9 青騎士の誓約(5)

「……フィオーレ」


 龍王は打たれたまま立ち尽くし、呆然とフィオーレを見つめ返している。フィオーレはわたしたちを手で示して、龍王の顔をそちらへ向けさせた。


「メルくん、どうしてこんなひどいことしたの」


 フィオーレの横顔は涙に濡れていた。


「だってフィオーレがいなかったから」

「そんなの理由にならないよ。わたしがいなくて寂しいなら、百年前の約束のことをちゃんと思い出して。そうしないと口きかないって、わたしそう言ったよね」

「地龍に預けものをしたことはうっすら覚えてるけど、ほかになにかあった?」

「あなたが言ったの! いま交わす婚姻は仮のものにして、百年経ってねえさまが無事に戻ってこられたら、そのときにあらためて結婚しようって……! そうしたらその結婚はきっとほんものになるから、って!」


 龍王は驚いたように目をしばたかせていたが、やがてとろけるような笑みを浮かべた。


「へえ、さすがぼくだ。いい提案をする」

「ほら、またわたしの話をちゃんと聞いてない!」

「そんなことないよ、だってその約束を忘れられてフィオーレが怒るのは、フィオーレがぼくのことを愛している証拠だから」


 つくりもののように整った顔をうつくしく歪めて、龍王はフィオーレの髪に口づける。


「ぼくはそれを知るために約束を忘れたのかもしれない」

「そんなのこじつけです……!」

「どちらにせよ、帰ってきてくれて嬉しいよ、フィオーレ。おかえり、ぼくのかわいいひと」


 龍王はフィオーレを抱きしめると、わたしたちのほうを一瞥し、そのさらに後方へ向かって目を細めた。


「テオリア、大儀だった」


 振り返ると、腕を組み渋面をにじませたテオリアが壁にもたれて立っていた。フィオーレを背負って走ってきたはずなのに、息ひとつ乱れていない。


「邪魔だ、はやく帰れ」

「言われなくてもそう……」


 するよ、とでも続けるつもりだったのだろうか。言い終えるより前に龍王はフィオーレとともに姿を消してしまった。去り際のフィオーレは顔をまっかにして泣いていたが、龍王の胸にすっかり体を預けているようでもあった。

 はたして龍王のあのあまりにもポジティブが過ぎる返答で納得できるものなのか……。わたしにはその心情は想像できないけれど、テオリアの様子ではあれがあのふたりの在り方なのかもしれない。ならば、たとえ姉妹であっても口出しするのは野暮というものだ。

 結局のところわたしにできるのは、いつでも手の届くところに味方がいるとフィオーレに伝えることだけだ。どうしようもなくなったときにまた頼ってくれたなら、それでいい。


 あれだけ慌ただしく騒々しかった時間がぷつりと途切れて、部屋は火が消えたように静まり返っていた。

 その静寂を破るように来客のベルが鳴る。

 テオリアは心底腹立たしげに舌打ちをもらした。


「今度はいったい誰だ。下まで見てくる」

「ああ……」


 どうにか絞り出した声はまだひどく掠れていた。テオリアは眉間に深い皺を寄せ、 何度もこちらを振り返りながら部屋を出て行った。

 かるく空咳を繰り返し、喉の具合をたしかめる。違和感はあれど、強い痛みや息苦しさはない。時間が経てばもとに戻るだろう。


「ルーチェ、すぐに医者に診てもらおう」

「いや、大丈夫だよ。まだすこし喉全体がこわばっているだけだ。じき治るから心配するな」


 安心してほしくて微笑みかけるけれど、ぎこちなかったのだろうか、メテオラは顔をくもらせる。

 メテオラはわたしの前に片膝をつき、深く頭を下げた。


「ごめん、ルーチェ。謝って済むことじゃないのはわかってる。やってしまったことは消せないから、せめてルーチェの気がすむまでおれはどんな罰だって受けるよ」

「おまえが謝ることはない。あれは不可抗力だった。それに、まだいくらか声が掠れているけれど、痛みや息苦しさはもうほとんどない。気にするな」

「……なに、言ってんの」


 かすかに笑いながら、メテオラは膝に置いた手に力を込めた。うつくしく整えられていたはずの黒い爪は、もう半分以上が彼の自爪になっていた。


「おまえのせいだって責めてくれればいいのに……」

「責める理由がない」

「おれはルーチェを殺そうとした。宰相のことをあんなに責めておきながら、とめられなかった」

「それはちがう」

「違わない。……だめだよ、ルーチェ。呪いのせいだとしても、事実は事実だ」


 呆れているのだろうか、メテオラはため息まじりに笑みをこぼす。その笑顔があまりにも優しくて、なぜだかわたしは涙をこらえられなくなった。ひとつ、ふたつと、涙が頬を伝う。メテオラはわたしの頬へ手を伸ばしかけたけれど、わたしへと届くことはなかった。


「ルーチェに出会えて、しあわせだった。ありがとう、おれのことを信じてくれて」

「わたしの手柄みたいに言わないでくれ。おまえがわたしを信じさせてくれたんだ」

「だと、いいな。嬉しかった。忘れないよ。シロカネにもよろしく伝えておいて」


 まるでこれが最後であるかのような口ぶりに、わたしはどう返事をすればいいのかわからなくなる。


「さよなら」


 そう言って、メテオラは他人行儀にきれいに笑う。いつもはへらへらとしていたり、紋様を歪めていたり、どこか仕方なさげな微笑みを見せるのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る