7月15日
悪夢なら良いと思った。部屋の惨状がそれを許さなかった。体の気だるさで記憶がフラッシュバックする。
ーー我慢、できるよね?
たまらず吐きそうになった。とりあえず体を起こして部屋を片付ける。母は今、あの人に夢中で俺には目もくれてない。これを見られてヒステリーを起こされたらたまったもんじゃない。矛先はあいつじゃなくて俺だ。やってられるか。急いで制服に袖を通した。こんな部屋から、家から、一刻も早く出たい。昨日の痕跡がないのを確認して部屋から出た。
「もう行くのかい? 朝ごはんは?」
元凶であるその男は、まるで何もなかったかのように尋ねた。その態度に絶句した。怒りでしばらく硬直してしまったぐらいだ。またあの時のようにニコニコ笑った。馬鹿にされていることがよくわかった。俺は何も言わず乱暴にドアを閉めて家を出た。
*
そこからどうやって学校に行ったか、覚えていない。気がついたら図書室にいた。珍しくキョウの方が先に来ていた。顔を見れなかった。どんな顔すれば良いかわからなかった。
「……この前は、悪かった」
そう言われた。そんなの正直どうでもよかった。頭の中は昨日の記憶でぐちゃぐちゃになっていく。わかってくれるのはきっとキョウしかいない。でも言ったら確実に引かれる。嫌われたくない。呼吸が浅くなっていく。
「リツ?」
そう言って触れた手を、俺は拒絶した。何かを叫んだ。何が起こったのかさっぱりわからなかった。気がつけばキョウは床に倒れていて、右手が痛かった。涙が溢れた。泣きたいのはキョウのはずなのに。膝に力が入らなくなった。四つん這いの状態になる。
「……律伽」
キョウの手が触れた。優しく頭を撫でてくれた。そのまま抱きしめられた。なんで、という言葉が頭の中を巡った。それからずっと、俺は泣くことしかできなかった。
*
「落ち着いた?」
「……うん」
泣き終わった後もしばらくキョウにもたれかかっていた。だんだん眠くなってきた。キョウもそれを察したらしい。
「ったく……。子供かよ」
「……大人って、何?」
「さぁ? 悪いんだけど、寝るなら床で寝てくれない?」
そう言われて降ろされた。ひんやりとした床が火照った体温を吸い取っていく。寝るには硬すぎるものだった。キョウはまた俺の頭を撫で始めた。骨ばった手で髪を梳いている。次第にその手は頬を通過して口元に止まった。親指が唇をなぞってくる。まるで誘ってくるみたいに触るから、冗談混じりに聞いてみた。
「キス、したいの?」
指が止まった。キョウを見た。耳が真っ赤になっている。離れていくキョウの手に自分の手を絡めた。肩がビクッと動く。絡めた手にそっとキスをした。触れる程度の軽いキス。あぁ、やっぱり好きだ。本当は全部、あげたかったな。
「キョウ」
繋いだ手はそのままに体を起こした。キョウにならされても良いと思った。慰めでも同情でもなんでも良い。顔を覗き込む。目を逸らされた。真っ赤な顔。
「キョウ」
「……な、何?」
「キス、してよ」
「……は?」
「もうそれしか残ってない」
「……」
「お願い」
何かを選び取れる自由は、もうとうになくしたから。せめて残っているものだけは、自分で選ばせてほしい。また、泣きそうになった。俯いた頭をキョウが撫でる。絡んだ手を強く握った。
「リツ」
前を向く。キョウが壊れそうな顔をしていた。なんで君がそんな顔するんだよ。悪い気はしないけどさ。頭を撫でていた手が頬を包む。
「……同情じゃねぇぞ」
そう言って、唇が触れた。キョウは何から何まで優しかった。触れ方も、気配りも。夢中になって、触れては離れてを繰り返す。繋いでいた手を離して、また繋いで。失ったものを縁取るようにキスをした。
*
「もうすぐ夏休みだな」
「あぁ……」
地獄みたいな日を生きなければならない。今日だって本当は、家に帰りたくなんかない。でも俺たちには学校以外の選択肢はない。
「お互い、生きてたらいいな」
「うん」
「なんかしたいことある?」
「……プール、入りたい」
パッと思いついたのがそれだった。別に泳ぎが上手いわけでもない。無意識に視線を向けてしまう場所。どうしてこんなにも焦がれているのか、自分でもわからないままだ。
「忍び込むかー。ま、うちの学校警備ザルだからいけんだろ」
「……本気?」
「本気。俺入ってみたかったんだよ。なんかリツ見てたらちょっとぐらい希望持ちたくなったわ」
いつものように笑った。この笑顔を見るのが、もしかしたら最後かもしれない。それくらいギリギリの日を俺たちは生きている。
「最終日にさ、生存確認しよう。生きてたらプール行こう」
キョウはそう言っていらない紙をちぎった。紙に家の電話番号を書く。お互いケータイなんてものは持っていなかった。万が一がないわけじゃない。お互い生きてたら良いなと思いながら、連絡先を交換した。願わくば、また会えますように。
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