6 狂宴の果てに(10)

 わたしは身を低くしたまま、両腕で構えを取った。鳥は無邪気に拍手をする。


「ずいぶん活きの良さそうなのが来たなあ」


 丸く大きな瞳は宝石のようにきらめいて、わたしを興味深そうに見つめていた。


「おまえ、名前はなんていうの」

「いまから食おうというのに、名前など気にするのか」

「わあ、喋った。ぼくのことをおそれないんだね」

「貴様ら悪魔にはすっかり慣れてしまった。いまさらおそれなどあるものか」

「すこしお話をしようよ。ぼくはこれでも人間のことを愛しているんだよ」


 人差し指の鉤爪が、わたしの顎を持ち上げる。わたしは鳥を睨みつけた。


「愛しているなら、食おうなどとは思わないはずだ」

「そうかな。きみたちだって魚や牛を食うだろう。まさか憎くて食うわけじゃあるまい」

「深い感謝の思いはある。だがそれ以上の感情は持ち合わせない。わたしはそのほうが誠実だと考える。おまえたちエレジオにはその感謝の思いがまったく感じられない。帝国との約束を破って享楽のために人間を食うなどと、……まあそれでこそたしかに悪魔の所業なのかもな」


 強い風が吹いたと思ったその瞬間には、わたしは窓へと吹き飛ばされていた。硝子を突き破り、テラスへ転がり出る。どうやら翼で薙ぎ払われたらしい。


「久々に地底から出てきてご機嫌だったのに、最悪な気分だよ」


 砕けた窓の硝子片が肩や背中に突き刺さっていた。体を起こそうとすると、全身がひりつくようだった。


「悪魔のぼくが人間を食って、なにがいけないの」

「おまえたち悪魔は人間よりもずっと頑丈で、長命で、残酷で、なるほど我々を食うことなど造作もないだろうな。もし人間をうまいと思ったなら、帝国との約束など守る必要も感じないのかもしれない。だが、それなら安易に愛などと口にするな!」


 かつての、百年前のわたしなら、悪魔には愛など存在しないと鳥の言葉を笑っただろう。そこに怒りはなく、ただの言葉遊びと思ったかもしれない。

 だがいまのわたしは百年前のわたしではない。シロカネのイナノメ殿を思う気持ち、ソルがメテオラを心配する姿、メテオラが危険を承知でこの仕事を続ける理由、それらを知ったからこそ、悪魔を一括りにして自分のおこないを正当化し、さらに愛しているとまで宣う鳥が許せなかった。


「貴様の愛は、ただの独りよがりにすぎない!」

「だまれ人間!」


 鳥は身を震わせて何倍もの大きさになって部屋中を埋め尽くした。首を伸ばしてテラスへと這い出てきて鉤爪でわたしをつまみ上げる。

 わたしは吊り下げられるようなかたちで膝立ちになりながら、じわじわと食い込んでくる鉤爪の痛みに顔を歪めた。


「図星だろう……? くそ悪魔」

「どこから食ってやろうか。さかしくわめき散らす口からか。それとも生意気な目をほじくり出して噛み砕いてやろうか」


 鳥は、人と鳥との姿の境目を失っていた。鱗のような羽毛の隙間から血走った目が覗いている。口はいつしか嘴へと変化していた。ひらくと長く黒い舌があらわれて、ねばついた涎が糸を引いた。


 食われてしまう。その強烈な予感のなか、わたしは妙に落ち着いていた。百年前にとうに喪ったはずの命だ。惜しいとは思わない。ただひとつ、メテオラと結んだ契約のことだけが気がかりだった。あいつのこれからの人生を思うとわたしとの契約などすっかり忘れてほしいと思う。おなじ強さで、忘れないでいてほしいとも思う。


 鳥のこぼした涎がわたしの頬や胸を濡らしていく。さらに大きく口をひらいた、その時だった。

 わたしの上に、影が落ちた。同時に、鉤爪によって持ち上げられていた体がテラスへと頽れた。


「防音壁まじくそ死ね」


 上から降ってくる声に、わたしは背後にあるテラスの手すりを見上げた。

 そこには、退魔の刀を持つメテオラがいた。


「ルーチェさん!」


 壁に固定されたテラスのひさし部分には狐のままのシロカネの姿もあった。


「メテオラ! シロカネ!」


 鳥は何が起こったのかわからない様子で、手首から先が無くなった自分の腕を眺めていたが、やがて耳をつんざくような悲鳴をあげた。


「うるっさいなあ!」


 メテオラはわたしと鳥のあいだに降り立つと、刀の切っ先をはね上げて鳥の顔面を斜めに斬り裂いた。

 鳥は奇声のような悲鳴や唸り声を呪詛のように洩らし、メテオラに向けて腕を振り下ろした。それほどの速さではないが、一撃が重いのだろう、受け止めきれずにメテオラの肩口から血が噴き出した。


「メテオラ!」


 なぜよけないと責めようとして、わたしは口を噤む。もしメテオラがよけたなら、鳥の攻撃はわたしが食らうことになる。

 あたりにはメテオラの血が飛び散るが、それ以上血がしたたることはなかった。わたしは手すりに掴まりながら立ち上がり、メテオラの横に並んだ。

 メテオラは顔に散った血をぬぐいながら、まっかに染まった目をわたしへ向ける。その頬には紋様がない。


「生きてるか」

「さいわい」

「ならおまえが使え」


 メテオラは鞘におさめた刀をわたしに寄越した。


「どうも生きた心地がしない」


 わたしは刀とメテオラを交互に見ながら、戸惑いを隠せない。


「まさか解放状態のメテオラと会話が成立するなんて」

「食われたいのか」


 ずん、ずん、と地響きがする。テラスは小刻みに揺れ、あたりに落ちていた鳥の羽毛が振動にあわせて浮き上がった。

 退魔の刀に斬られたせいだろう、鳥の顔も手首も再生が鈍い。それを嘆いているのか、鳥はテラスの床を叩き続けていた。ときおり顔の奥からなにやら声が聞こえるが、それらはもはや言葉の羅列にすぎず、意味を成していなかった。


 鳥がひときわ大きな叫びをあげる。それは縊られるときの断末魔にも似た悲痛なものだった。

 その瞬間、体が後ろへ傾いだ。

 あっと事態を理解したときには、テラスが粉々に砕けていた。

 体が宙空に投げ出される。

 なにかに掴まろうとするけれど、そんなものはどこにもない。


「ルーチェさん……!」


 ひさしの上からシロカネが身を乗り出している。来るなと叫ぼうとするが声が出ない。刀をシロカネに投げようと思うけれど、体が思うように動かない。

 せめて手放さないようにしなければ。そう思い強く刀を握ったとき、わたしの体を後ろから抱きとめる腕があった。目の前をよぎる黒い爪。メテオラだ。


「いいかシロカネ! 隊長が来たら次第を説明しろ! あとはあの女の指示に従え!」

「でもメテオラさん!」

「それと、絶対にそこから動くな! 死ぬぞ!」


 メテオラはそれだけを告げると、空いた手で信号拳銃を構えて、夜空に向かって照明弾を撃ち込んだ。直後、空のずっと高いところから無数の矢が降りそそいだ。矢は白く発光して、岩山の壁もすり抜けて貫いていく。


 まるで流星のようだ。

 わたしは自分の置かれた状況も忘れて、思わずその光景に目を奪われた。


「地面への衝撃くらいならどうにかなるかと思ったが」

 メテオラがため息まじりに耳もとでぼやく。

「これは……、無理かもな」


 つと顎を持ちあげられ、視線を真下へ促される。そこには大きく開かれた口があった。地割れなどの比喩ではない。岩山の大きさにも引けをとらない巨大さで、牙が生え揃った口だった。

 むかし子ども向けの図鑑で似た絵を見たことがある。


「地龍……!」


 メテオラが両腕でわたしを抱きしめた。翼を準備する余裕もないということだろう。その力強さに、いかに破滅的な状況かを思い知らされる。

 わたしはシロカネの刀をしっかり抱いて、メテオラのすこし冷たい手にみずからの手を重ねた。


 強い風圧。

 重厚な城門を閉じるときのように、轟音が響く。

 今日何度目の暗闇だろう。


 流星降りそそぐ夜空は、もう見えない。

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