7月5日
今日も図書室に四方は現れた。プールの日は四方と図書室で過ごすのが恒例になるようだ。別に何をする訳では無い。ただ眺めて、ただ話して、それだけ。
「でさー……」
四方は、よく話す。クラスにいる時も常に周りに人がいる。そういえばちょっと目立つグループに入っていた。一方の俺は教室の端で本を読む、周りに人がいない側の人間。教室にいる時と、ここにいる時で唯一違うのは袖をまくっているかいないかということ。また左腕に新しそうな打撲痕ができていた。
「リツ聞いてんの?」
「……そんなに」
「なんだよせっかく話してんのに〜」
軽く残念そうに笑った。聞かせる気もないだろうに。また生徒の騒がしい声が聞こえる。バシャバシャとなる水の音も。別に聞きたくも無いのだけれど。
「リツ、ほんとプール好きな」
「……別に好きじゃない」
「じゃあなんでそんな熱心に見てんの?思い出とか?」
別段、思い出なんてない。けど、
「幸せの象徴だなって、思う」
そう言うと四方は驚いたように俺を見つめた。プールを見ているとなんとなく思うのだ。別にプールに限った話でも無い。夏は格差がよく見える。半袖短パンとか、自分が絶対きれないような格好の人を見る度に家庭環境の違いを思い知らされる。
「……肌を見せられることが幸せとは限んねぇよ」
「でも基準にはなる」
「まぁ……、な」
しばらくの間沈黙が流れた。汗が頬を伝う。四方と目があった。やつはニヤッと笑ってこう言った。
「幸せってなんだろうな」
答えに詰まった。明確に答えがある訳じゃない、抽象的な概念。俺らとは程遠い、そして喉から手が出るほどほしいもの。
「……少なくとも今置かれてる状況じゃない」
「確かに」
「……四方は、」
「名前で呼んで。そう呼ばれるの気分が悪い」
「……キョウは、プール入ったことある?」
「ねぇよ。リツは?」
「あるよ。小学生までは普通、だったから」
「じゃあ中学上がってからってこと?」
「そう。受験、失敗して、親が離婚した。それからずっと」
「小学生の受験って、何?」
「高校受験と変わんないよ。私立の中学校行くために毎日受験勉強してた。けどだめだった」
「なるほどなー」
そう、受験に失敗してからずっとだ。多分俺が受験に成功していても、いずれ離婚していただろう。母はかなりの浪費癖があり、買えないものがあるとヒステリックになった。父もそれに疲れていたのは当時の俺でもわかった。離婚して出ていく時、父が「親権、取れなくてごめんな」と泣きながら言ったのを覚えている。あの時、もし受かっていたら、父と暮らしたいと言っていたら、こんなことにはならなかっただろうか。
「リツは悪くねぇよ」
キョウは言った。そして頭を撫でてきた。一瞬怖かったけど手つきは優しかった。意外と手が大きくて骨張っている。
「悪いのはあいつらだ。俺たちじゃない。俺たちは被害者だ。そこ、間違えるなよ」
「……でも」
「俺はリツみたいに普通な時がなかった。だからわかる。あいつらは俺たちを自分の機嫌を取るための道具としか見てない」
キョウの目つきが鋭くなった。憎しみと諦めが混じったような目をしている。
「反抗できない、する力も無い哀れな生き物を痛めつけるのは、さぞストレス発散に都合がいいんだろうよ」
吐き捨てるように呟かれた言葉には怨念のようなものが混じっていた。あの人の目に、少し似ている気がして怖くなった。
「キョウ……」
「ん?」
「少し、怖い」
「……悪い。頭に血が上ってるんだと思う」
「……でも、言ってることは正しいよ」
どう考えたって、大人の方が立ち位置が上だから、子供を虐げてはいけない。その前提で成り立っている社会なはずなのに。俺たちはいつも虐げられている。俺たちが大人になるまで、自立できるまで変わらない、残酷な現実。
「天気、悪くなってきたな」
「……うん」
今にも雨が降り出しそうな灰色の空は俺たちの今に似ている気がした。
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