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 山の近くでひまつぶしをしている内に、いつの間にか辺りはが暮れ染めていた。下山客の姿を多く見かける中で、私たちはすれちがいながら例のポイントまで登る。いくら虫捕りに精通しているとしても、私たちは年端としはもいかぬ子供だ。真夜中をてるはずもなく、夜が差し掛かったこの数分にすべてをけることにした。


 行きの道で水筒はほぼからになった。かわきだした鼻腔びくうに、夜の湿しめった空気が流れこむ。前を行く有戸ありとも、ただ来たるべき日にそなえて黙々と歩みを進めていた。

 やがて、ピンクスカーフのかれた木が見えてくる。あの木を中継地として、山道をれれば現場だ。


「いいか桐鍬きりすき擬態ぎたいを見破るコツなんてものはない。ただじっと、違和感を全部に持って、何度も何度も観察する。それが基本だ」

 有戸の忠告をしかと胸に修めて、私たちは鬱蒼うっそうと生い茂るやぶへと体をしずませた。


 *


 森の奥は、山道以上に暗かった。緋色ひいろの木漏れ日は散り散りのまだらに照らすだけで、明かりというには心もとない。私は有戸ありとから渡された懐中電灯を点け、昼にしるしをつけた木々を目指す。


 もちろん、道中にえるうっとうしい木の枝にも細心の注意を払う。もしかすると、この辺りで見つかるやもしれない。

「有戸くんが見たカブトムシって、特徴とかあるの?」

 体力の消耗をおそれてか、彼の返答は手短だった。


「全長はたまご一つ分くらい。色は緑色に俺が見たのだと所々白みがかってた。そっち方面にはくわしくないけど、多分あれは葉っぱの病気みたいなものを再現してる。かたちは一見丸まった葉っぱみたいに見える。一番分かりやすいのは角。葉柄ようへい真似まねてて、他のカブトムシに比べて細い」


「やけに詳しいね」

「ちゃんと見た目をメモしたからな」

「そこまでちゃんと見れたなら捕まえればよかったのに」

「近づいた途端、げられたんだ」


 とうとう、昼時ナイフできずつけた地点までもどってきた。ひし形に縦線を引いたマークを数か所に認めると、私たちの心も強張こわばってくる。

 すでに陽は落ちたのだろうか、手持ちの電灯と布シートを照らすカンテラの光がなければ、辺りをしっかり視認できない。息を殺すと際立きわだつ、水っぽい空気の香りと、コオロギのようなかぼそく高い鳴き声。


 まず、発酵バナナをくくりつけた幹の一本へと、ゆっくり移動する。移動中のえだも教わった通りに観察しながら、有戸の特徴に合う葉っぱはないか。酷似した葉を何十枚と見ながら、幹を懐中電灯で照らした。


 バナナの周りには、私たちのよく知っている色のカブトムシやクワガタムシが数匹、興味深そうにえさいでいた。カブトムシにとってあのバナナは、好ましい香りなのだ。

 念を入れて幹の裏や根っこに近い部分まで探したが、有戸ありとのいう擬態カブトムシらしきものは見当たらない。


「しょうがない。あと5つもあるし、あきらめんのはまだ早い」

 彼は気丈きじょうに振舞ってはいたが、一回だけ小さく舌打ちをした。


 それから淡々と、仕掛けたわなの様子を見てゆく。餌にはほぼ確実にカブトムシやクワガタムシが、それも数匹といった精度のよさでむらがっている。途中、しるしをつけたはずの一本がどうしても見つからないトラブルもあったものの、仕掛けた罠の周りには確実にカブトムシたちがすだっていた。


 昆虫博士の名に恥じぬ実証結果だが、彼はそれでも満足する様子はなかった。自然と余裕もなくなり、口数もってくる。


 そして最後の幹を調べ終えた時に、有戸ありとは頭を押さえながら何度も深いため息を吐いた。ためいきの重さは近くに生えた雑草を軽く揺らす。


「今日の分は、布を探して最後だ。まぁ採集は根気だ、そう簡単に見つかりっこないって、分かってたさ。桐鍬きりすきもそう落ち込むなって」

 私にてられたはげましなのだろう。だが現状はどう考えたって、自分自身に言い聞かせているとしか思えなかった。


 最終ポイント。苦労して張った布シートの罠。そこへ向かう最中、彼が疲れ切った声色で話しかけてきた。

「もし、もし今日見つからなかったとして桐鍬は、今後も一緒にさがしてくれるか?」


 どう返答しようかまよった。きっと有戸はこの暗闇の中、思うようにいかない焦燥から、あらわにしてしまったヒトとしての弱さを不安感につぶされてしまっている。


「いいよ。その代わり、発酵バナナのレシピ、教えてよ」

 だから私は、彼を支えてやることにした。昆虫博士だって、誰かにたよりたい日もきっとあるのだろう。


「本当? お前も作ってきてくれるの?」

 肯定すると、彼の潰されそうな表情がほころんだ。どうやら博士は、自身を取り戻したらしい。


 暗闇の中、煌々こうこうと照らされる布シート。遠目でも分かるが、すでに餌を仕掛けた中央に、黒いかたまりがいくつも密集している。私たちは祈るような心持で、勇んでやぶから飛び出してシートを確認した。


「…………いない」

 有戸の言葉が、全てだった。


 *


 より一層の沈黙が、私たちをおおって離さなかった。騙し続けていた疲弊ひへいと落胆が肉体と精神をさいなみ、もう一歩だって動けないと確信していた。

 意識しない間に、小さな木漏れ日すら消えている。もう本当の夜が、街にはおとずれているのだろう。今はコオロギの鳴き声や、風にそよぐ雑草すら、哀れな私たちをわらっているのだろうとさえ思えた。


「帰るぞ」

 重い絶望をどかして、有戸ありとが発した。私は彼の指示通り、見慣れたカブトムシたちを手近なみきに移しかえ、シートを片付ける準備をする。

「次の日程、考えないとな」

 そう笑う彼のひとみは、今の空を押し込めたように黒かった。


 手元を電灯で照らしながらの作業。彼がシートをたたんでリュックにしまう間、私は草木の合間から生える枝の葉を、何気なくながめていた。


 しかし。


「?」


 一瞬、視線の先。一本のえだの先から生えた葉が、不自然な揺れ方をしたように思えた。



 よく目をらして、もう一度じっくり観察する。一番分かりやすいのは角だと有戸ありとは言っていた。他のカブトムシに比べて細い。だがたしかにカブトムシのように、先端が二股に分かれている角。


 何度も何度も、うたがいが確信に変わるまでしっかりと。


 葉っぱに見えるその部位は、たまご一つ分の大きさ。


 らした部分が丸まった葉のようで、病気にかかった葉っぱ特有の白い模様もある。


 葉柄ようへいを枝との接地面から追うと、接ぎ木されたように若干色味が違った。


 角と同じ色をした前肢まえあしで枝を持って、それ自体が葉柄に擬態ぎたいしている。


 私は向こうに見える存在を刺激しないよう、そっと背後にいた彼のかたを叩く。

「どうした?」

 思ったより声が大きかったので必死に指を彼のくちびるの前に立てる。そのままその指を、例の枝へと、例の葉っぱへとみちびいた。


 彼はいぶかに私の指先を追っていったが、その指し示す意図をくみ取った瞬間、彼は消えてしまいそうな声でヒュッと喉奥のどおくを鳴らした。


 *


 呼吸があらくなるのをどうにか抑えようと必死になる。だが見れば見るほど目の前にいるのは実物で、その現実をみとめるほど私たちの呼吸は激しくなる。


 私たちは一度だけ、たがいの目を見合わせた。どちらがかの生物を捕りに行くか、決めねばならない。

 私は真っ直ぐな視線を意識しながら、有戸ありとを頑固に見つめた。

 あれは、君がりにいくべきだ。


 その意図は通じたようで、次に視線を移した時にはもう、意をけっした有戸が、物音一つ立てずにそろりと、なぎのように枝へと近づいていた。


 一歩、また一歩。彼の念願が近づいてくる。

 私は背後からながめていたが、その横顔には年相応の、希望のひかりを見た少年のようにかがやいていた。


 えだと有戸の距離は3メートルにまで近づいていた。奇跡のように、例の葉っぱは微動だにしない。



 3メートル。



 2メートル。



 1メートル。



 腕を伸ばせばつかめる距離にまでせまり、ついに彼は、その手で。


「はぁ……!」

 緑のカブトムシをつかまえた!



 それから聴こえたのは、彼のよろこびにあふれた声。


 ではなく。



「——えっ?」


                                 〈続く〉

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