「ただいま」


 彼女。


「ね。来て。来て来て」


 引っ張っていかれる。

 よく、分からない。彼女は、ついさっき。出ていったのに。いま。また、ここにいる。

 彼女に手を引かれるまま。

 部屋を出て。


「どうぞどうぞ」


 隣の部屋に。


「こちら、わたしの新居です」


 本当に、隣の物件。自分達の部屋の、ひとつ隣。

 入った。

 玄関。

 おもちゃ。


「どうぞどうぞ」


 廊下。

 おもちゃ。

 リビング。

 さっきのリュックサック。


「いい感じだよね。さすが同一物件。というか隣のお部屋」


 よく、意味が分からない。


「どうしたんですか。よく意味が分かりませんみたいな顔してるけど」


 いや、よく意味がわかんないなと思って。


「隣の部屋。借りたの」


 うん。


「あなたの部屋に、おもちゃを置くと。あなたにいつも片付けてもらって、大変かなって。だから、隣に」


 あ。やべ。


「えっ。待って待って。なかないで」


 彼女に背を向ける。やばい。煙草擬きを。くわえるけど、火はつけられない。


「どうしたの」


 言えない。

 彼女が出ていって。これで関係が終わったと思ったなんて。言えない。

 でも。背中は震えてしまう。

 その背中に。彼女がぴったりとくっつく。


「ごめんなさい」


 彼女の体温が。暖かい。


「わたし。あなたの迷惑に、なってるかなって。思って。いつも。あなたと一緒にいて。わたし。あなたの邪魔、かなって。だから、出ていこうって、思っちゃったの。ごめんなさい。なかないで」


 彼女のこの言葉。たぶん。深い意味はない。本当に、おもちゃが邪魔だなと思って、隣の部屋に移動した。それだけ。それだけだから。自分が勘違いしただけで。だから。泣かないでくれ自分。自分が泣くと。普通のひとよりも。だめだから。


「ごめんなさい。わたしだけ。喋ってしまって」


 背中にくっついていた彼女が。ゆっくりと。正面に回る。


「どうぞ」


 彼女が。自分を見つめる。

 彼女の、うしろの。おもちゃ。陽光を反射している。まだ、晴れているらしい。


 晴れてる。


「はれてる?」


 晴れてる。おもちゃが。光ってる。


「うん。光ってるね」


 ごめん。


「え」


 ごめん。喋れないから。俺が。何も訊かれない、何も聞かない関係が、心地よかった。


「うん」


 君が出ていったとき。もう帰ってこないんだなって、思って。それで。


「泣いちゃったんだ」


 自分の次の言葉を。彼女が待つ。喋れない自分の、口の動きで。会話しているから。でももう、自分に次の言葉はない。


「わたしは。あなたの。邪魔に。なっていませんか?」


 邪魔に。


「わたし。おもちゃで遊んでるだけで。散らかしたおもちゃは、いつもあなたが」


 思わず、煙草擬きをくわえてしまう。


「あ」


 そして、それを見た彼女が。


「それの匂いかな。ずっと。さっきもだけど。いい匂いがしてる。ミントの」


 彼女の前では吸わなかった。煙草だと勘違いされたくなくて。過去をふれられたくなくて。


「ごめんなさい。あなたが言いたくないのなら、何も聞かない。わたし。あなたの邪魔になるのなら。あなたの部屋にいかない」


 邪魔か。

 そうだな。


 くわえた煙草擬きに、火を。

 つける。


 生まれつき、喋れなかったんだ。だから、どこにも行けないし、何もできない。ひとりで生きていくもんだと思ってた。


「うん」


 喋れないから。俺が。


「うん」


 誰からも、必要とされてない気がしてさ。なんとなく、仕事はしてるけど。いつも。


「うん」


 いつも。


「うん」


 しにたいって思ってた。


 煙草擬き。消して、新しいものを一本。


 きみが、邪魔じゃないかと、思ってるみたいに。たぶん俺も。生きてる場所から、邪魔なんじゃないかって。思ってるよ。


「うん」


 だから。出逢えてよかったと思う。邪魔だとも思ってない。

 でも。


「うん」


 いつか。こういうふうに。


 いなくなってしまうんじゃないかって、思ってた。だから、それが今日だと思って。


「うん。ごめんなさい。なかないで、なんて言って。ごめんなさい。泣いていいよ」


 涙が、止まらなかった。


「おいで」


 彼女に、抱きつこうとして。


「あっ」


 いたい。


 何か。足裏に刺さった。


「あっあっ。ごめんなさい。わたしのおもちゃがあなたに牙を剥いてしまった」


 おもちゃの無事を確認する。大丈夫。頑丈だな今のおもちゃって。


「いやおもちゃよりもあなたの足が。だいじょうぶ?」


 あっ足。足は大丈夫。


「やっぱり、片付けないと」


 勇気を出して。彼女の肩を叩く。


「うん?」


 この。おもちゃ。どうやって遊ぶの?


「これ。これはね」


 彼女が、おもちゃをくっつけはじめる。


「コマなの。見てて」


 彼女が、よく分からないおもちゃをぶん回す。すごい。なんかよくわからないけど、速い。


「はじめてだね」


 回るコマ。陽光を反射している。


「ありがと。興味を持ってくれて」


 彼女。他のコマをいじりはじめながら。


「邪魔じゃ、なかったら。わたし。あなたの隣にいます。結婚しなくてもいい。何もしなくてもいい。あなたがしぬまで。隣にいられたら」


 結婚。


「あっ。ごめんなさい。しにたいって言ってたのに。わたしは。あなたの邪魔になるかもなんて思って、あなたが何を思ってるかも分からないで、突然部屋を出ていくような女だから。邪魔だと思ったときはいつでも」


 結婚か。


「え?」


 するか。結婚。そうしたら。邪魔でも、寂しくもなくなる。出ていっても、必ず帰ってきてくれる。


「待って。ごめんなさいそんな簡単に」


 出ていったとき。かなしかったから。


「待って。そんな勢いだけで決めることじゃ」


 俺が。しぬまで。

 そばにいて。くれます?


「あ。えっと」


「お邪魔でなければ」


「よろしくおねがいします」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る