第2話 冥府からの強襲

バロン退魔行 冥府からの強襲

 序


 あれは夏の暑い昼下りのことだった。当時六歳の輝虎てるとらは午前中の槍術やりじゅつの稽古で嫌気が差し、いつもどおり昼食後抜け出して遊びに出ていた。みつ兄は優しいが、まさ兄とあき兄は輝虎に厳しすぎた。旧家の部屋住みは幼い時からしのぎを削るのを本能的に悟るのかもしれない。そんな姿を見ていたので父親と長兄の虎光とらみつは彼の外出を黙認していた。まだ遊びたい盛りだろう。苛酷かこくさだけを子供時代の思い出にするのは不憫ふびんと思われたらしい。

 そんなわけで見逃されているとも知らず、連れ戻される事を恐れ、山一つ向こうに遊びに来ていた。先日はセミ取りをしたので、今日は魚捕りでもしようかと河原まで来ていた。しかし上流で大雨でも降ったのか河の水は濁り、流れも激しかった。

 そこで輝虎は予定を変更し、平らな石を拾い水切りをすることにした。小学校に上がる前とはいえ、笹伏ささふせのものらしく普通では有り得ないぐらい遠くへスキップしていった。これも光兄に教わった遊びだ。輝虎の投げる石はポンポンと小気味よく飛んでいく。

 そのうち後方に気配を感じた。まさか、追手か?と逃げ出す前に相手を確認してみると、自分と変わらないくらいのアイツがいた。

「オマエもやるか?」ホッとして、そう呼びかけるとアイツは少し警戒しつつ近寄ってきて、無造作に河原の石を拾い、オーバースローで放った。当然、一度もバウンドせずに河に飲み込まれる。

「ヘタだなー。良く見てろよ」輝虎がアンダースローで放つ平たい石は水面を幾度もバウンドする。

「石はこういう丸くて平たいのを選ぶんだ」そう言いながら相手を値踏ねぶみする。身長は対して変わらないが、手脚が自分と比べ細い。イヤ、里の人間を見た目で判断したら痛い目にあう。前にガリガリに痩せたオジサンがオレの腕の太さ位の鉄棒を素手でひん曲げてた。ツヤのある髪は長めで、服装もどこにもホツレやシミがなく、一見高そうなシャツとジーンズだ。いいとこの坊っちゃんだと思った。シャツの胸に刺しゅうがある。

「初めてやるんだ。コツさえ掴めば、わ、ボクにも出来る」大人しそうな顔なのに、意外と負けず嫌いのようで、そう強がりを言った。実際もう一度投げると輝虎には及ばないものの、初心者には見えないほどキレイにバウンドして行く。

「おっ、上手くなったじゃん。じゃあ今度はオレの番」思いっきり投げた石は沈まず、対岸まで届く。どうだと言わんばかりに振り向き

「オレ、テル。お前は?」本名を隠して名乗る。里で笹伏ささふせの名前を出すと遠慮されて仲良くなれた覚えが無い。

「えっと」相手も家名を言いたくないのか、言い淀むがシャツの胸にアルファベットの刺しゅうがあった。YU-KIと刺しゅうされていた。

「ユーキって言うのか」刺しゅうを指差し言った。相手はびっくりした顔をしたがすぐコクコクとうなずいた。光兄がローマ字の読み方を教えてくれていたのでアルファベットは読めるつもりだった。後でとんでもない間違いだと気付くが。

 二人で日が暮れるまで水切りで遊んだ。別れ際、輝虎は

「ユーキ、この辺に住んでるのか?」という問いに一瞬考え込んだがうなずき、

「うん、午前中は幼稚園だから午後ならこの辺にいるよ」と答え、また一緒に遊ぼうと言った。なんかコイツも訳ありだなと、仲間意識みたいのが芽生えた。


 その後も輝虎は午後に抜け出し、ユーキと野山を駆け回った。ユーキの手脚は細いが、どんなに険しいけもの道でも輝虎について来れた。輝虎は同年代の秘密の友だちが出来て楽しかった。ユーキもやはり訳ありだった。輝虎は兄達との関係で家に居たくなかったが、ユーキは三つ子の妹達に母親がかかりきりで疎外感そがいかんから外で遊ぶようになったようだ。

 ときには駄菓子屋に行った。小遣いを持っていなかった輝虎にユーキがラムネを御馳走してくれたが、その後何故か母親がお小遣いをくれた。里の中で隠し事は出来ないらしい。次にあったときにお返しにコーラをおごって二人で飲んだりもした。


 夏が過ぎ、秋が暮れ、冬が明けると輝虎は春から小学校に通う。幼稚園や保育園には通わなかったが、自宅で兄弟子や虎光に読み書きは覚えさせられた。お遊戯ゆうぎは無いが、死ぬほど厳しい槍術の稽古はしていたので、特別普通の家の子やユーキがうらやましいと思わなかったが、小学校に入学すれば、童謡のように百人の友だちは無理でも、大親友の数人はできるだろうかなどと思っていた。

「オレ、春から里の小学校に入るんだ。ユーキは?」別離を恐れたずねると、

「僕もだよ。小学生になっても遊べるね。テル」いたずらっぽく笑った。どうしてそんな笑い方をするのか輝虎にはわからなかった。


 入学式で輝虎はユーキの姿を探したが、見つけられなかった。一年生はみんな、おめかししていて顔を知った者でも別人に見えた。多分そのせいだろうと思い、慌てることはないと思い直した。里の小学校は三つしかなく、お互い離れているので、ユーキがこの小学校に来るのは間違いない。ユーキがウソをついているとは思えなかった。途中で腹痛でも起こしたのか。

 クラス分けが有り、授業内容、特に体力に差があるため、里の旧家を中心に集められたクラスに分けられた。事実上、六年間一緒だ。ユーキは旧家のものだと思ったのは自分の勘違いだったのだろうか。男子全員の顔を確認したがユーキはいない。そもそもクラス分け表にユウキという読み方をする男子はいなかった。少し残念だったが、同じ学校にいるなら会うことも有るだろう。

 里出身の担任教師の自己紹介の後、初めてだからだろう、出席をフルネームで呼び始めた。やっぱり男子にユーキと読む名前は無い。次に女子の出席を取り始め、

凰夕姫おおとりゆき」と呼ぶと自分のすぐ後ろから

「ハイ」と返事をする聞き慣れた声がした。慌てて振り返るとブレザーにスカート姿のユーキがいた。イタズラが大成功したようにニヤニヤしていた。ひどく混乱して前を向いていると

「いつ気が付くかドキドキだったよ」と先生に気付かれないよう小声でささやくユーキ、もとい夕姫。じゃあオレは去年の夏から女の子と遊んでいたのか。YU-KIはユウキでなくユキだったと。俺はずっとだまされていたのか?それにユーキはおおとりのヒメだったのか?あのやんちゃが?輝虎の頭の中で新事実がぐるぐる回った。もう何もかも信じられなくなりそうだった。


「テル!そっちに行ったわよ」もう聞き慣れた声で笹伏輝虎ささふせてるとらは我に返った。今回は人に絡み付いたり、顔に張り付いて呼吸困難にさせるヒラヒラとしたあやかしを追っていた。

 怪とは人間社会に害をもたらす、魑魅魍魎ちみもうりょうや信仰を失い堕ちた元神、邪精霊など現代の科学では存在が証明されておらず、常人では対処ができないものを輝虎達、里のものが呼ぶ総称となっている。里では外で怪を処理する事をおつとめと呼び、人知れず怪を撃退している。

 今回の怪は一反いったんもめんと言ったほうが良いのか、床屋の回転灯を真っ白にしたように、縦にクルクル、ヒラヒラしている。今回は弓箭きゅうせんが効果無いため、夕姫が勢子せこ役で小太刀を振るって追っていた。

 何で昔の事を思い出したのだろう。学校に入ってからは気恥ずかしさもあり、人前では距離を取っていたが、あれから十年余、今でもこうしてユーキとつるんでいる。これだけ付き合いが長いとお互い何を考えているか良くわかる。

 輝虎はタイミング良く三叉戟さんさげきを突き出し、一反もめんをスパゲッティよろしく巻き取った。そのまま路面に突き刺し動けないように釘付けにすると

「バロン、頼んだ!」と後で待機していたトドメ役、バロンこと富士林楓太郎ふじばやしふうたろうに声をかけた。

 今回のあやかしは悪霊のたぐいらしく、里からは討滅とうめつの指示を受けていた。バロンはげきに巻きついた一反もめんに太陽のような光を放つ七支剣しちしけんつき立てる。

星辰せいしんの光よ、この悪しきモノを焼き尽くせ」バロンが願い唱えると星辰の剣から光があふれ、それが一反もめんに移ると黄色い炎が立ち上がる。しかし剣を握っているバロンや、戟を支えている輝虎も燃え上がらないし、熱くも無い。

 一反もめんは断末摩だんまつまのように身をよじるが炎の舌はなめ尽くしていく。最後の一片まで焼き尽くすと二人はお互いの刀身を引き抜いた。

「今回はお掃除部隊の出番も無さそうね」二月になっても制服が出来ないふりをしている、セーラー服の夕姫が寄ってきた。走っているときはまだ良いが、夜はこごえそうな寒さが続いている。暖冬だと聞いた気がするが嘘だと思える。燃える一反もめんで暖を取りたかったが、温かいにはほど遠かった。

「灰ぐらいかき集めて持って帰るんじゃねえの」一仕事終えた感がある輝虎が投げやりにいう。

 実際、お掃除部隊は現われた。三人の保護者代理もしている犬神いぬがみの手配だがいつも絶妙のタイミングで現れる。里では猟犬と呼ばれる人達らしい。自分のウチの道場で見かけた顔を見たこともある。里ではあまりお務め中は挨拶も交わさないことが通例となっているので、笹伏の四男坊としては助かる。坊っちゃんなんて呼ばれたら背中がかゆくなる。

「それで今日は何を食べて帰るの?」バロンはいつもどおりにニコニコしながら聞いてくる。最近、夜間のお務めの後の外食が恒例になっている。前は鍋焼きうどんで、その前がラーメンだったのでそろそろ丼ものか。

「俺、田中から教えてもらった牛丼屋に行ってみたい」クラスメートの推薦を輝虎が提案すると

「良いわね。牛丼」夕姫が牛丼が好きなのは知っている。人目を気にして、里の飲食店では腹一杯食べる事ができなかったが、ここなら腹八分目くらいは食べられる。輝虎程じゃ無いが、夕姫も大食漢だ。

「じゃあ牛丼屋に出発!」お務めに出るより気合が入ったバロンだった。今日は輝虎が会計担当の番なので、犬神の財布と家庭は守られた。早めに帰って愛娘に会えるだろう。


 1


 大学生と思われる男がコートの前を閉めて夜の住宅街を歩いて行く。今日の飲み会で頭にくることがあった為、非常に不愉快であった。大学のサークルのメンバーで集まったのだが、酒が入るとそのうちの二人が言い争いになり、途中でお開きだった上、割り勘だった。こんなのだったら家で飲んでれば良かった。せめてドサクサに紛れて先輩が注文したローストビーフを一人で平らげたのがせめてもの救いか。

 大して飲めなかったので酔ももうさめた。歩いていくともうすぐアパートだというのに、工事中の看板があり迂回うかいしろと出ている。

 実はバロン達が一反もめん状の怪を退治するために人払いの偽装ぎそうなのだが、まだ撤収が終わっていなかった。男は舌打ちをして仕方なく、まわり道をすることにした。

 住まいの近くとはいえ、暗い上に普段通らない道は不気味で少し不安になった。家に帰って早く飲み直そう。

 不意に男は強烈な臭いに襲われた。どこかでいだ臭いだ。そう、温泉地の臭いだ。どうしてこんなところで、臭うのだろうと思っていると、街頭の灯りがさえぎられた。振り返ると牛の頭のシルエットが見えた。


 一仕事終わって帰った後、夜中に叩き起こされた犬神広二いぬがみこうじはバロン達の部屋の居間に座り、台所に立つ夕姫をながめていた。卓上には朝食用であろう山盛りのお新香しんこうが置いてあり、勝手につまんでてと湯気の立つ湯呑みと一緒に夕姫に突き出されたものだった。バロンと輝虎はまだ部屋から出てきていないが、気配はするので着替えているのだろう。それまでセーラー服にエプロンをした夕姫の後ろ姿をボンヤリと見ていた。輝虎とバロンが居間に出てくると強く引き寄せ小声で

「お前達、セーラー服の女子高生に毎朝飯を作ってもらう果報かほうをもっとありがたがれ。ユキに毎日、正座して手を合わろ。全国のモテない男に謝れ!」とささやいた。バロンはうなずくが、輝虎は目をそらした。血涙けつるいを流しそうな勢いで犬神が責める。

「でも、犬神サン奥さんいるじゃない。」バロンが首をかしげる。

「女子高生は一瞬なんだ。俺もカミさんのセーラー服にエプロンなんて格好観たことない」

「じゃあ家でやってもらえばいいじゃん」輝虎が悪魔の提案をする。

「バカ野郎!あぶないビデオみたいになるじゃねえか。それにお願いした途端に一生口きいてもらえなくなるぞ」悲惨な末路を予言する。

 バロンの力、お伽草子とぎぞうしで地獄耳になっている夕姫はそんな男どものバカな会話の一部始終が聞こえていたが、あきれた顔するだけで黒猫?ペンタにエサをやる。

「オトコってバカよね」メスのペンタに話しかける。ペンタは肯定こうていするように

「ニャア」と鳴く。

 輝虎はそんな様子を見ながら複雑な顔をした。実際、台所に立つ夕姫の姿を密かにたのしんでいたのだが、こんな形で露見ろけんするとは。夕姫が朝飯作ってくれなくなったら二重のダメージだ。今日はどこかで夕姫の好きな物を買ってこよう。

「犬神サン、なにか用があってきたんでしょう」今までの話が、あまり気になってないようなバロンがたずねる。

「そうなんだ。昨晩、あの一反もめん野郎をヤッた現場の近くで不自然な事件があった。どうも一反もめんとは別件らしい。られ方が違う」話を切り替えた犬神が昨晩の新事件の詳細を話す。確かに一反もめんみたいな怪はめ付ける、視界をふさいで事故を起こすなど、その形状を利用した悪さを行なったが新たな被害者はそのどれとも違った。被害者の大学生は見分けがつかないほどに破壊されていた。持ち物からかろうじて身元が判明した。

「問題はそんな物騒なヤツが、こんなに近くに前触れもなく急に現れたことだ」犬神が危険性を説く。

鉄鼠てっそ事件みたいに人工怪じんこうあやかしかもしれない?」夕姫が推測すいそくを言う。

「そうだ。何者かが我々を狙って騒動を起こしている可能性がある」三人には伝えてないが、人為的に作られた鉄鼠の一団との対決を盗撮していたものがいたらしい。里でも調査しているが尻尾をつかめていない。

「許せない。そんな事の為に人を傷つけるなんて」正義感の強いバロンがこぶしを握る。

「引き続き調査も続けるが、また里から応援を呼んで警備もさせたい」実は里からの応援は決定事項だ。

「で、我々は」輝虎が確認すると

「君たちは別命あるまで学業に励みたまえ」犬神が待機を宣言する。

「ところで弥桜みおクンはその後どうなんだ?」犬神が吉野弥桜よしのみおの現況を気にする。

「相変わらずね。私達のことはバレてないみたいだけど、バロンが忍者だとまだ信じてるの」夕姫はため息をつく。確かにバロンの周囲ではおかしな事が頻発する。別に後ろ暗い事は無いのだが、お務めの事は秘密にしておきたいため、隠し事があるのも事実だ。やはりあの晩、バロンの顔を見られたのがマズイ。

「僕、忍者じゃないよ」真面目にバロンは否定するが、

「そうね。だから困っているのよ」夕姫が苦笑する。

「まあ、その辺のフォローは頼むわ」輝虎が夕姫に丸投げする。バロンの警護は輝虎の役目だが、身の危険がなければそれも適用範囲外だ。四人は山盛りの塩鮭をおかずに朝食を取り、学生は登校した。後には犬神と黒猫ペンタが残った。

「おい、これ食うか?」残った鮭の皮をペンタに向けると貰ってやるというふうに取っていく。犬神にはまだこの黒猫が信用出来ない。アパートに鍵を掛けて出かけても外で見かけたり、部屋に居なかったはずなのに気付くと隅で寝ていたりする。絶対におかしい。バロンとエサをくれる夕姫には懐いているようだし、悪さもしていないようなのでまだ様子をみている。

 ペンタは皮を食べ終わるとまた丸くなった。


 2


 夕姫はバロン達を先に行かせ念の為、白桜神社に寄って行くことにした。石段下の一の鳥居に近づくとブレザー姿の弥桜みおが降りてくる。

「おはよう。わざわざ回ってくれたの?」今日も弥桜は元気のようだ。

「おはよう。別に大して遠回りじゃないから」夕姫はそう答えながら、石段の上に弥桜の母親を見つける。向こうも夕姫を認めると境内に戻って行った。

「今日、帰りもウチに寄っていってくれる?母さんがお見舞いのお礼がしたいって」鉄鼠事件からもうすぐ一月だ。吉野親子はあの日の内に無事退院でき、白桜しらお神社も通常通りに社務しゃむを行っている。弥桜もすぐ学校に登校してきた。クラスでも人気の有る弥桜がケガをしたと聞きクラスメート達は動揺したが、本人がケロッとした顔で登校してきたので胸をなでおろした。

 それ以来夕姫との距離も縮まり、休み時間を一緒に過ごすようになった。夕姫も弥桜の親戚と紹介されたため、早くクラスにとけ込めた。

「ええ、ゆっくりお母様のお話しを聞きたいし」もしかしたら新しい事件の手掛かりをもらえるかも知れない。

「良かったらバロン君達も連れてきて良い?」と許可を求めると、バロンの名が出た途端、弥桜が顔を赤らめる。

「是非、バロンくんさえ良ければ」弥桜がうつむいてそう言う。あの事件以来、事あるごとにバロンを見つめている弥桜を知っている。退院後、登校してすぐ打ち明けられた。

「詳しくは言えないんだけれど私、また忍者に助けられたの。それでねハッキリ覚えてないんだけれどその忍者、バロンくんに似てたの。夕姫さん、バロンくんと仲が良かったよね。なにか知らない?」そう尋ねられた夕姫は弥桜の誤解を理解したとともに、しらを切った。しかしその後も弥桜はバロンの事を探っている。

 憧れの忍者に近づいたかもしれない弥桜の情熱は計り知れないものだったが、直接の行動は羞恥心しゅうちしんはばまれ思いとどまっているようだ。夕姫もおつとめに支障がなければ、バロンとの仲を後押しするのは思うところだ。里の意向にも沿うだろう。問題は彼女の忍者趣味だ。弥桜にとって忍者のバロンへの憧れ、もしくは恋心のようだが、忍者では無いと分かったとき彼女がどうするかだ。

 ただしこれについては別の角度についても推測がある。バロンが彼女を好いているようなのだ。バロンの力、お伽草子とぎぞうしは彼がいいように環境が整う。そのせいかバロンを嫌う人間は多くない。むしろ好意を抱かれる事が少なくない。

 だが弥桜も同じ神の寵愛ちょうあいを受けるものとして、バロンの力が及ぶのかが未知数である。まあ、この学校にはまだ、しばらく居られそうだからもう少し様子を見よう。


 校門をくぐると、ニワトリでいっぱいの飼育小屋を見る。バロンの力のせいか、お弁当で殻つきのゆで卵を持ってくると、なぜかひよこが出てくるらしい。仕方なく飼育小屋に収容しているため、こんなことになっている。バロンの周りでは普段はあり得ないハプニングが続出する。

「バロンくんの忍法かな」純粋で疑わないハトコがそんな事を言う。夕姫は自分の頬が引きつらないように

「そうね。忍法だといいね」心からそう思った。忍法ならまだタネもあるし、制御出来る。しかしバロンのそれはカオスだ。せめてたまごからかえるのがひよこで済むように祈った。


 放課後、夕姫と弥桜が校門に向かうと疲れた顔をした輝虎と、ニコニコしながらも若干緊張が見えるバロンが待っていた。

「どうしたの?」夕姫が本日のトラブルを聞くと

「化学の実験で怪しい液体が出来ちまって、実験室が煙だらけになってな。あわや大惨事かと思ったが窓を開けたらすぐ消えた。化学の先生もどうしてこうなったか、わからないそうだ」ぐったりとして言う。弥桜の件を丸投げした罰だ。いい気味。

「あれすごかったね」とひと事みたいなバロン。どおりで授業中、非常ベルが鳴ったわけだ。バロンが転校してきてから、今まで点検以外で鳴ったことの無い非常ベルが何度も鳴っているため、最初は驚いた教師や生徒も最近は慣れっこになってしまっている。

 ふと夕姫が弥桜を振り返ると耳を真っ赤にしてうつむいている。離れて見てるときはあんなに熱心に凝視ぎょうししているのに。

「さあ、行きましょう」こうしててもらちがあかないのでみんなを促して、神社に向かう。


 バロン達とまともに揃って神社に来たのは初めてになる。先に拝殿に向かうと意外にも、ぎこちない輝虎をよそにバロンは作法通りに参拝する。その後、社務所に向かうと装束に身を包んだ雪桜ゆきおがいた。

「待っていたわ。先日はありがとう。感謝してもしきれないわ。今日はせめてものお礼をさせてもらうわ」弥桜の母親に大歓迎される。

「はじめまして。笹伏輝虎ささふせてるとらです。まあ、さとの出身です」輝虎が照れながら挨拶する。夕姫の母親に挨拶したときもこんなだったか。コイツは年上の美人に弱いからな。

「笹伏君も里では名家なんだって?ダンナが言ってたけど」

「でも、自分は四男なんで」輝虎が謙遜するが

「学校で槍の演武えんぶをしたって聞いたわよ。見た子から聞いたけど物凄かったって。ウチの春期祭に奉納舞ほうのうまいしない?お礼ならするわよ」ずいぶん耳が早い。勧誘されてしまった。

「…考えておきます」即答しづらい。最低でも光兄に相談しなければ。

「では、おばさま、今日はこの二人を観てもらえますか?私は弥桜さんと話してますので」確かに三人で雪桜と話していると弥桜が浮いてしまう。友達が来ているのにそれはないだろうということで、輝虎とバロンが雪桜の遠見を受けることになった。


 最初にバロンが観てもらうことになった。拝殿で向かい合って正座するとバロンを見つめ雪桜が口を開く。

「…やっぱりすごいわね。うーん…色々と見えるけど先のことは何も言わない方が良いらしいの。…でもこれだけは覚えておいて。これから先、あなたが全てを信じられなくなりそうな時がくるわ。それでもあなたがそれまで行ってきた事は決して間違ってないわ。あなたのご家族、特におじい様とお母様はあなたを真っ直ぐに育てた。それは自信を持って。将来、あなたはお父様と同じ苦悩に打ち当たるわ。その時は今言ったことを思い出して」少し悲しそうにも、少し微笑んでるようにも見える顔で伝える。

「もし悩んだら、迷わず仲間を信じて。絶対にあなたの周りには裏切ったりする人はいないから。私から言える事はここまで。…それから、これは娘を助け出してくれたお礼」よく弥桜がしているものと似た数珠腕輪を差し出す。

「ここで、してみてもらってもいいかしら」身に付けるよう促された。

「こうですか?」バロンが右手にしてみると

「あなたは色々な加護かごが強いから、大丈夫だとは思ったけど確認しときたかったの。それはあなたに対する悪意からあなたを護るわ。守り切れるといいのだけれど」雪桜が済まなさそうに言う。

「そんなふうに言わないで下さい。ありがとうございます。大事にします」バロンが下がり、輝虎を呼ぶ。


 輝虎が柄にも無く、緊張して雪桜の前に座る。この大男は座っても圧迫感が有る。しかし雪桜はずいぶん気が楽そうに

「あなたはバロン君と違ってシンプルでいいわ。あなたはずいぶんと家の事で悩んでいるけれど、あなたがこのまま一生懸命、今の事を続ければ良い方に向かうはずよ。あなたも人のために身を投げ出せられる人、周りの人の力になってあげると願いが叶うわ。…夕姫さんが好きなんでしょ?」真面目な話と打って変わって面白そうに尋ねる。輝虎は真っ赤に照れて

「いえ、そんな…、ハイ」否定しようとするがこの人の前では無駄と悟り、認めた。

「あなたが進む道は非常に困難だけど、必ず乗り越えられるし、あなたが思っている以上にあなたのことを見ている人達がいるわ」優しく頑張りなさいと声をかけ

「それとここからは、あなただけの話じゃ無いけど、今あなた達が追っている件、今までと違ってこの世のものでは無いわ。誰かが無理矢理、冥府から呼び出したモノのはず。この町を鎮守するウチの神さまからあなた達に力添えするように言われたわ。一刻も早く撃退するようにと」一転深刻そうに話す。

「今回の件はきっとあなたが試されるわ。しっかり対処してね」それからバロンと同様にお守りを渡す。

「それはあなた専用よ。私の特製武運長久のお守り。ウチの神様、武運を司っているから。奉納演武の件、良い返事待ってるからね」雪桜の託宣たくせんは終わった。

「実はね、前回の事件で私、一旦力を使い果たしちゃったんだけれど、バロン君の力の影響で取り戻せたの。すごいわよね彼の力。私からちょっと言いづらいのだけれど、彼、これから大変な目に遭いそうなの。守ってあげてね」雪桜からのお願いだった。この時は輝虎にはわからなかったが、後で思い出す事になる。


 3


 凰家との事を知るのは確か小学四年生の夏だった。笹伏の家の部屋住みの三人から夕姫に婿養子むこようしを取る話を知った。

 一番夕姫と仲が良いのは自分と思うのは子供の考えで、凰家に入るとなれば二人の兄も乗り気だと知った。まだ両家とも誰にするか決めていないのだが、順番で言えば次男の昌虎まさとらであるし、昌虎に問題があっても三男の昭虎あきとらがいる。輝虎も成長して槍の稽古にも遅れを取らなくなったが、未だ二人の兄には勝てない。長兄の虎光とらみつにも時間を取ってもらい、稽古に励んでいるが、この年頃の2才、4才差はなかなか埋められない。輝虎は自分の槍に限界を感じ始めた。


 この頃は二人共稽古に忙しくなってしまい、放課後野山を駆けることは無くなり、隠れて一緒に帰ったり、買い食いするぐらいになっていたが、いまだに二人の仲は続いていた。

 輝虎は大きくなっただけだが、夕姫は大分女の子らしくなり、もう男の子と間違られることは無くなっていた。そんな夕姫を多少まぶしく感じるようになり、また兄達に取られるのではないかと恐れていた。別にどこかへ行くわけでもないが、手が届かなくなるのは解った。そう思うと、いつものようにテレビや新作のお菓子の話など出来なかった。あまり口を開かない輝虎を

「テル、どうしたの?最近変だよ」夕姫に怪しまれた。

「…ユーキに婿むこ取る話聞いた。このままだと昌兄か昭兄がユーキのお婿さんになるって」言い出しづらかったが輝虎は自分が利口で無いと思っているし、夕姫にも隠し事はしたく無かった。

「なあんだ、そんな事」夕姫は簡単に言った。

「ウチの父様も婿養子だし、凰家はずっとそうしてきたよ」さも当然だとばかりだ。

「そうじゃなくて、ユーキはあの昌兄や昭兄で良いのか?」輝虎は語気を荒く問う。夕姫も二人の兄が好きじゃ無いはずだ。

「仕方ないよ。私が決めるわけじゃないし」夕姫がうつむく。輝虎はこの時、たまっていたものをき出すように、夕姫の両肩をつか

「行くなユーキ、あの二人の嫁になるな!俺が絶対お前をもらってやる!」輝虎が叫ぶと夕姫はびっくりして顔を上げるが、やがていたずらっぽく

「本当に?約束だよ」とささやいた。初めて輝虎が夕姫を女の子だと知ったときに見せた笑みと一緒だった。輝虎は自分が言ったことが急に恥ずかしくなり、走り去った。その後しばらく夕姫の顔をまともに見られなかった。


 拝殿はいでんから出てきた輝虎は、着替えた弥桜と一緒に境内を掃いていた夕姫の後ろ姿を見て、また昔を思い出していた。最近、本当に昔の事を、特に夕姫のことを思い出す。

 あれから夕姫の婿養子の件は動いていない。まだ早いからと輝虎は思っているが、実は凰家おおとりけ笹伏家ささふせけの長兄、虎光とらみつの意向も働いていた。凰家としては笹伏家と関係が築ければ良いし、夕姫が選んでも問題無いと思っている。虎光は昌虎まさとら昭虎あきとらより輝虎てるとらに目をかけていたし、兄の目で見ても輝虎が夕姫を好いているのを知っていた。わざわざ二人を引き裂こうと思うほど野暮では無い。しかし父親の虎実とらざねは順序にこだわっており、当人達の気持ちをみ取ろうとは考えていなかった。そんな危ういバランスの上の膠着こうちゃく状態だった。

「こちらは終わったぞ。ユーキを呼んでる」輝虎が声をかけると夕姫が寄ってきて竹箒を突き出した。

「しっかりやっといて」一言多い。やるけどさ。見るとバロンも掃除を手伝っていた。


開口一番、雪桜が

「良い彼氏じゃない」不意打ちを放ってくる。

「バカですけどね」夕姫は余裕で受け止める。

「彼、苦労するわよ。あなたの為に」気の毒そうに言う。

「良いんです。アイツが決めた事ですから。約束しましたし」夕姫もあの約束を覚えてるらしい。

「幸せね、あなた。話は変わるけど、輝虎君にも話した今この町に起きている異変の事。私の見立てを言うわ。今回は硫黄いおう、牛、おのかしら。それとあなた、大事なものを失うわ」不吉なことを言われた。

「怖いこと言いますね」なんだろう、気味が悪い。

「代わりに良いものが見られるかも」雪桜はそう言って夕姫の為のお守りを出した。

「男の子達にはそれぞれ渡したけれど、無事に良い事が見られる為にも身に付けておいて。特別製よ」いたずらっぽく笑った。夕姫にとって大人を感じる女性だ。母親は自分にとって師匠としての関係しか普段は感じない。

「ご厚意感謝します。代わりと言ってはなんですが、事が収まるまで弥桜さんの登下校にご一緒したいのですが」今日のもう一つの用件だ。

「今度の異変はウチの娘を狙わないと思うけど、親としては安心できるわ。是非お願い」そして少し困った顔をし

「ウチのバカ娘、最近バロン君の事ばかりなの。助け出されたとき顔を見てしまったらしくて、バロン君が娘の大好きな忍者じゃないかって、そればっかり。子供の頃の勘違いはウチのダンナだったんだけど、夢を壊さないように放っといたのが後になってたたるなんて」雪桜が頭を押さえる。

「はあ」弥桜の行動や雪桜の親心、バロンの気持ちを知っている夕姫としてはこう答えるしかない。

「違うのよ。バロン君は良い子だし、娘の恋路こいじに口をはさむつもりもないの。ただあの、おっちょこちょいが暴走しなければいいのだけれど。そのへんが私にもえないのよ」本当に困った顔をする。

「まあ、バロン君がウチの養子になるってのも有りだけれどね」この母親もとんでもない事を言う。


 夕姫が境内に出ると、すでに三人は社務所に入ってお茶を飲んでいた。はたから見ていても弥桜はバロンに大サービスしている。お茶をどんどん注いだり、饅頭まんじゅうを勧めたり忙しそうだ。用が済んだので帰ろうと思ったが、饅頭が美味しそうだったので三つだけ頂いてから帰ることにした。


 4


 夕陽が真っ赤に落ちるなか、輝虎は夕姫に別れを告げた。長兄の虎光のすすめで三叉戟さんさげきの師に弟子入りすることにした。槍の腕はかなり上達したが、二人の兄にはこのままだとしばらくは及ばない。毎日限界まで稽古したが、到底足りないと悩んだ末の決断だった。最低、半年は山にもることになる。母親には反対されたが、父親はあっさりと許しを出した。

 噂によると三叉戟の遣い手はずいぶん偏屈へんくつらしい。昌虎には生きて帰れないぞとおどされた。嫌なことを言う兄だ。見事に戟術げきじゅつを習得してブチのめしてやりたい。

「必ず帰ってきてよ。じゃ無ければ他の誰かと結婚しちゃうんだから」夕姫がそう言って送り出した。

 結果、昌虎の言葉はまだ生優しかった事を知った。


 アパートに帰ると犬神と黒猫ペンタが出迎えた。ペンタはバロンにだけ愛想を振りまいているが。

「ヨシヨシ、良い子にしてたか?」バロンとペンタのやり取りを犬神が白い目で見る。

「コイツ、俺がネコ缶やっても食べないんだぜ」あきれたように言う。

「ペンタは人を見るのよね」夕姫が犬神をからかう様に言うが

「そのペンタって名前、決定なのか?そいつメスだぞ」兄妹にされた男から抗議の声があがった。

「え、テトラ、ペンタって言う名前嫌い?」バロンが上目遣いにテトラに問う。

「嫌いじゃねえけど、もっと他に有るじゃねえか。タマとかクロとか」なんとか抵抗しようと思い付いた名前を出すが

「そんな平凡な名前じゃあ駄目ね。ペンタで決定だからテトラ」夕姫がからかってそう呼ぶ。輝虎がそっぽを向くとなぜかペンタも反対を向く。

「コイツ、またいつの間にか消えたり、現れたりしたぞ。鍵のかかった部屋で」犬神が小声で夕姫にささやく。やっぱりか。バロンの前だとボロを出さないが、犬神相手だと気にしないらしい。まあいい。特に害がないなら様子見だ。とりあえず夕飯にしよう。


 山盛りのチャーハンと餃子で腹を満たした四人は情報交換を始める。ペンタは餌をもらったら丸くなって寝ている…ように見える。

「事件現場を調査したが犯人についての手掛かりは掴めなかったらしい。今晩から里からの応援が現場周辺を見まわる。警察もパトロールするそうだ。あの遺体の損傷状態では黙ってられないだろう。ただし、付近の住民の不安を掻き立てないよう、マスコミへの発表はストップがかかっているそうだ」犬神が聴き込んだ現況を報告する。相手の正体はまだ不明だ。

「雪桜さんにさずかった託宣では硫黄、牛、斧だそうよ」自分にかかわる部分は省いて話す。バロン達を不安がらせることもない。

「硫黄か。アレは臭すぎて苦手だな」以前、お務めで温泉地に行ったとき、マスクを外せなかった輝虎がうめく。ということは今回、輝虎の嗅覚は追跡に使えないかもしれない。

「牛と斧か…地獄草紙じごくぞうしに出てくる牛頭ごずを連想するな」犬神がつぶやく。

「しかし、もしそんなものが存在するとして、なぜ地上に現れる?」里の術者の中には地獄の羅刹らせつを呼び出し、使役するものが居るという噂を耳にした事があるが、牛頭や馬頭めずを操る話は聞いたことが無い。そもそもどうやって言うことを聞かせるのだろう?

「地獄の住人じゃあ、封印も滅ぼす事も出来ないんじゃない」バロンが不安を口にする。不死のバケモノが斧を振り回しながら夜の町をさまよう、考えただけでもぞっとする。

「まず、対象の確認が必要ね。私達も見回りに出ましょうか」夕姫が正体を掴もうと提案する。被害者をこれ以上出したくはない。


 三人は暗い住宅街を歩いていた。特に当てがないのでまずコンビニエンスストアに向かって歩く事にした。誰が言い出したのか中華まんが食べたいということになったのだ。それはいいがバロンのふところには黒猫ペンタが入っていた。バロンの弁明ではくっついてきたそうだ。夕姫は暖かそうで少しうらやましかった。

 何事も無く、コンビニエンスストアについた三人は蒸し器にある中華まん全てと缶のおしるこを買って店先で食べた。ペンタにはサラミを買ってやった。すると食べ終わったペンタが急に走り出す。あわてて三人は追いかけた。前の管渠かんきょの事を思い出し、もしかしたらという思いが浮かんだ。


 5


 若い二人連れが夜道を歩いていた。焼肉デートの帰りで男のマンションに向かう途中であった。寒いとはいっても必要以上にくっついている上、女の方はハイヒールなのでつく。余り早くは歩いていない。服には焼肉屋で付いた臭いがしていたが、急にそれ以上の異臭に包まれた。一瞬、どこかの家で入浴剤を使用したものかと思ったが、この臭いの強さは温泉に浸かっている以上だ。男が辺りを見回すと巨大な人影が背後に迫っていた。

 その小山のような体躯は民家の二階建ての屋根を超えている。ねじれた角の生えた大きな牛の首、暴力の化身のような太く毛むくじゃらの四肢。その太い手には人間サイズの斧が掴まれており、処刑人を彷彿ほうふつとさせた。

 本能的に危険を感じた男は女を振り払い、逃げ出そうとする。女の方はバランスを崩し、尻もちをつく。そこへ風切音とともに戦斧が振り下ろされる。肉が潰される嫌な音が夜の静寂しじまを破る。男がその音に思わず振り向くと真っ赤なカタマリになってしまった女を見てしまう。脱げてしまったハイヒールが転がってきた。男は腰が抜けてしまうが、なんとか逃げようと後ずさる。しかし牛頭ごずは男に歩み寄る。血と体液に汚れた斧を無造作に手に下げている。それを振り上げようとすると複数の靴音が近づいてくる。男もそれに気づき

「た、たすけてくれ!」救いを求めるが無情にもその頭上に斧が落ちる。


「やめろ!」バロンが叫ぶが牛頭の前にいた男は連れの後を追う。耳につく肉が潰れる音が再び響く。輝虎が真っ先に牛頭と対峙する。夕姫はすでに弓を構え、矢をつがえていた。躊躇ちゅうちょ無く鋼の矢を放つ。巨大な牛の顔の眼を狙ったが左腕にさえぎられる。剛毛の生えた腕に深く突き立つがひるむ様子もない。すかさず、もう一矢放つが今度は戦斧に叩き落とされる。

「ミノタウロス…」バロンがつぶやく。クレタ島の迷宮に棲むという牛頭人身の怪物の名だ。海外生活が長く、地獄草紙など満足に見たこともないバロンにはこの呼び方がしっくりくる。

 輝虎もげきで打ち掛かるが、相手が大きすぎる。大男の輝虎が小人に見える程の体格差だ。また図体の割に早く動き、攻めあぐねる。夕姫の弓箭きゅうせんに合わせ斬り込むが、受けきれなくても大してダメージを与えられていない。それどころか夕姫の掩護えんごがなければこちらが危ない。

 さすがにこれだけ騒げば近所の住人も気が付いたのか家々の窓に灯りが点き始めた頃、牛頭は急に興味を失ったのか夕姫の矢だらけになった体のきびすを返した。いつの間にか真っ黒なのに街灯の光でキラキラと光る煙が湧き立ち、牛頭の身体を覆っていく。強い硫黄臭が立ちこめ、輝虎が顔をしかめる。

「待て!」バロンが星辰せいしんの剣を投げるが薄れていく影を突き抜け、道路に転がる。煙が晴れた頃には姿かたちもなかった。

「助かったのか」輝虎には逃したというより切り抜けられた思いの方が強かった。連射し、矢の尽きた夕姫も同様であった。バロンが剣を拾い、ケースに収める。騒ぎを聞きつけた、里の応援隊がやっと駆けつけた。

「坊っちゃん、姫、大丈夫でしたか」道場でも見た顔の男が声をかけてくる。輝虎はイヤそうに顔をしかめ

「その呼び方はやめてください。夕姫も嫌がっている」男をたしなめた。

「すいません。輝虎さん。あやかしはどうしました?」男は謝罪し、改めて尋ねる。

「逃げました。文字通り煙に巻かれて」輝虎は言いづらそうにそれだけ吐き出すと三叉戟をしまおうとしたが、そこで気が付く。

「ゲッ!」戟の鋼製のの半ばまで牛頭の斧の傷が入っており、もう少しで断ち切られそうだった。カーボンファイバー製のものを付けてきたら体ごとまっぷたつだったかも知れない。今さらになってイヤな汗が背中をつたう。

「命拾いしたわね」後ろから見ていた夕姫に声をかけられる。嫌なところばかり見られる。

 現場の後処理を応援に任せ、アパートに詰めている犬神のもとへ戻る。気が付くとペンタはいなくなっていた。いつからだろう。


 6


 戟遣いの師は聞きしに勝る偏屈ものであった。里でもその名の知れた一流の技を持っているのに今まで弟子が居なかったことからも知れる。まず父親に預かった紹介状を渡すと封も切らずに破り捨てた。

「弟子になりたいと言ったな。てめえはどうしたいんだ。こんな珍妙な武技を究めて何がしたい?」鰐渕道勘わにぶちどうかんは尋ねた。

「兄達に勝ちたいんです。勝たなくちゃいけないんです」輝虎が正直に言うと

「オンナか?」鰐渕わにぶちに言い当てられる。

「えっ!」内心ドキリとした。顔に出ていたと思う。

「死ぬぞ。そんなものに振り回されていると。まあいい。オレには関係無い。…暇つぶしにはいいか。オマエ、死んでもいいなら面倒みてやる」生き死にの話は比喩ひゆではなかった。


 アパートに戻ると素知らぬ顔の黒猫に出迎えられた。知らなかったら同じ姿の猫が二匹いるのを疑う。

「ペンタ、無事だったか」バロンは満面の笑みで抱き上げる。

「コイツに牛頭まで案内してもらったんだ」輝虎が犬神に報告するが、

「いつの間にかそこで寝てたんだ」犬神が入室させなかった事を主張する。やっぱりと輝虎と夕姫は顔を見合わせる。バロンは気にせず、いい子いい子している。

「で、どうだった?」犬神が尋ねると

牛頭ごずだった」

「牛頭ね」

「ミノタウロスだよ」輝虎、夕姫、バロンが口ぐちに言う。

「じゃあ、牛の化け物には違いないんだ」犬神が要約する。

雪桜ゆきおさんの預言は、またまた的中ね」夕姫がため息をつく。イヤなこともよく当たる。大事なものを無くすのも確実か。倒し方も教えてもらえないだろうか。

「大きいし、強かったよ」猫を抱えたままのバロンが言う。あれに比べたら年明けの黒いヤマガミは子供みたいな物だ。

「僕の武器じゃ、どうしようもない」星辰の剣が届く距離に入った頃には挽き肉になってしまう。

 輝虎はためらいつつも三叉戟の柄を犬神に見せる。

「…よく無事だったな」刻まれた斬撃を見て犬神が呆れる。

「私も鋼の矢を打ち尽くしたわ」夕姫も思い出したくなさそうに言う。

「でも邪払いの矢を受けても効いてなさそうだという事は、悪霊や堕神の類では無いみたいね」その二つで有ればダメージを与えられるか、そもそも当たらない。仮称牛頭は矢が突き立った状態で全く平気だった。ものすごく強力な怪であるか、それとも

「神の眷属けんぞくか、精霊に近いものか」面倒だなと輝虎が頭をきむしる。よこしまなものでなければ邪払いの矢は効かない。どうしたものか。里の本部におうかがいをたてるか。

「たとえ神様の親戚でもあんなふうに人を殺すなんて許せない。なんとしても倒さないと!」バロンのやる気は強いらしい。

「わかった。ただ正式な任命がまだされてない。さとに今後の方針を打診してみる。今晩のところは若者は寝ろ。明日も学校なんだろう」犬神が反省会の解散を申し付ける。時計の針はもうすぐ頂点を指す。夕姫が自分の部屋に帰り、バロン達も寝る支度にかかる。

 犬神はまたソファーで朝を迎えなければ無さそうだ。広めの部屋を用意しておいて良かったと思う。


 三叉戟の特訓は筆舌に尽くしがたかった。鰐渕は全く手加減無く輝虎を叩きのめした。体で覚えろということだった。昌虎や昭虎のシゴキなど愛を感じられるほどだった。何度死にかけたか数えるのもやめた。朝目覚め生きているのを感謝し、夜寝る前に生き残ったことを呪うほどだった。しかしその度に夕姫の面影を思い出し立ち上がった。

「笹伏のガキだっていうからもう少し出来るかと思ったが期待外れだったな」師は興味なさそうに輝虎ガキ立ち上がるのを待った。

「いいか。戟っていうのは、突く、切る、ぐの他、打つ、からめ取る、引き寄せる等使うやつの腕次第でどうとでも振るえる。槍術みたいに一本槍じゃねえんだ」確かに師の技は変幻自在だ。どう打ち込んでも同じあしらいはせず、そのうえ思いもよらない場所に打ち込まれる。意表をつかれると受け身も取れずキツイ。終いには自分が戟を振っているのか、戟に振り回されているのか分からなくなってきた。体中打身だらけになったいたが、不思議と切り傷や出血を伴うケガはなかった。後になって思えば師の手加減だったのだろう。痛みに容赦ようしゃはなかったが。


 7


 朝起きるともう台所から調理の音が聞こえる。夕姫も遅かっただろうに済まないな、と思い台所を見ると、いつもと違う後ろ姿だった。背も低いし髪も癖っ毛だ。何よりお尻が違う。もう何か月も見慣れたものとは違いふっくらしている。横を見ると犬神は夜遅くまで仕事をしていたのかまだソファーで寝ている。そこまでして、やっと起き抜けの頭が回った。

「吉野さん?」声をかけると

「あら、笹伏さん、おはようございます」振り向き、何でもないように朝の挨拶をされた。弥桜は制服のチェックのスカート、ブラウスにピンク色のエプロンをしている。

「お台所、お借りしてますね」うん、それはわかる。わからないのは

「お、おはよう。何でここにいるの?」それが一番聞きたい。それは別の方から答えを得た。

「吉野さんのお母様がお願いしてくれたのよ」バッチリ支度の終わった、厨房ちゅうぼうの主が玄関から答えてくれた。

「昨日の夜ね、突然母さんが明日の朝、バロンくんのところに朝食を作りに行ってくれって」朝一番に食材を持って雪桜に車で送ってきてもらったらしい。雪桜は昨日の騒ぎを知っていたのだろう。夕姫は今日の朝食をコンビニエンスストアでパンでもかじらせようと思っていた。

 弥桜は初めに夕姫の部屋を叩き、事情を話し合鍵を借りて男部屋に入った。犬神がソファーで寝ていたのでびっくりしたが、早速台所を借りて朝食の用意を始めた。母親が和食中心の料理を作ることが多いため、弥桜は洋食が得意になった。夕姫が和食専門でせいぜい簡単な中華しか作らないので新鮮だ。輝虎自身は乱暴なチャーハンかインスタントラーメン、カレーライスくらいが守備範囲だ。ちなみにバロンに任せたら怪しげな中東料理を出され、緊急事態以外ではお願いしないようにしている。食べ慣れないモノはやっぱり避けたい。不味まずくはないと思うが。

 寝間着のバロンが部屋から出てこようとして、いつもよりにぎやかな居間に気付き、引っ込んだ。

「吉野さん居るの?」慌てた声で尋ねる。

「そうよ。朝食にするから早く着替えて出てきなさい」夕姫がドア越しに声をかける。


 いつも通り、どこの大食い大会かと思われる量の食卓だが今日は毛色が違った。きん単位のトーストとたまごパック単位のベーコンエッグ、ボールごとのサラダ、鍋ごとの野菜コンソメスープにコーヒーだ。着替えてきたバロンと目を覚ました犬神も食卓を囲む。

 犬神の事は遊びに来た親戚のお兄サンと言う事にした。まあ数代さかのぼれば輝虎と共通の先祖がいるはずだ。嘘ではない、遊びに来た以外は。

 弥桜の料理は家庭的で美味しかった。披露ひろうできたのは野菜コンソメスープだけだが、丁寧に出来ており冬の朝にはピッタリだった。

「時間が有ればシチューを作りたかったんだけど」弥桜は済まなさそうに言うが、男達はすでに胃袋を掴まれたようだ。

「美味しいよ、吉野さん」

「ウマいな」

「これはいい嫁さんになるな」バロン、輝虎、犬神が口ぐちにほめる。夕姫は自分の時はこんなに褒めてもらった事ないと軽く嫉妬心がうずいたが、かわいいハトコに負の感情は向けられない。悪いのは男達だ。私の時ももっと褒めろ。


 弥桜がいるので打ち合わせは出来なかったが、犬神はスキを見てメモを書きバロンに渡した。昨晩中に里に牛頭の顛末てんまつを報告した。担当チームの任命と牛頭への対応は決まり次第連絡があるとのことだった。それまでは待機と書いてあった。弥桜と四人で登校するときに輝虎と夕姫にも回した。

 また雪桜ゆきおからも追加の伝言があり、

「角を折れ、そう伝えれば分かるって。ねえ、これって役に立つの?」弥桜が納得いかなさそうに伝える。そうか、雪桜はちゃんと状況を把握している。あのねじくれた太い角をへし折るのは至難の業だが、撃退する方法がわかっただけでもありがたい。とにかく放課後だ。


 昼食後バロンは学校の図書室にいた。輝虎も途中まで一緒に来たが、弥桜の作ってくれた特大オムライス弁当を食べた後、購買に行って買ったパンが食べ終わらず廊下で食べていた。

 バロンは良く図書室や図書館を利用する。祖父や母親から本を読まないと立派な大人に成れないと、幼少の頃から言われ続けたせいもあるがバロン自身も本が好きだ。

 だが今日はいつもと目的が違った。神話と宗教のコーナーから本を引っ張り出し目的のページを出し見較べる。

「やっぱりあれはミノタウロスだよ。足もひずめじゃなく人の足だった」こだわっていたのはそこだった。

「ああ、あの臭そうな足な」パンを食べ尽くした輝虎が本を覗き込む。

牛頭ごずの脚は牛の蹄らしいよ。まあ、見てきた人はいないと思うけど」バロンが牛頭説を否定する。

「だがよ、ミノタウロスってやつは伝説上に一体だけで、このテーセウスってやつに殺られちゃたんだろ」輝虎はミノタウロス説を否定する。

「うーん、そうか。まてよ、足、裸足だったよね」バロンがなにかを思いつく。

「ああ、泥だか煤だかで汚れまくってはいたがな」輝虎が思い出す。弁慶の泣き所を打ったが効き目はなかったようだった。

「上手くいくか分からないけど、いいアイデアが有るんだ」バロンのいつものニコニコ顔が出た。


 8


 今日は母親のおかげでバロンくんの部屋に行けた。もっと忍者らしい部屋を期待していたが、変わったものと言えば居間の隅に置かれたチェロのケースぐらいだろうか。バロンくん、チェロ弾けるのだろうか。一度聞いてみたい。でも忍者がすぐ分かる表の顔を持っているのもおかしいか。

 母さんはバロンくんについて、なにか知っているらしいが私の為と言って話してくれない。この間私がさらわれた時、救出してくれたのはバロンくんだと確信しているが、その事についても母さんは秘密だそうだ。絶対、あの時の失踪者達は私と同じ目に会い、帰ってこれなかったのだろう。決して事故死では無い。

 ハトコだという夕姫さんはとっても良くしてくれるが、肝心なところははぐらかす。輝虎くんも含め、あの三人が共に忍者であれば辻褄が合うことにも気付いた。

 でも夕姫さんと輝虎くんの食べっぷりは驚いた。あんなに食材持たせてくれた母さんは知っていたのだろうか。

 弥桜はまたバロンの部屋に行けないか考えていた。せっかくアパートの場所もわかったし。


 今日は牛頭の事件の状況を早く確認したいため、弥桜を神社の石段下まで送り、朝食の礼を言い別れた。

 アパートへ帰宅すると今日も犬神とペンタがいた。犬神はこの町の地図を広げ何やらカラーペンで書き込みしていた。ペンタは相変わらず丸くなって寝ていたが、バロンが帰ってきたのを見ると寄ってきた。

「ペンタ、ただいま」バロンが頬ずりする。

「オレには?」犬神がすねる。

「犬神サンもただいま」夕姫が代わりに言ってあげる。

「それで状況はどうなりました?」前置きなしに尋ねる。

「我々に正式に今回の撃退が命じられた。このチーム単独での達成が望ましいが、状況によっては他のチームと合同で事に当たる。それから俺はこれからさとに戻り、準備をしてくる予定だ」犬神がここを離れるという。

「パトロールの応援も最低限身を護る事ができるメンバーで行う事にした。それとともに発見時は交戦せずに被害減少に務め、出来得る限り多数による包囲攻撃という方針だ。君達も単独での相対は避けてくれ」対策についても決めていたようだ。

白桜しらお神社の雪桜さんからの預言で角が弱点らしいそうです」今朝、弥桜に聞いた情報を伝える。この中で直接4、5メートルの高さにある頭部の角に直接攻撃をかけられるのは夕姫の弓箭きゅうせんだけだ。あとは投擲とうてきで攻撃するしか思いつかない。

「僕にいいアイデアが有るんです」バロンが自分の案を持ちかける。

「犬神サンに用意してもらいたいモノがあるんです」そのアイデアと準備について語りだす。


 弥桜は今日、お昼を食べた後、いつも通りバロンを探していた。最近は夕姫とも一緒にお弁当を食べているが、どうも夕姫は学校では我慢して少食(常人並だが)装っている。朝の食事量を見たら絶対夕姫の希望のサイズで作ったオムライス弁当では足りないと思った。

 廊下でバロンを見つけ、図書室までこっそり追い、何かを調べているのを、書棚の陰から覗いていた。

 何を閲覧しているのかここからは見えなかったが、こんな事もあろうかと折り畳みのオペラグラスをポケットから出した。

 するとバロンの手元がよく見えた。何やら牛の怪物の絵が書いてある。ムム?朝の伝言の角を折れと何か関係が有るのだろうか?非常に気になる。そばで輝虎も熱心に見ていた。もしかして正義の忍者活動の為の調査なんだろうか。そこで弥桜は決心した。


 弥桜は夕飯の片付けの後、自分の部屋に戻り暖かそうで動きやすい服に着換え、こんな時のために買って隠しておいた靴を出して自分の部屋から外に出た。もちろん両親には内緒だ。母親に見通されてないかは自信が無いが、バロンのアパートまでなら大丈夫だろう。早く戻って痕跡こんせきを隠そう。


 9


 子供の成長は早い。学校を病欠扱いで休学し、六年生はほとんど通学できなかったが、三叉戟さんさげきさばきはみるみる上達していった。まだ師匠にはまったく及ばないが、今なら昌虎や昭虎からなら一本取れそうだ。

 二月の上旬が終わりそうな頃だった。このままだと自分は留年し、夕姫だけ中学生になってしまう事に気づきあせってきた頃だった。

「今日、オレに一撃も当てられなかったら、オマエを殺す」鰐渕わにぶちは宣言した。今までどんな事を言っても嘘だったためしが無い師だった。今回も実行するだろう。この隠居所いんきょじょの山にまだ雪が残っていた日だった。

 最終的な見極めと言う訳ではなく、これだけ教えてものに出来なければ素質が無いということだろう。実家の道場でも駄目だったものは破門にする。鰐渕の場合、あの世に破門なんだろう。

 輝虎は師と対峙する。いつもの練習用の三叉戟の穂先ほさきからカバーを取っていた。木製の穂先はより実戦に近いがそれだけケガに直結する。わかってはいたが師匠の本気度がうかがえる。

 午前中は三度気絶し、五回戟をはね飛ばされた。

「いいか、得物えものを手放せば死ぬぞ」修業中、繰り返し言われた事だが、今日はもう声をかけてはくれない。

 昼食時間になり、いつもの鰐渕のアウトドア料理的なご飯が出た。まったく食欲が無いが、食わないと午後は戟を振るえなくなる。無理矢理胃に流し込んだ。今日、一本取れなければ最後の食事になるはずだった。

 午後、再び師匠に打ち掛かった。


 バロンの提案した作戦の準備を里に依頼した犬神が、いつものバンで里に向かった。

 仮称牛頭の撃退は装備と作戦の準備が整ってからになったが、これ以上犠牲者を出さない為にも、実際に対峙した事のある三人も見回りに出ることにした。ペンタはどうしようか迷ったが留守番にする。

 輝虎は前回の折り畳み式の柄をあきらめ、より丈夫な一本柄を持つことにした。同じくパトロールしているだろう警官に職務質問されたら一発でアウトだ。避けて通ろう。

 夕姫も前回打ち尽くした邪払じゃばらいの矢の代わり、より物理的に強力な矢を選び、角狩りに備えた。弓は普段からお務めに使用している折り畳み弓、蝙蝠かわほり丸だ。長い黒髪も気合を入れる時にする、ポニーテールに結った。

 バロンは動き易さを重視し、里謹製の革張りのケースに星辰せいしんの剣を入れ、背負う事にした。ワンタッチで取り出せる特別あつらえだ。全員、今晩が決戦に至っても後悔しない装備だ。ペンタに声をかけ、アパートを出る。


 弥桜がアパートに到着しようかという頃、あの三人が出てきた。暗くて良く見えないが、緊張感が伝わる。よし、このまま後をつけてみよう。

 弥桜の不幸は応援のメンバーに弥桜の顔を知っている者がいなかったため、止められたり留意されなかった事だろう。


 パトロールに出てきた応援の巡査は夕飯に食べた牛丼の盛りが少なかった事を後悔していた。チェーン店のものだが、あまり使ったことが無いため大盛にしたのだが、物足りなかった。同僚に言われたとおり、特盛にしとけば良かった。このままではパトロールが終わるまでにお腹が空きそうだ。そう考えながら街灯の灯りしか無い住宅街を歩いていた。

 なんでも凶悪な殺人事件が発生しており、臨時に夜間パトロールを行う為、応援に自分たちのような管轄かんかつ外の警官が呼ばれたらしい。被害者の写真を見せられたが、どうやったらあんな風に人を潰せるのだろう。

 しばらく住宅街を巡回していると、前方に若干じゃっかん挙動不審きょどうふしんな女学生らしい姿が見えたので、注意するため近づいた。気のせいか硫黄いおうの臭いがした。

 バロン達三人はパトロール中の警察官を避けて歩くことができたが、弥桜みおはそういう訳にはいかなかった。後ろから警官に呼び止められた。

「君、こんなところで何しているの?今、物騒な騒ぎが起きているから独り歩きは危ないよ。なんなら本官が送ろうか」女学生が思ったよりも可憐かれんだったので、思わずそんな提案までしてしまったが、彼女の表情が恐怖で引きつり始め、ようやく異変を感じ後ろを振り返る。

 強い硫黄臭とともに背後にいたのは巨大な牛男だった。右手の斧を振り上げる動作がいやにゆっくりに見えた。巡査は慌てて弥桜を突き飛ばす。それが巡査に出来た最後の行動だった。弥桜の悲鳴が住宅街に響く。

 

 弥桜からそう遠くない場所を歩いていた三人だが、輝虎が最初に硫黄臭を感じた。立ち止まって周囲を確認してるうちに、聞き覚えのある声の悲鳴があがった。

「まさか吉野さん?!」バロンが言い当てる。とにかく悲鳴が発した方に急行せねば。


 警官を斬り潰した牛頭は、道に突き飛ばされた後、悲鳴をあげた弥桜を見下ろした。弥桜は混乱していたが、このままでは次は自分がやられると思い、少しでも離れようとアスファルトを引っ掻く。その様子を見ていた牛頭はきびすを返し、どこかへ向かおうとする。そこへ先の分かれた雁股かりまた矢が頭部に向って飛来する。右角に当たるが傷が付いただけで弾き返される。すかさず輝虎が三叉戟からおおいを外し突き込む。バロンは危険をかえりみず、牛頭の足元をすり抜け、弥桜のもとに駆け寄り抱き上げる。

「バロンくん!」よほど怖かったのか弥桜はバロンの胸に顔を埋める。バロンはそのまま牛頭から距離を取る。

 その時、牛頭の動きが変わった。あきらかにうろたえ始め、輝虎から注意ががれた。今まで走ることはなかった牛頭が逃げようと猛牛のように疾走する。

 しかしその先に矢をつがえたままの夕姫がいた。気丈に最後の矢を放つがこの猛牛にぶつかれば、戦斧を振るうまでもなく吹き飛ばされてしまうだろう。夕姫の命は風前の灯火と思われたが、牛頭の足元を颶風ぐふうが走った。夕姫は強い力で押し倒されたが、痛みは感じなかった。

 一瞬の混乱の後、自分の上にあるものの正体に気が付く。

「テル!」自分の上に覆いかぶさった大男を起こそうとして手が滑り、自分の手が温かいもので濡れているのがわかった。

「テル!大丈夫、テル!」いつも冷静な夕姫が真っ青になって叫ぶが返事がなかった。夜目の効く夕姫には輝虎は笑ってるように見えた。


 10


 あの日、何度ぶっ飛ばされたろう。いつも通りかろうじて出血はしていなかったが、何倍も体が痛い。というかどこが痛いかもすでにわからなかった。顔も体もれ上がり、このまま死んだら親でも自分を見分けられないのではないかと思った。いや、このままだと本当に殺される。脳裏に夕姫の面影がよぎるが、もしかして走馬灯そうまとうってやつか?あの出逢った日の河原を思い出した。

 もう立ち上がれるのも最後かと思いながら戟を杖代わりに体を起こす。今日は師からは打ち込んでこないだけ、まだ助かった。倒れても起き上がるのを待っていた。気絶したときは手荒く起こされたが。

 輝虎は最後の力を振り絞り、戟を構える。鰐渕は特に構えず、戟の石突きで地面を突いている。そう、そうでなければ。

 輝虎は師の頭部を狙って大振りをする。鰐渕はため息をつきながら輝虎の喉に電光の速さで突き入れる。またすぐに戟で地面を突く。輝虎の目に星が見える程強烈な一撃をくらったが、歯を食いしばり意識を保つ。後ろに吹っ飛びながらアンダースロー気味に戟を投擲する。鰐渕は軌道を見て戟を動かしもしなかった。それを見て輝虎は気を失った。

「得物を手放せば死ぬぞ。そう言ったはずだ。まあいい、今日はオマエの勝ちだ」鰐渕の声は少しはずんでいた。

 輝虎の投げた三叉戟は師の戟の柄に当たって回転し、鰐渕のすねに軽く当たった。子供のハリセンより痛くないが、一当ては一当てだ。


 目が覚めると師は

及第きゅうだいだ、テル」初めて名前を呼んだ。その後正式に弟子にすると言い、これからは好きな時に稽古に来いとの事だった。それから

「テル、学校は良いのか。弟子が留年だとオレがカッコわりぃんだが」と今さら輝虎の進学を心配する。そこで準備出来次第、帰宅することにした。

 翌日、鰐渕は新品の道着と靴を出して与えてくれた。それに袖を通したとき、自分の身体が大きくなっていることに気が付いた。道着も靴も自分の為の物では無く、師の買い置きだった。

 鰐渕にしばしの暇をもらい、山を駆け下りた。下りて家までの道を駆けていると、人影を見た。セーラー服の黒髪美少女に見えた。その顔に見覚えを感じ、思わず目をこする。気が付くと足がそちらに向かっていた。

「お帰り。テル」夢にまで見た想い人は泣き笑いをしていた。あまりに夕姫が綺麗きれいになっていて、山から駆け下りた時も何ともなかった心臓がバクバクいう。そして夕姫の顔が近づき


 目を開くとそこに夕姫の顔があった。一瞬まだ夢の中かと思ったが、背中が痛いし、ベッドに横たわっているようだった。見慣れない部屋だし、この薬品臭さは病院だろう。

「しくじっちまった」しわがれ声が出た。思うように声が出なかった。

「バカ!なんであんなことしたの!」病室なので精一杯声を小さく、夕姫が怒鳴る。たしかにおつとめ中の護身は自己責任だ。バロンみたいに里の外の人材は特例で護られるが、それが輝虎の役割だ。夕姫の護衛は管轄外だ。むしろバロンの身を守らず、戦闘不能になっては任務放棄と取られても仕方ないが

「わかんねえ。ユーキはわかるか」嘘をついたが夕姫もわかっているはずだ。気の強い夕姫が泣き腫らしたのだろう、目の周りが赤い。俺の為に泣くな。たとえ俺が死んでも泣かないで欲しい。

「わかんないわよ。テル自身がわからない事、わかるはずないじゃない」夕姫も嘘をついた。

「バロンが自分のせいだって落ち込んでたわ。早く直して大丈夫だって言ってあげて」ではバロン達は無事らしい。

「牛野郎はどうなった」その後の状況が気になった。

「また煙に巻かれたわ。角にはキズを入れたけどね」逃げられたらしい。

「バロンは?」

「弥桜さんを送って行ったわ。雪桜さんに事情説明しておきたいし」弥桜もとりあえず無事らしい。あんな光景を見てしまった以外は。

「弥桜さんもしょげてたわ。自分のせいでこんな事になってしまったって」夕姫にもここまでするとは思ってなかった。ハトコを少し甘く見てたらしい。

 そこへバロンが入ってきた。

「気がついたのかい。テトラごめん。僕が勝手な事をしてこんな事になってしまった」バロンが謝罪する。

「俺は大丈夫だ。笹伏の男の頑丈さはダンプ並みだ。それにアレに効果があったってことじゃないか」牛頭の急な転進の事を言ってるらしい。

「次は仕留めるぞ」輝虎がそう言うとバロンと夕姫が顔を見合わせ、

「ウチに欠員が出たから、他のチームが派遣はけんされる話が出てるのよ」夕姫が思い切って話す。

「欠員って俺の事か?俺は大丈夫だ。打ち所が悪くて気を失ったが、キズ自体はかすり傷だ」輝虎が強がるが、傷を見ている二人は暗い顔だ。輝虎は話を変えようと

「そう言えば弥桜ちゃんどうした?」バロンに尋ねる。

「送っていったら、物凄い剣幕でおばさんに怒られてた。お尻ペンペンだって」バロンが何を想像したのか、少し顔を赤くする。

 ここまで巻き込んでしまっては弥桜に本当のところを話さざるを得ないだろう。

「おばさんにはだいたいのところ説明してきたけど、遅いから引き上げてきた」あまりしっかり説明出来てないらしい。夕姫は明日、雪桜ゆきおに事情説明しなければならなさそうだ。

「そろそろ一旦、アパートに帰るつもりだけど、ユキねえはどうする?」バロンが一応確認するが答えはわかっていた。

「私は念の為、残るわ。バカが寂しがると困るし」強がってそう言う。

「そう、じゃあまた明日来るよ」バロンはあっさりと病室を出ていった。気を使ってくれたらしい。二人になると

「本当に別のチームに引き継ぐのか?」気になっている事を再度尋ねた。

「犬神サンの推測ではそうね。まだ決定じゃないけど、テルの回復次第ね」まだ済まなさそうな顔をする。

「じゃあ大丈夫だ。明日には動ける」点滴に繋がれた輝虎が言う。

「無理しないでよ」夕姫が心配してそう言うが

「俺の人生、無理だらけだ。今さらやめられない」そう強がる。そして前から聞きたかったことを聞く。

「…師匠の山から下りてきたとき、何でセーラー服だったんだ?まだ小学生だったろ?」こんな時じゃなければ聞けない。

「家族以外ではテルに最初に見せたかったの。出来立ての中学校の制服。テル、留年しちゃうところだったでしょ」そう、あの後、病気で寝ている間勉強していたことにして、虎光と夕姫に詰め込まれ、追試を受けて難を逃れ、辛くも里の中学校に進学出来た。戟術げきじゅつの特訓の方が楽だったような気がした。もちろん自分の力だけではなく、実家の政治力もあったことは想像に難くない。

「じゃあ、あの日あそこに立ってたのは?」そこも不思議だった。まさか連日立ってた訳ではあるまい。

「女の勘よ」そう、はぐらかす。そして顔を近づけあの日と同じご褒美ほうびをくれた。

「ありがとう。テル」夕姫が泣いたせいでは無く赤くなった。


「起きてると思ってました。犬神サン、今回の件は僕のチームで完遂かんすいさせてください。」バロンがアパートに戻り最初にした事は、里で準備に励んでいるはずの犬神への電話だった。もう十一時を回っていたが、やはり犬神は装備調達に奔走していた。

「すでにお務めの管理官は代行のチーム選定に入っているぞ」犬神は複雑な気持ちだった。彼らのやり遂げたいと思う気持ちは尊重したいが、それも命あっての物種だ。実際、輝虎が重症の報を受け肝を冷やした。

 安全最優先と言い聞かせて出てきたつもりだが、何事も不測の事態はある。今回も弥桜の乱入という予定外な因子があった。

「ではチームリーダーの権限で拒否します」バロンが断固として言い切る。

「オマエねえ、そんな事するとお務め役外されるぞ」若者の短絡的思考をたしなめる。バロンは里の上の方に覚えが良いが、余り跳ねっ返ると反発するものも出てくるだろう。大人的にはそれは避けたい。犬神は考え

「いつまでにやれる?それによっては交代を引き延ばしてみる」自分にできるのはこの位だ。

「次に現れたら必ず」バロンの声に迷いはない。輝虎の復帰も犬神の準備も疑ってない。

「わかった。一週間猶予ゆうよをつくる。俺も明後日の朝には戻る。それまで動くな」ああ、今夜も寝られなそうだ。学生時代の不眠のコウってあだ名を思い出す。

「よろしくおねがいします。こちらも万全の状態で事に当たります」バロンは素直に犬神に頼った。


 新宿のビル街に在る高層ホテルの最上階の一室、バロンを害そうとする者たちがプロジェクターで牛頭の活躍を観ていた。

「今回はなかなかではないか」主が感想を述べる。

「恐れ入ります」髪の長い女が答える。

「しかし、この度は大分ダメージが蓄積しました。明晩は難しいかと」髪の短い女が弁明する。

「痛み分けという訳か。しかし奴らをここまで追い詰められた。満足しているぞ」感情が伝わらない評価を伝えた。

「ハッ、有難きお言葉」

「一刻も早くミノタウロスを復帰させます」双子のしもべが答えた。

太刀守たちがみの一族とやら、意外と手強いな」横浜のスイートルームは何者かが嗅ぎ回り始めたので引き払った。偽装しながらの移動だったので不愉快だった。

「申し訳ございません」ロングヘアの姉アルが謝罪する。

「ここは他の訳アリのVIPも利用しておりますので多少はよろしいかと」ショートヘアの妹エルが気休めを言う。

「まあ良い。来週には香港に移る。それまで頼むぞ」


 11


 朝、輝虎が目を覚まし、病院の早い朝食が始まった時点で引き上げる事にした。この時間ならまだ着替えて学校に行ける。バロン達の部屋を除くとバロン謹製中東?料理がテーブルの上に乗っていた。誰がいつ帰ってきても良いようにバロンが作り置きしたのだろう。几帳面きちょうめんな事だ。バロンの寝室を覗くとバロンの上で寝ていた黒猫ペンタがこっちを見る。まあ問題ないだろう。

 一旦自分の部屋に戻りシャワーを浴び、着替えて戻るとバロンが起きて食事を温め直していた。

「おはよう、ユキねえ。テトラの具合はどう?」バロンが輝虎の容態を尋ねてきた。

「元気元気、元気すぎて病院食じゃ足りないって言ってたから、購買でパンとか買って置いてきた」そう、不気味な位調子良さそうだった。映画のように不死身の機械じゃなかろうか?それともバロンの力が及んでいるんだろうか。

「そうか。昨晩、犬神サンと話して次で仕留めるから他のチームとの交代を待ってもらいたいって言ったんだ」

「どうする気?」夕姫が心配を口にする。

「犬神サンの準備とテトラの復帰を待って勝負する」バロンが決意を表明する。


 二人で朝食を済ませ、白桜しらお神社に向かう。昨日の今日で学校に来られるか心配だったが、玄関でベルを鳴らすと制服姿のショボンとした弥桜が出てきた。

「夕姫さん、バロンくん昨日はごめんなさい。母さんにこっぴどく叱られたわ。それにおまわりさんもあんな事になってしまって…」やはり後をひいているようだ。

「大丈夫?学校行ける?」夕姫は心配して尋ねるが、

「ウチに居るよりマシよ。母さんにも行けって言われたし」昨日の折檻を思い出し蒼くなる。昨晩はお尻が痛くてうつ伏せに寝た。高校生の娘にあそこまでするだろうか。


 夕姫は弥桜へ通学の道すがら自分たちの事をかいつまんで話す。

「あなたの好きな忍者じゃなくて申し訳無いけど」バロンの力についてはもちろん話さない。関係者だけの秘密にしておきたい。

「ううん、そんなことない。二度も助けてくれてありがとう、バロンくん」事実を知ってバロンを見つめる目がさらに熱くなった気がする。

「テトラとユキねえのお陰だよ。僕一人じゃ全然」バロンが謙遜けんそんする。

「放課後、笹伏さんのお見舞い行きたいのだけれど」弥桜が済まなさそうに申し出る。

「気にする事無いけど、私達も帰りに寄るつもりだったから良かったら一緒に来る?」どうせ弥桜を送って行かなければならないのだ。病院が先になるか後になるかだけだ。

「ええ、是非」お尻が痛いのか笑顔が硬い。


 弥桜と三人で病院へ行くと帰り支度を済ませた輝虎が待っていた。

「よっ、待ってたぜ」なんで病院にいるか、わからない勢いだった。購買で買い足したらしいパンと牛乳を両手に持っていた。

「もう大丈夫なの?」バロンの問に

「ほらこの通り」患者服の上をめくり背中を見せる。

「キャ!」と言って弥桜が目を逸らす。夕姫は輝虎の背中など飽きるほど見ているのでそんな新鮮な反応はしない。跡は残っているがたしかにキズは塞がっていた。昨晩の状態が嘘のようだ。

「先生にも帰って良いって言われたぜ」退院の許可ももらったようだ。

「どうなってるの?笹伏の人間って怪物なの?」驚き反面、嬉しい夕姫ではあった。これでは一番の重傷者は母親にお尻ペンペンされて、学校の椅子に座るのも大変だった弥桜だったかも知れない。

「こんな事もあろうかと着換え持ってきたよ」バロンが朝から持っていたボストンバックを差し出す。バロンはわかっていたのだろうか?


 輝虎と一緒に弥桜を送って行く事になり、白桜神社に着くと、いつものスーツ姿の雪桜が待っていた。

「今回もウチのバカ娘がご迷惑かけて済まなかったわ。大したもの用意出来なかったけど、お夕飯食べていって」どうも謝罪とお礼をしたいようだ。


 雪桜の言葉とは裏腹に、豪勢な食事が用意されていた。社務所の一番広い部屋に用意されていたので、結婚式の宴会にも見えなくもない。実際、聞いてみると氏子の結婚式に利用されているらしい。縁側の向こうには手入れされたお庭が見えた。

「笹伏くん、結婚式はウチで挙げない?」雪桜にイタズラ半分に勧誘される。思わず噴き出す。

「からかわないでください。するとしても当分先です」輝虎が真っ赤になる。

「あらそう?私の見立だとそんなに先じゃないんだけどな。まあ良いわ。貯金しときなさい。ねえ夕姫さん」知らん顔をしていた夕姫を巻き込む。事情知らない弥桜が輝虎と夕姫をキョロキョロと見較べる。途中で合点がいったのか手を打つ。夕姫がそんな母娘をにらむ。

「まあ、冷めちゃうから早く召し上がって」雪桜の手作りらしい御馳走をいただく事にした。

 三人の来訪も見通していた雪桜は食べる量も把握していたようで、宴会用のお櫃いっぱいに炊いたご飯を用意してくれていた。

 血が足りないと言っていた輝虎はいつも以上のスピードで御馳走を平らげていった。その姿を歓待かんたいしていた母娘は目を丸くして見ていた。その陰で夕姫もけっこう食べている。

「見事な食べっぷりね…」いつも余裕がある雪桜の顔に汗が浮かんでいる。バロンは恥ずかしくて消えたかった。未だに慣れない。


 食事が終わると雪桜に拝殿へ呼ばれた。弥桜も一緒にだ。

「もうこの子も知ってしまったし、今回は落とし前をつける為にも手伝わせるわ。まず今晩、牛は出ないわ。ウチの神さまが言うには明日の晩、決着がつくそうよ」という事は一日猶予がある。でもどこに出るか判らないと逃げられるかも知れない。

「あなた達に必要なのは牛の出現場所と撃退法よね。それについてウチの子を使って欲しいの」雪桜の顔はいつに無く真剣だ。

「この子の神楽はあの世のものでも引き寄せる事ができるわ。その舞で牛を引き寄せ、ここにある符を身体のどこかへこの子に貼らさせて」弥桜が重責に息を呑む。仕方あるまい。あの猛牛とその犠牲者を間近に見たのだ。恐怖を覚えるなというのが無理だ。しかし、

「わかりました。やらせてください」震えをこら、了承する。

「危険です。弥桜さんの身の安全を約束出来ません」夕姫がハトコの身を案じ、抗議するが

「弥桜もこの宮の巫女の端くれ、氏子の為に身を張るは当然です」厳格に宣言する。

「ましてやこの度は皆さんにご迷惑をおかけしている。つぐないの為にもやらさせて頂戴」贖罪しょくざいだと雪桜は言う。


 三人がアパートに帰ろうとすると弥桜が夕姫に耳打ちする。無事に事が済んだら今度の日曜日に買い物に付き合って欲しいと言う。そういうの決戦前に聞くのヤダなと思いつつ、承諾しょうだくした。まあ厳しい現実を乗り越える為にも目標は必要かと思い納得する事にした。


 12


 実家に戻ると虎光と母親は大袈裟に出迎えてくれた。父は照れていたのだろうが、今にして思えば嬉しかったのだろう。昌虎は苦虫を噛み潰したような顔をし、昭虎は不貞腐ふてくされた顔をしていた。昌虎達は輝虎が無事に帰ってくるとは思わず、良くて挫折ざせつして頭を下げて出戻る位だと確信していた。

 帰ってきた輝虎は槍と三叉戟という他流試合とはいえ、大人を含め門下生の誰も敵わなくなっていた。あとは兄達と父親だけだった。

 昭虎は鰐渕の言う、力任せの一本槍だったので難なく下した。

 昌虎はさすがに年齢差や年季もあり先に一本とられたが、師の戟捌きに比べればすぐに太刀筋が読め、続く二本、三本目は辛くも勝ち取った。

 虎光は逆にこちらを見る為に先に一本取らせ、残りは瞬殺という貫禄を見せた。虎光に勝てなければ父、虎実とらざねの胸を借りる意味は無い。

 この結果は父と虎光を喜ばせたが、残りの二人の兄は腹にえかね、虎実に輝虎の破門を要求した。笹伏は槍術の流派、三叉戟の入り込む余地など無いとの主張だった。父親は悩んだが、虎光には織り込み済みで虎実にこう諭した。笹伏槍術は破門にすれば良い、ただし笹伏家を勘当はしない。凰家は笹伏家との婚姻こんいんが叶えば良いだけで、槍だろうが、戟だろうが気にはすまいと。

 輝虎は実家の道場を破門された。中学生になる前の日だった。


 朝、自分のベッドで目が覚めた輝虎は起きてリビングに出るとソファーで横になる犬神を見つけた。台所では輝虎が一番好きな後ろ姿が朝食の用意をしていた。やっぱりこの光景が最高だ。しばらくすると寝ているかと思ったバロンが外から帰ってくる。そういえば黒猫が犬神の上で寝ていた。

「犬神サンの手配は完璧だね。これで絶対勝てる」バロンが自身満々で褒める。

「テトラ宛の荷物も積んでたよ」バロンはそう言うが心当たりが無い。仕方なく夕姫のお尻を見るのをあきらめ、犬神のバンを見に部屋を出る。これがこの光景セーラーふくを見る最後になるとはこの時は思いもよらなかった。


 自分宛の荷物はバンの屋根にキャリアーが取り付けてあり、そこに括り付けてあった。すぐに長柄武具の柄だとわかったが、この長さはどうしたものか。

 普段はおよそ一間の長さの柄を使うが、犬神が積んできたものは二間はある。どおりで車内に置けなかった訳だ。

 俄然がぜん興味が湧き末端の覆いを開け中を覗くと、とんでもないものが入っていた。自分の持っている一番上等の柄でさえ鋼材を加工したものだが、コイツは里の鍛冶師が特注で打った鍛造たんぞう製だ。何故わかるかと言えば同等の物を見たことがあるからだ。

 長兄虎光が範士はんし授与じゅよされた時、父親が兄に贈ったものを見せてもらった。そのズッシリとした感触に憧れたものだが自分には関係無いと思っていた。

 直感で虎光だなと思った。彼は俺が鍛造柄が欲しいのを知っている。しかしどうしてこのような物を犬神に預けたのかがわからない。すると覆いと柄の間に油紙の封筒を見つける。引抜いて中を見る。


「お務めご苦労。お前が守りたい人の為使うように 虎光」とだけ書いてある。その時雪桜の言葉を思い出した。

(あなたが思っている以上にあなたのことを見ている人達がいるわ)

 そういうことかと今にして思う。虎光はお節介にも俺の行動を知っているのだろう。ケガについては通常、命に関わらなければおつとめ管理官は保護者などに連絡しない。応援隊から聞き取っているのだろうか。

 しかしこの長さ、持ち上がるのか?


 部屋に戻ると犬神も目を覚まして食卓を囲んでいた。輝虎待ちだったらしい。

「アレ、誰からです?」一応聞いてみた。

「虎光さんからだ。なんとかして持っていってくれってキャリアーまで用意してあって。…重いぜ」ニヤッと笑う。犬神もわかっているらしいが、あれを造らせるのは相当高くついたはずだ。ちょっとした高級車が買えるくらいかかるのは想像できる。輝虎は心の中で兄に感謝した。

 朝食を食べながら今晩の決戦の打ち合わせをする。弥桜が参戦することも告げる。

「俺にいい考えが有る。せっかくの決戦だ。バロンの仕掛けを有効に使える大舞台を用意してやる」犬神が任せろとばかりに決戦場の準備を引受ける。

「私の注文した物も届いたようだし、母様に礼を言わなくては」夕姫は実家から自分が引き継ぐ予定の家宝の剛弓、崩山丸ほうざんまるを借り出し、矢も蔵からとっておきの物を出してもらった。夕姫も決戦モードだ。


 このような時だがいつもどおり白桜神社へ向かい、弥桜と一緒に登校する。

「母さんが今日も夕飯御馳走したいって。決戦前の腹ごしらえだって。今日は外食よ」弥桜が雪桜の伝言を伝える。三人は顔を見合わせる。昨日の食べっぷりを見ても、まだ食事をあてがってくれる奇特な人がいるとは。


 放課後、装備を犬神に任せ白桜神社に向かうと雪桜が車を用意して待っていた。神社で使用しているバンだ。輝虎の体格を考慮しての選択らしい。

「さっ、乗った、乗った」急かされ連れて行かれたのはステーキハウスだった。

「ここはウチの氏子うじこが経営しているんで、割引きしてくれるわ。だから遠慮なく食べていいのよ」こころなしか語尾が震えていた雪桜をバロンは見逃さなかった。雪桜の財布に同情した。


 雪桜に幸いしたのは店のシステムでライスお替り自由だった事であった。ステーキ肉は注文できる一番重いサイズを健啖家の二人は頼んだが、雪桜に遠慮したのかライスで満腹にした。

 他の三人は別のテーブルに座り、他人のフリをした。

夕姫が食事を終え、コーヒーを楽しんでいると犬神から携帯電話に連絡が入った。準備が出来たらしい。

「それでどこに向かえばいいの?」夕姫が目的地を尋ねると

「お前達も良く知っている場所だ」


 13


 師匠のあばら家から下山して、色々有ったが輝虎はなんとか中学生になれた。

 鰐渕わにぶちの元には放課後に毎日駆け上がり稽古を続けることにした。

「槍の方、破門されちゃったんだって」夕姫がからかってくる。誰の為にこんな事になったのかわかっているのか?

 正式に中学のセーラー服に袖を通した夕姫は髪を伸ばしたこともあり、近寄りがたいほどの美少女になっていた。前は男の子に間違えられる程短くしていたのに。何故伸ばしたか聞くと

「…やっぱり言わない。なぜだかわかる?テル」とはぐらかされた。まあ、似合っているからいいか。そう思った輝虎だった。

 凰家の婿候補の件は昌虎をやり込めた為、輝虎が肩を並べる位になった筈だ。昌虎と昭虎は何か画策している様だが今は動きは無い。しかし夕姫が綺麗になればなるほど、ハードルが高くなっていくような気がした。

「頑張りなさいよ。約束したんだから」夕姫に人ごとみたいに言われた。


 中学の三年間で輝虎は鰐渕の背を追い越し、稽古で死ぬような目に会う事も少なくなった。また時には師から一本取れる事もしばしばあった。偏屈な師匠だがそんな時はなぜか嬉しそうだった。

 里の高校に推薦を受けられる事が決まり、夕姫と無事に進学出来そうだと思っていた頃の事だった。長兄の虎光からお務めの話が出た。

「お前の望みを叶えるにはこのままでは駄目だ。お務めに志願して里で役に立つ事を証明しろ」輝虎を思っての勧めだった。輝虎は悩んだ。折角、進学し高校生を満喫まんきつする予定だったのに、夕姫を置いてあやかしを追い全国を飛び回らなければならないとは。少し虎光を恨んだ。

 悩んだ末に輝虎は師、鰐渕に相談した。すでに実家から破門された輝虎にとっては鰐渕の門下なのだから当然と言えば当然だった。

「行って来い。オレの全てを伝授でんじゅしたとはさすがに言わねえが、今のオマエなら何処に出しても恥ずかしくはねえ」と言われてしまった。

 最後に夕姫に相談しようと思ったが、勧められても、止められてもに落ちかねそうだったのでやめた。

 結局、鰐渕からの推薦状を持って里の行政を司るという真田屋敷を尋ねた。


 候補者の選別は非公開で行われ、組分けの理由も当然伝えられない。誰が申し出たかは任命の為、集められた真田屋敷の道場で初めてわかる。

 輝虎には知った顔もあり、あまり知らないものもいた。術者はおそらく後者だろう。やはり心配なのは誰と組まされるかだ。自分は前衛なので後衛の術者だろうか。この世ののりしばられない怪には実に有効だと聞きおよぶ。実際に見た事は無いが、摩訶まか不思議なものらしい。

 お務めの管理者からどんどん名前が読み上げられ、チームが出来上がっていくが、輝虎の名前はいっこうに呼ばれない。腕っぷしならこの場にいる誰よりも自信があったが、自分に何か問題が有ったのだろうか。とうとう最後のチームのメンバーが呼ばれたが自分ではなかった。

 他のものがチームごとに分かれ、自己紹介等をしているのに輝虎だけ取り残された。自分は不合格だったのではと疑い始めた頃、この場を仕切る真田の当主が手招きしている。近寄ると

「君には特別チームに加わってほしい。別室で詳細を話そう」耳元でささやかれた。切れ者と噂の真田家当主を輝虎は苦手に感じた。

 真田に案内され応接室に通される。重厚な家具がそろっており、輝虎には肩がこりそうに感じた。こちらに背を向けたソファーに誰か座っている。見覚えがある。アイツだ。こんな事を企むのはアイツしかいない。

 夕姫はソファーに座ったまま、こらえきれず笑い出す。

「あーオジサマ、ありがとう。テルのこの顔が見られただけでも最高だわ」夕姫が苦しそうにお腹を押さえる。そうだった。夕姫の父親は真田家の出だった。

「なんでここに居るんだよ?」憮然ぶぜんとして尋ねる。

「アンタ、私に隠してお務めに志願したんだって。私には全てお見通しよ」夕姫は威張って言うが、どうせ伯父さんから聞いたに違いない。

「そのへんで良いだろうか。きみたちにやってもらいたい事がある。務めはそれが成ってからだ」ニコリともせず事務的に伝える。つまり、夕姫もお務めに?


 初任務は里の外の中学生、つまりバロンのスカウトだった。三人目のメンバーに事もあろうに、ただの中学生に見える少年を勧誘しろとの事だった。輝虎にはさっぱりわからなかったが、夕姫の伯父が言うように彼を引き入れなければお務めを任されない。

「ユーキ、なんでお務めに応募したんだ」帰り道、気になっていた事を問う。夕姫にお務めに参加するメリットは少ない。大抵の参加者は高額な報酬、または真田家ひいては里の上層部への売込み、変わったところでは武者修行を目的とする。各々の流派の推薦も有っただろう。しかし夕姫はどれにも当てはまらないような気がする。

「さあ、わかんないわ。テルはわかる?」嘘だった。すぐ夕姫ははぐらかす。

「わかんねーよ。ユーキがわからない事、俺にわかるわけねえ」わからなかったが、こうだったらいいなという願望は有った。


 雪桜の運転するバンで向かったのはバロン達が通う高校だった。市街地でやり合って周囲に被害や耳目じもくさらされた反省を活かし、高校の校庭を利用する事を犬神が思い付いた。

 高校には映画の撮影と称し、校庭と照明を借り受けた。つじつま合わせや、学校への工作は里に任せた。

 校庭にはダンプが6台も停まっており、中央には仮設の舞台まで出来ていた。弥桜の神楽を舞うためのものだ。

「じゃあ私、戻っておまじないの真似事するから後よろしく」しっかりやんなさいよと弥桜のお尻を叩き、雪桜は帰っていった。夕姫は前にもこんなセリフを聞いていたので、一抹の不安を感じたが、今は目の前の事に集中する事にした。雪桜の行為を無駄にしたくない。

 犬神を交え、段取りの最終確認をし、弥桜は夕姫を伴って校舎の更衣室に着替えに行く。もう後戻りは出来ない。

 神楽の装束に身を包んだ弥桜が夕姫に手を引かれて校舎から現れる。野球部用のナイター設備の照明が点灯し始める。


 新宿のホテルの一室をまるまる利用した玄室げんしつに獅子の皮を被ったエルがいた。その前には複雑な紋様が描かれた、直径1メートルほどの八角形の色タイルの上にミノタウロスをかたどった約30センチメートルの石像があった。石像は古いものらしく、彩色はげ落ちていたが頭頂部は何やら黒ずんでいた。エルはカーブを描く短刀を取り出すと左手で刃を握りしめ、右手で引く。左手から血がしたたり、石像に落ちる。エルは何やら呪文を唱えるとタイルに描かれた線が淡く光ったように見えた。

「今夜こそ、あの男の末に目にもの見せてくれようぞ」エルは会心の笑みを浮かべた。


 14


 夕姫は矢がぎっしりと詰まった矢筒を数カ所に配置し、剛弓崩山丸にげんを張る。いとも容易たやすく張っているように見えるが、通常二人掛かりでやっと出来る代物だ。輝虎には及ばないが夕姫も相当の腕力があることがうかがわれる。

 輝虎は犬神のバンで運んできた新しい柄に穂先を着けようと屋根から下ろした。なかなかの重量だ。バロンのお伽草子とぎぞうしがなければ持ち上げるのもやっとかもしれない。穂先を車内から引っ張り出そうとすると、いつものケースの横に二周りは大きいケースがあった。

「テルの師匠から預かった。この大捕物おおとりもので使えって。師匠に恥かかすなよ」いつの間にか後ろに犬神がいた。輝虎は不覚にも涙があふれそうだった。お務めに出立するため修行を放り出した自分に、あのぶっきらぼうな鰐渕がこのような事をしてくれるとは。

「師匠、有り難く使わせていただきます」輝虎がケースを開けると、大振りな三叉戟の穂先が入っていた。銘が彫ってある。鬼鯱おにしゃち、これがこの戟の名か。すぐに新しい柄に繋いでみるとニ間の柄にピッタリのバランスだった。まるで虎光と師匠が示し合わせたようだ。しかしこれでどんな相手でもノセそうだ。

 輝虎は弥桜が神楽かぐらを舞う特設の舞台そばに鬼鯱の石突いしづきをつきたてる。これで準備万端だ。段取りでは牛頭ごずが現われ次第、輝虎が弥桜を安全な場所に避難させる事になっている。一瞬牛頭に奪われないかと脳裏のうりをよぎったが、どうせ使いこなせまいと思い、考えるのをやめる。


 弥桜の神楽が始まった。昼の光の下で見た舞も美しかったが、夜間照明に照らされた弥桜はこの世のものとは思えない程幻想的だった。神々をもまどわすという話も納得がいく。

 星辰の剣を背中に背負ったバロンが状況もわきまえずに見惚みほれていた。夕姫は無理もないなと思っていると早速、硫黄の匂いが漂ってきた。

 本日のメインディッシュ、牛頭が黒い煙幕と共に姿を表す。地獄から呼び出された悪魔たちは硫黄の匂いを伴い現れるという。やはり何者かに冥府から呼び寄せられたものなのだろうか。更に今回は異常に興奮しており、口の端から泡まで吹いている。それを見た弥桜は一瞬硬直してしまうが、すぐに輝虎が抱えて逃げる。

「笹伏さん、お願い!」その際牛頭の真後ろをすり抜け、弥桜に背中へ符を貼らせた。これで攻撃が通じやすくなるし、遁走も出来ないはずだ。

 今度は校庭の端に停まっていたダンプが荷台を上げながら、何かをばら撒き走り去る。ダンプが撒いていったものは大きなマキビシだった。鉄製で10センチメートル位のものだが、裸足の牛頭には効果的だ。バロン達は踏んでも大丈夫なように鉄で裏打ちされた靴を用意し履いている。

 前回、弥桜を救い出したときもとっさに牛頭の足元にいて実証済みだが、そのせいで牛頭が夕姫の方へ遁走とんそうしたため、輝虎がケガをしたとバロンは自責の念にかられていた。

 今回は里の工房での発案で鉛入りの塗料が塗られている。邪払じゃばらいの矢が効かないと聞いた里の職人達がそれならばと精霊などが嫌う金属、鉛を使用した。

 これで牛頭の足を奪った。夕姫の弓箭きゅうせんも当て易くなってくる。バロンの能力付与による魔弾の射手にも限度がある。動いているものでも必ず当たるが、矢を放った後に反応されるとその限りではない。しかし、牛頭の死角から射つづければその巻角を落とせるはずだ。

 バロンは援護の為に用意したスリングショットで、目潰し用の黒煙胡椒弾こくえんこしょうだんを頭部目掛けて打ち込む。今日のバロンはまるで一寸法師が鬼と戦っている様にチクリチクリと嫌がらせを重ねる。

 しかし、今回の牛頭は今までと違い、積極的に攻撃を繰り返す。逃げられない為とも思ったが、いつもと迫力が異なる。バロン達も靴があるとはいえ、転倒してマキビシの上に転べばただでは済まない。早期の輝虎の戦線復帰が望まれる。

 それでも夕姫の放つ矢が両角にキズを増やしていった。牛頭がバロンから夕姫に注意を変えたとき絶好のチャンスが訪れた。ここが正念場と思い、矢筒にあった一番重い矢を引き出しつがえる。

「当たれ!」と念じ矢を放ち、見事左角を打ち飛ばす。

 しかし、牛頭は興奮したまま夕姫に突進し右手を伸ばす。バロンも必死にスリングショットから鉛球を放つが、牛頭の右手は夕姫に届いてしまい、胴を掴まれる。

 夕姫は崩山丸を手放し、腰に差していた小太刀をなんとか抜こうとするが、牛頭の凄まじい握力でままならない。

 バロンの方も夕姫に誤射する恐れからスリングショットを使えずにいた。そこでこんな事もあろうかと用意していた秘密兵器を引っ張り出す。母親とともに世界中を周っていたときに現地の人に教わったものだ。

 夕姫はなんとかして牛頭の手から抜け出そうとしていた。掴まれているせいで、牛頭の顔が間近で見えるが、怒って興奮している牛の目がこんなに怖く見えるとは思わなかった。早く逃げ出したい。

その時バロンに渡された目潰し弾を思い出した。念の為と渡されたそれはヒグマも一発で追い返せると言っていた。だが背中に在るそれに手が届きそうで届かない。

「ユキねえ!」その時バロンが何かを投げた。それはを描き、牛頭の頭部に向かう。

 牛頭は驚いたようで、一瞬手がゆるむ。バロンから投じられたブーメランは牛頭に避けられ、弧を描き飛び去っていく。しかしこのチャンスに目潰しに手が届いた夕姫は、この 至近距離で姿勢の許す限り全力でぶつけた。


 学校の外で犬神に弥桜を預けると、輝虎は校庭に戻ろうとするが、その学校の方から破壊音がととどろいた。こんな音が出る攻撃は予定していない。つまり不測の事態が発生したのだ。輝虎は嫌な予感がして全力で戻った。

 ナイター設備に照らされた校庭は輝虎の想像を遥かに超える惨状さんじょうだった。牛頭は校舎にぶつかっており、二階の教室まで破壊され、窓ガラスが落ちている。バロンは校庭に倒れこんでいたが、器用にマキビシの無いところにいた。しかし夕姫の姿が見えない。校庭には夕姫が使っていた筈の凰家家宝の弓が落ちていたが、当人が見当たらない。

「ユーキ!どこだ?」叫ぶが返事は無い。

 すると片角の牛頭が校舎から身を剥がしてこちらを向く。そこで信じられない物を目にし、輝虎は思考を停止する。牛頭の牛とは思えない牙だらけの口に、プリーツのある紺のスカートが引っ掛かっていたのだ。輝虎が毎朝楽しみに見ていた一番大好きなお尻を包んでいたものだ。見間違うものか。

「…てめえ、夕姫を喰ったのか?」食いしばった歯から漏れ出すような声だった。輝虎は自分の髪が逆立つのが感じられた。そして師匠の山で死にかけた時のように夕姫との思い出の数々が頭の中を駆け巡る。

「ゆるせねえ」輝虎はグランドに突き立てた、大三叉戟鬼鯱を引き抜く。怒りで忘れていたバロンが身を起こす。無事のようだがボディガード失格だ

「テトラ、ユキねえが…」夕姫の末路を見たろうに落ち着いて話しかけてくる。

「わかってる。ヤツだけは許さねえ」バロンに振り向きもせずに言い放つ。もう牛野郎しか見えていない。

 そこから何をしたのか輝虎自身もわからなかった。あれほど重荷に感じていた鬼鯱おにしゃちが物足りない程素早く繰り出せた。突く、斬る、ぐ、バロンも棒立ちになる程の猛ラッシュだ。


 輝虎を見送った犬神と弥桜だがさすがにあの轟音が気になり、いつでも逃げられるよう、バンに乗ってマキビシの無い校舎側面から覗くことにした。

 そこで見た光景は壮絶の一言だった。小人と巨人程の体格差があるにもかかわらず、輝虎の一方的な攻撃で牛頭はすでにタジタジになっていた。なんとかその丸太のような腕でガードしようとするが、さばき切れず、しまいには巨大な戦斧までね上げられる。

「こわい…」これでは弥桜では無いがどちらがあやかしかわからない。鬼気迫る、と言うより鬼神が乗り移ったようだ。ニ間もの柄の先端にある穂先が目にとらえられない速度で振られ、牛頭から噴き出す血しぶきで何処を斬撃したかわかる程度だったが、すでに牛頭の前面は朱に染め上げられている。

 そして止めとばかりに後ろに飛び退る。輝虎の足元のマキビシは紙で出来たように踏み潰される。そして鬼鯱を腰の高さに構え、牛頭目掛けて突進する。

「うおおおおー」バロンの能力で強化された脚力で電光のように突き進み、牛頭の腹に三叉の穂先を深く突き刺し、夜空高く突き上げる。

 小山のような巨体が宙に浮かぶ姿が照明に映し出される。まさしく絵本の英雄だ。牛頭は最初のうちは痙攣けいれんするかのごとく身をよじっていたが、徐々じょじょに動かなくなり手足が弛緩しかんした。輝虎はそれをマキビシの海に叩きつけた。

 衝撃で右角も折れて飛ぶ。するとそれをきっかけにしたのか、牛頭の体がいつもの黒い煙幕に覆われ消えていく。跡に残ったのは巻角二本と大戦斧だけだった。

 輝虎はむなしさを感じ、三叉戟を取り落とす。


 新宿のホテルの一室に設けられた玄室げんしつの中では術士のエルが崩れ落ちていた。目の前に置かれていた魔法陣の様なタイルはヒビがはしり、そこに置かれたミノタウロスの石像は二つに割れていた。どちらも直せないのはひと目でわかった。

 玄室の入り口に張られた緞帳どんちょうれ、双子の姉のアルが入ってきた。

「また失敗したようね」エルを助け起こす。

「今一歩のところで…従者達もあそこまで出来るとは…」エルが悔しまぎれを言う。

「いずれニホンにはもういられない。すでに次の仕込みは済んでいるのでしょう?主は分かってくださるわ」エルが妹を慰める。

「ええ、お姉さま。今度は搦め手で行きます。あの男に身近なものの死の恐怖と絶望を与えます」ここにいない目標をにらむように言った。


 15 


「本当にお務めに参加するのか」本当は一緒に来てくれるのは嬉しかったが照れ隠しで聞いた。

「里の山と違って本当に危険なんだぞ。稽古だってユーキの弓の的は襲って来ないだろ」そう、格闘や槍、戟術と違い、どんなに弓術が実戦に則した稽古をしても、互いに射ち合う事は無い。一方的に射るだけで防御や回避は無い。輝虎の心配も的外れではないだろう。

「テルは他の人と行きたいの。他の女の子の方が良いんだ」夕姫はワザとねて見せた。

「バカ、そんなんじゃねえ。オマエがケガするのを見たくないだけだ」輝虎は必死に否定した。

「守ってくれないの?」夕姫は我ながらあざといとは思ったがもう少しからかってみた。

「…守るさ。俺がオマエを守ってみせる」輝虎は夕姫の目を見れずに言った。

「じゃあ、約束よ」いつもの上手くいったとばかりの笑みを浮かべた。


輝虎は自分の得物えものの横に座り込んだ。体はまだ熱いが、思考は冷めてきた。夕姫の顔を思い出そうとするが、浮かんでくるのはあのイタズラが成功した時のヒトが悪い笑顔ばかりだ。手には夕姫のスカートの切れ端があった。まだ夕姫の香りが残っているような気がする。

「約束守れなかったな…こんなことなら…」輝虎が後悔を口にする。

「テトラ…」バロンが近寄ってきたがそれ以上口を開かない。

「守るって約束したんだ。守るって」輝虎の目から涙がこぼれ落ちる。

「そうね。守って欲しかったわ」輝虎は幻聴が聞こえたような気がした。悲しみの余り夕姫の声が聞こえるようになったと。

「私のセーラー服。気に入ってたのに」ジャージ姿の夕姫が言う。輝虎は涙を拭うのも忘れ、振り返る。

「それとアンタが握りしめてるもの返して、恥ずかしい」夕姫は自分の衣類の残骸を要求した。

「ええっ!」輝虎は慌てスカートの断片をみる。

「もし私が死んでたら、形見にされてたかしら?」またヒトの悪い笑みを浮かべた。

「ユーキ!どうして?」わけがわからず輝虎が発した言葉はそれだけだった。

「何、生きてたら困るの?」

「だってあいつの口にスカートが…」しどろもどろになる輝虎。

「ああそれね、うっかりあいつに掴まれちゃたんでバロン謹製の目潰し弾使ったの。手が緩んだんで逃げようとあの牛面うしづら蹴ったら何を考えたかスカートに噛みついてきたのよ」思い出したらしく顔をしかめる。

「その時、僕が投げたブーメランが戻ってきたんだけど、目潰し弾の刺激物でくしゃみが出たせいで受け取り損なって頭に当たったんだ」ホラ、コブ出来てるでしょ、とバロン。

「それで、あいつがよろけて校舎に倒れ込んだ時、二階の窓から教室に飛び込んだのだけど、さすがに下着姿はどうかなって。テルも走って来るの見えたし、それじゃあって事で更衣室に行ってジャージに着替えたの」夕姫は何がおかしいのか、また笑いをこらえている。じゃあ、これは全て俺の勘違いなのか。

「テトラにユキねえが校舎内に飛び込んだよって言おうとしたんだけど、わかってるって言うから」バロンが弁明する。ますます恥ずかしくなった輝虎が赤くなる。そこへ犬神と弥桜がマキビシを避けながらやって来た。

「ハデにやったな。後片付け大変だぞ」応援の通称お掃除隊の苦労を思ってボヤく。犬神の後始末も考えただけで頭が痛い。家にも帰られて無いし、臨時手当てでも出なけりゃやってられない。

「笹伏さん、凄かった。忍者映画みたいだった」弥桜の基準はブレなかった。

「そうか?」夕姫には褒められなかったが女の子にそう言われれば嬉しくないこともない。

「テルは私が牛頭に喰われたと早とちりして大暴れしただけなのよ。あんまり褒めないで」夕姫は輝虎を褒めさせない。しかし弥桜はそんなに気にした様子もなく、辺りを見回し何かを探しているようだった。

「何か探してるの?」バロンが尋ねる。

「母さんから預かった符が落ちてないかと。有った!」弥桜が牛頭が消えた辺りに駆け寄る。たしかに牛頭に貼り付けた符だ。

「これできっと大丈夫。向こうのしゅが打ち消されない限り剥がれないって母さん言ってたから、あの牛さんもう二度と出て来られないはず」もう役済みの符を探していた理由を説明する。

「じゃあ、今夜はこれでおひらきって事でラーメンでも食べて帰ろう」夕姫が恒例の打上げを提案する。

「まだ食べるの?でも私、母さんが心配だからウチに一旦戻りたい」目を丸くした弥桜だが、前回の事もあり神社に戻って雪桜の無事を確認したいようだ。

「犬神サン、白桜神社まで送ってよ」バロンがバンで行く事を提案する。周りではお掃除部隊がマキビシの回収を始めている。

「そうだ。テトラ、あの角拾っていかない?」バロンは良い事を思い付いたと、まだふてくされていた輝虎に頼む。

「何をするんだ」輝虎は思わず聞いてみる。

「戦利品の活用をね」


 校舎の屋上で観戦していたらしい大津と、大和こと虎光二人の影があった。

「輝君やるじゃないか」大津が褒める。

「あいつはやるときはやるんだよ」産まれてくる順番が違えばこんなに苦労しないのにと虎光は思っている。

「もし手こずるようなら、僕がたいでサイコロステーキにしようと思ったのに」大津が背中に背負った野太刀のように長い黒鞘の太刀の柄を叩く。

大和やまともあれだけの大物、腕がうずいたんじゃない。ちょっと輝君がうらやましかっただろう?」図星を指摘する。たしかに自分ならどう戦ったか考えなかった訳でもない。

「俺なら女のせいであんな不様ぶざまな闘い方はしない。女の尻を追っかけるのは俺の性に合わん」虎光とらみつは我が弟ながら面倒な女にホレたもんだと思う。

「それはそうと相手の間者かんじゃは自爆したんだって」大津がバロンを狙う者の手先の末路について言及した。

「ああ、敵ながらあっぱれな最後だったそうだ。証拠を残さず焼死した。余程の忠誠を誓ってたんだろう」猟犬たちの報告では高校の周囲で隠しカメラを持っていた男見つけ、取り抑えようとしたところ自ら着火し、遺留品もろとも全て燃え尽きたそうだ。横浜のホテルでは後一歩のところで逃げられた。今は新宿のあるホテルが怪しいと睨んでいるが、確証が掴めないでいる。

「まあ、これでりてくれれば良いのだけれど、これ以上やるなら…」大津が本気をチラつかせる。

「止めとけよ、お前だって大事な時期なのだから。放校処分は嫌だぞ」どうも二人も学生らしい。

「わかった。危ない事はしない。ところで今回の応援の人達に臨時ボーナス出すように手配しておくから、頑張ってくれるように伝えて。それから犬神氏に角は処分して良いって伝えておいて」大津は事後処理の詳細について指示したが、虎光では無く、

「わかりました、若」と答えたのは陰に隠れていた三人目の青年だった。大津と虎光は比較的ラフな格好だが、三人目は黒のスーツ姿だった。名を真田龍光さなだたつみつと良い、真田家の嫡男ちゃくなんにして夕姫の従兄弟いとこに当たる。父親に似て愛想が無い。

「タツは夕姫ちゃんの相手、どう思う」大津が面白半分に聞いてみる。大津こと光明こうみょうと兄弟同然に育ったが、この堅苦しい弟分はあまり笑ったところを見せない。

「夕姫の縁談は凰家と笹伏家の問題であり、口を挟む余地はありません」龍光は模範解答もはんかいとうをよこすが、

「自分の意見と言うなら輝虎殿はお似合いだと思います」光明の意図をんでの答えもする。

「ホラ、タツもそう言ってるぞ。お前もそろそろ認めたらどうだ?僕は認めちゃうぞ」虎光に結論を急がせる。

「あのなあ、お前がそう言うと洒落にならないからな」虎光は抗議する。そう彼、大津こと師条光明しじょうこうみょう太刀守たちがみの里の党首代行にして、次期党首なのである。一応の現党首は彼の母親ではあるが、光明が十五歳になると実権を譲位じょういした。こんな所でふらふらしているが、豪胆な輝虎や夕姫でも縮み上がる程の里の最高権力者だ。ちなみに虎光、龍光の光の字は彼の一字を取っている。

「じゃあ、僕個人で輝君と夕姫ちゃんの恋を応援する会を起こそうかな」光明はふざけて言うが、余人に漏れればシャレにならない。

「お前のところだって妹がいるじゃないか」虎光は反撃しようとするが

「虎光さん、その件については…」龍光にたしなめられるが、虎光は彼が光明の妹に懸想けそうしているのを知っている。しかし彼女、三春みはるは極度のブラコンの上、里を嫌い外の学校に通っている。このままでは龍光に望みは無い。

「三春はやらんぞ」そう、光明も重度のシスコンなのだ。

「手を出したヤツはコロス」冗談とも思えない事を言う光明だった。虎光は夜風だけではない寒気がした。


 17


 白桜神社に五人がたどり着くと、意外とケロッとした装束姿の雪桜に出迎えられた。

「今回は準備万端だったから」安心してと、しかし疲れた顔で言う。初対面の犬神には

「あなた、言うまでもないけど幸せよ。ご家族を大事にしてね」見通した。

「尻に敷かれるのは幸せな悩みよ」と余計なことも言われる。自分も敷いてるのだろうか。自分の娘には

「良くやったわ。これで私もいつでも引退出来るわ」と弥桜を慰労いろうする。

「あなた達にも感謝するわ。ウチの神さまに代わってお礼を言うわ」と頭を下げる。

「せめて夜食でも食べて行って」と言うと同時に中華屋のバイクが入ってくる。大盛りラーメン二杯と普通盛り三杯に餃子の山をおかもちから取り出す。こんなことも見通したのか。

 五人は社務所の会議室で雪桜のご好意を有り難く頂いた。部屋着に着替えた弥桜の姿にバロンが密かに喜んだ。


「そうだ、この神社に奉納ほうのうしたいものがあるんです」バロンが雪桜に持ちかけると

「ああ、アレね。有り難くいただくわ。この宮の社宝になるわね」牛頭の角を持ってくるのもお見通しのようだ。輝虎がバンから持って来た巻角は傷だらけで激戦を物語っていた。

「牛鬼退治の伝説でも語り継いでいくかしらね」雪桜は感心したようにうなずく。

「さあ、とりあえず今日は帰って寝ようぜ。俺も疲れた」犬神が帰宅を促す。

「ではこれで今晩は失礼します。…大事なものって制服の事だったんですね」とジャージの夕姫が雪桜に問う。

「でも良いもの見れたでしょ」雪桜はウィンクする。

「…帰ります」なにか言いたげな夕姫であったが、弥桜の母親には負けると思ったのか引き下がった。

 犬神のバンを見送った弥桜母娘だったが

「母さん、本当に大丈夫?」弥桜には母親が無理をしているのがわかっていた。

「身体の方は疲れてるだけ。ただ神官としての力はほとんど使い切っちゃった。白桜神社の母も引退ね。これからはただの勘の良いオバサンで行こうかしら」自嘲気味じちょうぎみに微笑む。

「でも、後悔はして無いのよ。こうなる事はわかっていたし、本来なら前回、全ての力を失っていた筈だったんだから。これからはあなたもお願いね」

 

 疲れて泥のように眠っていた輝虎は目ざまし時計に起こされた。いつもは鳴る気配で起きるのだが、久し振りに鳴ってから止めた。眠い目をこすりつつ身支度を済ませ居間に出るといきなりヘッドロックを掛けられる。

「お前、このままとどめを刺してやる」朝から物騒な事を犬神に言われる。台所が目に入り犬神の暴挙の理由がわかった。台所には新しい制服に身を包んだ夕姫が朝食の用意をしていた。セーラー服には見劣りすると思うが、今度のエプロン姿も最高だった。絶対に言いたくは無いがこの後ろ姿が無事で本当に良かった。

「死ね、今すぐ死ね!」犬神がギュウギュウ頭を締め付ける。起きてきたバロンが止めに入らなければ跡が残ったかもしれない。

「ユキねえが魅力的なのはテトラのせいじゃないよ!あんまり責めないで」バロンが必死に犬神を引き剥がそうとする。黒猫ペンタもバロンに助勢して犬神のすねに食いついている。

「全国の男子の夢を叶えたんだ。ここで死んでも本望だろう」犬神もなかなか離さない。冗談じゃない。あんな思いをしたんだ、もう少し良い思いをしてもバチは当たるまい。

「男って本当にバカね」夕姫が生暖かい目でこちらを見ている。

「ニャア」さっさと犬神を放し、夕姫の用意したエサに喰い付くペンタだった。


 弥桜を迎えにいって学校にたどり着くと校庭は何事もなかった様にきれいになっていたが、牛頭が倒れ込んだ校舎はブルーシートが掛かっていた。

 学校側の説明では映画の撮影を行っていたが、照明車がバランスを崩して倒れ込んだと言うことになっていた。

 さすがに牛の怪物がぶつかったとは言えないだろう。里の後始末に感謝した。他には全く痕跡を見つけられなかった。お掃除部隊が夜通し頑張った成果だろう。

 教室に入った夕姫はいつもと雰囲気が違う事に気が付いた。もしや昨晩の事がバレたのかと思ったが、そういう訳でもなさそうだった。よく見れば男子と女子に別れてヒソヒソ話をしていたり、ソワソワしていたりと落ち着きがなかった。

夕姫は気になって弥桜に尋ねた。

「だって来週バレンタインデーじゃない」弥桜は当然とばかりに言う。そうか校舎の損壊そんかいより恋愛優先か。里では婚姻は家同士の繋がりが重視され、名家になるほど自由恋愛など考えられなかった。自分の周囲もそのようなイベントにうつつを抜かす者はいなかったと夕姫は思った。せいぜい父の日位の盛り上がりだ。

「じゃあ、日曜日の買物って」おそるおそる弥桜に聞いてみると

「そう!今年は高校生になって初めてのバレンタインだし、あげたい人も多いし気合い入れなくちゃ!」鼻息荒く肯定された。夕姫は頭を押さえたが、まあたまにはこんな事も良いかと思った。

 たしか子供の頃、父親にチョコレートをあげたきり、もう何年もバレンタインなんて気にしてなかった。父親にも恥ずかしくなってやめたし、輝虎とはそういう雰囲気じゃなかった。

 まあ私も高校生になったし 、ひとつ女の子らしいこともしてみるか、そう思った夕姫だった。

 

 18


 約束の日曜日、バロンと輝虎をおいて弥桜と横浜のデパートに出かけた。催事場さいじじょうに設けられた特設会場は女性でごったがえしていた。

 夕姫はいつもの様にGジャンにジーンズだったが、弥桜も今日は動きやすそうな服装でのぞんだ。それでも女の子らしいのはズルいと夕姫は思う。

「さあ、行くぞ!」腕まくりしそうな勢いで弥桜が人混みに飛び込んでいく。夕姫はハトコを見失わない様について行った。

 夕姫はおつとめの手当のおかげで懐具合ふところぐあいは良い。無駄使いする気はないが父親には高級チョコレートを送るつもりだ。バロンにもあげるつもりだが、そんなに悩まなくて良いだろう。問題はアイツだ。安っぽ過ぎるのも女の沽券に関わる。だからといって気合が入り過ぎても恥ずかしい。ホラ、あんなに大きなハートのチョコなんて…

「それ下さい」弥桜がその大きなハート型のホワイトチョコを購入する。ダメだ。ツッコむまい。

「母さんにも頼まれているの、氏子うじこさん達に配るようにって」そうか、だから余計意気込んでいるのか。夕姫はそう思いながら店頭を見ていると良いものを見つけた。ネコの形をしたチョコレートだ。ペンタを可愛がってるバロンには丁度良い。隣りにあるイヌの形をしたのも手が込んでいる。そうだ犬神にもあげよう。日頃あんなに世話になっているのだし。

 父親向けも無難ぶなんな物を購入し、発送してもらった。少し奮発ふんぱつして大きめの箱を買ったがどうせ妹達に食べられてしまうだろう。父親には気持ちだけ届けば良い。

 そうすると問題はやっぱり輝虎の分だ。アイツにも世話になってはいるし、義理チョコ位渡そうなどと考えているとゲテモノを見つけた。女性の胸の形のチョコだ。胸に自信の無い夕姫はあまり気分は良くなかったが、隣を見て思い直した。


「ずいぶん買ったわねー」夕姫が半分呆れて言うと

「これでも氏子さんの分だけなんだけどね。参拝者の分は氏子さんのお店に頼んであるから。去年は母さんと来てたんだけど今年は…」弥桜が顔を赤らめる。すぐに顔にでるなと夕姫は思ったが、

「バロンには私から渡そうか」とからかってみると、一瞬硬直したが頭を振って

「ううん、自分で渡したいの」即座に否定した。

「夕姫さんは笹伏さんにどんなのあげるの」弥桜に思わぬ反撃を受ける。

「えっ」

「…あげないの?」上目遣いに聞き直される。

「えー、あげることにしたけど、そう言うんじゃなくて、義理よ、ギリ!」しどろもどろになってしまったが、義理だということは伝わったはずだ、多分。

「ふーん、はーん、そうなんだ」疑いの眼差しで弥桜に見られる。

 夕姫は弥桜の口止めと自分の食欲を満たす為に中華バイキングに誘った。弥桜は快く秘密にすることに同意してくれた。


 輝虎が学校を休み、三叉戟さんさげきという槍とは違う長柄武具の修業に山に籠もるという。笹伏の縁談えんだんでは輝虎の旗色は悪いらしい。その為の起死回生きしかいせいの策だ。少しさみしいが輝虎が自分の為に決心したことだ。送り出してやろうと思った。

「必ず帰ってきてよ。じゃ無ければ他の誰かと結婚しちゃうんだから」我ながら思い出すと恥ずかしい事を言ったものだ。輝虎はまだ覚えているだろうか?

 輝虎が山へ籠もってしばらくたった。なかなか戻って来ない。退屈な日々が続く。やはりアイツがいないとつまらない。だんだん腹が立ってきた。こんないい女(この時はそう思っていた)放っておいて帰って来ないなんて何考えているんだと思った。そうだ、早く帰って来なかった事を後悔させてやろうと思い髪を切るのを止めた。少しは輝虎が無事に帰ってくるよう願を掛ける事も頭をよぎったが。


 輝虎の一番上の兄、虎光から輝虎の下山を伝えられる。小学校卒業前に間に合った。仕方ない、迎えに行ってやろう。そうだ、せっかくだからこないだ届いたばかりの中学の制服を着ていこう。輝虎がどんな顔をするか今から愉しみだ。

 輝虎が籠もっていた山と実家の間の道で待つことにした。しばらくすると懐かしい顔が走って来た。ずいぶんたくましく、身体も大きくなっている。こっちを見ていぶかしげな顔をした。それはそうだろう、別れたときとは全く違う自分がいた。

 どうだ、きれいになっただろう、と内心自慢したかったはずだが、なぜだか目頭が熱くなった。いやだ、輝虎に涙なんて見せるもんかと夕姫は思ったが、意思とは関係なく熱いものがこぼれ落ちる。自分にこんな感情が有るとは今まで気付かなかった。

 輝虎もこちらを見てほうけている。この顔を見たくてここに来たはずなのにどうでも良くなってしまった。

「お帰り、テル」やっとそれだけ言えた。あとは感情があふれてしまい、良く覚えていない。


「ハイ、バロンくん」弥桜が顔を合わせた途端、バロンにチョコレートの大きな包みを渡す。

「ありがとう。吉野さん」バロンは本当に嬉しそうだ。

 今日はバレンタイン当日だ。バロンには弥桜が最初に渡したいということなので、夕姫からは学校から帰ってから渡すつもりだ。犬神には今度会った時で良いだろう。

「ハイ、笹伏さん」輝虎にも包みを渡すが、あからさまに大きさが違った。輝虎は複雑な顔をしたが礼を言う。

 今日の弥桜は忙しいそうだ。学校ではクラスの男子全員に義理チョコを配るらしいし、神社に帰ったら参拝者にもチョコを渡すそうだ。どうも美人母娘のチョコレートを目当てに男性参拝者が押し寄せるらしい。神社でバレンタインデーってどうなのよとか、他人事ながら大変だとは思うが、家業というものはそうしたものだ。


 放課後男子組といつものように校門で待ち合わせると、バロンも輝虎も荷物が増えていた。

「どうしたの?」一応聞いてみる。

「クラスや上級生の女の子にもらったんだ。食べ切れないよね」バロンは全く悪びれずに言う。

「バロンくんも笹伏さん人気有るものね」少し怒った声で弥桜が言う。

「断わるのもなんだしな」輝虎は満更でもない顔をしている。何となく夕姫は腹が立った。

「そう、良かったわね」取り合わず白桜神社に向かうことにする。


 神社にたどり着くといつに無く、境内はごったがえしていた。知らないで見たらお正月かと思えるくらいだが、参拝客は男にかたよっている。

「わあ、スゴイ!」他人事みたいな神社の娘がいた。

 すると人混みをかき分け、雪桜が現れ夕姫の腕を掴み

「ねえお願い!今日だけ手伝って!」と懇願こんがんされてしまった。


 巫女の装束を借りて、社務所の窓口に本職の母娘と並んで夕姫が座る。今日お守りを買ってくれた参拝者には白桜神社特製チョコレートをプレゼントする事になっている。雪桜が考え出したことで、ここ数年続けているそうだ。噂が噂を呼び毎年参拝客が増えている。

 バロンと輝虎は仕方なく社務所の中でお守りの箱を追加したりもしていたが、それも続くはずも無く、置いてあった茶菓子をかじったり、クラスメートからもらったばかりのチョコレートを食べたりしていた。

 お互いに眺める相手は違ったが、弥桜と夕姫の巫女装束の後ろ姿を楽しんでいた。

「僕もやっとテトラの趣味がわかるようになったよ」バロンが女性陣に聞こえないよう小声で耳打ちする。

「ふむ、この道は長いぞ。精進しろよ」と輝虎が返す。もしここに犬神がいたら二人共即死かも知れない。そんな会話も筒抜けだった夕姫は営業スマイルを絶やさずに応対しながら心の中でつぶやく。

(男って本当にバカ)


 夕方になり、やっと客足が途絶え、社務所を閉める時間となった。

「やっと終わった!」弥桜は肩がこったらしく揉んでいる。まあ、あんなのぶら下げていたら、こるだろうなと夕姫は眺めていた。

「夕姫さん、お疲れさま。本当に助かったわ。ありがとう。じゃあこれ、本日のバイト料。気持ち多めにしておいたから美味しいものでも食べて」雪桜に封筒を渡される。

「ウチのダンナ、今日一日放っておいたから、これからねぎらわなくちゃならないの、御馳走はまた今度ね」雪桜はまだ忙しいらしい。邪魔しちゃ悪いと思い、着替えてそうそうにおいとました。


 雪桜がくれたバイト料はたしかに多かった。くたびれたし、懐もあったかかったので夕姫は牛丼屋で特盛り十杯を持ち帰りにした。もちろん輝虎に持って帰らせた。


「ハイ、バロン」アパートに帰ってすぐ、バロンにネコチョコを渡した。包装はわざとしていない。凝りすぎるとこっちが恥ずかしい。

「わあ、ペンタみたいだ」中を見たバロンは喜んでくれた。夕姫の千里眼は輝虎が一瞬羨ましそうな顔をしたのを見逃さない。面白いからもう少しらしてみよう。

 夕飯の牛丼を平らげ、各々自室に戻る時間になった。バロンが何か言いたそうだったが自室に入っていった。


 夕姫が屋上に行くとすでに輝虎が待っていた。またハンドサインで呼び出したのだ。きっと期待していそいそと来たのだろう。

「チョコ貰えると思ったでしょう」もう少しからかってみる。

「まあな」意外と平気そうだ。モテる男の余裕というやつか。

「欲しい?」もっと意地悪したくなる。

「今日もらった他のチョコ全部捨ててもな」輝虎は自分でもキザだなと思いつつ、夕姫のゲームに乗ることにした。

「わかったわ、その気持ちに免じてあげることにするわ」

夕姫もこれまでと思い、輝虎にチョコレートを手渡す。

「初めて貰うな」輝虎が感慨深かんがいぶかく言う。

「そうね。今まで女の子らしい事、一つもしてこなかったもの」今日は素直に反省できた。

 考えてみれば輝虎はいつも夕姫の為に身体を張ってきた。この間の牛頭ごずの時も勘違いとはいえ、自分の仇にとあれだけ無茶な闘い方をしてくれた。

 あそこまでされたら自分の様な面倒な事情を抱えてなければ一発でれてしまうだろう。いや、もう惚れているのだろう。輝虎がいない事など考えられない。

「なんだこれ?」チョコの中身を見た輝虎が首をかしげる。

「オシリチョコ。テル、私のお尻好きでしょ。何時も見てるの知ってるわ」そう、輝虎に渡したのはピンク色のオシリチョコだった。ちょっぴり下品かとも思うが輝虎には丁度いい。

「だって前には見るものないじゃん」夕姫が一番気にしている事で反撃してきた。

「…返せ。チョコ返せ!」怒った夕姫がチョコレートを奪還しようと手を伸ばすが一足遅く、輝虎の大きな口に入ってしまった。

「御馳走様。旨かったぜ」輝虎は満足げにニンマリする。

「もうやんない」効くとは思わないが全力でローキックを輝虎に入れる。やっぱり微動だにしない。

「来年はオッパイチョコで良いぞ」


 暗い部屋で少女が熱心に雑誌を見ている。彼女、梅田広子うめだひろこはバロンの同級生だ。

 バロンが転入して来てまもなく優しい言葉を掛けられ、すぐに好きになってしまった。自分にとっては初恋だった。叶うとは思わなかったが、今日のバレンタインデーにチョコレートを渡し、気持ちを伝えたかった。

 広子ひろこは地味だったが渡せればもしかしてうまくいくかもしれないと淡い期待が有った。 

 しかし、今日のバロンはクラスメートや上級生の女子にまで囲まれて、自分のチョコレートを渡すスキがなかった。なくなく家に帰りチョコレートを捨てた。食べるどころか見るのも嫌だった。自分のこの消極的な性格を呪った。

 もっと社交的になる方法は無いかと趣味のオカルト雑誌を見ていると、必ず願望が叶うと書いてある、通販アイテムが目に付いた。一つの願いに一点必要だが買えない額ではない。最初のお試しは格安だ。効くとは思えないが興味を引かれた。 








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