3 音速襲来(7)

 わたしは絡まったシーツをほどいて起き上がり、小さなテーブルに置かれたブラウスとスカートを手に持った。清潔な石鹸の香りがする。仕舞い込んでいたものではなく、普段からよく着ている服のように思う。ほつれたり、くたびれたりしているところもなく、持ち主の愛着が感じられた。


「よかったら貰ってちょうだい、お古でごめんなさい、って言ってたよ」

「とんでもない。たぶん、お気に入りの服をくださったんじゃないかな……」


 ブラウスの貝ボタンが光を受けて七色に輝いている。朝焼け色のスカートはふくらはぎが隠れるほどの丈で、仕立ての良さや、やわらかな生地のためだろうか、手に持って広げただけで風をはらんでふくらんだ。特別に華美な装飾はないけれど、心がはなやぐ。


「ほんとにわたしが頂いていいのだろうか」

「趣味に合わなかった?」

「まさか! とても……とてもかわいい」

「それならお言葉に甘えて、ありがたく頂こう。ルーチェがそれを着て下に降りたら、喜んでくれると思うよ」


 メテオラは床に座り込んだままベッドに頬杖をついて、諭すように微笑んだ。

 たしかに、メテオラの言うことももっともだ。


「わかった」


 窓の外からなにか音楽が聞こえる。

 カーテンが揺れる窓辺へ寄って下を覗くと、路傍で楽器を演奏する人たちがいた。弦楽器、管楽器、打楽器の三人で、聴衆の手拍子に合わせて陽気なメロディーを奏でている。上から見ているので定かではないが、三人は人間と悪魔の混合トリオのようだった。


 ゆうべ、メテオラはこの街のことを港湾都市ヴェントと呼んだ。

 わたしには聞き覚えのない街の名だ。


 港湾都市というだけあって、さまざまな国の人々が行き交い築き上げたのだろう。街並みはわたしが見知った帝国の石造りとは異なる。壁の色は白や土色や水色などいろとりどりで、窓枠の装飾や、そこに揺れる洗濯物や鉢植えなどにはどこか異国の趣きがあった。なかには石造りの壁も窺えるが、統一的でないためかわたしが知るものほど頑強さは感じられない。


 商店には多くの木箱や樽が積み上がり、小さな露店では手軽に食べられるパンや串焼きが売られ、果物や工芸品の籠を背負った商人が通りを賑わしていた。もちろん買い付けにきた商人や街で暮らす人々も多く、活気には事欠きそうにない。


 喜びは切実なほど感じている、たしかな感情だ。この胸を占めている。

 だが光があれば影もあるように、そこに一点の翳りが存在するのも事実だった。


「港湾都市、か……」


 どうしても、テオリアの顔が浮かんでしまうのだ。


 あいつはこの街の発展に関わったのだろうか。だとしたらあの性格だ、いろんな人を不快にさせながら強引に仕切ったのではないだろうか。誰かフォローしてくれる人はいただろうか。黒騎士さまやアルマさまはどうしただろう。フィオーレはわたしがいなくても根気強くあいつを諌めてくれただろうか。


 ……わたしが、いなくても。

 なぜわたしはその場にいられなかったんだ。

 もしわたしが生きていたとして、はたしてあいつはわたしの助けを受け入れてくれただろうか。

 あいつの理想を罵ったわたしの手助けなんて……。


 仮定の話ばかりだ。もう……戻ってこない時間の……。


「ルーチェ、いまなに考えてた?」


 メテオラは背後からわたしの肩に顎をのせ、視界を遮るようにわたしの目の前に大きな手を翳した。


「メテオラ……?」

「あんまり無理しないで」

「どういう意味だ」

「過去との整合性を求めすぎると、たぶん苦しいばっかりだから」


 だって百年もの隔絶があるんだよ、とメテオラは抑えた声で言う。


「そんなことはわかっている。だがすぐには無理だ。おまえには過去に思えるだろうが、わたしにとっては今もひとつの現実として百年前が存在するんだ」


 寝衣の胸もとをぎゅっと握る。


「わたしはみなの足跡を辿ることで、わたしのなかに生きる百年前を殺そうとしているのかもしれない……」


 世界がどうなったのか、この目で確かめなければならないだと?

 わたしは昨日の自分の発言をわらう。


「こんなのはただのエゴだな」

「それのなにがいけないの。ルーチェがこれから生きるために必要なら、それでよくない?」


 あっけらかんとしたメテオラの言葉に、わたしは深いため息を返す。


「おまえは……他人事だと思って」

「他人事なんて、さみしいこと言わないでよ。ルーチェの志が正道だろうと邪道だろうと、おれはルーチェが旅を終えるその時まできみを見守るんだから」


 そうだった。

『きみの願いが果たされたなら、その時はきみをおれにちょうだい』

 わたしはあの洞穴でのメテオラの言葉を思い出す。


「なあ、メテオラ。おまえがエレジオでないなら、どうしてわたしと契約などしたんだ。わたしを食わずに、どうするつもりだ」

「いまさらそこ疑問に思うんだ? 食べる以外に、ルーチェはどう解釈する?」

「だからそれを聞いてるんだ。人の質問を盗るんじゃない」

「おれにはひとつしか思いつかないんだけど」


 メテオラはうしろからさらりとわたしを抱きしめた。

 ……すこし前からうっすら思っていたことだが、こいつは人との距離の取り方があまりにも近すぎないか。


「ちゃんと答える気がないなら――」


 わたしの言葉を遮るように、わたしを抱く腕に力がこもる。伝わってくるのは、すこし高い体温、息づかい、鼓動、互いのシャツの向こうの質感。

 たとえば昨日も断崖から引っ張り上げるために、エレジオから隠すために、飛んで逃げるために、メテオラがわたしを抱きしめたことはあった。だがそれらとはまったく異なる気配がいまここにはある。

 メテオラの親指がわたしのへその窪みを撫でる。

 わたしの背中とメテオラの胸の境目がとけて、熱も息も鼓動も肌も、いのちが綯い交ぜになっていく。

 メテオラはわたしの頭にこつんと頭を合わせた。


「いまから着替えるでしょ? 下で待ってる」


 抱きしめたときとおなじように、メテオラは風になびくカーテンのようにするりと離れていった。足音が遠ざかって、ドアの閉まる音がする。

 窓辺に取り残されたわたしは腕を組み、もげそうなほど首を傾げた。


「はあ?」

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