6 狂宴の果てに(9)

「宰相は来るわ、めんどうな夫婦は来るわ、まったくひどい夜だ」


 やれやれとディレットが嘆く。

 ディレットは折りたたんだコートのようにわたしを腕にかけて歩いた。わたしはそこから抜け出そうと試みるが、びくともしない。

 仕方なく肩越しにディレットを振り返る。


「わたしの連れを知っているのか」


 さきほどグラスの中身をこぼしたときには、もうメテオラとはぐれた後だったはずだが。


「しつこく付きまとわれ、さきほどまで手を焼いておりました。あなたの旦那、耳はいいみたいですが性格が悪いですよ。へらへらしながら人が嫌がることばかりする」

「貴様……、メテオラになにをした!」

「されたのはこちらだと話しているんですよ? あなた、わたしの話を聞いてませんね? わたしはね、血なまぐさいことは大嫌いなんですよ。血は飛び散らせるものではありません。おいしく頂戴するものです。そのままでもよし、バターを溶かしてソースにしてもよし、ゼラチンで固めてゼリーにしてもよいですね。なんにせよ、無駄に流し合うものではありません」

「エレジオか」

「どうでしょう」


 ディレットは目を糸のように細くして笑った。その表情はパリアッチョの道化の顔と酷似していた。


「お客さまに最高の感動をお届けするのが、このディレットの喜びです。ご提供する演目や食事がいかなるものか、事前に下見をして味見をするのは当然のことでしょう? わたしは当館をご贔屓にしてくださるお客さまに満足していただきたい、ただそれだけです」

「あの階段の先が晩餐会の会場じゃないだろうな」

「なるほど、食料になりうる人間だけが出入り自由と? それなら一度入ったが最後、二度と出られないようにしていますよ」


 それはたしかに一理ある。


「だったら宰相はあそこでなにをしていた。おまえたちの悪事を暴きにきたのではないのか」


 わたしの追及に、ディレットは声をあげて笑った。


「それなら立ち入りを許可しませんでしょうよ。あそこはね、数週間ほど前に突然あらわれた、我々にも関与できない場所なんです。気味が悪いので宰相がどうにかしてくれるならありがたいと思っていたんですが、あの様子だと難しそうですね」

「なら、どうしてわたしをあの部屋から引き離した」

「ほんっとにね。正直引き裂かれる思いですよ。ですけどね、わたしには蜘蛛の巣みたいな無害な階段より、目の前のお商売なんです。あなたの連れのせいで今日のディナーがすべて逃げてしまった。その責任を取ってもらいますよ」


 ディレットはわたしを壁に向かって投げつけた。強い衝撃で一瞬息ができなくなる。その隙にディレットの腕が伸びてきて、わたしの喉を掴んだ。後ろの壁へと体を押し付けられる。


「うっ……ぐっ」


 背中に触れる壁は当然石のように冷たく硬い。だが気のせいだろうか、背骨の窪みにも壁が触れているように感じる。わたしの体に合わせて、壁が変形しているようだ。


「まさか人間をここまで連れてきてしまうとは不覚です。あの狐にはすっかり騙されてしまいました。しかもあの階段、人間でないと立ち入れそうにないなんて、どうりでうちのスタッフでは誰ひとりとして近づけないわけです。どうにもこうにもひどい夜ですが、まあそれも人生の面白さと思いましょう。これぞ最高のエンターテインメント! そのお礼といってはなんですが、あなたは特別なお客さまのもとへお届けすることにしました。安心してください、残さずしっかり味わってくださるいいお客さまですよ」


 変形していると思われた壁が、水枕のようにたぷんとたわんだ。体はじわじわと壁へ飲み込まれていく。この砦の不思議さを思えば、どこへ行かされてしまうのかわかったものではない。

 わたしはディレットの腕にしがみついた。


「人間でないとあの階段をのぼれないとしたら、なぜ宰相では無理なんだ。鍵は人間ではなく、わたしかもしれない。そのわたしを安易に提供してしまっていいのか」

「ははっ。なかなかうまいこと言いますねえ。ですが、その引き合いに宰相を出してしまっては説得力に欠けます」

「どういうことだ。あいつは人間だろう」

「あんな気持ちの悪い生きものは、もう人間ではありませんよ」


 ディレットの腕が急に実体を失い、ジャケットの袖だけになる。わたしは支えをなくして、壁の狭間で宙を掻いた。ディレットがとどめとばかりに、わたしの肩をとんと押した。体が後ろへと傾いでいく。水底へ沈んでいくように壁のなかへ落ちていく。


「行ってらっしゃいませ」


 紳士然としてわたしを見送るディレットもまた、彼の足もとの影に飲み込まれていく。パリアッチョとおなじだ。いや、すべてのパリアッチョはディレットだったのかもしれない。


 壁を抜け、薄暗い部屋へと放り出される。受け身を取る余裕もなく、体をしたたか床に打ちつけた。床は冷たく硬質な石材で、テラスに吊り下げられた明かりを受けてほの白く発光している。

 部屋の奥のソファには、何者かの気配があった。


「ああ、待ちくたびれた。もう眠ろうとしていたところだよ」


 服を翻すような音がしたと思った直後、わたしの目の前には鳥と人の混ざったような存在が立ち塞がっていた。

 人間の体をして、頭も半分は人間と変わらないが、残る半分は羽毛に覆われ、背中からは大きな翼がはえていた。年若く見えるがシロカネ同様、実際に生きている年数とはかかわりがないのだろう。少年か少女かも見分けがつかない。


 その鳥のような悪魔はわたしのそばにしゃがみこむと、わたしを囲い込むように翼を大きく広げた。



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