3 音速襲来(5)
上へ下へ、横へ斜めへ舵を切り、烏の追跡を振り払っているようだった。大気の膜を突き破るような圧迫感が常にある。
これならさすがのジャック少年も追ってこられないのだろうか。そもそも彼は飛べるのだろうか。追手の烏は誰なのだろう。
さまざまなことを考えるが、頭が朦朧としてうまく思考がまとまらない。
せめて落ちないようにしなければと、わたしは両腕でメテオラの首にしがみついた。腹に感じるシロカネの重みと温もり、頬に触れるメテオラの肌と紋様のざらつき。
そうだ、これは心臓のかたちだ。
血潮にも似た、風を切る雑音のなか、合わせた肌を介してメテオラの心音を聞く。
妙に懐かしい。彼のあまい香りのせいもあるのだろうか……。
気がつくと、わたしは見慣れた景色のなかにいた。壁は青いタイル、よく磨かれた鍋がふたつみっつと積み上がり、使い込まれた棚や木箱の数々、窓際には摘み取った香草が逆さに吊られて揺れていた。かまどのそばには大きめの匙が立てかけられ、揃いのガラス瓶には塩や香辛料が詰められている。
そこはロッソ家のキッチンだった。
窓から差し込むやわらかな光が、壁際のオーブンまで包んでいる。手を翳すと温もりが伝わってくる。なにか焼いているようだ。それなのに誰もそばにいないなんて。
ねえさま、と呼ばれた気がしてわたしは廊下を振り返る。
「フィオーレ、いるのか」
しかしフィオーレだけでなく、誰の姿もない。それでもやはりフィオーレの声は聞こえる。
さがしに行こうとして、オーブンのことを思い出す。これをそのままにして離れるわけにもいかない。あとどのくらい焼くつもりなのだろう。いつもは母が置いてくれるメモもいまは見当たらない。
なかを、開けてみようか。確認して、問題がなさそうなら火を消してフィオーレをさがしにいこう。
キルト生地のミトンをはめて、オーブンの扉を薄くひらく。だがなかは妙に暗く、よく見えない。
ぽつり、ぽつりと、床になにか液体の落ちる音がする。足元を見おろすと、白い床に鮮血のように赤い雫がいくつも落ちていた。わたしが開けたオーブンの隙間から落ちている。その正体に気づいて、わたしは短い悲鳴をあげた。
鮮血のような、ではない。
これは血だ。
オーブンのなかは一切の光が届かない深淵だった。そこからじわりじわりと血があふれて垂れ落ちている。
窓を激しく叩く音がして、震えるほど驚いたわたしは思わずオーブンの扉から手を離した。窓を叩く音がするたび、手は見えないのに血まみれの手の跡だけが増えていく。
いつしか、美しく整っていたキッチンは朽ち果てていた。わたしはたまらず廊下へと走り出した。
「フィオーレ! どこにいるんだ、出てきてくれ!」
玄関から外へ出ようとするが、扉は岩のようにびくともしない。キッチンからはまだ窓を叩く音が響いている。わたしは屋敷のなかを走りまわった。いくつもの階段を駆け上がり、ときに駆け降り、開けられる扉はすべて開けた。そうしているうちに、わたしは見覚えのない小さな部屋のなかにいた。
奥には、さらに上へと向かう階段がのびている。どうもそちらからフィオーレの声が聞こえるように思う。塔かなにかなのだろうか。階段の行く先は壁伝いにカーブしていてここからは見えない。
わたしは浅い呼吸を繰り返しながら、階段へと足を踏み出す。その瞬間、足元がぐにゃりと歪み、階段のなかへ飲み込まれた。抜け出そうともがくほど、泥濘に落ちた羽虫のように深みにはまっていく。
わたしを待ってくれているフィオーレを悲しませないよう、彼女の名を何度も呼ぶ。今度は必ずそばにいる、だから絶対に待っていてくれ、と。
だが声にはならなかった。
胸から顎まで沈み込み、もはや呼吸もままならない。せめて最後に大きく息を吸い込もうとしたとき、砂糖菓子のような甘い香りがわたしの頬に涙となって落ちた。そして視界は闇に包まれた。
懸命に腕を伸ばして、掴めるものはないか足掻く。爪のほんの先に、なにか触れるものがあった。わたしはそれを手繰り寄せ、縋りつく。
いまもまだ遠く、わたしの名を呼ぶ声がある。フィオーレではない。男の声だ。
やわらかで、どこか心細げな……
「ルーチェ」
ぼんやり目を開けると、そこは先ほどとは別の部屋だった。わたしはやわらかくあたたかなベッドに横になって、すぐそばのスカイブルーの流星を見つめていた。
ああ、そうか。
「だから甘い香りがしたのか」
納得してふたたび目を閉じる。
「え、どういうこと」
「どうもこうも、ない。いつもおまえからは砂糖菓子のような甘ったるい香りがする……。ハイブリッドに香りがないなんて、そんな、話は……とても……」
抗いがたい眠りがわたしを捉えて離さない。二言三言、彼の問いに答えた気がするが、それも定かではない。
次にわたしが目を覚ますと、メテオラはわたしに背を向けベッドに腰かけていた。かすかに紙を捲る音がする。本でも読んでいるようだ。
細くひらいた窓からは優しい風が舞い込んで、純白のレースカーテンをくすぐっている。日差しはやや強い。もう昼が近いのかもしれない。
人通りの多い道に面しているのか、外からは暮らしの賑わいが聞こえた。世界はたしかに続いているのだ。
そのことにわたしの胸は震える。ここが百年後の世界であろうとなかろうと、人々が安心して暮らしていることがただ嬉しかった。
戦争のために生き死にする軍人としては失格かもしれないが……。
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