9 青騎士の誓約(3)
「ところでねえさま、メテオラはここには来なかったのですね。もう帰ってしまいましたか」
「いや、眠っていたから……」
そう答えながら、わたしはフィオーレの話を思い返した。
龍王はフィオーレのほかに奇跡の力が存在することを、きっと許さない。
メテオラは龍王がそばにいても怯まなかった。龍王はそのことにひどく苛立っているようだった。
たぶんおなじことに思い当たったのだろう、わたしとテオリアはほぼ同時に互いを見合った。
「テオリア、龍王はいつもああやって勝手に部屋へ入ってくるのか。それともあれはおまえがいるときだけか」
「あいつにそんな配慮はない。世界のすべては自分のものだと思っている」
「だったら……」
「ああ、そうだな。おれたちがいないのを好機と捉えるだろう」
気づくとわたしは駆け出していた。
「ねえさまっ?」
「すまない! 先に戻る!」
「ばか! おまえだけではメルクーリオの相手は無理だ!」
「わかっている、だからふたりも急いでくれ!」
向かい風を受けながら丘を駆け、暗い階段を感覚だけで駈け上がる。
石の冷たさが足裏に刺さるようで、そういえば裸足のままだったことにいまになって気がついた。なんだかおかしくて、笑いがこぼれる。
はじめて会ったときには、逃げだすためとはいえ脇腹を掻っ捌いた男なのに。それなのにわたしはいま、おなじ男の身を案じ、息を切らしながら階段をのぼっている。
なぜ、と胸のうちに問いかける。
しかしそこにあるやわやわとした塊りになにか名前をつけてしまうのは、とても乱暴なことに思えた。
壁に手を添えながら階段をのぼりきり、廊下を走る。すぐに鉄扉に行き当たった。把手を手探りで見つけだし、ドアをひらく。
室内からはかすかに血のにおいがした。
だが見える範囲に異常はない。わたしはパントリーからキッチンへ出て、部屋を見渡した。
ふたり掛けの小さな食卓に、メテオラがしがみつくようにして手をついていた。肩で荒く息をしている。喉がつかえるのか、その呼吸音はときおりひどくざらついた。
「メテオラ!」
わたしの呼びかけに、血まみれの顔がこちらへ向けられる。
「ああ、ルーチェ……」
いつものようにへらりと笑みを浮かべようとするけれど、苦しいのだろう、ままならず表情はぎこちない。
「なにがあった、メテオラ」
「あー、……うん。やっぱりパントリーのほうから戻ってきたね。ブランケットが落ちてたから、そう、じゃないかと……」
話しているそばからメテオラは咳き込んで血を吐いた。駆けつけて背中をさすってやりたいが、わたしの足は小刻みに震え、そこに縫いつけられてしまったように動かない。
「やあ、おかえり」
窓辺の椅子に、龍王の姿があった。脚を組んで優雅に腰かけながら、わたしに向かって手を振っている。
わたしには手を振り返すこともできない。……いや、可能だとしても絶対に振り返したりするものか。
「メテオラになにをした」
「怖い顔しないで。なにをした……って、ちょっと剥がしてみただけだよ」
「剥がす……?」
龍王の指先では一羽の蝶が翅をやすめていた。黒い翅にはゆるやかな紋様があり、尾が長く、紋様のないところは向こうが透けて見える。悪魔の類いなのだろうか。わたしには初見の蝶だが、その翅の紋様にはたしかな既視感がある。
龍王はその蝶を目の高さまで掲げて、翅や触覚をじっくりと眺めた。
「呪いを封じてるっていうから、どんな仕組みなのか知りたくて」
蝶の尾は糸のように細く長く垂れ下がり、メテオラのそばまで伸びていた。その先のことはわたしの場所からでは見えない。だが蝶の正体に気づくにはそれで充分だった。
剥がしてみた、という龍王の言葉の軽さに、わたしはかえって頭が冴えるような怒りを覚える。
「龍王、仕組みがわかったなら、それをはやくメテオラに戻せ」
「この呪い持ちの母親、宵闇姫なんだって? なるほど偽善まみれのあの女がやりそうな手だよ。蝶に血を吸わせながら呪いの衝動を肩代わりさせていたんだ。これで誰も傷つかない、そういうことだろう。あんまりご立派で虫唾が走るね」
わたしには、そうやって笑っている龍王のほうがずっと虫酸が走る。
蝶はまだ繋がっているのだろう、さいわいメテオラは解放状態ではないようだ。だが、このままいつまでも持つものなのだろうか。
いや、龍王ははたしてこれで満足するのか。
「術式をはやく戻せ」
わたしは震えそうになる唇を噛み、龍王を睨みつける。龍王はわたしに向かって片眉をつり上げ、不快げに目を細めた。
「おまえ、なにさまのつもり。どうしてそう何度もぼくに命令するの。ぼくの前ではなにもできないくせに」
指で遊ばせていた蝶に龍王が爪を立てる。
「ぐ……っ」
途端にメテオラが胸をおさえてうずくまった。心臓のうえ、おそらく蝶と繋がっている部分だ。
「メテオラ!」
「ねえ、ぼくにどうしてほしいのか、ちゃんと言葉を選んでお願いしてみてよ」
龍王はさらに指に力をこめて、蝶の翅を引き千切ろうとする。
「ああっ、あああっ!」
メテオラが悲痛な叫びをあげる。わたしは動かない体に力をこめた。
「やめろ、やめてくれ、龍王!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます