3 音速襲来(6)

 わたしはのそりと体を起こして、メテオラの肩口から顔を覗かせた。


「なにを読んでるんだ」

「うわああ!」


 メテオラはわたしの想像以上に驚き、驚きすぎて本を取り落とし、それを拾わないままわたしと距離を取るように壁に張りついた。


「ルーチェ、……おはよ」

「ああ。おはよう」


 わたしは処女のように震えるメテオラをぼんやりと見あげる。


「どうかしたか、メテオラ」

「ん、あ……いや」


 メテオラは口ごもりながら目をそらす。わたしは首を傾げた。


「おまえ、耳まで真っ赤だぞ」

「え」


 頬に手をあて、ついで耳を塞ぐようにして触って、メテオラは自分の体温をたしかめる。そうしてようやく火照っていることに気づいたのか、天を仰ぎながら手で顔を覆った。

 その反応にわたしはぴんとくる。


「おいおいメテオラ、仮にも女性が寝てる横でいかがわしい本でも見てたんじゃないだろうな。さすがにそれは無遠慮がすぎるぞ」

「まさか、そんなわけないし」

「どうだかなあ」


 床に落ちた本を拾おうとすると、メテオラも慌てて手を伸ばしてきた。ほんのわずかの差でわたしが先に拾いあげる。


「どれどれ」

「やめ、やめろって」


 わたしはベッドの上を転がってメテオラから逃れながら、本のタイトルを読み上げる。


「上司に誤解をされないための二十五の法則……」


 ベッドのきわで仰向けになったわたしは、上から覆いかぶさってくる男を本の横からそっと覗いた。


「なんて切ない本を読んでるんだ」

「いかがわしくはないでしょ」

「すまなかった。わたしのほうが無遠慮だった」

「いいよ。そんなに深々謝られるのも。ね」


 メテオラは悲しげな弱々しい笑みを浮かべる。わたしは本を返して体を起こそうとするが、わたしとシーツとメテオラが複雑に絡まりあっていて、ほどこうとしているうちに揃って床へと落ちてしまった。

 互いに肩を打ちつけて、顔をしかめる。しばらくして、どちらからともなく密やかに笑う。


「ルーチェ、案外いじわるなんだね」

「あまりに嬉しくて、ガラにもなくはしゃいでしまった」

「嬉しい? どうして」

「ここは空から見た街の、宿かなにかか」

「そうだけど」


 不思議そうにしているメテオラの目もとを手で覆い、わたしは声をひそめた。


「わたしにも聞こえるのだから、おまえにはもっとよくわかるだろう。生きている街の音が」


 メテオラはなにか言おうとした口を閉ざして、わたしの言葉に耳を傾けてくれる。


「メテオラ、わたしは目覚めてからずっとなんだかよくわからないことばかりで、正直まだ夢を見ているような気もしていた。けれどいま初めて、これが現実であることを心から願っているんだ」


 気持ちは、高ぶるというより凪いでいた。それなのに胸が詰まって声が震える。


「わたしが間違っていたとか、テオリアのやり方がどうとか、もうそんなことはどうでもよく思えてくる。あの戦争の未来がここへ繋がっているなら、それだけで……散っていった多くのいのちは報われる……」


 わたしはたまらず唇を噛んだ。

 メテオラの目もとに翳していたわたしの手に、メテオラの手が重ねられる。指をからめとられて、そっとおろされる。


「それならどうしてルーチェは泣いてるの」


 涙で頬に張りついたわたしの髪を、メテオラの黒く飾った爪が払いのける。


「詮無いことと思う。だが、……あいつらにもこの未来を生きてほしかった」


 悪魔との共存共栄などありえないと思っていた。いまだって、信念と感情と思考が反撥を続けている。それでもたまらず涙してしまうほど、百年ごしの夜明けは圧倒的な正しさに満ちていた。

 メテオラは流星の瞳をやわらかく細める。


「ねえルーチェ、いまも香りはする?」


 そう言って彼はわたしの鼻先に手首を差し出す。


「ああ。クッキーのような、甘い香りだ」

「そっか。よかった」


 頬をかすかに赤らめてメテオラは微笑う。よかった、というのはどういうことだろう。香りの傾向についてだろうか、それとも香ることそのものか。

 訊ねようと口をひらきかけたとき、部屋のドアが勢いよく開けられた。


「あっ、あー!」


 首をのけぞらせて見やると、そこには小鬼の姿をしたシロカネが立っていた。腕には数冊の本を抱えている。


「おとなは目を離すとすぐみだらに及ぶ!」

「人聞きの悪い。なにもかも未遂なんだから。そもそもおまえが優柔不断でいつまでも戻って来なかっただけだろ」


 結局一冊に絞れてないし、とメテオラは小声で付け足す。話を聞くと、どうやら宿のサービスで書架の本を一冊まで部屋に持ち込めるらしい。


「だってどの本もおいしそうで」


 シロカネは本の表紙をわたしへと見せてくれる。おいしい家庭料理、これで今夜の献立は決まり、絶品お鍋が食べたくなる、などなど。どの表紙にも豪勢な料理が描かれ、いまにも手に取って食べられそうなほど写実的だった。


「この時代の絵師はすごい技術を持っているんだな……」

「絵師? ルーチェさんなに言ってるの、これは写真ですよ」

「写真……、とはなんだ」

「うーんとですねえ」


 シロカネがどう答えたものか困っていると、わたしの腹の虫が盛大に鳴いた。

 みなで顔を突き合わせて笑う。


「ご飯にしようか、ルーチェ」

「かたじけない」

「ぼく、女将さんに知らせてきます。喜びますよ。あっ、そこの着替え、女将さんがルーチェさんに、って」


 跳ねるようにして、シロカネは部屋を飛び出していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る