり。


 止める術も持たぬ俺たちの前で。

 いくつもの歴史が巻き戻り。


 過去の誰かを。

 そのすべての人の。

 姿かたちを映し出す。


 くるり。

 くるり。

 回り。

 また回り。


 もう戻れなくなるほどの過去。

 自分が連れてこられたそのページに。


 他愛のない。

 誰かの一生が映し出される。


 彼女もまた。

 自分の一生をかけて恋をして。


 そして。

 子を成した。



 両親の両親。

 その両親の両親。

 さらにその先。

 ずっと先の誰か。


 何万。

 何億。


 ほんのひとり。

 もしも、今垣間見えたその人の想いがなかったとしたら。

 もしも、その人が恋をしなければ。



 自分は今。

 ここに存在しない。



 そしてくるり。

 時は逆に回りだす。


 誰かの一生を。

 その想いを背負い、また背負い。


 何億。

 何兆。


 今の自分に帰った時。

 想いの重さに耐えかねて。

 膝を屈しそうになる。



 だが。

 負けてはならない。


 崩れそうになる俺を支えてくれたのもまた。

 全ての先人の想い。


 回る。

 回る。


 一つ一つが。

 命の全てを燃やしながら。


 一つ一つが。

 俺に大切なものを遺しながら。




 ……未だに続く慟哭が。

 立ち続ける俺に、決意をさせる。


 最後の二日間を全力で楽しんで。 

 一生忘れ得ぬ思い出を、彼が隣にいない思い出の写真を撮り続けた彼女は。


 何京。

 何垓。


 全ての想いに背中を押されて。

 彼を全力で愛して。



 そして。

 別れを決心したのだ。



 誰が止めることなどできようその決意。

 誰が止めることなどできようその涙。


 俺は、ものも言わず立ち続ける秋乃の手を握り返す。



 決して放れませんように。

 決して離れませんように。



 せめて、今は泣いて下さい。

 灯籠が。

 最後の想いが流れきるまで。


 俺たちがそばにいますから。

 ここで見つめていますから。




 回れ。


 回れ。


 灯籠たちよ。



 彼との一年を。



 ……過去へ送り届けるまで。




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