7 龍王の花嫁

7 龍王の花嫁(1)

 冷たい。

 ひどく冷たい水のなかにいる。


 宙空に放り出され、地龍に飲み込まれたはずなのに、なぜこんなにも冷たく澄んだ水のなかをゆるりと沈んでいるんだろう。

 見つめる先、水面は白く輝いていた。その光が粒になって粉雪のように降りそそぐ。手を伸ばして掴み取ってみるけれど、そうしたところで手のひらにはなにも残らなかった。


 水のなかだというのに息苦しいこともなく、ガラス片で負った傷の痛みもなく、心地よい場所だった。いったいどのくらいのあいだこうしているのだろう。何時間、何日、いや、もう何年も漂っているような感覚すらあった。


 そういえばこの世界で目覚めたおりにも似たような感触があった。あのときはメテオラに起こされてすぐわからなくなったが……。


 後ろから回されたメテオラの腕が、わたしから離れていこうとする。黒い爪をした指先には力が入っていない。振り返るとメテオラは意識がないようだった。わたしは慌ててその腕を掴んで引き寄せる。ここで離れてしまうと、もう二度と会えなくなるような気がした。


 ふと、どこからか呼ばれているように思って、わたしは周囲を見渡した。けれどわたしたち以外に生きものの姿はない。声は水のなかで砕けて、反響していた。

 やがて水中にゆるやかな流れがうまれる。それにともない、散らばっていた声もまたひとつの言葉へと収斂していく。

 その声ははっきりとこう言った。


 ルーチェねえさま、と。


 わたしはフィオーレの声に応えようとするけれど、わたしの声もまたかたちを結べず諦めざるを得なかった。


 唐突に、劇場にあった小部屋の階段が思い出される。そうだ、わたしは以前にもフィオーレに呼ばれてあの部屋に入った。見覚えがあったのはそのためだ。しかしそれがいつのことか、夢か現実かの判別も難しい。

 きっとあの階段の先にはフィオーレがいたのだ。だからわたしは見えない壁をすり抜けることができたのではないだろうか。

 しかしそれならテオリアだって先へ進めそうなものなのに……。


 思考を阻むように、冷たいばかりだった水がぬるく澱む。途端に、まっとうに呼吸をしなければならなくなる。わたしは両腕でメテオラを抱えて、懸命に水面を目指した。肺のどこにも、もう空気など残っていない。体が内側から破裂しそうなほど苦しい。それでももう無理だとは思いたくなかった。


 水底から気泡が噴き出す。それが一瞬わたしたちを包んだかと思うと大きな渦となり、一気に岸まで運ばれた。


 わたしは久しぶりに吸い込む空気にひどく噎せながら、横たわるメテオラの顔を上から覗きこんだ。


「メテオラ! しっかりしろ、メテオラ!」


 紋様の戻った頬には血の気がない。耳を寄せると、息もない。


「こんなのはだめだ、起きてくれ!」


 濡れて肌に張りついた手袋を引き千切るように脱ぎ捨て、わたしはメテオラの顎を持ちあげた。鼻をおさえて、薄くひらいた唇へ、わたしの息を吹きこんだ。

 続けて強く胸を押す。


「わたしの願いをともに叶えてくれるのだろう! もしわたしを独りきりにしてみろ、シロカネにさんざん噛みつかれるぞ!」


 反応はない。それでもわたしは何度だって繰り返し息を、いのちを送った。


「シロカネだけじゃない、……わたしだって!」


 いつまでも冷たい唇に、呼吸が、思考が乱れる。濡れた髪からこぼれた雫がメテオラの頬を濡らした。うなだれるようにしてメテオラの胸に手を置く。押そうとするけれど、体がいうことをきかない。


「メテオラ、おねがいだ……」


 引っ掻くようにして、メテオラのシャツを掴む。その指先に、かすかに響く凝りがあった。

 メテオラはうめき声を洩らすと咳き込み、水を吐いた。

 閉ざされていたスカイブルーの流星がよろめきながらわたしへと向けられる。吐息のような声が、わたしの名を呼ぶ。


「ルーチェ……」


 わたしはメテオラの胸に額を押しつけた。そこは息をするたび上下して、ざらざらと空気の通る音がした。


「よかった、生きてる」

「そう、だね」


 メテオラの大きな手がわたしの肩を包む。


「ルーチェ、ふるえてる」

「当たり前だ。おまえが死んだらと想像するのは、自分が斬られるよりずっと怖かった」

「ごめんね……」

「おまえが謝ることじゃない。それより礼を言わせてくれ。わたしをかばってくれてありがとう」


 すでに記憶が曖昧になりつつあるが、冷たい水の世界に放り出される前、岩のようなものに激しくぶつかったような衝撃があった。


「ああ……、そうだっけ。とっさのことで、あんまりよく覚えてないけどね」


 メテオラが体を起こそうとするので、手を貸す。


「そういえばルーチェ、傷がなくなってる」


 わたしの肩を撫でながら、メテオラが不思議そうに呟く。見るとたしかに、はじめから傷なんてないような肌をしていた。ガラス片が刺さっていたはずなのに、言われるまですっかり忘れていた。


「どうりで痛くないわけだ」

「おれはともかく、ルーチェの傷がそうなるのは……、この池の効果効能ってとこかな」

「池というが、そもそもここは地龍の腹のなかじゃないのか」

「それね」

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