第10話 不可視の怪物【1】
「助けてくれーーーっ!」
誰に対して言っているかも分からない悲鳴が夜風を切った。その声を頼りにヒタカは青年が振り回されている近くまで、極力静かに走った。
音を立ててはならない。
夜光生物は視力を失っているかわりに、音や光に敏感なことが多い。そういう生物は影へと潜み、音を頼りに行動する傾向がある。
実際に人々を襲う何かは銃撃音や声を上げた者から襲っている。今も、残る人々がいつもの夜光生物の対応として緑光のライトを遠巻きに当てると、大きな気配はずるりと擬態したまま郊外へと伸びた影と夜の深い方向へと後退していった。運が悪いことに、ちょうどそこには光人が乗り入れたジープがあった。そのジープのタイヤ部分が見え隠れしているところを見ると、夜行生物は車に覆い被さるようにいるのだろう。
強い緑光に当てられ一瞬擬態が取れた時、てらてらと白く濁った銀色の皮膚が現れ、何十本もの長い吸盤が並んだ足と巨体がジープに覆い被さり、むき出しの水晶眼の中にある丸く大きな黒目がギョロリと、周囲を警戒しているのをヒタカは見た。
(特徴からするに烏賊か? さながら
まずは宙で振り回されている光人の男を助けんと、ヒタカは近くの建物を足場に最も近い三階の建物の屋根まで飛ぶように登った。
形状を推測できれば、この不可解な動きも容易に想像できた。長い烏賊足が青年の右足に巻きついて離さないのだろう。
(餌のキープってところか)
襲撃時、現場に何人がいて、何人が襲われ、何人が逃げられたのか、ヒタカは把握していない。彼らの目の前で影に引きずり込まれていった光人がもう生きてはいないことだけは間違いない。地に叩きつけられたもう一人の光人は、イルとクマが安全なところまで運んだ頃だろう。もう一人は目の前で振り回されており、残る三人と、ほか何人かいただろう町人の行方は不明だ。
今も見えぬ闇の中、ばきばきと何かが折れ、ぐちゃぐちゃと何かを咀嚼する音がする。
先に倒した魚型の夜光生物に惹かれてやってきたところに生きた餌を見つけて、手当たりしだいに狩りをし始めた、といったところが真相だろう。生存競争が激しい夜の世界では、生き物の生死や食べ物の鮮度にこだわらないで補食する夜光生物がいるのをヒタカは知っている。
(俺の力じゃ、全は救えない)
己に言い聞かせるよう心の中で呟くとともに、ヒタカは屋根瓦を蹴りつけて跳躍した。そして、青年の右足近くの何もない空間を愛刀で切りつける。
夜光生物の声なき断末魔が辺りに響いたと同時に、切り離された烏賊足が姿を現し、青年とともに地面に落ちて行った。
「無事か?!」
「な、なんとか……!」
地面にしたたかに身体を打ちつけた青年は、本体から離れてもなお、足首に絡み付く長い烏賊足と格闘していた。擬態がなくなった烏賊足の太さは大人の腕三本分ほど、長さは三メートルを超えている。いくつも整列して並ぶ吸盤ひとつひとつには、複数の小さなかえしのついた歯のような刺が並んでおり、これに捕らえられては、抵抗するのは困難だろう。
ヒタカはぞっとしつつ、夜光生物から距離をとるため、緑光が淡く照らす街の大通りへ、青年の後ろ襟首を無理やり引っ張った。夜光生物は先刻の攻撃に驚いたのか郊外の夜と影に引っ込むも、いつこちらをまた襲ってくるか予想が立てられない状況だった。そんな中、地面に引きずられるように運ばれながらも、絡みつく烏賊足と格闘する青年に、さすがのヒタカも苛立ちを覚える。
「動けるなら自分で逃げてくれ!」
「いや、しかし、こいつが離れない!」
「放っておけ!そのうち動かなくなる!ここはまだ奴の足の範囲内だ。なんでもいいから、早く逃げろ!」
「わ、わかった!」
ヒタカの静かな怒声に気圧され、彼は烏賊足のついた片足をそのままに街の奥へと逃げ出した。それを見届ける間もなくヒタカは夜光生物から間合いを取った。どれだけ距離を取るのが正解かわからない。警戒したのか、夜光生物はわずかな光からも避けるように影へと隠れてしまった。耳を澄ますと地を這う時に動く筋肉の音が、布ずれのようにわずかに響く。
(このまま去ってくれれば良いんだが……)
ヒタカの期待もむなしく、近くではないが遠くでもない、気配があるのが分かる。
街灯に照らされていた二台の車が見えないところから、相変わらず車に覆いかぶさるようにいるのだろう。そして、先刻から続く音から、ジープに運び入れた夜光生物の肉を貪り喰っているのが判る。
否、判ってはいない。ただ、そうであると良い。それ以外のものが混ざっていないでほしいという、ヒタカの希望でしかない断定であった。
(だから早く処理すれば、こんな厄介を呼び寄せないで済んだのに。あの強欲神父!)
ヒタカの怒りは、今は所在が分からない光人の神父へと向かった。
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