9 青騎士の誓約(4)

 そのとき唐突に、鉛のようだった体がふと軽くなる。パントリーのドアはまだ開かない。だがもうすぐそこまでフィオーレが来ている!

 わたしはメテオラに駆け寄り、うずくまる彼の肩を抱いた。


「メテオラ、大丈夫かメテオラ!」

「来るな……、来ないで……」


 顔を覆う指のあいだから、スカイブルーの流星の瞳が覗いている。だがそれはときおり赤く染まり、凶星のように暗く輝く。


「おまえたちも呪いのほんとうの渇きを知るといい」


 龍王の手のなかで蝶が握り潰される。同時にメテオラの手がわたしの首に伸びた。その勢いのまま床へ押し倒される。


「うぐっ」


 喉をおさえてくるメテオラの腕を引き剥がそうとするけれど、まったく敵わない。痛くて苦しい。視界は涙で滲み、意識は朦朧とした。手から力が抜けていく。


「ルーチェ……」


 掠れた声とともに、わたしの頬にあたたかな雫が落ちる。見上げると、メテオラの赤い瞳から涙がもうひとつこぼれた。

 いまにも獲物に食らいつこうとする呪いに、メテオラは必死で抗っていた。歯をぎしぎしと噛みしめ、小ぶりの牙で唇を噛み、口の端からあふれた血は唾と混ざって長く糸を引いていた。

 思えば、わたしはまだ生きている。

 相手は術式をむりやり剥がされ、握り潰され、真に解放状態にあるメテオラだというのに、生きているのだ。


 百年前の戦場で見た呪い状態の悪魔たちとは明らかに違う。その理由は、まだ術式が繋がっているからかもしれないし、彼がハイブリッドだからかもしれない。

 けれどわたしは、メテオラの強固な自制心、うつくしい理性の成すところだと確信していた。


 メテオラになら食われてもいいと思える。けれどもしいまそう伝えられたなら、メテオラはあのやわらかな声で笑いながら、食べないよと言うだろう。だからわたしは絶対にメテオラに食われてはいけない。

 わたしを食って傷つくのは、メテオラだ。

 そうとわかりながら諦めてはいけない。メテオラだって必死で呪いと戦っているのに!

 わたしはもう一度、メテオラの腕を掴んだ。もうほとんど力は入らなかったけれど、それでもどうにかしがみつく。

 そこに、あたたかな手が重ねられた。


「よくがんばりました」


 ふわりと、春風が吹いたようだった。

 フィオーレは片手でわたしの手をいたわり、もう片方の手でメテオラの頬を撫でた。


「もう大丈夫。もとに戻してあげるからね」


 その言葉どおり、メテオラの首すじから頬にかけて、ゆっくりと紋様が浮かびあがる。苦しみ、こわばっていた眼差しが、雪が融けるようにほどけていく。わたしの首に張りついていた手から一気に力が抜けた。

 メテオラはスカイブルーの瞳でフィオーレの姿を見つめて呟いた。


「妖精さん……」

「それ、わたしのこと? 覚えててくれて嬉しい。まだこんなに小さかったのに」


 フィオーレはしゃがんだ自分の頭の横に手を置いて示し、頬を染めて笑った。メテオラは面映ゆげに目を細めながら、わたしの体をそっと抱き起こした。


「忘れない。まさかこんなに最高な運命を連れてきてくれるとも思ってなかったけど」

「フィッオーレ!」


 龍王は跳ねるように椅子から立ちあがり、両腕を広げた。わたしだけでなくメテオラとフィオーレの視界にも入っているだろうし、そもそもこの歓喜の声が聞こえないはずはないのだが、ふたりは視線を向けることすらしない。


「ねえさまを連れてきてくれてありがとう、メテオラ。地図、気づいてくれたんだね」

「フィオーレ? フィオーレ!」

「だいぶ苦労したし、皿の絵柄って……うちの母さんが割ってたら終わりだったよ?」

「ちょっと、フィオーレってば! ぼくのこと無視しないで!」

「それは心配した! ステラはああ見えて大雑把だから」

「結果としては、母さんがクッキーをその皿に載せてくれてたから気づけたんだけどね」

「わかってるんだか、わかっていないんだか、そこがステラのすてきな……」

「フィオーレ! フィオーレ!」

「メルくん、うるさい!」


 ついにフィオーレは立ち上がり、つかつかと龍王のもとへ歩み寄った。その足取りは挫いた足首の痛みを感じさせないほど毅然としていた。

 フィオーレの背中には燃え立つような怒りが渦巻いているというのに、龍王はそれをまったく気に留めようとしない。


「ああ、フィオーレ! こんなにも長いあいだ、ぼくをひとりにするなんて。いじわるなひとだね、ぼくはほんの五分だってきみと離れたく――」


 ぱんっと、皮膚をはじく乾いた音が響く。

 フィオーレが龍王の頬を平手で打ったのだった。

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