6 狂宴の果てに
6 狂宴の果てに(1)
ガラス窓を半分ほど押し上げ、薄地の手袋をはめた手を外へ差し出す。さわやかに冷えた夜の空気がわたしのてのひらで切り裂かれていく。
「この図体で、馬なみのはやさとは」
駅舎に停車していた蒸気機関車は想像していたより大きく、これが牛や馬に曳かれることなく走るなんて信じられなかったが、いざ動き出してみると驚きはその比ではない。
この蒸気機関車という乗り物、もとは貨物運搬用に開発設置されたもので、いまから向かう鉱山の町ミニエーラと港湾都市ヴェントのあいだを日に何度も往復している。鉱山の開発が進むにつれ国外から出稼ぎにくる工夫を運ぶために客車が繋がれることになり、いまでは毎夜開催されているパレードやサーカスを楽しむ富裕層のために個室の一等客車まで用意されていた。
わたしたちはコルダ殿のはからいでその一等客室に乗車している。シロカネも汽車に乗るのは初めてらしく、ファーから鬼の姿になってわたしと一緒に窓から手を出して遊んでいた。
肩にばさりと何か掛けられる。見やると、メテオラのジャケットだった。
「冷えるよ」
いつもより薄着なんだからと、呆れたような薄笑いを浮かべている。
「わたしにとっては見るのも乗るのも初めてなんだ。仕方ないだろう」
「そうですそうです。乗り慣れてるメテオラさんは黙っていてください」
「別に乗り慣れてはないけどね……」
メテオラはわたしの向かい側に座り、脚を組む。頬杖をついて車窓を眺める横顔には月暈のような憂いがあった。
昨夜屋上で眠れないと話していたことを思い出す。その理由はわたしに嫌われていると感じたからだと説明していたが、はたしてそれだけだろうか。
任務に対する不安か。コルダ殿からわたしやシロカネの同伴を強要されたときも、かなり抵抗していた。いつもと勝手が違うのだから精神的に負担に思うのも当然だろう。ただ、承諾したときよりいまのほうが、ずっと浮かない顔をしているのが気がかりだった。
森でシロカネを助けたときもそうだったが、そうと決まるまではああだこうだとごねたとしても、いざその方針で定まれば諦めのいい男でもある。わたしたちがともに任務に参加するのは十日も前から決まっていたことだ。いまさらこうもあからさまに気鬱な態度を取ることに、違和感を禁じ得ない。
わたしはシロカネの肩をやさしく叩いて促し、窓を閉めた。シロカネはくるりと宙返りする間にファーへと変わる。わたしはシロカネを首に巻いて、肩にかかっていたジャケットをかるくたたんだ。
ふわりと、慣れない香水が強くかおる。いつもの甘ったるい香りとは正反対の、冷たさすら感じる凛とした花や草木の香り。
まるで他人の服のようだ。
「ハイブリッドに香りがないというのは本当のことなのか」
わたしの疑問に、メテオラは頬の紋様を歪めて自嘲気味に微笑んだ。
「そういうことになってるね。おれはほかにハイブリッドを知らないから、たしかなことは言えないけど」
「まあ、そうか。しかし今はもう薬があるんだろう?」
「何年前だったかな、ハイブリッド用の特効薬が開発されてね、胎児のあいだに母親に打つことで呪いを封じ込めて、無事出産できるらしいよ」
「胎児のあいだ、か」
なるほど、それで薬が開発されたというのにメテオラの呪いはそのままなのだ。頬の紋様は呪いを封じる術式のようだが、たとえばそれと甘い香りとは関係があったりするのだろうか。
わたしはたたんだジャケットを膝の上に置いて、夜風で冷えた両手をぎゅっと結んだ。
「ほんとうに、おまえはハイブリッドなのか」
「えーっと、それはうちの母親に対する質問ってことかな」
「……ん? えっ、あっ! いや、そういうわけではない!」
断じて違う、誤解だ申し訳ないと謝りたおすと、メテオラは声をあげて笑った。
「もしいつか、おれの母親に会うことがあったらおんなじ質問してみてよ」
「するか!」
「まあでも実際疑われてた気配はあるよ、……ああ、家族にじゃなく近所のゴシップ好きとかに。結局おれに一切のにおいがないから、それで納得させられたみたい」
「そう、か」
となると、やはりわたしの鼻が壊れているということになる。
「じゃあ、あの甘い香りはどういうことなんだ」
ほとんど呟きのようなわたしの問いかけに、メテオラは頬杖をついたままわたしへと視線を向けた。
「むかし、まだおれが五歳とかそこらくらいのとき、庭で遊んでたらめちゃくちゃきれいな女の人が来て」
うん?
急に始まったむかし話に、わたしは首を傾げる。
「おれはその人のこと、妖精さんって呼んでるんだけど」
「はあ」
「ほしいものをひとつあげるっていうから、とっさに運命の人って答えたんだよね。その前日に母親から、運命の人っていうのは、……それは親友かもしれないし、恋人かもしれないし、伴侶かもしれない、どんな関係性かわからないけど、どんなときにも互いのことを思い合う、絶対に裏切らない、永遠の味方だって聞いたばかりだったから。親友とか恋人っていう特別な関係だけでも羨ましいのに、永遠の味方なんだよ? 血の繋がりも、なんの利害関係もないのに……。そしたら妖精さんはさ、じゃあ運命の人のことがすぐわかるように印をつけておくって言って、おれの頭を撫でて帰っていったんだ」
メテオラはそのときのことを思い返しているのか、すこし遠くを見るような目をする。
「なんかすごい体験をしたことだけはわかったから、母親に教えようと思って急いで家に帰ったらキッチンからめちゃくちゃ甘くていい匂いがして、テーブルに山盛りのクッキーがあったんだ。それがもう、やばいくらいおいしかったんだよ」
「なんの話だ」
わたしはメテオラの香りのことを訊ねたはずなのに、返ってきたのはかつて食べたクッキーがおいしかったという他愛ない話だった。
……いや待て。クッキーの、甘い香り?
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