5 死にたがりにピリオドの雨(9)

 撫でるような雨がわたしたちを結んでいる。ひとつひとつの雨粒は、メテオラの肌を伝い、星屑のように輝きながらわたしの頬に落ちた。

 スカイブルーの流星の瞳がわたしの目をじっと覗き込んでいる。わたしは必死に首を横に振った。


「おまえが……隊にい、るのは……、その、呪いと関係、……あるのかっ」

「背中をつけないでいるってことは、キスしていいってこと?」

「そんっ、な……わけ……!」


 額が合わさって、すこし冷えた鼻先が重なる。


「だっておれはいつエレジオみたいになるか、わからないんだよ」


 わたしの視界にはもはやメテオラの流星しかない。言葉は声になる前の息のままこぼれ落ちてくる。


「それならまともな頭のあいだにすこしでもエレジオを地下送りにして、いざというときにはすぐに処分してもらえるところにいたいと思った。ルーチェが言うようにおれの献身が行き過ぎてるなら、それはあわよくば誰かのために死ねたりしないかと思うからだよ。おれはこの呪いのせいでいろんな迷惑をかけてきたからさ、最期くらいは」


 すこしずつ額を押されている。どうにか腹筋でこらえながら、わたしはほんとうに負けたくないだけなのか、自分に問いかける。

 どんなに小さなことでも負けたくない。それは偽りのない気持ちだが、人の気持ちはひとつきりだろうか。


「だからルーチェ、おれがどうしようもなくなったら契約なんて無視して、シロカネの刀でおれを斬って終わらせてよ」


 わからない。もう息苦しくてなにもわからない。甘い香りに酔いそうになる。


「ば、か……か」


 こんなにも過酷な訓練は軍のときでも経験がない。なにかを考えようとするけども、頭のなかは無理の二文字で埋め尽くされてしまう。


 まったく……とメテオラがわらう。


「ばかはどっちだよもう」


 メテオラは吐息だけでしょうがないなあと呟いて、わたしの脇腹をくすぐった。わたしはこらえていたものをすべて吐き出すように、ひゃあっと情けない声をあげた。

 はずみで筋肉という筋肉が弛緩して、わたしの背中は地面にべったりとついてしまう。


「ああ! くやしい!」

「想像より強情でどうしようかと思った」

「見たか、これが帝国騎士の意地だ」

「おそれいりました」


 メテオラは目を細めて、やわらかく微笑う。その笑顔があまりに眩しくて、わたしはメテオラの頬の紋様に指先で触れた。


「これは、おまえの呪いを抑えているものなのだろう?」


 メテオラは眼差しだけでうなずく。


 呪いのことや、その苦しみについてわたしはなにも知らないけれど、それもこれもひっくるめてメテオラという男であって、それらを否定することは彼を否定することなのだということはわかる。そしてメテオラ自身が誰よりもこの呪いを否定し続けていることも。


「わたしは好きだよ、この頬が」


 目覚めたときにわたしの首に巻かれていたフィオーレのハンカチが愛されていた証しだというなら、メテオラのこの頬もまたそういうことだ。

 そういうものは、みなうつくしい。


「だからもう無茶はやめてくれ。もしおまえの呪いが抑えられなくなったら、そのときはわたしが何度だってこちら側へ引っ張り上げてやる」

「ひとおもいに終わらせてって言ってるのに」

「ばかを言うな。おまえはわたしと契約をしたんだろう。それならわたしの旅を見届けて、契約を果たさせてくれ」


 途切れていたわたしのいのちを繋いでくれたのはフィオーレだけではない。メテオラもまた、わたしをこの世界にうみおとしてくれた。わたしにとってかけがえのない男だ。


「ルーチェに本格的に嫌われたと思ってたから、そうじゃないならなんでもいいや」


 メテオラは頬に触れるわたしの指を大きな手のなかに握り込んでかすかにうなずいた。


「ありがとう、ルーチェ」


 そうしてわたしの人差し指の爪に掠めるような口づけを落とした。


 翌日、ソルは予定していた時間よりはやく、大きな荷物を五人の男たちに持たせてやってきた。彼らはわたしに軽く挨拶をしたあと、すぐに帰ってしまう。どこまでも荷物を運ぶために来たようだ。


 ソルはわたしにドレスを着せたあとも、針と糸をもって最終調整をしてくれた。ファーのためにシンプルな胸まわり、腰にあしらわれた大輪の花のコサージュ、腿の付け根まで切れ上がろうかというスリット、布を贅沢に使って生み出されたプリーツの陰翳。

 色は空の青とも海の青とも異なる、深く鮮やかなジュエルブルー。

 わたしはソルの恋人たちが用意してくれた姿見の前で呆然と立ち尽くした。


「いいのか、わたしがこんなにすてきな服を着ても……」

「ルーチェのために寝ずに手を入れた服だよ」


 一緒に鏡を覗きながらソルが言う。


「着てくれなきゃ困る」

「しかしこれはあまりにも……」


 わたしは体をひねり、鏡にみずからの背中を映した。おおげさではなく背中には一切の布がない。


「開きすぎじゃないか?」

「きれいなところは見せなきゃ。それに全部見えるわけじゃないよ、このあたりにはファーがくるわけだから」


 ソルは首のうしろや肩をさす。それは首や肩であって背中ではないと思うんだが。


「よし、じゃああとは爪と化粧と……」


 たしかに背中側の防御はゼロだが、靴は適度なヒールの白いロングブーツで動きやすそうではあった。正装というにはくだけているが、ありがたい。

 それからは息つく間もなくわたしの全身にソルの技術が投入されていった。


 ソルは先日見せたような寂しげな目をすることがない。溌剌として、心から楽しそうにわたしの爪に揺らめきを描き、わたしの髪を結い、わたしの瞼に光を添える。

 最後にわたしの唇に紅を引き、ソルはメテオラを呼んだ。数時間に及ぶ身支度のあいだどこにいたのか知らないが、しばらくすると泥だらけになったメテオラとシロカネが帰ってきた。


「あんたなにやってんの……」

「シロカネが鬼ごっこしようっていうから」

「違いますよ、最初に言い出したのはメテオラさんです」

「どっちでもいいけど、そんな汚い手でルーチェに触らないでよ」


 ソルはドアとわたしのあいだにあった衝立を外す。


「わあ! すごいです、ルーチェさん!」


 シロカネはわたしのそばまで駆け寄ってきて、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら目を輝かせた。


「お姫さまみたいです!」

「おおげさだよ」

「そんなことないです。あ、あとはふさふさのぼくが必要ですね。メテオラさん、お風呂いきましょ、お風呂」

「あ、ああ」


 メテオラはシロカネに手を引かれ、風呂へと連れていかれる。だが途中で引き返してきてわたしへそっと耳打ちした。


「おれも思った」


 風呂からあがった二人もすっかり身支度を整えるころには、すでに太陽が西の端にあった。

 シロカネはファーとなってわたしの首もとに。メテオラは黒く艶やかな髪を香油でうしろへ撫でつけ、シャツの上に黒いジャケットを羽織った。ソルが香水を吹きかけている。やはりメテオラの甘い香りがわかるのは、わたしだけのようだ。


「よし、完璧!」


 疲れたあ、とソルはソファに倒れこむ。


「わたし、しばらく休んでから帰っていいかな」

「いいよ、好きにして」

「みんな気をつけてね。無事で帰ってきて」


 ソルはわたしとメテオラの手をとって、祈るように額に当てた。


「ありがとうソル」

「じゃあ行ってくる」


 東の空がドレスより深い藍に染まっていく。

 わたしたちは馬車に乗り、蒸気機関車の駅舎へと向かった。

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